神の国③

旧約と新約の整合性をつけようとする時に生じる別の問題は、ユダヤ人に対する評価です。

旧約と言えば選民としてのユダヤ人の歴史、周辺諸国との軋轢、背反、回復がテーマです。

そしてなんだかんだいってもユダヤ人てやっぱりスゲーんだ、神はあなたたちと共におられるのですね、あなたたちと戦争するのはムダなんですねと武器を一斉に処分、ついていきますと懇願するかのようにユダヤ人の裾をつかみ、人類がそのユダヤ人を仲介として祝福されるという結末・・

冷静に読むと、旧約ってすごい話です。

パウロはこのユダヤ選民思想を一応は否定します。その選びは今やクリスチャンどころか、自分たちだけに受け継がれている、そして自分たちの中でも少数の上級信者だけが“真のイスラエル”であると激しく思い込んでいるのが、JW統治体です。どんなに奇妙な解釈や異例な指示を出そうと、彼らの裾をつかんででもついて来ない者に救いはありません。イエスの贖いへの信仰など、自分たちへの信仰に比べればかなりウェイト低いです。

キリスト教側から現在のユダヤ人をどう評価するかにも、諸説あるようです。

① 旧約のイスラエル(エルサレム)の回復に関する予言は、クリスチャンに対する成就とは別に、平行して進展しながら、これから成就する可能性もある。

② 旧約の予言はクリスチャンに対する成就のみ。ユダヤ人とはもう何の関係もない

JWが②の立場を取るのはいいとして、その立場を取りながら、旧約の王国が諸国をすべて殲滅するとかなんとかの部分を抜き出して、ハルマゲを起こす政府だの政治情勢だのに適用するのは一貫性がないように思います。

自分たちで世の中をその方向に持って行こう、武器を作ったり売ったり、欧米人の工作員や傭兵も送り込んで中東戦争や対イスラム戦争をもっと煽ろうぜ、とか(今のところ)考えていないだけで(巨額の資金を集めてどこに投資して何に利用されているのか知らないが)、キリスト教原理主義の記事でも書いたようにその根本的な思想においては①と似ています。シオニズムは表向き否定するが、紛争や政情悪化は「終末のしるし」として宣伝する格好のネタになるので、JW的にも結構な話でしょう。

新約筆者でも旧約の予言のどこを、どこまでイエスに適用するかには多様性が見られます。

そのことはさらに次回。
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神の国②

四番目の王国ですが,それは鉄のように強いものとなります。鉄は他のすべての物を打ち砕いたりひき砕いたりしますから,物を粉砕する鉄のように,これもそれらのすべてを打ち砕いて粉砕します。また,足とその指とが一部は陶器師の成形した粘土,一部は鉄でできているのをご覧になりましたが,その王国は分かたれたものとなります。ですが,鉄の硬さもその中に幾分かあることでしょう。鉄が湿った粘土と混ざり合っているのをあなたはご覧になったのです。 そして,足の指が一部は鉄,一部は成形した粘土でできていることについて言えば,その王国は一部は強く,一部はもろいものとなるでしょう・・そして,それらの王たちの日に,天の神は決して滅びることのないひとつの王国を立てられます。そして,その王国はほかのどんな民にも渡されることはありません。それはこれらのすべての王国を打ち砕いて終わらせ,それ自体は定めのない時に至るまで続きます』(新世界訳:ダニエル2章)

分からないことだらけの旧約の予言は何を言ったところで解釈や憶測の域を出ない訳ですが、一応、この部分の解釈に付き合ってみるとします。

問題になるのが鉄と粘土が混ざり合った足の部分ですが、ローマが東西に分裂し、さらに長い歴史を経て変遷と衰退を続けたローマ後の、民主主義が台頭した世界を表している、という解釈が多いようです。

ただ気になるのは、それ以前の国と同じように一つの国として語られている、ということと、金はバビロン、銀はそれに次いで興る国、三番目、四番目、とあるのに、足の部分だけは序数などの順序を示唆する表現を伴わず「その国」とだけあるので、そこもローマの続きでその特殊性を表している、とも取れるような気がします。ただの一つの可能性ですが。

ダニエル7章でも語られているのは四番目の獣までで、そこから十人の王が立つとも書かれていますが、世界を支配する単一の国家のことは出てきません。

この予言をこれから起きるハルマゲドンに絡めて、この部分を現存する1つの国、またはこれから姿を表す何かの国だと考える見方が多いのは、ヨハネ啓示の影響も大きいと思います。でもあえて、このダニエルの予言をヨハネ啓示とごっちゃにせずに、すでに成就したものと解釈できる可能性について考えてもいいのではないかと。

ローマの歴史は、共和制、帝政、元首制などの種々の要素が混ざり合ったもので、皇帝とはいえ元老院やローマ市民の意向も無視できず、暗殺された人も多い。単純な世襲制ではなかったローマ皇帝の地位の複雑さは自分も語れるほど詳しくはありませんが、強さともろさが共存する、という点でそれ以前の帝国とは異なっているように思います。

「それらの王たちの日」に神は自らの王国を立てる、とあります。

「ご自分の愛するみ子の王国」(コロサイ1章13節)です。

パウロはすでにその王国(支配下:新共同訳)に移された、と言いました。この王国=支配は地上の諸国家を壊滅させていないし、イエスも、ユダヤ人が期待したようにローマ支配を政治的に砕いて終わらせなかったので、旧約が予言した王国とは別物とするのがJW解釈です。でもその王国は「この世に属さない」とはいえ、ある意味ですべての王国を“打ち砕いた”とも言えるかもしれません。

『死も、命も、天使も、支配するもの(政府:新世界訳)も、現在のものも、未来のものも、力あるものも・・他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです』

どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられる 』(新共同訳)

キリストにより、それ以降の(今あるもの、未来のもの)人間の支配を神との関係において無力化することによってです。その石が全地に満ちる、というのも「この福音は世界中(当時の全地)の至るところの人々に宣べ伝えられた」(パウロ)、「あなた方は地の果てに至るまでわたしの証人となる」(イエス)、というキリスト教の拡大を指していたとも理解できます。

とはいえ王であるキリストが、ヨハネ啓示で語られるように、いつか現実世界でのハルマゲドンのような変動を起こすことがあるでしょうか。あるかもしれません。

どちらにしても、1世紀に開始したキリストの支配=バシレイアにいる人はみ子の愛の内に救われた状態をすでに経験していて、予言の解釈をめぐって憶測したり、議論したり、恐れたり、脅したりする必要はないのでしょう。仮にそのような変動があるとしても、偽予言を繰り返す教団の幹部が出す奇妙で異例な指示に従うことが救いの条件、と考える必要はないんでしょう。

神の国①

JWは神の王国=政府、と言います。どうしても政府という、聖書中では人間の支配にしか使われていない俗っぽい用語で説明したがります。今年で設立100周年だそうです。

結論から言うと、神の王国(バシレイア)とは「キリストの支配また王権そのもの、広義においては、その内にいる人々の集合体」ではないかと思います。

イエスは『わたしのバシレイア(国、王権)はこの世のものではない』と言ったので、ピラトは『それでは、あなたはバシレウス(王)なのだな』と問い返しました(口語訳)。

聖書での使われ方からのイメージとしては、バシレウスとバシレイアは、フィロス(友)とフィリア(友愛)の関係に似ていると思います。 friendが形ある存在としての「一人の友」であるのに対し、friendshipはその人との関係において存在する見えない概念です。

バシレウスが一人の存在であるkingを指すように、バシレイアとはkingshipのこと ⇒ 「王であること」に伴うすべて、その王の支配・権威・威光と、それが及ぶ領域のことかと。

物理的な意味では、その王の威光と支配が及ぶ領土= kingdom(王国)のことでしょう。

しかしイエスは自分のバシレイアはこの世のものではない、と言いました。

『ひとりの友の友となるという成功を勝ち取った者・・彼の歓喜に声を合わせよ』

その人を友として受け入れ、同時にその人からの信頼も勝ち得た人にとって、その友情=friendshipはここを!とか、あそこに!とか場所を指して人に宣伝する類のものではなく、目に見えない仕方で、その関係が築かれた人と人との間 = ただ中にあります。イエスも、弟子たちは自分の奴隷ではなく、友であると言いました。

イエスのkingshipも双方向です。イエスを主また王として認めることと、イエスからも受け入れてもらえることです。そうすることで、物理的な領土を持たないイエスのバシレイアも、それを受け入れ、また入ることを許された人々の「ただ中」に存在することになります。その機会を与えられながら意味を悟らず、戒律実践主義に固執したパリサイ人は入ろうと努めながら入れなかったのでしょう。

王国=政府という俗っぽい説明をまず聞かされてしまうと、friendshipと同じように「見える形」ではない概念としての側面をも包含するバシレイアの豊かさは理解しにくいようです。

マタイ福音では天の国を説明するのに幾つかのたとえが使われています。

種をまく人・からし種・パン種 ⇒ 原因と結果(成長と腐敗・雑草が混ざり合う)
隠された宝・真珠を探す商人・漁をする網 ⇒ 価値あるものを探し出す、分別されること

政府を連想させるようなたとえは、どこにもありません。

『人の子は自分の使いたちを遣わし・・すべてつまずきのもとになるものや不法を行なっている者を自分の王国から集め出し,それを火の燃える炉の中に投げ込みます』(新世界訳)

その王国には不法を行なってつまずかせる者さえいて、収穫の時に集め出されます。

神の王国が諸国家を殲滅する=ハルマゲドンとリンクさせる解釈は主に旧約とヨハネ啓示から来ているようです。続きにします。

殉教願望

無学な自分が新約を読み直してふと感じるのは、パウロの殉教願望とも取れるような言葉です。

『わたしの場合,生きることはキリストであり,死ぬことも益なのです。さて,もし肉の様で生きつづけるとすれば,それはわたしの業が実を結ぶことになります―ですが,どちらを選ぶべきか,わたしには分かりません。わたしはこれら二つのものに迫られています。しかし,わたしがほんとうに願っているのは,解き放たれること,そしてキリストと共になることです・・あなた方のためには,わたしが肉の様でとどまっていることのほうが必要です』

『こうして,キリストとその復活の力またその苦しみにあずかることを知り,彼のような死に服し,何とかして死人の中からの早い復活に達しえないものかと努めているのです』


フェストが言うところの、博学ゆえのパウロの狂気でしょうか。

パウロはイエス同様、伝統的ユダヤ人指導者の反感を買い、宗教的な憎しみを受けていただけで、ローマの法を犯すようなことは何もしていませんでした。しかしローマの行政官フェリクスもフェストもユダヤ人の意向は無視できないので、のらりくらりパウロを拘束したままでした。

ユダヤ人はパウロをエルサレムに連れ戻そうとします。煮え切らない、政治的で計算高いローマ人をあてにせず?途中で暗殺するためです。フェストはユダヤ人の支持を得ようとして、エルサレムに戻る意思があるかどうかをパウロに尋ねると、パウロはそれを拒否し、カエサルに上訴します。

ユダヤ人の憎悪が決定的な段階にまで達して遠からぬ死を感じたパウロは、イエスと同じようにローマ人の手にかかって処刑されることの望んだのでは?と感じます。

イエスもユダヤ人から直接命を狙われた時は、身を隠しました。タイミングの問題もあったのかもしれませんが、イエスの贖罪の死が同胞のユダヤ人による殺人行為ではなく(当時のユダヤ人はローマ法の下にもあり、独自の宗教裁判は認められていたが、破門はできても勝手な死刑まではできなかった、今のJW組織と同じ)、ローマによる合法的な処刑である必然性があったのかはよく分かりません。

ただ磔にされたキリストを強烈に敬愛する彼は、同じようにいわれなくローマ人によって処刑されることで解き放たれる=キリストに殉ずる道を全うしたかったのでしょうか。

アグリッパは「カエサルに上訴しなければ、この人は釈放されただろうに」と言いました。パウロにすれば、かつて自分がステファノを違法な殺害で葬ったように、ローマ人に釈放されてユダヤ人に暗殺されることは望んでいなかったのかもしれません。

もちろんキリスト教では殉教は徳とされる死です。

有名な話では、日本のカトリック二十六聖人の処刑の記録があります。

当たり前ですがJWだけじゃありません。

ただフランズ氏が明らかにしたように、隣国のメキシコでは兵役義務を金銭で回避する裏取引をこっそり黙認しながら、一党独裁時代のマラウィでは実質的には税金や国民登録程度の意味しかない(と個人で判断することもできただろう)党員カードの購入さえ拒否するよう指示し、虐殺された遠いマラウィの同胞を中立神話の生贄にするかのように美談にした。

『カエサルのものはカエサルに返す』(イエス)
『貢ぎを要求する者には貢ぎを、誉れを要求する者には誉れを』(パウロ)

・・じゃなかったでしたっけ?

輸血拒否なんてただの解釈にすぎない教義を付け加え、殉教だと言う。

マラウィで命を失った個々の人にも恵みが示されるよう祈ることしかできませんが、人間の組織による気まぐれな解釈や指示で死ぬことが本当に尊い殉教なのか・・

パリサイ化したユダヤ教と野獣のように行動するローマ帝国の利害がこの新興の派に対して奇妙に一致していた当時、クリスチャンであるためにはパウロのような悲壮な覚悟が必要だったと思います。

でもこの尊い精神を利用して行き過ぎた殉教願望を煽る宗教指導者たちが文字通り狂気じみた行動を取らせてきたのも歴史の事実と言えるのかもしれません。

多数決

前回の続き的に、再びフランズ氏について。

この組織は民主的ではなく神権的とか言いますが、それは下々における絶対的な序列制度においてです。フランズ氏が明らかにしたように、指示されることがない最高意思決定機関の統治体会議では普通に多数決で議決されています。1914年を撤回する議案が上がった時も、票が足りなかっただけで、当時の幾人もの統治体メンバーさえそれを撤回すべきと考えていたのです。

多数決で決まる真理っていったい・・

使徒15章のエルサレム会議に倣うというなら、議事録オープンにしてくださいね。議論の過程で統治体内部でも反対意見を言った人もいる、という事実など、絶対に知られたくないんでしょう。その時点の解釈に対する一切の疑いも批判も抱かずに人生のすべてをかけるようコントロールしている信者への道義的責任を感じないのでしょうか。

紆余曲折に見える解釈の変更も、それは自分たちではなく神の差配であると自分たちでも思い込むことで道義的責任という良心の呵責を回避し、思い込まされる側も、釈然としないモヤモヤ感(笑)はあるもののなんか納得したような気になるだけで、少数の犠牲はやむを得ない、少数の意見に神の霊などない、とする全体主義は一般社会よりも冷酷でしょう。

1914年トーンダウンの時期を経て、その反動なのか2世代だの100周年だの言い出しているのは、最近のメンバーが1914年強硬派で占められているという理由にすぎないのかもしれません。レイ・フランズや1975年の教訓から悪い意味で学んでいれば、彼以降の統治体の人選は聖書の知識とか人柄とか能力とかじゃなく、とにかく組織への忠誠度や貢献度が何よりも重視されていることは予想できます。

だからフランズ氏のことでちょっともったいなかったなと思うのは、この組織がただの人の組織、と割り切った上での水面下での慎重な根回しや多数派工作、自分に近い考えを持つ人を統治体に推薦する、とかいろいろできたのでは、とも思うこともあります。簡単には行かないでしょうし、彼は純粋に神とキリストを愛する人だったので、そんな政治的なことはしたくなかったと思いますが。

もう彼のような人が統治体になることは、ないのかもしれませんね。

辞めない勇気

一昔前、NHK制作ドラマ「ハゲタカ」を観ました。ストーリーはうろ覚えです。

主人公?(芝野)はエリート銀行マンだったが、銀行の在り方や腹黒い上層部、その中でやれることの限界を感じて潔く辞表を出す。上司からは「お前はカッコよすぎる、だからダメなんだ」と、同僚の1人には「辞めないのも勇気だ」と言われます。

大手家電メーカーに移籍するが、そこでも経営不振のため、冷酷なコストカッターの役目を負わされ、自殺者まで出る。さらに外資の手が入り、創業者が築いた会社を金づるにすることしか考えていない新経営陣からはさらなる合理化を迫られる。

今回は辞めなかった。別のファンドと手を組み、経営陣を出し抜くエンプロイーバイアウト(EBO)を画策する。そしてEBOを優位に進める上でキーマンとなる従業員の情報をこっそりファンドに流す。ファンド側も「芝野さんがまだ内部にいることが我々の最大の強みだ」と語る。さらにその従業員とファンド側が水面下で接触する御膳立てもします。

ただのフィクションですが、この話にあえて聖書を絡めてみると、彼の行動は「罪」です。おそらく雇用契約に基づく社内規定の違反とか、中途半端にバレれば懲戒解雇になるだけでなく、民事で損害賠償を請求されるリスクもある可能性を考えると、安易に他者がそうするよう勧めるとか、生半可な覚悟ですることでもないと思いますが。

「決まり事の字句を遵守 = 義 = 善」 「字句違反 = 罪 = 悪」

「罪と愛」の記事でも書きましたが、↑に固執するJWなら絶対やらないでしょう。でも彼らに限らず、上層部が腐っていようが会社から給料を貰っている訳で、会議で正々堂々と意見してダメなら潔く辞めて他の会社を探せ、という考えの人もいると思います。そうすればこの人は「義なる人」でいられたのかもしれませんし、そのことでその人を悪く言う事もできないと思います。

でも外資に牛耳られた経営陣に自分一人の意見など通るどころか、クビを切られ揉み消されるのは見えている、もう自殺者まで出ている責任を感じ、その立場にある内に冷酷な合理化に歯止めをかけるべく水面下で動いたのだと思います。今度は「辞めない勇気」だったんでしょう。

この世は、自分一人が義人や聖者でいられるような、正論だけで生きていける場所ではありません。以前にコメントで紹介して頂いた「大胆に罪を犯せ」という賀来牧師の説教を思い出します。イエスのたとえ話に出てくる主人は、クビになった後も生きていくために必死で人脈を作ろうと、その立場にある内に主人への負債額を減らして債務者からの好意を得ようと画策した不義な奴隷をほめ、イエスも「この世の子らは光の子らよりも賢くふるまっている」と言いました。

ドラマのようにうまく行くことはないにしても、人の組織は、人のやり方(=この世の子らの抜け目のないやり方)である程度変えることもできる、というのはあると思います。レイ・フランズの記事でも書いたように、何かの組織でそれなりのポジションにある人にとってはの話ですが、潔く自分一人辞めるだけが責任の取り方でもないのかもしれません。

柔軟性

最近、やたらと布教での柔軟性とか言われているようですが・・

“個人研究”でも、答え探しでなく自分で考える力を養うようにとか・・

今さら何言ってんですかねぇ・・と苦笑してしまいます。

一方的にまくしたてる布教に押され、終末のタイムリミットというウソも勢いで繰り返せば真実に聞こえて勧誘されてきた人たちメインですよ。そういう親が結論ありきで逆らったらムチ!ハルマゲドンで殺されるよりマシ!で子供を育ててきたんじゃないですかね。

情報化社会ではそれも限界になり、反応が固い=拒否されるからって、理性的で相手に合わせた話し方にシフトしましょう、とか言っても、できるんですかね。しかも本当に理性的に論じたらJW解釈なんて都合のいいつぎはぎだらけなことがバレるじゃないですか。

それができないことを分かっているのか、最近のも塔はJW解釈を“理性的”に論じるモデル会話を一字一句原稿にした記事を作っています。中にはこれをそのまま使って、相手には相手役の言葉をそのまま読んでもらえ、という荒技を勧めるJKもいるとか。

「自分で考えるように」とか言われても、使徒17章をありのままに読んで「一人一人の近くにいてくださる霊なる神は居住の限界を持たない=遍在するという意味だと思います☆」と個人の理解として発言しても背教者扱いですよね。柔軟性がないのはだれなんですかねぇ。

だからJW解釈と少しでも違ったこと言わないように、WT資料を探して答え合わせすることが個人研究だと思っているんじゃないでしょうか。書いてあることを復唱するのがものみ研究ですよね。

劣化とマンネリ化が激しい集会・大会のお決まりの内容なんてまじめな信者でも覚えていませんが、それでいいんですよね。何度も聞いた陳腐な情報を膨大な量で垂れ流して既成事実化することが目的じゃないですか。自分で考える力を養ってほしいとか、スタンスとして見せかけているだけで、本当はそんなこと思ってないですよね。

他宗派、他宗教の信条などフェアに教えるどころか、初めから偽りと決めつけ、攻撃しやすいポイントを自前の資料で偏って教えるだけで「分かった」つもりにさせてませんか。形だけ質問して後は一方的にJW解釈をまくしたてるのが神権宣教学校=世界最高の教育ですよね。

JW関連ではないただの宗教書籍でも、相手からの本は拒否しろ、受け取るな、読むなって指導してきたのに、今さら相手の考えを知れ、柔軟に合わせろ、と言ったところで、本当に相手の信条を知りたいなんて思っていないですよね。イーブンな意見交換をすることにも、正しいか間違いかとかじゃなく、互いの信仰への理解を深め合うことにも、ぜっんぜん興味ないですよね。

自分の信仰に「危険」を察知した瞬間に理性をブロックして聞く耳閉ざすのが証拠ですよね。何度もアポなしで人様の家に来ていたのに、いきなり来なくなりますね。それって失礼じゃないですか?今さら「相手に合わせて柔軟に布教しろ」なんて指導しちゃうと、本当に道理をわきまえたら勧誘する方が目ざめて悔い改めちゃいますよ。心配です。

無条件の愛②

島先氏も仰るように、正しい道にいることと、そこを歩く力がある、というのは別です。

正しい道にいても、時には歩く力がないこともあります。

神学は、正しい道を示す=説明する=定義しようとします。

でも、それだけでは歩く力になりません。

知識や定義(正しいか間違いか)を超えたキリストの愛が、その人に迫ります。

その人は歩きます。疲れて止まることもありますが、道を逸れた訳ではありません。

その人は「主の業」を行なうでしょう。

家族のためにおいしいご飯を作ります。

仕事に打ち込んで、税金を納め、社会に貢献しようとします。

スポーツや芸術の才を磨き、人の可能性を示し、感動を与えます。


すべてあなたの手の成しうる事は、力をつくしてなせ』(伝道の書:口語訳)


神が自らの手の業を慕うように、その人の手の業にも喜びを見い出されるでしょう。

困っている人を見れば、考えるより先に体が動きます。

それがたった1匹の猫であっても、みんなで助けようとします。

クリスチャンなら証しをする、礼拝にも行くでしょう。

それらはみな、この世を彩る「主の業」であり、信仰を持たない人には大きなお世話でしょうが、その業は彼らの内にも神の像=キリストが宿っていることの証しではないかと。

それを伝えるはずの宗教が、家族を、人と人を引き裂き、世界を不味くして何になるのか。

あなたは信仰に背を向けている、もっと「霊的」なことをせよと、なおも咎めますか。

舌で父をほめたたえ、その同じ舌で神と似た様で存在している人を呪い、死に定めますか。

塩が効き目を失えば、外に投げ出されて踏みつけられる以外に、使い道はありません。

だから無条件の愛とは、受ける側は何もしなくていいという訳じゃなく・・いや危なかった、いいとか悪いとかじゃなく、いいか悪いかで言ったらみんな悪いんです。でも、今は何もできずに落ち込んでいる人、疲れている人さえ愛されている、その無条件の愛が迫るときに、それが挫折や痛みを背負いながら歩く強さになり、キリストの苦しみと爽やかさのくびきを感じる・・キリスト教が持つ本来の救いの力とは、そういうシンプルなものではないかと。

信仰なんかなくても歩ける人はいます。主が言われたように、健康な人に医者は必要ありません。だから信仰とはそれを必要とする人を利用するためでも、さらに裁いて病ませるためでも、まして信仰を持たない人を人が裁くためでもないと思いたいです。
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