神の弁護

「どうかあなたの手を出して、彼の持つすべてに触れてください」(異議を唱える者)

「では彼はあなたの手中にある」(エルシャッダイ)

自分の正しさは示したいが、自らの手はよごさない神ですか。

サタンとかいうやつがヨブを悪く言うから試した(許可した)だけで、自らの手では何も悪いことはしていない、ヨブの窮境に一切の責任はないと弁護される必要のある神です。

それところか、子供が皆殺しにされても、それを放置されても、「主は与え、主は奪う」と語ったヨブの認識はそのままに、彼の方が戒められて悔い改めている。非宗教的に読めば不条理な話ですが、これが旧約と新約(パウロ)を貫く、神と人=創造性と被造性の断絶また溝だと思います。

被造性は創造性の前で自分の弁護や正当化さえできず、理由を問い質せる立場でもありません。


『あなたがたはバアルのために言い争うのですか。あるいは彼を弁護しようとなさるのですか。バアルがもし神であるならば、彼みずから言い争うべきです』(士師記:口語訳)

神の方がその溝を埋めるべく、創造性側である自らのモノゲネース(コロサイ1章)を送り、それが被造性に宿り人となったという新約の黙示は歴史的転換ですが(無機質な書き方をします)、旧約はそれがどれだけ深い溝だったかを示している。


誰かに造られたと言うのは簡単ですが、悪(と自分が思うもの)は許せない、やっつけたい、やっつけてほしい、死も怖くてイヤだ、だからこんな神様やあんな神様が造ってくれたと信じたい・・良くも悪くも自己中心の宗教願望を利用される危うさがある。

ヨブ記にはそれを率直に諌める宗教的訓話という側面があると思います。


その純粋な宗教願望を私物化する宗教権威は、ヨブの話をどんなに不条理なことがあろうがその教団の指示系統に息絶えるまで忠誠を尽くすことの教化に利用する。

人の権威を創造主のものと称し、傷つけられても、奪われても、めちゃくちゃに一方的な論理で戒められても、あなたの方に落ち度がある、悔い改めるべきはあなたの方だ、あなたは創造主(であるこの組織の神)に無条件で献身したはずだ、となります。

だれにも落ち度があるなんて当然なんですが、神の組織なるもので自分より“用いられている”人間を批判するとは何たる不遜、しかもすべてを知らないはずだ(隠しているのはどっちだ)と完全一方通行で運用する宗教権威です。

末端信者は対等に理由を問い質せる立場にはない。彼らは、彼らのワールドでは確かにすべてを知っている、意のままに祝福(特権)を与え給い、奪い給う、全知全能の神そのものです。

レイ・フランズが聖書から論じようとしても、「裁かれているのはあなたの方だ」と組織の威を借るだけで聞く耳持たない人間たちのエピソードを思い出す。
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バルト語録

といっても、とりあえずはWT印刷物でのお話です。

膨大かつ難解とされる文献を残した方なので、素人が迂闊に手を出せる人でもないようですが、いわゆる自由主義的なプロテスタントとは一線を画す人なので、WTも何度か引用しています。

自由主義的でない、という点ではカトリック側と親和性がある人で、何度かこのブログでも書いた改革的なカトリック神学者のハンス・キュングもバルトの説く信仰義認はカトリックと矛盾しない、と好意的な発言をして物議を醸したとか。



『あるジャーナリストは,教会とはすなわち教会員であるというカール・バルトの言葉に注解を加え,同時に,「教会の言動については……教会員に責任がある」と,筋の通った結論を述べています。ですから,自分は自分の所属する教会のすべての言動に対して,喜んでその責任の一端を引き受けるだろうか,また,同じ教会に所属している人全員を自分の霊的な兄弟として本当に誇りに思えるだろうか,と自問してください』(目ざめ87年9月8日)

今回のABC報道・・

ジョナサン・ケンドリックは少なくとも、3人に対する虐待行為が指摘されています。

・1人目は義理の娘(長老への告白だけで済まされる)

・2人目はコンティさん(民事陪審で巨額賠償が認められ係争中)

・3人目は現妻の孫(実刑を受けたこの件がきっかけで、コンティさんはこの人が常習虐待者として認知されながら自分が餌食になったことを知る)

この人は今でもエホバの証人とのことです。

WT裁判も一事不再理なので、過去に審理済みの問題が「子どもへのいたずら=UNCLEANESS」程度のぬるい認識だったとしても、宗教権威のメンツもあるし今さら覆して排斥はできない。頭が痛いことでしょう。

コンティさんの英断がきっかけで“dozens”の訴訟が起きているらしいが・・

背教者の馬鹿げた嘘が~、とか次元の低い論点すり替えで逃げないで、言い分はあるにしろまず具体的に報道されている事例についてきちんと言及しないと、仮に布教でお叱りを受けても現場の教会員は責任の取りようがないと思いますよ。

全信者の模範となる現役統治体が個別の事例なんてボク知らない、ですからね。

特別の指導者

最近、1人のキリスト者の人についての本やサイトをちらほら読んでいます。

カール・バルトという人です。この人に関心を持ったきっかけは、ヒトラーを支持せずドイツから追放された人、ということでした。

当時のドイツ主要教派がナチス政権を支持したのは事実のようですが、よく言われるようにヒトラーは一応合法的に政権を取りましたし、第一次大戦後に課せられた屈辱的、懲罰的賠償や、多数の優れた神学・哲学・数学者を輩出したことによる自国民族の優越性など、ドイツ国家主義と教会が結びつきやすい状況ではあったようです。

ヒトラーが世界を席巻して千年王国の到来・・とまでいかなくても自国の回復と繁栄を期待した人も多い訳で、遠い事後になって「なんであんな非道な独裁者が支持されたんだ」と、現在の世界常識で教育を受けた人が言うのは簡単ですが、環境や宣伝によって世論が操作されてしまう事例だとは思います。

自組織の優越性を植え込む、従順の対価を約束する、一致を乱す輩は排除せよ・・支配の手法は何かに似ている。WT協会もいずれ「なんであんな奇妙な教えを支持する人がいたのか」なんて懐古される日が来るかもですね。もう来てるのか。



バルトの話に戻します。彼を中心として出されたバルメン宣言の第四テーゼ。

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。」(マタイ福音書20章)

教会にさまざまな職位があるということは、ある人びとが他の人びとを支配する根拠にはならない。それは、教会全体に委ねられ命ぜられた奉仕を行なうための根拠である。

教会が、このような奉仕を離れて、支配権を与えられた特別の指導者を持ったり、与えられたりすることができるとか、そのようなことをしてもよいとかいう誤った教えを、われわれは退ける。



彼はヒトラーへの忠誠を誓う署名を拒み、教職を解かれて出国した(もとはスイスの人)。

ヒトラーへの宣誓を拒否した聖書研究者たちにも、組織ガ協会ガ~、とかじゃなく聖書に基づく個の信念でそうした人もいたでしょう。彼らはその名の如く聖書研究者でした。

アメリカに本部を持つWT協会の印刷物で教化されたからだ、という言い方はしたくないです・・が、当の本部はというと、借り物とはいえ星条旗が掲げられた会場で堂々と大会を開く、2代目さんは連合側ではなくドイツ政権ばかりを執拗に名指しで非難する、その言動はどんな戦争でも当事者でも厳正中立という表向きの主張とはかけ離れていた。

同じ敗戦国で迫害を耐えた日本WT代表の明石順三氏が棄教する一因ともなった。

聖書やキリストを差し置いて、彼らの信念を“組織”の教育が生み出したという宣伝に利用して、「支配権を与えられた特別の指導者たち」に対する服従をしきりに要求する今の組織を見たら・・彼らはどう思うんでしょうね。

特別な催し

昨日のも塔記事。

もういちいち細かく書きませんが、?なことだらけの不思議な記事です。

『わたしはイスラエルの家およびユダの家と新しい契約を結ぶ・・「これこそ,わたしがそれらの日の後にイスラエルの家と結ぶ契約だからである」と,エホバはお告げになる。「わたしは彼らの内にわたしの律法を置き,彼らの心の中にそれを書き記す。そして,わたしは彼らの神となり,彼らはわたしの民となるであろう」』(エレミヤ31章、新世界訳)

エホバの証人の99.9%は神の民ではなく、聖書の神は彼らの神でもないようです。


「これを行い続けなさい」とは、シンプルに「取って食べなさい」という指示です。

ユダヤ人の過ぎ越しの祝いで何も食べない人なんていたんでしょうか。

それ、祝ってない、どころか拒否しているのと同じですよね。

贖罪論についての独自の解釈を説明する話を作り、その講演会を宣伝しなさいという指示ではなく、お行儀よく話を聞いて帰るだけのギャラリーを集めなさい、という指示でもありません。

イエス直々の指示を読んで「自分に対する指示だ」とは思わない人、福音書や使徒書簡という新約の大部分(ほぼすべて)を読んで、「自分に語られている」とは思わない人、さらにそう思わないよう毎年決まったタイミングで教育する人・・一体、何を信じている人たちなんでしょうか。


今回の記事は罪悪感を煽る新手の方法にも取れますが、「パンにあずかる人は全くいないか,いるとしてもごく少数でしょう。2013年の記念式においても,ほとんどの会衆でそうでした」みたいなえげつない文面はなくなっています。アブラ注がれている人への言及で「あなた」という二人称を使うのもめずらしい。

今からアブラ注がれても奴隷級じゃないし、去年の微調整で世代の「第2グループ」からも外したので一応、先手は打っています。終末のカウントダウンが数字で見えないデメリットがあるくらいで、どうでもよくなっているのかもしれません。

組織の善性

児童虐待問題に対する、とあるリアル信者の典型的な防衛反応。


終わりの日だからサタンも組織に対する攻撃に躍起になっている

邪悪な人間が組織にも入り込んでいる

その邪悪な人間に対処する上で組織はできる限りのことをしている

でも組織も不完全だから対応が十分でないこともある

エホバはすべてをご存じで、犠牲になった人も必ず顧みてくださる

仮に組織に問題があったとしてもエホバがふさわしい時に正される

組織を批判して一致を乱すのはサタンの罠だ

いずれにしても、自分たちはすべてを知らない

だからとにかくエホバにお任せしよう


隙がねぇ・・カルト思考つよい。

この“汚れた世”にはないがどこかにあるはずの、自分の憧れの理想とする完全な善性というイデアなのか、善悪の知を得てしまった人間が永遠に追いかける幻想なのか。

信じたいものを信じるのはいいとして、恐ろしいのはその幻想を維持する代償として、卑劣な犯罪やその実質的な隠蔽まで“不完全さ”と同列に語られ、済まされてしまうこと。すべてをご存じのエホバが気遣ってくださいますよというおまじないで気遣うフリはするが、実は被害者はほぼどうでもよくて、エホバ(組織)の善性を護る方が大事。そういう無責任で無批判な従属が消費者(宗教では信者)を欺く体質につながることは他の組織でも指摘されている。

犯罪を裁き、賠償責任を負わせるのは被害者の救済もあるが、社会的な抑止です。そのために社会的権威は剣を帯びていると新約も教えているが、旧約の「2人の証人」ルールに固執し、そのルールで裁けなければ司法ではなく「エホバにお任せ」することが聖書的だと言う。

律法が与えられた当時のユダヤ人には新約が言う「上位の権威」など存在しない。具体的にそれが何だったかは書かれていないが、「イスラエルの子らに対する裁き」について直接の神託となるウリムとトンミムもあった、そんな時代のルールですけどね。

天使と悪魔⑤

悪の根源であれ、いるぞ、いるぞ、部屋の中にも半透明仕様のライオンみたいにいるぞ、という二元論を強調するのは、その者を宣伝していることにならないんですかね。

その極致がWT協会で、表紙を真っ赤にした「サタンは実在する?」なんて気色悪い雑誌を周期的に配って回ります。サタンの宣伝、御苦労様です。

サタンを実在化して、そいつにすべてをなすりつけて“神”はちっとも悪くない、放置しているだけでそれには正当な(と思いついた)理由があるんですよと、弁神上の必要悪としてサタンを強力に宣伝したいようです。

無教会主義で知られる内村鑑三氏は講演でこう語ったという。

「すなわちこの世の中はけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への遺物としてこの世をさる、ということであります。その遺物は誰にも残すことのできる遺物ではないかと思う」(『後世への最大遺物』より)

彼も悪魔の手先でしょうか。

「世の支配者が来るからである・・が、彼はわたしに対して、何の力もない」(イエス)

「神に従いなさい・・そうすれば、彼は逃げ去るであろう」(ヤコブ)

彼、と具現化されてはいるが、そういう箇所ばかりを引っ張り出してほら実在だ、と宣伝するよりも、方向性というか可能性としては「その者」が無きに等しい存在であると思えるポテンシャルを示す教えのような気がします。

火の燃える地獄は象徴だと言って人々を恐れから解放したと自慢するが、他のキリスト教以上にサタンや悪霊で脅しをかけて信者の私生活や人生をコントロールするのは大好きです。

悪魔を火の湖に投げ込むのは他力本願でいいのか。自分の神が他人の悪魔をやっつけない限りは何をしても無駄、という世に何も貢献しないただの悲観はイエスの教えなんでしょうか。

そういう聖書の言葉は、いつか「神は死んだ」ではなく「悪魔は死んだ」と言われる時代の招来を指し示すものなのかもしれない・・実際に来るかどうかは知りませんが、キリストのバシレイアとは他力本願的に祈り求めるだけではないという可能性。


他力本願と言いながら、タイムリミットだけは勝手に決めて勧誘のネタにする(そこは自分で決めるのか)、しかもこの100年で4~5回くらいは余裕で外してるのに100周年!記念ソングを作って練習させるとか、ウケを狙っているのかヤケになっているのかよく分からない人たちもいます。

世の中を今すぐ変えることは誰もできませんが、「この世は捨てたもんじゃない」と一人として胸を張って言える“勇敢なる生涯”を残すことが後世への遺物である、それは誰にでもできる、あきらめてはならない、ということを内村氏は言いたかったのではないかと思います。

天使と悪魔④

列王記では、yhwhの座の周りに無数の神々が集まっている幻が語られる。モーセ時代のyhwhの意志を直に語り実行する顕現体から、意志実現のために仕える(従属の)神々という性格が強くなります。書いた人間も対象の時代も違うし、もとから別物を描いているという見方もありますが。

そこである者=神?がこうしよう、他の者=神?がいやこうしよう、と会議しますが、最終的にある霊の意見が採用され、yhwhが「ではそのようにせよ」と究極の意思が定まります。

「神は神たる者の集会で立場を取り、神々の真ん中で裁きを行なう」(詩篇:新世界訳)

その神々の中に、抵抗する者(たち)がいるようです。

ヨブ記でも事の発端は、神々の定例会議?で「異議を差し挟む者」がいたからです。

意外なことに、その会議では妨げる者の意見を採用しています。

ヨブに対して「ではそのようにしてみせよ」と言っている。


至高神の主体と客体の分化=自己認識の始まり(我在り)=善悪(と認識されること)の始原、とするのがなんとか主義らしく、ファンタジー的には根強い?支持があります。

伝統的なユダヤ教では善悪(と人が思うもの)も全部ひっくるめて「神」です。旧約(アブラハム)の正当なる後継(イシュマエルの子孫)であるとし、新約のイエスを神の子としない点ではイスラムの神観も基本的に同じスペックなので、互いの原理主義が衝突すると収拾がつかない。


どれが「正しい」のかは知りませんが、だれもがひとつの意思を持ってはいても、自己や自我というのもなかなかに奥深くて複雑なのは事実のようです。

こうすべき、こうしたい、と思っても「妨げる者」がいるような、

自分が造って住まわせたのか、それとも初めから「いる」のか、

人は初めから内なる神と、内なる抵抗する者を宿しているのか、

自分の願望とは別の支配が体の中にある、とパウロも言っています。

自己(エゴ)=罪?を放棄することなど成し得ない「惨めな人間」である自分を丸ごと受容してくれる無限の愛と救いを、神が遣わした自らのモノゲネースが自己を放棄する様(キリストの屈辱的な磔)に彼は見出した。彼にとっては磔にされたのが自分で、代わりに生かされている「己」の内にキリストが生きています(ガラテヤ2章)。

馬鹿げた嘘

統治体が児童虐待についてわずかながら公式に何かしら言ったようですが・・

まあ、別に何かを期待していたはずもないが、予想を裏切りませんね。

組織の正当性をただ強弁しただけで、具体的な根拠や事例に全く言及しない。

WTが児童虐待を容認する、大目に見る教えを広めているなんて指摘は誰もしていない。

何回でもいちいち付き合って書きます。

彼らの「悪行者に毅然と対処している」というのは、彼らの宗教裁判ルールで極秘に“扱う”ことです。WT的証拠(本人の自白か2人の証人ルール)があり、彼ら基準で反省不十分とみなされれば排斥もするだろうが、その理由は信者にも世間にも公にならない。


そういう自前の裁判の真似事なら好きにやればいいが、きちんと証言できない、そこにつけこんで誰も見てない所でやることが前提の、子どもをターゲットにした卑劣な犯罪(刑事罰の対象)なんだから「エホバに任せる」だけじゃなく、司法の捜査と判断に任せるよう指導することなんじゃないの、という素朴な指摘です。

犯罪まで独自ルールで処理している、しかもそれを隠しているのを批判されている。


批判されているのは「どうすればともだちができますか」みたいな、JW.ORGでおおっぴらに宣伝する無味無臭の勧誘ネタじゃなく、信者にも世間にも公表しなかった個別の事例だよ。

裁判報道が嘘だと言えない(報道自体は事実と認めることになるのを避けたいのか一切触れず)だろうが、あわよくばそれさえも嘘だと信者には勝手に思ってほしいのか、「エホバの証人は児童虐待を大目に見ている」という背教者の主張は馬鹿げた嘘だ、と言質を取られないようお得意の言葉遊びで論点をずらしている。

もういい加減、そんなヘイトスピーチで不都合な情報をシャットアウトできる時代でもないですよ。
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