ハッピー

イエスは「嘆き悲しむ者は幸い」と言いました。

この幸いとは、単純にうれしいとか、とっても幸せとか、歌って踊ってハッピー@ベテルとか、表層の感情だけを言っているのではなく(神において)恵まれた状態のことだと思います。

嘆き悲しむことが恵まれた状態に至らせる、またはその状態なのかもしれません。

幸い=幸福を、主観的、実存的、感情的に幸せだというお花畑的体感でしか捉えないWTは嘆き悲しむことを忘れてしまっているかのようです。キリスト教の罪はよその罪として非難し、組織の罪は徹底的に覆い隠して強弁する。

このハッピー@ベテル動画、何の曲か調べてみました。

ファレル・ウィリアムスという人で、Wikiによるとこの「ハッピー」は10週連続全米1位、人々が曲に合わせて踊るPVはYouTubeで大反響、世界中で派生バージョンが作られているらしい。


そこにのっかってどうすんだよ・・(絶句)


ちなみに歌詞も今のJWにぴったりなようです。

全文転載はしませんが、一部を自分なりに訳します。


“これから言うことはクレイジーかもしれないが、気にしないね”

“あれこれ言ってくる、どうせ悪いニュースだろ・・Yeah! ”

“遠慮するな、洗いざらいぶちまけてこいよ、でも平気だね・・Yeah! ”

“気を悪くするなよ、でも言っとくけどな、時間の無駄さ”


“だってハッピー☆だからさ”

“引きずり降ろしてみろよ”

“レヴェルが高すぎて、何をどうやっても無理さ”

“言ったろ、ハッピー☆だからってな”



細かなニュアンスはいろいろ訳し方があると思いますが、JW風に訳してあげました。


もういよいよか・・
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続・全能の神④

全能という訳語の1つに囚われすぎて、全能なのになぜ悪のポテンシャルを創造したのか、全能なのになぜ悪がリアルに発生しても放置しているのか、という弁神的なお話(WTの神vs悪魔論争含む)にはあまり興味はないです。

全能性の自発的?制限(WTも認めている)による神の限定的不在・・その現実世界で人が自らの意志で犯す罪や、偶発的に起きる事故災害に神の責任はない、とする見方が主流?でしょうか。

造られたと言う側がその神の免責のために論理的整合性を編み出す必要もないんでしょうが、そう頭ごなしに言われると“(自分が)納得できる答え”がないことに幻滅したり、自分たちワールドでは完全無欠に非の打ちどころがない全能神をアピールする新興宗教に勧誘されたりするので、信仰を前提にするにしても何がしかの説明や弁証は必要なのかもしれませんが・・


結局は、人智を超えたところで意のままに与え、そして奪う至上者(キュリオス)な訳で・・
(人智を超えて放置しているだけかもしれないが)

善悪のどっちも知っていると創世記にはあります。

神も人も初めから悪だと知っているものを放置して、何が証明されるんでしょうか。

とても悪い世の中になることですか。そりゃなりますよね。


「わたしは神から良いことだけを受けて、悪いことは受けないのだろうか」(ヨブ)

そんな聖書の神を信じるのをやめたバート・D・アーマン氏の本は何冊か読みましたが、悲観論者という訳ではない彼の、他者の苦しみに純粋なまでに深く苦悩する様を読むと「嘆き悲しむ者は幸い」「泣く人と共に泣きなさい」という言葉を思い出します。

悲惨なニュースを見聞きしても「さたんよね~」「ハルマゲ(JW以外の大虐殺)が近い証拠よね~」とか、自前の論理ですべてを分かったつもりになっているのか、自分たちの感覚の方がおそろしく麻痺していることに盲目にされている大方のWT信者とは対照的でした。




アーマン氏の本で面白かったのが「人が苦しむのはなぜかという本を書いています」と言うと、そんな会話はしたくないので話題をそらすか、この世のあらゆる苦悩と悲惨と苦痛の理由を15秒以下で説明してしまえる答えを言おうとする人間かのどちらかだ、というくだりでした。

開始30秒で楽園とか復活の話を始めてきっかり5分で完結させる、

すぐに白黒つけたがるあのアメリカ型JW布教学校のことか・・

続・全能の神③

洞察てJW的に結構あぶなっかしいことが書いてあります。否定に回るとはいえ、創世記のシュメール文明由来説やモーセの複数資料説、今回のシャッダイ語源説など、キリスト教や歴史的批評の文献をかなり調査した上で、いろんな見方があることは率直に書いています。

代表執筆者でもあった前任の2人とは違い、宗教ビジネスのグローバル展開に精を出す3代目さんがレイ・フランズに丸投げしてこの本の旧版が書かれた。フランズ氏とその本に関わったギレアデ教務主任のダンラップ氏は“背教”しているが、内容のほとんどは洞察に引き継がれている。

洞察、洞察、と騒がれた時代は早くも過去のようで、最近の結論ありきの解釈変更の連続で、洞察でもかなり重要な部分が“古い理解”に落とされている。あぶなっかしい部分は最近のWT資料で触れられることはまずない。

話を戻します。

エル・シャッダイについて今のところ自分にしっくりくるのが、前記事の②と③、乳房(シャダイ)と強さ(シャーダド)の組み合わせで、慈愛と略奪の二面性を持つ神です。シャッダイが出てくるのは主にヨブ記で、その大部分を成す友との対話中ではyhwhはほとんど使われていない。

ヨブのシャッダイへの思いは次の1節にも端的に示されています。


わたしは裸で母の胎を出た 裸でそこに帰ろう
主は与え 主は奪う 主の御名はほめたたえられよ
(新共同訳)


全能者の略奪・・シャッダイはショードする者としても語られている。

それでもヨブは、生を与えられたときは命一つだったのだから、

主がすべてを奪い命一つに戻ったとしても、息絶えるまで主の御名を称える覚悟だった。

かのユダヤ人信仰者の内に見たのも、その種のシンプルな信念です。

奪ったのはサタンでは?というのは抜きです。妨げる者についてはまた書きますが、ぜんぶあなたがやったとして、あなたを呪わないかどうか見てみましょうよ、というオファーです(yhwhの究極意思の承認なしでは彼は何もできない)。彼の“存在”はヨブに明かされてもいない。

ヨブの信念は、後の人間が都合よく思いついた論理的根拠、

テストに合格したらもらえる褒美目当ての、御利益的なものではなかったと思いたい。


与え、そして奪う、慈愛と略奪の神。

だからパントクラトール=何でもできる力、なのかもしれません。

続・全能の神②

字義(語源)不明なエル・シャッダイを、新世界訳を含む聖書が慣例的(伝統的)に“全能の神”と訳している理由の1つは、70人訳が主にヨブ記中に出てくるシャッダイの訳語に、ヨハネ啓示で9回使われているギリシャ語のパントクラトールをあてているからです。

英語のAlmightyに近い単語がヘブライ語にあるのかないのか知りませんが、少なくとも旧約中には候補となる単語は他には出てこないらしい。

『そうでないとすれば,ヘブライ語聖書にはパントクラトールに対応する語がないことになるからです』(WT洞察)

シャッダイがパントクラトールに対応しないなら、他のどの単語だというのか。

エホバの証人が神の唯一の組織でないのなら、他のどの組織だというのか。

・・となんか似てますね。お得意の物言い的に。

ないならないで、その事実をありのままに受け入れればいいのでは、と思うのですが。

後代の70人訳が、シャッダイをおそらくシャーダドつながりで(WT洞察が採用する説)パントクラトールと解釈するようになったことをどうとか言う知識も資格も自分にないのでそれはいいんですが、70人訳のキュリオスはサタンの陰謀としながら、キリスト教とがっつり一致する解釈を支持する時には70人訳を全面的に根拠にする、いつものやり方です。

でも「全能者が自らの全能性を制限できるのも全能か」という禅問答みたいな話など(WTはこれをアリとする)、この全能=Almightyという言葉が独り歩きしてしている気もします。

神学や哲学を嫌うはずのJWも、悪の存在から全能の神を“免責”する唯一正しい論理的整合性を考えついた(主権論争のやつ)と主張するあたり、神議論というか中世神学的な影響はしっかり受けている。

古代ヘブライ人のシャッダイへの思いはそんな神学的な議論とは無縁で、もっとシンプルで素朴なものだったのかもしれない。

続・全能の神

旧約は調べれば調べる程、奥が深いというか謎の多い本です。

モーセに名乗る?前は自らをエル・シャッダイとして示したが、yhwhについては知らせなかった、とありますが、日本語では「全能の神」と訳されるこのヘブライ語エル・シャッダイも、yhwhと同じくはっきりした由来が分かっていません。

WT洞察はこんな感じです↓

『シャッダイという語の正確な由来は議論のある問題です。セプトゥアギンタ訳の翻訳者たちはこの語を訳すにあたり幾つかのギリシャ語を用いていますが,ヨブ記の中ではシャッダイの訳語として16回パントクラトール(全き力を有する者)という語を用いています。(中略)現代の批評家のある人たちの見解は,エルサレム聖書として知られているカトリックの翻訳による創世記 17章1節の注釈(脚注 b)に次のように示されています。「『全能の神』という慣例的な翻訳は正確ではない。恐らく『山の神』というのがその意味であろう」。しかしそのような極端な見解は,シャッダイという語がアッカド語のシャドゥー(山)と関連があるとみなす推測に基づくものです。ウンガー聖書事典(1965年,1000ページ)の注釈は次のように述べています。「しかし,この見解は受け入れることができない。シャッダイは,アラビア語の場合と同じく,『強くある,もしくは強力である』を意味する語根シャーダドから出たと考えるのが最善であろう」。―「分析的ヘブライ語・カルデア語辞典」,ベンジャミン・デイビッドソン著,702ページも参照)』

・・ということで、ここも意見は割れています。

① 山の神説
アッカド語の山に由来する。yhwhの臨在はシナイ山(ホレブ山)と関連付けられている。アブラハム伝承から「yhwhの山で備えられる」という言い習わしが生まれた。

② 乳房を表す語から派生したという説
洞察には触れられていない。パウロが表現したような「乳をふくませる母親が自分の子供を慈しむ」イメージか。約束の地は「乳と蜜が流れる」と言われた。

③ すごくつよい神
洞察が採用している、シャーダドに由来するという説。シャーダドは旧約中では略奪する、破壊する力に使われるが、yhwhには相応しいのかもしれない。

④ 以上のどれでもないか、その組み合わせ

シャッダイは語源不明で全能という字義はない、という点では「意見は割れていない」ようです。

信仰者②

かのユダヤ人信仰者とはあらゆることを議論しました。彼らは“はーしぇむ”と呼ぶyhwhとその発声の是非、使いたち、妨げる者、まことの神の子ら、律法学者ガマリエルの話にまで及び・・

彼はヘブライ語を読めますし、知識も半端なく豊富ですが知識に溺れることがないストレートな信仰者でした。JWの偏りまくったお決まりの聖句だけでは相手にならず、こちらが何を言っても(相手を否定することしか言わないのに)穏やかに受け答えてくれる。

彼は彼で他流試合?など滅多にしたこともなく、久しぶりに骨のある聖書論議を楽しんでいるようで、ご飯に行ったりする仲にまでなりました・・んなことやってっから覚醒する気配はその時からあったんでしょう。不信者と親しく交際してはいけません。


1回だけ、彼を追い詰めたことがあります。

イザヤ53章を引っ張り出して読みました。彼は何訳だろうと新約には目を向けるどころか、自分の前で読まれることも拒否しますが、旧約なら新世界訳でもヘブライ語で書かれた自分の聖書を目で追いながら聞いてくれます。キリスト教の異端論争には無縁なので。


「この“彼”とは誰のことだと、ユダヤ教では理解されているのか」

「君の言いたいことは分かっている。君はこれがメシアの予言だと言いたいのだろう」

「そうだ。ではあなたはどう考えているのか」

「わたしもこれがメシアについて語っていることは否定しない。続けてくれ」

「メシアは同胞のユダヤ人から諸手を挙げて歓迎されるのだろうか。むしろ蔑まれ、取るに足りない者とみなされ、刺し通されると書いてあるのではないか」

「それも分かっている。君はこの予言がジーザスのことだと言いたいのだろう」

「そうだ。彼はあなたと同じユダヤ人だ。同じイザヤの予言では、メシアはエッサイの根と呼ばれ諸国の民のための旗印となる、と予告されている。教えてほしい、今に至るまであなたたちの中で、何人もの人間がメシアであると主張し、また期待された人もいるはずだ。ではユダヤ人でありながら同胞からは迫害され、その企てによって刺し通されてなお、ユダヤ人ではない諸国の人々にその名が呼び求められている人がいるのか」

「・・それは認めよう。そのようなユダヤ人はかつていない。昨世紀末にも一部のユダヤ人からメシアと期待された人物がニューヨークにいた。わたしは彼を信じていなかったが、彼も死んだ」

「あなたの神はあなたの父祖ダビデに誓い、その腰にある者が彼の王座を永久に受け継ぐ者になると宣言したはずだ。今後、自分がダビデの王座を受け継ぐ権利を持つと主張できる人がいるのか、いたとしてもあなたは何をもってその者を信じるのか」

「君の言いたいことは分かる。だから今ではメシアについての予言は特定の人物というより、将来の回復と祝福された時代を象徴的に表すものと考える人も増えている」

「ではこうなるであろうと書いてある聖書の言葉はどうやって真実なものと証されるのか。僕はもともと自分の神じゃなかったもの、あなたの神が約束したことを信じているんだ」


彼は少しの間、黙っていた。

「・・君の言うことは考えてみよう。だが分かってくれ、これは私の出自であり民族なのだ。エルサレムにいるラビたちとも連絡をやりとりすることがあるが、私は彼らに逆らうことはできない」

今度はこっちが黙る番でした。何も言えねぇ。

今思えば、彼らと直にやりとりする立場でもなかったが、アメリカにお住まいの小太りラビたちが決めたことに逆らえなかった自分も立場的には全くおんなじでしたね。だから仲良くなれたのか。つくづくユダヤ教とJWは似ている。

今も救いのために、ユダヤ人ではない人々によってその名が呼び求められている、人類史におけるたった一人のユダヤ人・・“彼”は何を後世に遺したのか、もう少し気ままなひとり旅を続けます。

霊的宝石

“個人研究”に忙しくてWT記事はしばらくスルーでしたが昨日のやつは強烈でしたね。

『一切の考えをとりこにしてキリストに従順にならせています』(パウロ)

WTによる改変後 →『エホバの組織に対する従順と、エホバが用いておられる人々への従順を示さなければなりません』

改変その①・・「キリスト → エホバ」

改変その②・・「エホバの組織に対する従順」

新約ではクリスチャンに関連して「組織」という語は使われていません(以前の記事)。会衆も単純に人の集まりを指すので、会衆に従順である、という発想もありません。

「指導の任にあたる人に柔順でありなさい」という言葉はありますが、それはその「働きのゆえに重んじなさい」ということです。パウロ本人もそのような働きで知られた人でした。

「誉れを要求する者には誉れを、貢ぎを要求する者には貢ぎを」という言葉もあるように、国の権威にも「服する」ように言われています。それこそ汚職や癒着もあるなど“不完全”ですが、誠実に働いている個々のお役人さんたちも重んじます。

当然、それらのに対する従順は無条件また絶対的なものではありません。長老であっても、彼らに対する従順をキリストに対する従順と同列に語るとか、キリストの贖いを差し置いて聖化の条件であるとか、そういう教えはないようです。むしろキリストへの従順は「神の知識に逆らって立てられた一切の高大なもの」を覆します。


『血を食べることはしないように固く思い定めていなさい』(モーセ)

WTによる改変後 →『血を食べたり輸血を受け入れたりしないよう「固く思い定め」る上で、どんな見方が役に立つでしょうか』

自分たちの解釈を神の言葉に挿入しています。聖書の中で一貫して明確に禁じられているのは、屠られた魂を表す血を食べてはならない、ということで、それ以上でもそれ以下でもありません。

「エホバの聖なる民は、血の用い方を定める権利は統治体にあることを認めます」

ということですね。


『神から顔を背けられ、会衆から断たれることなど、考えただけでもぞっとします』

JW排斥 → 神から顔を背けられる、の再確認というか脅しです。

排斥が「ぞっとする」ような制度であることを認めているようなものですが・・


以上が、この記事の「霊的宝石」でした。

信仰者

今年初の記事です。ブログの趣旨もかなり変わってきましたが(だから一度はやめようと思ったのですが)、とりあえず書き続けます。

旧約のことをいろいろ書きましたが、すべてが史実と主張するにはかなりの無理があるものの、それを信仰の典拠とすることは否定していません。

このブログにちょこちょこ出てくる信仰者(ユダヤ人)の話です。

聖書(旧約)をヘブライ語で読めます。ヘブライ語との対訳や逐語訳などの何冊もの聖書、その解説本などで彼の書斎はいっぱいでした。旧約の史実性が批評されていることも知っていますが、彼にとっては信仰の対象なので学問的に反論しようとする様子もありません。

律法が禁じている食物は一切口にしません。ユダヤ教の伝統通り血抜きされた肉しか食べません。普通にスーパーで売っている肉には少し赤い肉汁がしみ出ているものがよくありますが、ああいうの、煮ても焼いても絶対に食べません。でも輸血はOKです(笑)。

エビやカニ、貝類もダメです。寿司が大好きですが「ひれとうろこのあるもの」しか食べません。「エビ食べないの?こんなにウマイのに」とか、からかうように見せつけながら食べても、余裕で穏やかに笑っています。

家の戸口にはメズザが斜めに貼り付けられています。

自分がいる地点の日没時間を調べ、きっかりその時刻に安息日の祈りを捧げます。

でも世捨て人のようではなく、普通に社交性があります。

自分の信仰以外の人と親しく交際すると信仰が弱まるとか、

自分の信条が唯一正しいことの論理的根拠とか、安息日を守る人間だけが楽園に行けるとか、

そういう御利益的な、実は信仰がないことの裏返しのような、何かに逃げる気配がない。

異邦人を汚れている、同胞さえ「地の人」と見下すパリサイ的なイメージや、

サマリア人を忌避し、口もきかない新約のユダヤ人とは別物だった。

安息日には詩篇を昼も夜もささやくような小声で朗読する。

安息日終わりの日没前には香を炊き、一筋の煙がうっすらと上へ昇る。

その香ばしい煙にのせて昇らせるかのように、彼は頭を垂れて祈りを捧げる。

普段は人が見ることがないであろうそのすべての所作に、神への思いが満ちていた。

自分の幸せのためでもない、楽園のためでもない、永遠の命のためでもない、

世界最後の日が安息日なら、その滅亡が神によるものだとしても、

最後の安息日を守って命を神に返すのだろう。

自分がユダヤ教に改宗することもなかったが、彼を「改宗」させる気も穏やかに消えた。

信条や習慣が違っても、彼と自分が信じている神は、同じ神のような気がしたので。

気がしただけですが。
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