年次総会

年次総会があったらしいので、JWTVとやらで聞いてみました。長いのでとても全部は見る気になれませんでしたが、スプレーン氏の予型と体型の話です。

つまりは、聖書に明確に書いてない限り、今までのように特定の数字や記述に暗示的、予型的な意味を付すことはしない、ということのようです。

10が地的完全数だの7は天的な完全数だの、そういうやつです。

話にはなかったですが、例えばヨナが三日三晩、魚の腹にいたのはイエスの死と復活を暗示、また予示していました。聖書にはっきり書いてあるからです。

そんな感じで、解釈の余地なく聖書にダイレクトに書いてあること以外に、暗示的な意味を求めたり、付したりしない、ということです。

イエスのたとえ話も、脇役でしかない登場人物や小道具など、細かな表現がいちいち誰か・何かを予示しているとか複雑な説明はやめ、シンプルな教訓に焦点をあてる、と言っていました。

なんかまともなこと言ってますね。

んなこと言い出したら1914年とか、奴隷が誰とか、どうなるんでしょうか。

ダニエル4章の「大きな木」・・

それが予示していたと聖書が明確に書いているのは、ネブカドネザルと彼が経験する7年の狂気だけです。当時の世の支配者だった彼がこの予言通りのことを味わったのなら、上位の支配者である神が王を廃し、王を立てる権威を持つ存在である、という教訓は十分に示されたことでしょう。

「忠実で思慮深い奴隷」・・

その前後の同様のたとえ話が示すように、主人の不在中も勤勉に努めを果たす奴隷は主人の帰りに際し、その働きを認められ、さらに仕事を委ねられる、という当時の一般的な習慣に例えたシンプルな教訓でしかないように思います。再臨についての文脈で語られていはいても、特定の人物・集団を暗示していることを示す記述はありません。

でも、どちらも組織維持のために欠かせない解釈として前面に押し出されています。

結局は聖書と言いつつ、自分たちの解釈次第なんでしょうね。

トカゲのしっぽ切りのごとく、無くしても支障はないが、無駄に調整されるリスクがある説明をごっそりこそぎおとしていくようですね。
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独自の取り決め

久しぶりに、も塔研究記事について書きます。昨日使われたやつです。

『コラとダタンとアビラムはモーセとアロンの権威に逆らい、誇りのゆえに、エホバを崇拝するための独自の取り決めを設けました。エホバは・・反逆者すべてを処刑されました』

言うことが外れる度に預言者ではないと言い訳するが、自分たちは現代のモーセとアロンであり、自分たちの権威に逆らう者は神に処刑されるであろうと脅す時に使う、お決まりの旧約の事例。

それにしても、独自の取り決めを作ってるのは誰?と思ってしまいます。

1世紀に倣うと言うが、年3回の大会、開拓者制度、格差と競争を生む学校、制度化された排斥システム・・

旧約で要求されていた犠牲や習慣はキリストの贖いによって廃され、クリスチャンにとってモーセに代わる権威とはキリストの権威しかないはずですが、その権威を全面的に代表すると称して独自の取り決めを作っているのはだれなんでしょうか。

クリスチャンが集まるための何かの決めごとはあってもいいと思いますが、自分たちが決めたこと以外に何かをする人は神への反逆である、と言い切ってしまうことの方に怖さを感じます。

その少し前にも面白い文があります。

『自分には何でもしたいことをする権利があり、仲間の兄弟姉妹も長老たちも、神の組織でさえも、自分に指図することなどできない、と思うかもしれません。そのような人にとって、エホバの声はかすかにしか聞こえません』

・・逆に聞きたいですが、神の組織と称するだけで、仲間であるはずのクリスチャンに何かを指図できる権威が誰にあるんでしょうか。

使徒と呼ばれたパウロでさえ、信仰を支配する(信仰の主人:新世界訳)権利は自分にないことを認め、時には率直に聞こえる戒めの言葉も、個々の信仰や良識に訴えていたように思います。

自分たちには何でもしたいようにする権利があり、何でも好きなように解釈して指図する権利があり、仲間の信者や長老ごときから指図どころか意見される筋合いもない、と考えている人たちは誰なんでしょうかねぇ。

彼らに神の声はかすかにでも聞こえるのでしょうか。

創造説話

聖書の創世記がバビロニアの創造説話から借用している、という見方をJWは当然のように否定します。その理由として挙げるのは神観の違い・・ぶっちゃけ多神教か一神教かの違いです。

『バビロンの詩は神話的かつ多神教的である。神に関する概念は決して高尚なものではない。神々は愛憎をあらわにし,企てや陰謀にかかわり,戦い,破壊する。マルドゥクは戦士であり,力を振り絞る熾烈な闘いの末にはじめて征服する。一方,創世記は最も高尚な一神教を反映している』(WT洞察)

愛憎をあらわにし、戦い、破壊し、征服するって、旧約も結構いい勝負だと思うのですが、だからどんな類似があるのか分析することなど必要ない、と具体的な点を指摘することを避けています。

どっちがどっちを借用したとかはどうでもいいです。

ただ都合のいいJW論理を少し批評したいと思います。

一例は、世界中に存在する洪水説話を、聖書の大洪水があったのことの証拠だ!としている点です。それらの洪水説話もはっきり言って似て非なるものです。でも「水によって滅びた」とか「少数の生存者がいる」などのおおざっぱな類似点を挙げて、その根拠としています。

アメリカ先住民の中でもかなり古い(当人は3番目と言っていた)部族の人に聞いたことがあります。彼らの言い伝えによれば、現在の地上の文明社会は何回目かの世界で、直近の文明は「水」によって滅びた(その次=今の文明は「火」で滅びる?)、でも少数の人が地下空洞を作ったか見つけたかで、そこに逃れて生き残り、現在の文明を築いたようです。

コロンブスが来るとっくの前からいる先住民の言い伝えですから、聖書からヒントを得たとか、借用してアレンジしたとか、という議論はできないということには同意できます。

共通点に注目して、詳細はかなり違っても大筋でそれに似たようなことがあったんだね、と認め合う大らかな姿勢はいいと思うのですが、創造説話になると相違点ばかりをクローズアップして類似している要素など分析も評価もするに値しねぇ、というのですね。

だから創造説話も、この世界がクリエイトされたものという思想?願望?信仰?・・言葉は何でもいいですが、とにかくそのアイデア(悪い意味ではなく、人の精神性に基づく発想的な意味で)は人類古来のものとして共通している、という信仰の事実として受け止めることはできると思います。

もちろん創造にしても洪水にしても細部に至るまで聖書の創世記が一字一句正しい!という人もいるでしょうが、それはそれでいいと思います。

どっちにしたって証明も反証もできる訳がないので、自分としては神を信じるのに創世記の詳細を科学的に分析する・信ぴょう性や合理性を議論する、ことには関心ないです。

以上を前提にした上で、創世記の6日間創造について書いてみます。

TVJW・・

もう神の御名(と彼らは思っている)にTVまでつけちゃいましたよ。

かつて「テレビ伝道」を温かみや人間味に欠けるとか、美辞麗句を並べて寄付集めするとか、悪徳の象徴であるかのように非難していた訳ですが。

紙媒体を徹底的に削減し、メディア布教に投資する流れが止まりませんね。

資金不足というイメージを払拭するためでしょうか。

『自分の資力をみせびらかすこと』は神ではなく、世から出ているらしいですよ。

もともと、JWが互いから裁かれることなく贅沢できるモノは、電子機器です。

「王国のため」なら、高価なノートPCやタブレットを購入するのは「認識が高い」のです。

スタジオ製作から収録開始まで2~3カ月?でやったことを、エホバがわたしたちに何かを行なわせたいと思えばそれを阻むものはないのです、とよく分からないことを仰っていましたが・・

自分たちがやりたかったんでしょうね。

それでも忠実な信者たちは、かつても塔が非難した『美辞麗句を並べた説教や調子のいいテレビ伝道によって引き起こされる感情』を自らが味わっているのでしょう・・

作られた信条

JW信者は、本当は聖書に頼ってはいない、というか自由に聖書を使えない。

集会や“個人研究”で使う教材では、聖句はすべて指定されている。

自由に聖句を選べるのは、巡回さんが長老を指導するとか、長老が信者を“牧羊”するとか、そういう上下の差がある時に限り、もちろん教義に関してはJW解釈の範囲内ではあるが、それ以外のやり方、態度、習慣について、上側の人は聖書のどの字句も好きなように適用して指導できる。

一方で、下の人間が同じように聖書を使って「自分はこう思います」と言うと反逆になる。

自分が知る限り、対等な立場の人間同士が聖書だけでフラットに話し合う機会はほとんどなく、逆にそういう状況では自発的に聖書を開きにくい空気が流れるようです。

聖書自体、いろんな人がいろんなスタンスや考えで発言しているので、まず自分の意見ありきで、その理由付けに使えそうな断片的な字句は割と簡単に見つかります。このブログもそうです。

一方この組織では、普通に多数決で決めている統治体(解釈の変更自体が可能)だけには、自分たちの意見に同意しない人を「反キリスト」と断じる権威があります。対等な立場でそれぞれが自由に聖書を適用して意見を言えば、彼らの望む一致・・多様性を包含できない非聖書的で権威主義的な一致、が脅かされることは誰もが知っている。だから聖書よりも、もっと具体的な指示や規則が書いてある組織の指示書が重んじられることになる。

聖書、特に新約は統一された手順や規則集を作ってその権威付けをする道具に使えるような単純な本ではないし、それを目的ともしていないと思います。

序列が上の人間に指導されるときには聖書が開かれる。それに対して聖書だけを使って「自分はこう思う」と言えば危険人物扱いされる・・だから上から言われるだけのごく限られた聖句と、そのいっぺん通りの解釈を覚える(考えてはいけない)だけで聖書を分かったつもりなってしまう。知識の多さや正確さを誇ることが信仰の本質ではないとはいえ、その知ってるつもり度と、実際の知らなさ加減のギャップの大きさはこの団体の特徴かもしれません。

聖書を平信徒に触れさせまいと“危険人物”を弾圧した遠い過去の中世の教会を非難しながら、同じことをもっと狡猾にやっているだけで、聖書に頼っているつもりにさせながら、新世界訳以外の聖書や、自分たちの解釈以外の聖書的考えに触れさせまい、と仕向けるやり方には長けています。

その結果、非聖書的な権威とその権威による一致の維持を口実に、聖書ではなく、ラッセルが否定したはずの『宗教会議で作り出された信条に従うことを条件とする会員の地位』に絶対の信頼に置いている、ということに信者自身が気づかないままでいます。

対等な立場で意見し合うことがなく、上から指示されるか、下に指示するしかない、そんなことを何十年も続ければ上意下達の人間しか残らないのも当然で、そこに身を置くことで安心する人のための需要はあり続けるでしょう。

個の信仰と愛は組織の規則よりも勝るべきと語ったダンラップ氏に対して、「僕はだれかにあれこれ言ってほしいけど」と言い放ってその排斥処分に加担した、会長ノアに命じられるがまま毎日鉛筆を削って組織と上司に忠実に奉公したウォーレン氏の経験談を読むと、そんな印象を受けます。

ライスクリスチャン

『キリスト教世界の成員は何世紀にもわたって神の言葉を翻訳し,書き写し,頒布する点で主要な役割を演じました。後に諸教会は,聖書を遠隔地の言語に翻訳する聖書協会を設立したり援助したりしました。さらに諸教会は医療を行なう宣教師や教師たちを送り出し,彼らはライス・クリスチャン(食物などをもらえるという理由で信者になった人々)を生み出しました。こうして非常に多くのふさわしくない魚が集められましたが,それらの魚は神の是認を受けませんでした。しかし少なくとも,数多くの非キリスト教徒が聖書に,また腐敗したものであるとはいえ一種のキリスト教に接することができました』(1997年も塔)

腐敗したものとはいえ一種のキリスト教・・今や誰のこと言ってんだ、という感じですが、それはさておき、100年どころか何世紀にもわたって神の言葉を翻訳・頒布する点で主要な役割を演じ、医療を行なう宣教師や教師を派遣してきた・・何がいけないんでしょうか。新興宗教と呼ばれる人たちが「世界のベストセラーですよ~♪」なんて謳い文句で、どさくさに紛れて自分たちの解釈に合うように改変したものを“聖書”だと言って回り、その配布数を自慢できるのはだれのおかげですかね。

さらにそのキリスト教がライス・クリスチャンという「ふさわしくない魚」を生み出してきた、しかも神の是認を受けていないと非難する訳ですが、今やライス・クリスチャンが過去のものになりつつある一方で、最近のJWはフレンド・クリスチャン、サークル・クリスチャンとも言えるかもしれません。

やっかいな長老や信者とは適度な車間距離を保って交通事故には気をつけ、程々の相手を選んで付き合えば、そこまで酷いコミュニティーでもない。組織にいる限りは困った時に助けてもらえることもある。今や希少種どころか絶滅危惧種に近い集会に来る研究生へのラブシャワーの温度も上昇していて、必要な物がないか聞き出して会衆で差し入れまくるなんて話も聞きます。それが悪いとは言いませんがライス・クリスチャンとどう違うのか。

下手にこの組織で「正しいこと」を追い求め、傷ついた仲間のために「何かをしよう」とするととんでもない目に遭います。だから、そんなこと知らんぷりしてればいいのです。

「エホバを待て」という魔法のコトバで、良心もスッキリです。

少数の犠牲はやむを得ないのです。ただの交通事故です。

たまに事故に見せかけた排除もあるようですが、ややこしいことはよく分かりません。

とにかく道の反対側を通り過ぎ、忘れましょう。自分には関係のないことです。

組織の裏側や真実を知ろうなんて血迷っては絶対にいけません。

寄付の強制決議?解釈の都合のいい変更?矛盾?裁判のニュース?

そんな話、どうでもいいんでしょうね。

かさむ寄付

近頃の現役さんのお金の悩み

消費税が8%になり、物価や生活費が予想以上に高くなっている

夫が退職し、年金収入だけになった

毎月の寄付額がかさんできた


都市部の平均的な会衆だと、毎月の会館維持等の必要経費は15万円前後あたりが多いと聞きます。信者数の平均も70~75名くらいとすると、1人あたり約2000円になります。さらに、ローカル信者の懐具合などお構いなしに要求される決議に次ぐ決議・・

・大会ホール維持費・・1人年間1000円

・巡回監督の車代・・同350円

・王国会館保険代・・同250円

・宣教者の旅費代・・忘れた

さらに最近のアンケート ⇒ 決議による世界的建設費・・これは会衆により差があるようですが、安めに見積もって月3万円としても、75人の一人あたまは月400円也。

もう決議がありすぎて、何が何の決議で毎月いくらすればいいのかもうよく分からない、という信者が続出しているようですが、決議された以上、会衆基金の口座からはものみの塔協会が容赦なく引き落としていくので、会衆基金の残高はなんか前よりも減りが早い・・

反対などできない空気とはいえ決議で手を挙げた(挙げさせた)以上、寄付しなきゃ的な罪悪感が働く。ローカル会衆基金の残高は1円まできっちり公表させています。

以上をおおざっぱに計算してあげると、毎月マストの寄付で1人2500~3000円ですよ。

それにプラスして、本当に自発的な寄付として「世界的な業」に寄付するよう“励まし”があります。マストの寄付だけでも夫婦2人で月5000~6000円程で、年金生活者の方にはけっこうな額です。まだ夫が非信者で会社勤めを頑張ってくれていれば年金もそれなりに貰える一方、夫分は寄付の1人あたまには入りません。夫に本気でエホバの証人になってほしいとは思わず、自分は自分のサークル宗教を楽しみ、それに反対しなければいい、という主婦層が増えているのも分かります。

子供のいない開拓者夫婦とか、どうすんでしょうか。

えほばが養ってくれるから、何の心配もいらない・・はずですが、本音としては最近どんどん増えていく年貢のような寄付の決議や、その送金がかさんで減り続ける会衆基金への寄付の要請から、この組織や家族の将来に一抹の不安を感じる人は少なくないようです。

彼らに伝道してあげる人が必要かもしれませんね。

神の国(おまけ)

『彼らはそれを整えて,朝から真昼までバアルの名を呼び続けて言った,「ああ,バアルよ,答えてください!」 しかし,何の声もなく,答える者もなかった。そして,彼らは自分たちの造った祭壇の周りをよたよた回り続けた。そして,真昼になると,エリヤは彼らをあざけって言いだしたのである,「声を限りに呼べ。彼は神なのだから。彼はきっとある事柄に関係しているのだ。それに,排せつ物があるので,屋外便所に行かなければならないのだ。あるいは,もしかすると,彼は眠っているので,目を覚ますべきなのかもしれない!」それで彼らは声を限りに呼ばわったり,彼らの習わしにしたがって短剣や小槍で身を傷つけたりして,ついにその身に血を流れ出させるようになった。そして,真昼が過ぎ,穀物の捧げ物をささげるころまで預言者のように振る舞い続けたものの,何の声もなく,答える者もなく,注意が払われることもなかった』

・・他翻訳に比べ、バアル崇拝者を嘲る言い回しがいい感じに強烈なのは新世界訳なので使ってみました。新世界訳らしいといえばらしいです。

気まぐれで官僚的、先見の明がなく場当たり的な神=えほばとは、この組織限定の神、この組織が作った神にすぎないものだったんだなー、としみじみ思います。

王国が来ますように、という祈り自体は聖書にあるものの、1914年から、重なる2つの世代の内に、などの解釈は、聖書に基づいていると言いながら聖書の所々の字句に勝手に意味付けしただけで、どうにでも変えられるもので、実際に何度も変えてきました。

最後の使徒は「主イエスよ、来てください!」と呼び求めたが、預言者ではないと言いつつ預言者のように振る舞い、独自の解釈と発声を使って「来てください!答えてください!」と、自分たちだけを救って自分たちの正しさを証明してくれる“王国”を呼び求め、生活や心身を削り、独自の習わし(ルールや決まり)で互いの内でも傷つけ傷つけられても耐えることが尊い犠牲と、今や布教では牛歩しながら「よたよた回り続ける」彼らを見るとエリヤの言葉を思い出してしまいます。

1975年にも、1914年の世代の内に来なかったのも、眠ってたか、旅行中だったんでしょうか。

ここまで言っておいてなんですが、自分も預言者ではないので、エリヤのように彼らを嘲る資格はありません。聖書は嘲る者が嘲りと共にやって来る、とも警告しています。

聖書を使って罵り合うのは本意ではありませんが、神は偽りません。
偽りを使って導く、試すこともしません。

偽予言を宣伝させ、それをただの人の過ちであると認めて謝罪する、という当たり前のことができないばかりか、次の解釈を捻り出しては神からの新たな光と称し、今度こそは真理であると繰り返し宣伝させて嘘を塗り重ねるのは、自らを神懸った存在に仕立て上げているからでしょう。



映画ウォーターワールドで巨大な廃船をアジトとする組織でそれを漕ぐ手下たちに必要なのは「希望」だった。ドライランドはまだなのか、と不満を募らせる手下たちに、自分には神のお告げがある、この方向に漕げばドライランド=楽園に行ける!と大仰に演説するリーダーに側近が一言。

「そんな言い切っちゃって、外れたらどうすんですか?」

「次のを考えるさ」

神の国⑤

JWは現実世界を平和にすることに全く関心ありません。さたんの世だから布教以外に何やっても無駄、ハルマゲが来ない限り何をどうやっても平和にならない、となります。

しかし聖書によれば、神はヨナによりリミット40日でニネベの滅亡を予告しましたが、ニネベの全住民が改心したので予言者による直の宣告をなんと撤回しました。

仮に世界が平和になったら、ハルマゲドンは来ないんでしょうか。

平和になるはずがない、神は絶対にハルマゲを起こす!と彼らは言うでしょう。

「巨大災害・・その時」とか「老後破産・・その現実」とか目ざめよのタイトルのごとく悲観と不安を煽る専門家を集めたNHKの番組なんかもう大好きです。

⇒ ハルマゲが来て自分たち以外の数十億人をさっさと虐殺してくれることを願うのか、
(だから世の中はもっと悪くなると思うし、悪くなってほしい、悪くなると思ってほしい)

⇒ 平和への道のりは遠く、実現する見込みがすぐにないように思えても、それを願うのか、

どちらが宗教者のあるべき願いなのでしょうか。

神がソドムとゴモラを潰すと明言した時でさえ、アブラハムは「早くやっちゃってくださいよ、いつまでにやるんですか?」ではなく、その中にわずかな義人が見出されるなら、その場所全体を滅ぼさないでほしいと執り成すかのように懇願しました。

改心したニネベ人の物言いも面白いんです。

『あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう』

聖書にそれっぽい予言や字句があるとはいえ、それを警告としていつか人類が自らの義や報復を求めることをやめ、悔い改めに至ることを望んではいない、とだれが知っているのか。

そう決めつけることもできませんが、そう願うことが信仰に背を向けているとも思いません。

奴隷制を廃止するために尽力した人たちの働きは無駄な努力だったのか。フロン廃止の国際的な取り組みで、オゾン層の破壊抑止に効果が出始めている、という報道は偽りの希望なのか。

あと何百年かすれば、今の時代も原始的で物騒な時代だったと振り返られる時が来るのかもしれません。神なる存在がいてそれを信じるなら、もう何百年、何千年、神にとっては「数日」にすぎない期間、さらなる悔い改めと進歩を待つとしても、長すぎる!と言えるんでしょうか。

まして、いち新興教団の解釈通りに全能の神は行動してくれるはず、自分が生きている間にハルマゲが来て何でもかんでも解決してくれる、だから救われるためにとにかく宗教生活を第一にせよなど、世の中に何の貢献もしない人間を増やすだけになってしまう。

世界平和を願う、と言っても、その思想は真逆です。

⇒ 自分たち以外の全員が他力で排除される、その後は反抗者を即刻処刑する平和

⇒ 信条や信仰に違いはあっても、自分たちで互いを理解し、尊重し合う平和

神の御国が来ますように・・

各種の千年王国説があり、JWはカテゴリーとしては前千年王国です。

その祈りがどのように完成を見るのか、キリスト者でも見方は様々のようです。

でも自分たちの勧誘を断りやがる人間を虐殺するハルマゲの到来を祈ることではない、

ということは確かなのかもしれません。

JWを含め、ハルマゲドンを熱望する人たちが極端な思想や行動に走り、現実世界の平和、人と人との平和、家族の平和を意図的に妨げているような気もします。そういう要素は確かになくなってほしいと個人的には願います。

改宗させることによってのみ成り立つ平和、敵は滅びる・滅ぼせによって実現する平和など、その狭い枠組みの中の話でしかなく、汝の敵を愛せというイエスの教えでもないと思います。

ハルマゲドンが来なくてもいい世の中になるように・・それが神の御国の完成なのかは知りませんが、実はそう祈ることが聖書のメッセージなのでは、とふと思うこの頃です。

神の国④

前回の続きですが、例えばイエス誕生についてマタイ伝の言及。新世界訳より。

『このすべては,預言者を通してエホバによって語られたことが成就するために実際に起きたのである。こう言われていた。「見よ,処女が妊娠して男の子を産み,彼らはその名をインマヌエルと呼ぶであろう」。これは,訳せば,「わたしたちと共に神はおられる」という意味である』

このイザヤにあるインマヌエルの誕生予告をイエスに適用しているのはマタイだけです。もとのイザヤ予言を読んでもイエスのリアル生涯との関連はさっぱり分かりません。

WTもこのインマヌエルは普通に(処女からではなく)イザヤに生まれた子の1人である可能性も認めつつ、イエスの誕生をも示唆していたとするキリスト教一般の見方も(マタイ福音がそう適用したので当然ですが)支持しています。あれ?名前違うよ?との指摘には、インマヌエルは称号とする解釈です。

ちなみに、イザヤで「乙女」と訳されるヘブライ語は若い娘(処女も一応含まれる)を意味する語ですが、マタイ伝では処女限定のパルテノス(ギリシャ語)になっています。

「イエスは神の子」との前提に立つクリスチャンが使用するようになった旧約70人訳とは一線を画し、ユダヤ教の立場からギリシャ語に訳された旧約アキュラ訳では、この「乙女」という語にパルテノスではなく、原語に近い「若い娘」を表すギリシャ語が使われています。JWはそんなアキュラ訳にYHWHがあることをエホバ表記(→しかも原語表記ではなく翻字までしている)の根拠にしている訳ですが・・

マタイ伝写本がイザヤ引用でパルテノスと“訳した”ことは改ざんじゃない、というキリスト教と一致する解釈を支持するためには70人訳でもパルテノスが使われていることを根拠にする一方で、同じ文脈で新約写本に全く存在しないエホバをしれっと挿入しながら、同じ70人訳がYHWHをキュリオスと“訳した”のは絶対に改ざんですよ?と譲らない。都合よすぎねぇかおい。

インマヌエルの話に戻すと、イザヤを読めばシリアと北のイスラエルという「二人の王」の軍事的脅威からの救いを保証する、もしくはその救いの予言的なしるしとなる子供の誕生です。これはマタイ伝での一例ですが、これがイエスに適用されていれば、当時のユダヤ人やイエスの弟子たちさえ軍事・政治的救済を実現するメシアを待望したのも理解できます。

それで王国(神の国)の話に戻りますが、ユダヤ人の救いに関する旧約の予言がすべて神のイスラエル人=聖霊を受けたクリスチャンにおいて全うされる(パウロ)、もうユダヤ人とは全く関係ない、とするなら、イエスがわたしの王はこの世に属さないと語ったように、旧約での王国についての言及やその成就の仕方も象徴的に捉えた方がしっくりくるような気がします。パウロも自分たちはすでにその王国に移されたと言っているのですから。

王国を安易に「政府」に置き換え、現実世界における政治的変動を起こしてくれるのを今ですかまだですか、と煽ってやまない方々は、キリスト教視点からの旧約理解において未熟だった当時の弟子たちに逆戻りしたかのようです。それが“初期クリスチャン”への回帰と言えばそれまでですが。

仮にそれが誤った期待としても彼ら同様に大目に見てもらえるかもしれませんが、神の唯一の経路と称して何度もタイムリミットまで設定しては「つまずきが来る経路」となり、その間違いを指摘する仲間たちを一方的に排除してきましたからね。ちょっと心配です。
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