創造説話⑤

という訳で、神=フィジカルなクリエイター、という話にはあまり関心ないです。
創造をフィジカルなクリエイションに限定するなら、超高度文明を持つ宇宙人でも何でもいい訳で。
創造とは、もっと根源的なものだと思い始めています。言葉にするにはまだ勉強不足ですが。

もともと科学的根拠があるから神を信じる、というのに違和感はありました。

じゃあなんで神を信じるのかといえば「神は愛」なんでしょうね。

愛がすべてとか陳腐な物言いですが、あまり愛=Loveを直に語らない日本の文化で言えば「恩」や「縁」といったところでしょうか。

自分も短い人生の中で、家族や恩師や友人と呼べる人たちとの関わりに助けられてきました。

誰もが自分が第一です。せいぜい自分の家族親戚くらいまででしょう。いわゆる無私の愛とやらをユニバーサルに実践している人など、自分はみたことないです。

それはJW社会も何ら変わらないのですが、ニーチェの言う「無私というメッキ」を被って自らの義や永遠の命やトッケンを追っかけてる分、弊害も多い。組織に貢献する以外の「自分第一」(別に悪いことじゃない)に執拗な罪悪感を持たせられ、心身のバランスが歪む。

「受けるより与えるほうが幸福」は因果として言っているだけで、自分が幸福になるために与えよ、とか、幸福になるための方法論、を語っている訳ではない。順序を勝手に変えますが、その順番てかなり大事だと思います。

本質的には自分第一の人間が、因果だの自分の幸福だの考えるより先に(順番が大事)自らを犠牲にしてもだれかを助けようとする尊い瞬間がある。映画「クラッシュ」は好きです。ほとんどの人間は純粋な悪人でも、純粋な善人でもない。

自分はそういう瞬間にも神を感じます。自分がそう感じたから何かが証明されることもないですが、キリスト教ではその尊い瞬間を最高度に表現するのがキリストの磔なのかもしれません。

でも、だれに何をしてもらっても「えほばよね~」で片付けるのは昔から嫌いでした。感謝すべきは神の像であるその「人」です。対象(像)に関係なく、感謝という思い自体がすでに尊いのでしょう。感謝することを教えない文化や宗教があるでしょうか。

情けは人のためならず、というやつで、お金と同じで愛=恩もめぐりめぐって自分に帰ってくることがあります。その人間特有の不思議(に見える)現象を説明するのが宗教なんでしょう。聖書で言えば「自分で量りだしている秤で、自分も量られる」とか「まいたものを刈り取る」あたりの教えで、そういうところは他宗教にも通じるものがあると思います。


宗教がなくても恩や縁を大切にする人はいますが、そういう忘れがちなことを教えたり、思い出させたりするのが本来の宗教の役割・・なのかもしれません。ただ因果を利用して、まず与えよ、もっと与えよ、あなたの幸福や不滅の命のためだと、与える対象を自らの組織に限定してお金や無給の奉公を要求するビジネス宗教に成り下がったのがWT協会です。
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創造説話④

話を戻しますと、単純に科学のことは科学にお任せすればいいと思います。科学や考古学が何かを“発見”する度に、それが事実である可能性を科学的に反論するなど宗教がやることではないのですが、JWが進化論やBC586年を意地でも否定するやり方はそんな感じです。

創造論もどの程度まで文字通り解釈するかに関係なく、オールマイティーな神を第一原因に持ち出す時点で、科学的は「答えになってない」「検証自体が不可なのでルール違反」となります。

それで、その時点でもっともらしいとされる科学的知見と聖書の特定の個所が矛盾するように思える場合、それをどう判断するかは、学者でもないのに学問的に反論するとか、宗教権威が統制するとかじゃなく、個々の良識と信仰による判断でいいのではないかと思います。




自分は科学も好きですが、科学やその証明に依存しない神も信じています。

歴史が示すように、取得する土地や建造物の大きさや多さ、獲得する信者の数やそこで拝む人の数、集まる金や富の量で威光と名声が増すような、ビジネス発展型ゲームや神話ゲーム的な虚構の神々は、これからも人為的に作られては「死んで」いくでしょう。

いるかいないか分からないもの・・造られたと言い出す側が提示する証拠や論理で、その存在や正当性(神の正当性ってなんだそれ笑)が証明されなければならないもの・・

そんなの、神とは呼べないでしょう。信じるにも祈るにも値しない。

形を作らないだけで、イメージの中で作り上げたむなしい偶像です。

「いるのか、いないのか」と証明を求める人の理性や思考に関係なく、だれが信じようが信じまいが、そんなのとは無関係にいるものとして成り立つのが本来の信仰じゃないんですかね。

自分としては、そういうシンプルなものだと思っています。

創造説話③

最終的にオールマイティーな神を持ち出すなら科学とケンカしても不毛なだけ(だって何でもアリだから)、というのが自分の考えです。一方で、科学と聖書が矛盾するように思える場合に無条件で科学を信じる、ということでもありません。

科学も探求を続けながら変化します。キュリー夫人が放射性物質の存在に言及する頃、既知のエネルギーでは太陽の寿命は2、3千万年という見方が主流だったようです。なので太陽についての「真理」はまだ存在しませんでした(今も存在すると言い切っていいのか分かりませんが)。

ということで「真理は一つしかない」が真理であることはまあ否定しませんが、他に有力な説明がない ⇒ その時点で存在する説明のどれか一つが必ず真実、とはなりません。

前記事に書いた各種の創造説解釈もそんな感じがします。一つの真実を追究するのは科学のアプローチです。一方、すべての可能性を否定しないのが信仰だと思います。「人にとっては不可能でも、神にとってはすべてのことが可能」というのが聖書の前提です。ずるいっちゃずるいですが。

どれか一つを信じるのも自由ですが、自分が造ったものでもない対象について勝手に信じているにすぎないのに、これしか「ありえない」「他は全部偽りだ」という人は、人のちっぽけな思考で神というものをリミットしているように思います。




この100年の科学知識の進歩はそれ以前の数千年に比べてすさまじいものがあります。あまりの異様な進歩に、神話や中世の神は死に、「科学こそが全知・全能」への期待が高まりました。

その科学も、めざましい進歩と、停滞の時期を繰り返します。

でも素人の批判や考察など、何十年も研究している科学者からは相手にされません。科学ならそれでいいと思いますが、JW信者も統治体を「自分たちが足元にも及ばない聖書の専門家」と崇拝することで、個の調査や考察などたかが知れていると見下してしまう所にワナがあります。他方、聖書に出てくるベレアの人々は「その通りかどうかを知ろうと、日々聖書を調べた」とあります。

JW信者はNewtonとかで科学上の「新たな発見や説」を読むのと似た感覚でWTも読むので、そこに書いてある「新しい理解」に、頭が悪い(と思い込まされている)素人の自分が疑いを差し挟もうとは考えません。「その通りかどうか」自体に疑問を持つことを否定します。さらに悪いことに、「エホバが書いてくださった」なんて冒涜的視点で読むから、中学生くらいの国語力でも分かる矛盾にさえ盲目になっています。


話が思い切りそれましたので続きます。

創造説話②

すっかり忘れていましたが、創造説話の続きです。

自分は創造を信じたいですが、旧約の文字通り6日間で起きたのかどうかは知りません。

そんなの知る訳ない。

最近知ったのですが、特殊創造説よりもさらに過激?なオムファロス(へそ)仮説なるものが存在していました。アダムにはへそがあったかという考察に始まり、現存する世界も何千年だろうが、何億年だろうが、その年数が経過した痕跡を含んだ状態で神が創ったとしたらどうなのか?という何でもアリの話で、創造論者からも叩かれています。神が化石バラまいて、地層を古く見せかけて、混乱させることをするのか、という感じで。

でも人間が造るのは新品ですが、神が造るのも新品に見える必然性があるのかどうか。時間の経過も含めて創造し、6日間で造りましたよ?と教えてくれているとしたら、ウソでもないような。

自分がこれを信じている訳ではありませんが、アダムにへそがあったかは別にして、6日間を文字通りと信じる人も理解したいと思っています。科学的には「ありえない」としても、信仰としてはそれなりに整合性があるからです。かといって科学という土俵に上がり込んでそれが誤りだと声高に叫ぶのはどうかと思いますが・・

以前のコメントで6日間創造を信じるスーパーユダヤ人のことを書きました。「聖書と神を信じる人が“ありえない”などと言っていいのかね?」という彼の穏やかな言葉は印象的でした。学識がありながら知識に溺れず、純粋に信じる様はリスペクトせざるをえませんでしたね。

これが信仰ってヤツなのか・・?クリスチャンと称しながら聖書に書いてあることをJW教育で半端にかじった“科学的根拠”で否定しようとした自分を恥じました。

それで一口に「聖書(創造)を信じる」といっても、聖書そのものに対するスタンスと同じように、6日間創造に対する捉え方も多様化しています。


科学とは無関係に神をストレートに信じる人
6日間で造られたと信じ、科学とも整合させようとする人
6日間は文字通り捉えず、種ごとに造られた、は科学的根拠があると言う人(JWはこのへん)
創造説話自体を古代ユダヤ人の宗教観として字句通り捉えず、進化の可能性も否定しない人


JWに限らず科学とケンカしがちなのは真ん中の2つですが、これも自分なりに大ざっぱに分類しただけで、人の信条は簡単にグループ分けできるほど単純ではないようです。さらに言えば、神を前提とした創造とは何か、を定義することさえ簡単ではありません。それを年齢138億年の「この物質宇宙の始まり」だけを指すのか、と言えばそう考えない人もいる。だから創造と科学なんて同じ土俵で論じるものでもない。

ただJWが叩かれるのは信条そのものというより、「唯一正しい宗教」の大看板で他宗教の慣習や信条を全否定する不寛容さ、内部でも異端審問で排除する時代錯誤なやり方が大きいでしょうね。

彼らは科学と聖書を都合よく使い分けることで、進化の可能性も否定しないグループと特殊創造説と呼ぶグループ間にスキマを作り、そこに入り込み両側にケンカを売っています。

続きます。

執行命令

日本での死刑執行時には法務大臣が執行命令に最終責任を持ち、押印するそうです。

新たに法務大臣になる人がよく口にするのは、公人とはいえその命令を個人名で認可しなければならない責任の重みです。その人の思想にもよるでしょうが、どんな極悪人相手でも、人の死に関わる以上、全く何も感じない訳ではないでしょう。

自分らがこれだけ勧誘してやってんのに入信せず、ハルマゲドンで虐殺された数十億人の死骸の山を見ても何も感じるはずがない、むしろ心からの満足を感じるでしょう、なんて言うのはWT本部から来る、この組織でも極右寄りのベテル講演者くらいかもしれません。

死刑制度そのものについては国際的に議論がありますが、認可したことでその大臣個人を非難する人はあまり聞きません。時間と経費はかかるものの、三審制で審理を重ね、審理自体は公開されています。人を裁くとはそれだけの重みがあるのでしょう。

冤罪が生じた時に批判されるのは検察です。可視化されていない取り調べや捜査過程で、精神的に追い詰めての自白の強要や証拠のねつ造が行なわれた場合など、特にそうです。

司法は事実誤認があれば、過去の法廷が下した決定に固執せず、再審を命じます。

WT協会の裁判制度よりは公正が期待できそうです。

彼らの組織における任命削除・排斥復帰は、弁護人も被告側の証人も許されない完全非公開、さらに検察官と裁判官を同じ人間が兼ねる、その承認は遠く離れた施設の人間が書面だけ見て協会さんのハンコを押せばお終いです。この世に倣ってお飾り上訴、なんて形だけです。

臨時のエルサレム会議1点のみで統治体を制度化する根拠にするが、すべての任命削除(削除については前例や指示すら聖書にない)や排斥復帰の承認を書面でしていた記録もない。そのエルサレム会議の議事録は可視化されている。

その類の批判や法的リスクを回避するためか、とりあえず任命削除はJK個人がするようです。裏で神奈川県の方たちとどんなやり取りをするのか知りませんが、そのやりとりをローカル長老にさえ可視化するのをやめただけ、という世の中の流れとは真逆に舵を切っていたら笑えますがね。

海外では地元資産の所有を巡って協会と争った勇敢な長老団もいるとかで、収支を公表しない単立法人のくせにローカル法人で管理していい金額上限を一方的に決めてそれを超える金はぜんぶ送金しろとか、長老レベルではもう組織に信用されてないようですね。不満あらば反抗しかねないヤツらと、石高による格付けや参勤交代で支配した封建社会みたいになってきました。




「みんながどうしているか見てこようではないか」・・パウロは自分が布教し、設立した会衆に自主的に戻った(自分が布教した信者たちが自分の資格証明の手紙であると言っている)だけで、どこのだれかも知らない人間が周期的に指示されて来るのでもない。派遣される側もローカル会衆の人間など知らないから、すり寄ってくる人間のバイアスのかかった噂話を収集し、結論ありきの的外れな指導をしては自分が労して導いたのでもない羊を打ち砕き、自己満足に浸って帰るお役人になる・・

変わる歌詞

「歌の本」が新しくなるとか。今のもそんなに経っていない気がしますが。

理由は新世界訳の改訂と、聖書の理解が深まっているから、とのことで、歌詞を変えるだけでも膨大な作業です!と組織の仕事っぷりをアピールしてますが・・

ただの自業自得じゃないですか。

根本の解釈からしてもう破綻しているのに、都合よくつぎはぎするから歌詞まで変えなくちゃならない、しかも膨大な量って、それだけ聖書やその解釈の無責任な改変を繰り返してきたことを認めてるようなものかと。

さらに紙媒体の実本を待つことなく、JW.ORGにアップされるのを使って練習し、歌詞を暗記しろ、しかも初めて歌う集会では必要なら2回歌えとか・・何をそんなに焦ってるんでしょうか。ネット環境やタブレットがない人をすさまじい速さで置き去りにする、さすが神の組織。

新しい歌詞はざっと見たところ、JW的王国支配を既成事実化、世界的に高まるまっとうな批判に対する結束と布教意欲の維持、“えほば”とその新解釈を連呼させてJWアイデンティティーを強化・・こんな感じでしょうか。

神の恩寵を称えるアメージング・グレイスとかは200年以上経っても変わることなく歌われています。せめて歌詞くらいコロコロ変えなくてもいいように、特定の解釈に依存しない内容にする慎みはないのでしょうか。歌詞まで信者の教化を目的に「時に応じて」変えるものなんですかね。

今の調子でタブレット使用をゴリ押しすれば、紙媒体で全信者分を印刷・発送するコストをかけずにJW.ORGのデータをイジるだけで手軽に変えたり作ったりできるので、新解釈を既成事実化することを目的としたピンポイントな歌詞が増えてくるかもしれません。


レッツ フォローザ ガバニンバディー ジーザス フェイスフル スレーヴ!

レリカーム、レリカーム、インナ オーバーラッピン ジェネレーション~


・・とか、もっとえげつなくダイレクトな歌詞を期待してます。

聖霊の注ぎ③

解釈の違いは別にして聖霊がキリスト前よりあった、という点ではキリスト教もJWも同じです。しかしペテロはキリストが父から約束の聖霊を受けて人に注がれるまでになったと証言します。イエスは助け手また教える者としての聖霊は自分が去らなくては来ない、自分の後に父にお願いして遣わしてもらう、と言いました。

「子がだれであるかは、父のほかに知っているものはいない」とイエス自身が語ったように、聖霊についても、それそのものが何であるかを「ことば」で説明し、「ことば」で理解することにこだわる必要はないと思います。

重力の本質が何であるかは分かっていませんし、分かっている部分でさえ一般人の理解の及ばないものですが、非専門家の人間が日常的な範囲で知る・実感することができ、またそうする必要がある働きはごくシンプルです。

ものを放せば下に落ちる、高い所から落ちればケガする、それくらいでしょうか。

聖霊の働きについての聖書の教えもシンプルです。

それはキリストを焦点とする信仰、希望、愛を人に抱かせる助け主(口語訳、新改訳)であって、父は「子」の名によってそれを求める人にお与えになります。

『今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう』(口語訳)

それら「三つ」は支配的な傾向となって人に宿ります。それは伝統や解釈や組織や規則による支配ではなく、御子のバシレイアへと移されたことを確信させるのでしょう。


『このパンを食べ,この杯を飲むたびに,あなた方は主の死をふれ告げてゆくのであり,それは彼が到来する時にまで及ぶのです』(新世界訳)

自分に聖霊が与えられているかを不安に感じるとか、聖霊が注がれていないグループだと言われて逆にほっとするとか、新世界訳でもこれほどシンプルな言葉を、もうつじつまさえ合わなくなっている解釈で複雑にしているだけのような気がします。

ランクの低い信者ごときでは、その聖書の言葉に従うと、コラのように大逆の罪で死刑になる可能性が高いらしいですよ。

誰に対する反逆なんですかね。

聖霊の注ぎ②

1世紀では、聖霊の注ぎは目に見えたようです。

120人の弟子たちに始まり、コルネリオとその家族、さらに魔術師シモンは使徒たちが手を置くことで聖霊が注がれるのを見たので、その力をお金で欲しがりました。

聖霊の働きは、注がれた時に見える何かの現象にとどまりませんでした。

『あなた方が集まるとき,ある人には詩があり,ある人には教えがあり,ある人には啓示があり,ある人には異言があり,ある人には解釈があります・・そして,だれかが異言を話すのであれば,多くても二人か三人に限り,順番に話しなさい・・あなた方は皆ひとりずつ預言することができ,こうしてすべての人が学び,またすべての人が励まされるのです』

JW出版物では、1世紀の「集会」もJW集会のごとく巻物や書簡を朗読し、司会者がお行儀よく話や討議で扱っているのかのような絵を載せますが、そういうのはユダヤ人の会堂で行なわれていたことに近く、クリスチャンの集まりの方はどうもそんな感じではなく、だれもが聖霊を受けていたので、異言や預言を直に語る人は普通にいたようです。

ヨエルの予言では、エローヒームは自分の霊を若者やしもべやはしために注ぎ、彼らは預言すると言ってます。数人の小太りのおじいちゃんだけではないようです。

異言・預言する人 ⇒ 翻訳・解釈する人、という役割もあったようです。

もちろん、現代でこれをしようとすればペンテコステ派みたいになります。

『ある人には霊によって知恵のことば,ある人には同じ霊にしたがって知識のことば,ある人には同じ霊によって信仰,ある人にはその一つの霊によっていやしの賜物,さらにある人には強力な業の働き,ある人には預言すること,ある人には霊感のことばを識別する力,ある人には種々の異言,そしてある人には異言を解釈する力が与えられています』

これらの聖霊の働きは終わろうとしていました。何が残るでしょうか。

『いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである』(口語訳)

簡単じゃないでしょうか。残るのはこの三つです。

救いの代理者としてのキリストに信仰を持つ人、キリストにより天と地を包含する神の管理を望む人、汝の敵を愛せと教えたキリストに倣って愛を示す人・・・一般的な信念や希望や愛ではなく、その三つがキリストを中心に育まれるとき、それは聖霊(内に宿る)による、ということではないかと思います。奇跡でも超自然でもなんでもありません。

キリスト教(新約)のHoly Spiritが嫌いなJWは、聖霊を旧約のルーアハの概念に近いものとし、風とか、現代では電気のような、物理的な力に例える方を好みます。

『科学者の説明によると,脳において,情報はコード化された電気的あるいは化学的な信号の形をとり,シナプスと呼ばれる数多くの接続部を越えてニューロンからニューロンへ伝わります。「頭脳」という本は,「ある種の記憶は,コード化された信号が独特な跡を残して通過する際に,神経シナプスで作り出される」と述べています。同じ信号が次に通過する時には,神経細胞はそれを識別し,より敏速に反応します。こうして個々の人のうちに新たな思考パターンが作り出されます』

・・元の引用は記憶のメカニズムについて言及しているようですが、WTによれば「新しい人格」も物理的な学習作業(WT教材のみ)によるもので、同じ情報を反復して取り入れる(シナプスを通過する)と、ニューロンが特定の電気的信号により速く反応するとか、そんな愉快な説明です。

それって洗脳のことでは・・

続きます。

聖霊の注ぎ

JW解釈の中でよく分からないものに「油注がれたクリスチャン」解釈があります。

聖霊でアブラ注がれるってどういうこと?どうやったら分かるのか?

聖書の教えはいたってシンプルで、イエスは、父が子の求めに応じるように天の父は求める者に聖霊をお与えになると教えました。

しかし、JWは聖霊の与えられ方には2種類ある、と言います。

JW信者が「油注がれたクリスチャン」への聖霊の注ぎを本人以外にはよく分からないもの、と考えているのは、魂の本質や三位一体などの問題でキリスト教の信条を否定する時には、非信仰者と同じ既存宗教に対する不信感や物理的感覚に訴える一方で、この聖霊の注ぎについては、秘跡の類ではないと言いつつ、それが神慮による特殊な選びであるかのような印象を与えることで、少数から成る特権階級を作ることを目的としているからです。

だから一般信者には「よく分からないもの」にしておきたいのでしょう。

1935年にアブラ注がれていない大群衆、ができました。

その解釈に対する当時の一般信者の反応はほっとしたというものでした。自分が「聖霊を注がれている」かよく分からない、パンを食べるのは不安だ、という信者が増えていたからです。

なぜ不安になるんでしょうか。そうさせる記事がWTに載るからです。

『そのような召しを実際には受けていなかったことを知りながら,天的な王また祭司となる召しを受けた者のように振る舞う人を,神は好意をもってご覧になることはないはずです。エホバは,レビ人であるコラを死罪に処されました。コラがせん越にもアロンの家系の祭司職に就こうとしたからです。・・中には,善人はみな天に行くという偽りの宗教の観念にとらわれて,自分は天への召しを受けていると考える人もいるかもしれません。・・「わたしは感情に影響する医薬品を使用していないだろうか。感情に支配されて誤った判断をする傾向はないだろうか」』

↑は近年の例ですが、食べようとする人を死罪にされたコラに例えるとか、背教かクスリのせいじゃねぇかと脅すとか、でも統治体世代交代のために聖霊の注ぎはやっぱ終わってなかったとか、WTにどんな記事が出るかで、パンを食べる人の数はどうにでも変わっている事実があります。

何かの不安や疑問をあえて持たせるような記事を書いて、次いでそれを表面的に解消する解釈を打ち出すことで、「神からの光だ答えだ」と思わせるのは常套手段です。

彼らは「不安」と「疑問」を持たせることで支配します。

将来に不安を感じることはありませんか~?
どうして~なのだろうと疑問に感じたことはありませんか~?

誰よりも不安や疑問に支配されているのは彼ら自身であり、同じように不安を抱かせ、JW組織とJW解釈なしでは何の疑問も解消できず、安心もできなくなる人間を増やそうとしています。

聖書を読むと、聖霊の働きとはごくシンプルなことに思えます。続きます。

道義的責任

児童へのわいせつ行為に対するJW組織の対応の違い。

・一般の場合(日本で数ヶ月前に実際にあった報道の例)

教職員が女生徒にわいせつな行為 ⇒ 本人と保護者が警察に相談 ⇒ 警察の捜査 ⇒ 証拠十分なら起訴・実名報道(当然加害者のみ) ⇒ 学校が直ちに公式に謝罪・・悪いのはその個人、その悪人がこの素晴らしい学校法人に入り込んでしまっただけで、他の教職員は誠実に児童を指導している、学校に責任はない、とか言わない

これが世間一般の流れなのですが、JW組織ではこうなりません。

・JWの場合

長老・僕が会衆の子にわいせつな行為 ⇒ 本人と保護者が長老に相談 ⇒ 内部ルール(2人の証人か自白の有無)による組織の調査 ⇒ JW的証拠十分・不十分に関係なく公表も謝罪もしない

極刑の排斥でもその理由は世間にも会衆にも発表されず、社会的には守ってあげています。復帰や役職への再登用も組織のさじ加減一つです。

被害者が望めば警察に相談も可能ですが、その選択肢があることを説明する・サポートをすることは一切せず、仮に聞かれても自己責任と突き放されます。そんな対応をされて警察に行くとか、民事で訴えるとか、一般的にも被害を訴えにくいことにつけ込む犯罪なのに、さらにこの特殊な組織で教化された人はまずしません。世間に明らかになるケースは氷山の一角かもしれません。

前にも書きましたが、刑法に違反する行為でもそれを知り得た第三者に通報する義務はありません。まして強制わいせつは親告罪です。さらに宗教上の職にある人は、教団の内部調査や宗教上の告白の有無について、警察相手だろうと守秘義務を盾に捜査協力を拒む権利が(たぶん)あります。学校とは違います。宗教つよい。

でもその傲慢で非協力的な態度を理由に、民事では道義的責任を問題視され手痛いしっぺ返しをくらっているようです。

神の組織が聞いてあきれる。「この世」の公正の方がまだ捨てたもんじゃないですね。

これは何度でも言いますが、大人同士の姦淫は宗教上の罪(暴行等の特殊な場合を除き刑事罰の対象外)ですが、保護者以外による児童へのわいせつ行為は犯罪です。

聖書的には大人同士の姦淫と同じ「淫行」だから、長老だけに告白してJWルール通りに裁いてもらい、すっげぇ悔い改めればだれにもバレずに許される、と勘違いする人間を生み出しかねないシステムです。法の素人による小1時間の非公開審問では、結論ありきの宗教冤罪も容易にでっち上げてしまう一方、逆に罪を犯した方が受け答えのポイントを押さえて欺くことも割と簡単です。


宗教的にはそういうお粗末な内部システムでも好きにやってもらっていい訳だが、児童に対する卑劣な犯罪行為まで野放しにされたらたまったもんじゃないですね。その義務はなくとも、被害者には警察に相談する(被害者のプライバシーは保護される)こともできると勧めた上で、本人がそれを望むなら支えになってあげるのが宗教者の道だと思いますけどね。至高の神の権威を騙って司法のまねごとをしても弊害を生むばかりです。

クリスチャンが「キリストを信じる」より他に、何かの組織やら教団やらの「名」をいたずらに背負ってはならんのだと、この組織が生み出す実を見てしみじみ思います。その組織の評判=神の御名になり、不祥事を極秘に処理することがランクの高い特権や神聖な奉仕と勘違いする枠組みという実を。 
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