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天使と悪魔③

ユダヤ教では、モーセ中の使い(神々)は主神の意思と直結しているので、妨げる者も堕天使ではありません。キリスト教的にも悔い改める堕天使がいるとか聞いたことないですが、旧約ではさほど邪悪な存在として描かれていない(というかほとんど出てこない)のでフォーカスされることもないようです。

抵抗する者はいつ、善悪の実(天使用)を食べたんでしょうかね・・しかも使いは子作りをしないので、全員が“原罪”を犯さないといけません。

人と同じ類の自由意志を持つ天使をイメージするなら、めちゃめちゃ邪悪でおどろおどろしい悪霊を“演出”する堕天使と、神々しい翼をはためかせる完全に聖にして善なる天使の二極しかいない、というのもどうなんですかね。(だからWTは世の中の人間すべても二極に分ける発想しかない)

旧約オンリーの悪霊論には堕天使的な発想との関連はまだ見られません。旧約には何度か「やぎの形をした悪霊」が出てくるが、その由来ははっきり分かっていないものの、荒涼とした野や廃墟で動物の形を取って現れる、または動物そのものに憑く悪い霊というイメージです。

当時のヘレニズム化の影響を受けたユダヤ人が持っていた悪霊の概念を対象・想定にしていたのかもしれませんが、新約にも「汚れた霊は人から出て来ると,休み場を捜し求めて乾ききった所を通る」(新世界訳)という表現もあります。

狂犬病は悪霊に憑かれたとするのが当時の理解です。水を恐がる(ように見える)からです。英語では恐水病=hydrophobiaとも言う(知らなかった・・)。一般的に精神を患って異常な言動をする人が「悪霊に憑かれた」と恐れられたのもそういう背景なんでしょう。

とある方のブログで、イエスがその人から悪霊を追い出した、というのは悪魔祓い的な超常現象やオカルトの類ではなく、その人に対する偏見を抱いて蔑む人々の中にこそ“悪い霊”がいて、それを「追い出す」ことでその人の人間性を回復する行為だったとありました。

続きます。
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天使と悪魔②

名を知ると支配できる、名を発声するとその力を利用できる、というのは古来からの宗教観念とも言われています。名前が付いている神は人が作った神話や伝承の類です。発声しないのが迷信的な恐れと言う人もいますが、発声する方もけっこう迷信的です。だから他の神々とは一線を画し、表記は決めてもみだりに呼ぶな、が厳格に適用されていったのかもしれません(私的推測)。

名は上位者が下位者に与えます。子がいずれ自分で名を選べる、という文化を自分は知りません。あらゆる生き物について、アダムがそれをどう呼んでもそれが名となった、というのは、地に住むすべての魂を従わせよとの命令を実践する一歩と考えられます。

「エヒイェ・・我在り」としか言わなかった至上者に名を与える者とはだれか・・その深遠な宣言を中東の一民族の伝承、まして現代の新興教団限定の神にスケールダウンするのはもったいない。


話を戻します。

モーセ中では使いは何回か名前を聞かれていますが、yhwhの顕現体?らしく頑なに名乗ることを拒否しています。やがて「ひとつの神」に直結した存在から、玉座の周りで「仕える神々」としての性格が強くなり、ダニエルの頃にはもうガブリエルやらミカエルやら名前まで付いてます。熾天使や智天使などの階級もあるようです。

ケルビムはすでにモーセ中に出てくるが、ヤコブやマノアに現れた名乗らない使いとはどこか異質で、回転する炎の剣とセットで出てくるあたりも何やら使役霊的なイメージがあります。ユダヤ人伝承では人型らしいが翼以外の外見について聖書には何も書かれていない。

名前が付いている天使としては↑の2天使だけが正典(ダニエル書)に入っていますが、他の伝承文書にはラファエルとかウリエルとか他にも固有名や階級名があります。預言者時代になるとセラフのように翼が生えて飛んでる姿形も定着します。はしごを使って地味に上り下りしていたモーセ時代のビジョン(創世記49章)とはかなり別物と言っていいかもしれません。

洪水前に人の娘と関係を持った「まことの神の子ら」も、何らかの特殊な遺伝的特徴を持つゆえに神々の眷属とみなされた氏族の類と解釈されています。彼らの末裔かと恐れられたアナキム人のような巨人族、手足の指が6本あるレファイム人、身長3mのゴリアテなんかも出てきますし、まあ設定的には何でもありの時代です。


それで旧約初期では堕天使という明確な概念はなく、翼を持つ天使と堕天使(悪魔)の二大勢力図はバビロニア虜囚前後に影響を受けた他教由来という見方もあります(ビジョンとはいえ牛や鷲や獅子の顔を持つ異形のケルビムまで出てくる)。名前にエル(エローヒームの1人?)が入っているものが多く、yhwh由来の天使名は全く見当たらないのも、もとの系統が違うからでしょうか。

ダニエル書は種々の象徴的な予言に不確かな部分(解釈の特定不能)があまりに多く、ユダヤ教ではそれほど重視しない人も多いとか。

天使と悪魔

ユダヤ教(旧約オンリー)のyhwhと使いについて私的考察も多少?交えて書きます。

『人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった』

ユダヤ教オリジナルでは神の独り子という概念はなく、さらに「ワレワレのひとり」なのでもっといっぱいいそうな気もします。

エローヒームとは神々ですが、単数(1つ)として扱われています。威厳の複数というやつですが、ヘブライ語を理解できる生粋のユダヤ人も異論はないようでした。

yhwhは、エデンの東にあったという園を普通に歩いていた。

人の像をした神々の一人(人の方が神々と似た像に造られた)が歩いていた、という設定でしょう。WTも、人類最初期にyhwhが人に直に語りかけている(ように読める)部分は使い経由であろうとしていますが、ユダヤ教ではさらに一歩進んで、モーセ中に出てくる使い=神々は創造主の意思と直結していたらしい。

三人で表れたこともあります。創世記18章です。

まだ翼とか生えてないと思います。

アブラハムはその三人のだれかを特定する訳でもなく「yhwhよ」と呼びかけています。

彼らは彼らで「その人々は言った」と単一の話者のように発話しています。

その人々=神々は去っていったが、yhwhはなおもアブラハムの前に立っていた。

その三人の内、だれが残ってもyhwhだったんでしょうか。

残り二人はソドムに下って行きますが、彼らもyhwhと直結した言動を取っています。

ロトがその一人に「yhwhよ!どうかそのようにではなく!」と嘆願した時も、即答で「わたしはあなたに配慮を示してその都市は覆さない」と言っています。

さらにその三人はこんな会話?もしています。アブラハムについて語る場面です。

『わたしは自分の行なう事をアブラハムから覆い隠そうとしているだろうか。 いや,アブラハムは必ず大いなる強大な国民となり,地のすべての国の民は彼によって自らを祝福することになるのだ。わたしが彼を親しく知ったのも,彼が自分の後の子らと家の者たちとに命じてエホバの道を守らせ,こうして義と公正を行なわせるためであり,エホバがアブラハムについて語った事柄を必ず彼の上に来たらせるためであったのだ』(新世界訳)

だれがだれに言ってるんでしょうか。3人同時の発話か、1人ずつ順番か、ぜんぶひっくるめてyhwhの独り言か。ここは少し面白いです。yhwhからわずかに独立した意思があるように聞こえつつも、やはり単一の意思に収束しています。


はっきりいってしょーもない話ですが、個人的にはそこそこ重要なことにつながる気がします。神と対をなすとされるサタン=妨げる者の話です。

自分で正す

『自分で正そうとするな。エホバを待て』

犬をしつけるかのような、WT協会への隷属を植え込む魔法の言葉。
でもこれって、彼らが非難する過去のキリスト教支配と言ってることは同じなんですよね。

「カエサルのものはカエサルに返せばよい」

「右の頬を打たれたら左の頬を向けよ」

「一マイルの使役に徴用する者がいればもう一マイル行くがよい」

ある新約学者によると、イエスのものとして伝えられているこうした言葉は、普遍的な倫理を語る言葉よりも、そうしなければ(わずかな反抗の兆しを見せることさえ)生活や命さえおぼつかない状態に置かれた、搾取され抑圧された民衆に諭す、表向きの屈服と受容こそ魂の不服従である、というメッセージだとする解釈もあります。

ローマとユダヤ教という二重の支配にがんじがらめにされた当時の状況を考えると、そういう側面もあるのかもしれません。ガンジーも新約の教えから感化を受けていることを認めているようですが、彼の非暴力不服従の精神にも通じるものがあります。

これがやがて為政者が利用しやすいように脚色して解釈された可能性も指摘されています。

『為政者たちも人間で、過ちを犯すものです。でも彼らは国家という秩序を維持するための神の器です。自分で正そう(革命や反抗)としてはなりません。税を納め、国の要求に応じ、国益に資する者となりなさい。それは神に喜ばれ、その忍耐は天の国へ召されることで報われるのです』

これが権力者の保身や私利私欲に利用(活用)された側面もあれば、絶対君主時代の抑圧された人々の希望の拠り所となっていた事実もあるでしょうし、一概に悪いとは思いません。

これを政治と宗教の姦淫だと非難するWT協会も言ってることは同じです。

『組織の指導者たち(統治体)も不完全で、過ちを犯します。でも彼らは神の唯一の組織を指導するために“用いられている”僕たちなのです。自分で正そうとしてはなりません。税(信者一人あたまの寄付額)を納め、組織の要求によく応え、組織に貢献する者となりなさい。侮辱的な仕打ちを受けても別の頬を向けなさい。その忍耐はすぐに来る(はずの)ハルマゲドンを生き残って楽園で永遠の命を与えられることで報われるのです』

WT協会は表向きは政治的な結びつきは見えませんが、↑のような昔ながらの論理で信者をしつけつつ、不動産ビジネスや転売ビジネスで蓄えた巨額の資産の運用先(投資先)を一切公表しないので、そのカネが間接的に(合法的に)この世を支配する者たちに利用されている可能性はあります。


話は変わりますが、昨今のサッカー協会や理研など、任命監督責任に対する上層部の処分が甘く、不祥事が明るみに出た人間のみ切り捨ててお終い、さらにそのような人間のせいで不利益を被ったのは組織の方だと強弁するかのような人たちもいます。

同じような物言いで指導監督責任から逃れようとする統治体に、似たものを感じる人は多いと思います。WT協会が特段悪いという訳でもありませんが、結局はこの世を動かしている小さな歯車(組織)の一つに過ぎない、ということでしょう。

理解する?

これも分かっているようで分からない概念です。
理解とは何か、を理解するのも簡単ではありません。

最近のWT記事では、バス通りの真ん中に突っ立ってる人の“たとえ”がありました。

「あ、あれバスだ」が知識
「はねられたら死ぬ」が理解
「じゃあ逃げよう」が知恵

・・途上国向けなのか、にしても愉快な説明です。こういうのを読み聞かされる上にただ復唱させられるお勉強会に何年も浸れば思考が停止するのか・・

聖書の中では、ヘブライ語では「区別する・見分ける」、ギリシャ語には日本語の「理解する」に近い単語があるのかどうか知りませんが、「知る」「よく知る」を意味する語があるようです。英語のunderstandも、underとstandの組み合わせなのか・・としてもその組み合わせに意味があるのかも含めて語源は不明らしいです。

WT、特に日本WT教はこの「理解」という単語が好きです。キリスト教は啓示の宗教なのに、「新しい理解」をやたらとありがたがります。この漢字の組み合わせから連想してしまうのは、論理で解(答え)を出すことや、逆から言えば何かの解の理由を提示できること、あたりでしょうか。

『あなた方は天の王国の神聖な奥義を理解することを聞き入れられている』(新世界訳)

新共同訳では「悟る」、口語訳では「知る」になっています。

それでWTは神の深遠な奥義を理解できる、説明できる、その理由も大方「分かっている」と言いたいので不可知論が大嫌いです。分からないことを分からないと素直に言えず、とにかく何かの答えを出しておいて、後で「理解」を調整すればいいのです。


「知る」と「理解する」を区別することが理解することなのかもしれません。

一例ですが、数学のお勉強でもxとか√とか代数記号が出てくるあたりでつまずく生徒さんが多いです。「分かろう」とする子ほど分からない深みにハマリます。

大昔の人はあらゆる実在の値や量は整数比で表せると考えていましたが、一辺を「1」とした正方形というごくシンプルな図形でさえ、対角線を引くと整数比で表せないことが「分かって」しまいました。人類が発見した最古の定理(不可能性の発見)とも言われています。

その不可能性という残酷な現実を受容してしまうのが√です。どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号(博士の愛した数式)。じゃあマイナスの数を入れたらどうなるかと聞いて、そんな数はないんじゃないですか、と言われた博士は自分の胸を指差して「いいや、ここにあるよ」と言う。

あるかないかの議論を超越する無限に寛大な愛(神?)の如く、この無敵全能と思われた冪根を使っても5次以上だと解を代数的に表せないことが分かって数学は異様に発展した。

そういうものとして√を「知る」ことが「理解」なのかもしれません。その区別ができないと、理解しようとするからいつまでも知ることができず、√嫌いになります。

これ以上は解けない、表せない、答えがない、と悟ることが理解であり、「知らないと知る」ことが知ることである、という昔の人のことわざは至言だと思います。


『自分はある事柄についての知識を習得したと考えるなら、その人はまだ知るべきほどにもそれを知っていない』(パウロ)

WT的な不可知論というと、結局は何も確かなことは分からないと言うだけの空しい哲学と片付けられますが、不可知性や不可能性という厳しい現実に対する奥深い悟りと穏やかな受容が人間を進歩させてきた知なのかもしれません。

神の民

えーと先週までの2つの記事。

『どんな宗教にも誠実に神を信じている人はいる。神はその人たちに目を留めて受け入れておられる。そのような人たちが1つの集団として神を崇拝するために偽りの宗教に関わるのをやめる必要はない』

・・に対する反論。

偽りの宗教と書く時点でWT目線ですが、誠実に神を信じている人であれば別に改宗させる必要はない・・そんな風に考えるJW信者が増えているんでしょうか。

それどころか、JWの中にもWT協会の偽善にかなりの程度目覚めた上で、狂信的な改宗活動にはのめり込まずに、一信者として誠実に神を信じていれば取り立てて関わるのをやめる必要はない・・特に3世4世あたりまえの英語圏とかそういう空気もあるでしょう。

でもこの2つの記事ではいつも通り組織崇拝を助長している一方で、冒頭の言説に対する反論どころかそれを裏付ける内容もかなり含まれているのですが・・混濁していて何がどういう計算なのかよく分かりません。

この2つの記事では民≠組織を部分的に認めています。

神が民を持つようになったのはいつですか・・答え:アブラハムを召命した時

それから約400年の間、『神はイスラエル人を一国民として組織してはいませんでしたが、ご自分の民として認めておられました』(19ページ7節)

はい。旧約でもどこまでが組織されていなくて、どこからが組織された民となったという明確な区別はなく、WTの勝手な線引きです。神の民は組織されていてもいなくても、いつでも神の民です。ヨブは家族の長であり、祭司でした。それが次の記事でさらに確認されています。

『神の民はアブラハムの時代以来、男子の肉の割礼によって見分けられていましたが、この日を境に、それが変わりました。パウロは新しい国民の一人一人ついて、「その人の割礼は霊による心の割礼です」と書いています』(23ページ1節)

はい。神の民を見分けるのは、組織されていることや、組織立つための律法や取り決め事ではなく、アブラハムの子孫であることを示す肉の割礼です。

それは初めから人に見せる、認められるためではなく神との個人的なものでした。だって普通は絶対に見せないところにするしね。だから霊による心の割礼も「心に書き記される律法」によるもので、神は「心の中の隠された人」を大いに喜ばれると聖書にあります。

『あなた方はかつては民ではありませんでしたが、今は神の民であるからです』(ペテロ)

彼らは霊により生み出され、約束によるアブラハムの子孫となりました。

肉の方法が生み出したものはなんでしょうか。

『アブラハムは2人の子を得たと書いてあります。ひとりは下女により、もう一人は自由の女によってです。しかし下女による子は実際には肉の方法で生まれ、自由の女による子は約束によって生まれました・・この女たちは二つの契約を表しているからです。一方はシナイ山から出ていて、奴隷となる子供たちを生み出すもの、すなわちハガルです。そこでこのハガルは、アラビアにある山シナイを表し、今日のエルサレムにあたります。彼女は自分たちの子供と共に奴隷の身分にあるからです。それに対し、上なるエルサレムは自由であって、それがわたしたちの母です』(パウロ)

律法はすでにアブラハムの子孫だった神の民を今や組織するためだった・・そんな言及は聖書のどこにもありません。違反を明らかにするために与えられた律法は、奴隷となる子供たちを生み出したにすぎないからです。

霊によって生み出される民は、自由の女による約束の子たちです。

「ほかの羊」はこの囲い(律法)に入っていなかった異邦人も神の民となることを予告していたと思われるが、WTによれば「ほかの羊」は霊によって神の子とは証しされていない、だから彼らは神の民ではないおまけみたいなものです。

1919年?に小麦と毒麦が分けられた、というWT解釈にも何の根拠もありません。

キリストは人を「ひとりひとり」分けます。小麦と毒麦も同じです。

この2つの記事から導かれる聖書的な結論。

『どんな宗教にも誠実に神を信じている人はいる。神はその人たちに目を留めて受け入れておられる。そのような人たちが1つの集団として神を崇拝するために偽りの宗教に関わるのをやめる必要はない』

ノーリスク

前にも書きましたが、JW組織批判は薬害を訴えることに似ています。

奇跡の組織(薬)という宣伝文句で入信したが、そんなんじゃなかった。

しかし決定的に違うのは、その害は身体的副作用とは違って客観的に立証できないこと。

さらに宗教信者は「客」であるだけでなく、自己責任ですべての指示に従い無償・無補償・無契約で働く「社員」であり、ブラックではないと擁護までしてくれる「信者」でもある。

粗利はすべて非課税で、命令し放題でも自己責任だから訴えられるリスクも筋合いもない。

純心な疑うことを知らない末端信者の自己責任の陰で自らを肥やす羊飼い。組織や組織側の人間の偽善にうすうす気づいても「本当ならいつかエホバが正される」という魔法の言葉でWT協会への寄付を続ける信者たち・・2重にも3重にも張り巡らされる垣根、いや防護壁か。

統治体という法人格を持たない数人の老人を祀って忠誠を要求する一方で、資産の中央集積を牛耳る法人格と、末端の会衆・信者を自己責任で切り離す傾向は強まっている模様です。

こんなにおいしいビジネスはない。まさにノーリスクハイリターン。

信者のしつけ

目ざめ4月「子どものしつけ こうすればうまくいく」

JWが勧誘の入口に使う当たり障りのない正論も多少は含まれているが、残念なのはこれを反転させると組織そのものになってしまうことですね。いくつかパラフレーズします。


『組織を高める運動は極端に走りました。指導者たちは信者に「組織にだめとか悪いといった消極的な言葉を使ってはいけない」「信者に、組織は特別な存在で、なりたいものになれる神の組織だ、と繰り返し言いなさい」と言うようになったのです』


『組織は変化し続けている。統治体の好みの変化を反映しているのである』・・ですから、聖書が述べているように、信者は容易に、「波によるように振り回されたり、あらゆる教えの風にあちこちと運ばれたり」するのです』



『結局のところ、ある人たちに言わせれば、組織を高める運動は、組織に権利を主張させ、信者は組織のためにあると思わせたに過ぎませんでした。この運動は、組織の指導者たちを「現実の世の中では回避できない批判やしばしば犯す失敗に備えさせることができなかった」』


『JW監督たちは、自分たちを喜ばせるために、“意味のない褒め言葉”をかけられることから、実際には何を学んでいるのでしょうか。監督たちの自尊心ばかり重視するなら、彼らの現在と後の人生にどのような害が及ぶ可能性がありますか』


この組織にどれほどの“意味のない褒め言葉”がはびこっているのか・・

仕事の世界では自尊心を高める運動などありません。会社にまずい報告を提出した時、「君の選んだ用紙の色はなかなかいいね」などと言ってくれる上司はいません。何をしても褒めてもらえる、と信者たちに教えるのは、信者たちにとって極めて有害です』

ビジネスを子育てに適用する“専門家”の言葉を採用する姿勢には背筋が寒いです。

おそらく、統治体はこの方針を信者のしつけにも適用していくでしょう。

ますます上司気取り、部下扱い、助言が仕事の一方通行監督たちが増えるでしょう。

統治体は親で、信者は子ども・・『信者のしつけ こうすればうまくいく』

自分には5ページにある、王様気取りの子どもの挿絵が、懲らしめられることを忘れて思考が幼稚化した統治体集団にしか見えないのですが・・
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