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無条件の愛①

聖書には、所々に「ああしなさい」「こうしなさい」という“おきて”が含まれています。聖書の字句にさらに独自の要求を付け加えて「こうしない者は救われない」「あまりしない者も霊性が低くて危うい」と脅すようなことを言う人もいます。

『もしあなた方がわたしに聴き従わず,これらのすべてのおきてを行なわないなら,またわたしの法令を退けるなら,そしてあなた方の魂がわたしの司法上の定めをいとい憎んでわたしのすべてのおきてを行なわず,わたしの契約を破るようになるなら,その時にはわたしもあなた方に対して次のように行なう。処罰として結核と燃える熱病をもって必ずあなた方をかき乱し,目を衰えさせ,魂をしょうすいさせる。そしてあなた方はいたずらに種をまくことになる。あなた方の敵が必ずそれを食べ尽くすからである』

聖絶という言葉で説明されることもあるようですが、自分としては単純に、これが旧約で示される神観、そして神と人との間に本来あるはずの圧倒的な溝だと捉えています。

造られたことを認める、信じる、とはそこまでの覚悟があって言うべきものかと。

美しく慈愛に富む自然を造ってくれた神は、(自分たちに都合よく)完全無欠に愛があり慈悲深い神に違いない、とイメージしたいのも分かりますが、造られたと信じる側が、こういう神じゃなきゃやだ!というのもわがまま勝手な気が・・自然はあまりにも美しく、そして時に残酷でもあります。

ヘブライ語のエルは単に力や強さを示唆するとも言われています。なんとか主義のように旧約で描かれる創造神は邪神とまで言うのも極端ですが、仮に創造神なる存在を想定するなら、人から見て安易に善悪を判断できる、というか判断していい存在でもないと思います。

聖書によればですが、その底知れぬ溝を埋めるべくイニシアチブを取ったのも神です。
だからキリストにおける愛もまた、圧倒的なまでに迫るように感じるのかもしれません。

『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた・・しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう』(新共同訳)

この世のすべての痛みと病と罪を背負い、呪われた者として死んだキリスト。

言うこと聞かない99.9%の人間をあらためて永遠の火で処罰するため、

ましてその法的根拠?を据えるために生贄にされたのではないと願いたいです。
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承認制

一応断っておきますが、最近、コメントを承認制にしました。

元、現役、それ以外の方も含め、JW批判ブログの勢いは止まりませんね。

その一方で、そうしたブログに対する妨害工作?も耳にします。

アメブロではない自分はマイペースに記事を書いている訳ですが、このブログにも、あるJW関連のブログをしている人になりすまして?その実名を晒そうとするかのような稚拙な書き込みや、よく分からないサイトに誘導しようとするコメントがちらほら来るようになりました。

まさに、終わりの日ですね(笑)。この組織の終わりの日だったらうれしいんですけど。

ネット上の情報をどう捉えるか、どう関わるかは基本的には自己責任とはいえ、その中に間借りして一つのブログを管理している責任もあるので、承認制にしました。

他ブログ様にコメントする余裕もほとんどなく、このブログへのコメントもそんなに数はありませんが、四六時中チェックできる訳でもないので・・

宗教の批判

いわゆる擁護系の書き込みをたまーに見ると思うのですが。

批判する=自由を尊重していない、と考えている人が多いように思います。

ある映画監督が作ったお粗末な映画が、内容通りボロカスに批評されたとします。

表現の自由が侵害されていますかね。力ずくで上映を阻止するとかなら別ですが。

批評され、まずその評判を調べて見に行くかどうか決めるなんて、普通のことです。

聖書を題材にした映画もそれなりにあります。

あるお粗末な制作会社が、一応は聖書を題材にした映画を作ったのですが、
聖書を捻じ曲げている、と酷評されます。

純粋に神と聖書を信じている人なら、聖書を題材にした作品の1つにすぎないもの
批判されても「その作品」を擁護する必要は感じないでしょう。

一応は聖書を題材にしているから敬意を払うべきだ、という意見もあれば、
あまりにも酷い内容で、聖書の評判を落とすなんて作品を作ってくれたんだ、
と義憤を感じる人もいるでしょう。

そういう批評も、「自由に」あっていいんじゃないでしょうか。

宗教は映画のように批判されるべきではない、という意見もあるかもしれません。

確かに今は、クリスチャンを闘技場で獣に食わせたローマ皇帝や、キムなんとかが
支配する全世界じゃない、かなりの国で信仰の自由が認めらている寛容になった現代で、
すべての宗教が批判されている訳でもありません。

真の宗教は迫害されるのだ、それがイエスの示した狭い道だ、と頑なに信じるのも
自由ですが、残念ながら?世の中も進歩していて、今やほとんどの先進国では基本的
人権と信教の自由が認められちゃってるんですよね。

唯一路線と他宗派との差別化のために行き過ぎた要求・戒律や禁止命令を量産すること
で人工的な迫害を作り出して「狭い道」だと言ったところで、逆に非聖書的だと非難され
ちゃってますよ。そういうところがカルト的と指摘される教団が批判されているのは、
むしろ健全な理由があるんじゃないでしょうか。

子供が校歌を歌うことまで古代バビロン王やローマ皇帝への崇拝と同列にみなして禁ずる
など、何かの治療が必要かもしれない病的な恐怖のレベルです。学校は自らに命を捧げる
ことを要求したり、反抗する生徒を体育館で獣に食わせたり、火の燃える炉に投げ込んだり
しませんよ。

柔道拒否

JWの高度成長期、2世は高卒 ⇒ アルバイトで開拓奉仕、が既定路線。

高校は工業・商業系に集中する地域も。

都市部の学校によっては学年で十数人ものJW2世がいたとか。

子供離れが止まらず、世間以上に少子化が深刻な今のJWじゃ考えられない数ですね。

毎年、入学が終わると、2世たちがこぞって柔道見学の申し出にやって来る。

ある2世がいかにマイコンされていたかを振り返る思い出話。

柔道見学の申し出に行くと、あっさりOK。もう毎年恒例の儀式みたいなもんだったらしい。

ただ、その内の一人に先生が言った。

「オレは学校教育でやってることで、聖書のことは知らんが、暴力だの戦いだの教えているつもりはないんだが、宗教でやっちゃいけないことになってるんだったら、仕方ないよな」

「いえ、これは自分でそう思ったからです」

「毎年、ここに来るお前たちの生徒はみんな同じことを言うが、普通、人が集まればいろんな意見があるもんだが、1人くらいはそうは思わない、というヤツはいないのか」

「いえ、いません。エホバの証人は一致しています」

「・・・」

自分が決めたことなのに、いません、て言い切っちゃうのはどうかと思うが。

さぞ、この“理解ある”先生も異様なものを感じたでしょう。

毎年、毎年、やってくる、わずか15歳の子供たちが、同じことしか言わない。

全員がプログラムされたかのようにイザヤ2章4節の「戦いを学ばない」という同じ聖句をひっさげ、それが学校教育の柔道課程にも適用されると解釈する、それは宗教で禁じられているからではなく、親に言われたからでもなく、「自分で聖書を読んでそう思ったからです」と言う・・

んなわけねーだろ!

その時代、柔道拒否した若者たちの、どれくらいがまだJWやってるんでしょうねぇ。

洗礼ブームにのってバプっちゃった若者の多くが親と疎遠、絶縁状態に陥っている。JWを離れつつある十代の多感な時期にすべてのJW戒律に違反しないなど無理な話で・・正直にすべてを話してやめる潔い子は容赦なく排斥、親を気遣ってあえてすべてを話さずに自然消滅を選ぶ子もいる。

十代半ばでそんな一生の決定など、できるもんでしょうか。

子供相手に誘導して、本当に自分で考えられる年齢になってコースから外れると我が子を忌避するJW親・・そんな自然の情愛のない信者を生みだす組織、どうにからならないものだろうか。

信仰の真実

キリスト教系に限らず、仏教系カルト?とされる団体の人にも、信仰と真実がごちゃまぜになってしまう傾向はあるようです。前にも書きましたが、今や「地球が丸い」という真実を信仰する必要なんてありますかね。

さよなら○○会、というサイトです。

JWについては教義のほぼすべてに精通し、自らもある程度経験した上で批評できますが、それ以外の教団について無責任な批判はしたくないので一応名前は伏せます。

にしても思うのは、西とか東とかに分裂するとか、主流とされる宗派は宗祖の教えから背反した、自分たちこそ宗祖本来の教えを忠実に説くと主張して信者を集める教団ほど、ある程度育つとその勧誘・運営方法がカルト的であると批判されている、ということです。JW問題と一緒で、擁護側にもそれなりの言い分はあるようですが・・

一部、元信者さんの投稿を引用します。

「○○会の組織や体質は問題だと思うが、○○会長が真実を説く唯一の人だから聞く」という人がいます・・そもそも、宗教で説かれる「真実」というのは、証明も反証も不可能であり、まったく確かめようがありません。ですから、それを真実とするか否かは純粋に「信仰」の問題です。

その「真実」と「信仰」の問題を一緒にし、そもそも○○会長が「真実」を説いているという事を自分の信仰の前提にしてしまっている人が多いように思います。真実だから信仰するのではありません。信仰があっての「真実」なのです・・私は○○会の会員には、このことを取り違えている人が多いと思います。
 


・・ええと、他にもですねぇ・・

・昔と今と言っていることが違いすぎる

・内部の不祥事は関係者を粛清してまで闇に葬る

・法論をすれば相手の主張を歪曲して勝ったつもりになる

・会計報告をできないのは人に見せられないような使い方をしている

・自分の指示には「無条件で従え」と朝晩忠誠を誓わせる

・インターネットを見るな、やめた人間の話は聞くなと徹底する

・機関紙や集会で自分のことを褒め称えさせる



この教団や法論のことはよく分かりませぬが、支配体質の批判のされ方は異様な程似ています。

証明も反証もできないことを信じる・・カルト的思考にハマり込んでしまった人には恐ろしく理不尽で、病的な不安に駆られる考えでしょう。大宇宙の唯一絶対の因果律やら真理やら、と思い込んでいたものが否定されるのですから・・

それを超えて何かを信じることができれば、ほんとうの意味で自分と異なる信仰を持つ人をも尊重できるのかもしれません。自画自賛や組織への忠節を繰り返し要求する機関紙、不祥事の隠蔽、やめさせまいとする圧力、忌避・・こういうのって、信仰や自信が実はあまりないことの裏返しなのでしょうか。

原始キリスト教②

三位一体で、神学を知っているクリスチャン相手にJWが手こずる聖句はヨハネ福音と啓示に多い。ある現役さんが「なんでヨハネってこんな紛らわしいこと書いたの?」とボヤいていたのが面白かったです。いきなりイエスがロゴスで神ですから。

『クリスチャンがどの書を受け入れるべきかに関して論争が生じたのは,西暦2世紀の半ばにマルキオンのような批評家が出てからのことでした。マルキオンは自分の教理に合った独自の正典を作り上げ,使徒パウロの手紙の幾つかと,一部を削除したルカの福音書だけを取り上げました』(JW霊感)

WTは新約正典化に至るまでの異端排除にはあまり触れません。↑は数少ない例です。いろんな人がいろんなことを言い出す揺籃期にあった原始キリスト教時代を経て、すでに広く読まれていた数々の書簡を正典(=権威)として結集する目的の一つが、教会の一致と異端排除にあったのであれば、新約(写本)は一字一句無謬である聖霊の産物としながら、それと並行して発展した神学を全否定する整合性がないのに気づかれてしまうからでしょうか。

マルキオンを「批評家」と呼ぶあたり、クリスチャンとは呼んでやらねぇ、異端としても認めねぇ、という空気を感じます。自分たちが異端でさえない(キリスト教でない)と言われると反論するのにね。

三位一体だけでなく、キリストの贖罪も、パウロ書簡をメインとする新約に基づいて発展している。

ユダヤ人は「モーセ」の実践をメインに贖罪として動物を屠ってはきたが、人=メシアが死ぬことに関連付けた人なんていないのかもしれません。預言者たちにある詩的表現を贖罪者としてのイエスの死に適用する理解は後代の新約筆者、その多くはパウロによって明らかにされていると思います。

ペテロもイエスが死ぬことの意味が分からず怒られる、復活後の弟子たちも「イスラエルに王制を復活させるのまだすか」と軍事的英雄としてのメシアしか眼中にない。“初期クリスチャン”が十分に理解も教えもしていなかったというなら、キリスト論も贖罪論もそう大差ないような・・ユダヤ人信者共同体は神殿での贖罪や儀式、律法の実践を続けるとヤコブは宣言している。

新約は「わたしは速やかに来る」との預言者ヨハネ?の宣託で終わっています。当時のクリスチャンには自分たちを迫害する邪悪なローマ世界(当時の全世界)がすぐに滅びて理想郷ができると信じた人もいたでしょう。でも100年、200年経ち、地上の楽園の速やかな到来は否定された。

島先氏も「新しい天と新しい地」が地上も含めた神の管理の回復である可能性を認めつつ、『アウグスティヌスは、当時一般的だった「この世的終末論」に反論しました。当時のクリスチャンは、自分たちの様々な欲望が、来るべき地上の御国で満たされると単純に考えていた』と指摘する。

JW指導部は楽園が来たら、あれもできる、これもできる、それをたっぷりイメージしろ、そのイメージで満足しろ、と様々な欲望を煽りながらそれをサタンの世で満たすことを禁じ、今はひたすら組織拡大のために布教せよ、それが楽園への道である、と信者を教化することに余念がない。

確かにある意味で、初期キリスト教の繰り返しなのかもしれません。

そんなに初期や原始が好きなら、長老制さえ取らず、エホバの証人という名称や輸血拒否教義の採用、独自の聖書訳を作る前の“初期聖書研究者”はどこに行ったのか。彼らは教えていなかった、として輸血拒否教義やエホバの証人という名称を捨て、権威に縛られない純粋な聖書研究に立ち返ろうとする人がいれば、解釈の発展?に付いて来ない背教者呼ばわりですよね~。

モーセによる原始ユダヤ教と口伝律法も実践していた1世紀のユダヤ教もかなりの程度、別物です。聖書より高い権威として振りかざされるWT協会の印刷物や、コロコロ調整されては、廃棄⇒更新される膨大な指示書の集積など、口伝律法よりタチが悪い。

原始キリスト教

『19世紀の終わりごろ,原始キリスト教に倣った生き方をしようとする人たちが,希望の音信を取り上げ,王国を告げ知らせました』

WTが大好きなのは原始キリスト教です。でも原始キリスト教というとくくり方に諸説あったり、2世紀半ばくらいまでが一般的だったりしてそれも微妙なので、一般にはあまり使われない「初期クリスチャン」という単語を多用します。明確に定義付けられてはいないようですが、おそらく西暦70年の第二神殿破壊まであたり、をメインに考えているようです。JWの大好きなユダヤ人信者共同体はペラに逃げた後どうなったかよく分かっていないらしいですしね。

西暦70年の後にも先にも、キリスト教がローマ世界に広まる上で大きな役割を果たしたのがパウロ神学と言われていますが、上(天界と不滅性)への強烈な憧れや、下(地上)にある肢体を死んだものにせよとか、肉には何も良いものは宿っていないとか、天界=霊の体と地=肉の体、みたいな博学なパウロの思想を読むと、新プラトン主義と結びつきそうな片鱗は彼の時代ですでに見られる印象も受けるのです。

霊性(理性?)で肉を制する、という思想が悪い訳でもなく、人間社会にある程度の道徳的抑制を効かせることに寄与してきたのかもしれません。キリスト教と言えば流血と腐敗の歴史がすべて、とばかりに宣伝する人もいますが、良くも悪くもその役割を担ってきた主要な宗教の一つがキリスト教であることも事実だと思います。

島先氏の資料もその点に言及し、『パウロ書簡の中には、「魂が肉体から離れ、天国で神と共にいる」というヘレニズムの考えを取り入れたように見える箇所がある』と述べています。

他にも、ギリシャ人が祀っていた「知られざる神=原父?」を、手で作った神殿には住まない(ユダヤ人の神でもギリシャ人の神でもない)、一人の人を作って世界に住まわせながら霊によって遍在する神と同一なものとして示そうとしているかのようなパウロの説教(YHWHなど使用するはずもない)など、真意は別にして字面としては、ギリシャ思想の幾つかの要素と融合しやすいるように見える部分はあると思います。

このあたりは奥というか闇が深そうなので立ち入りは遠慮しますが、この世と物質主義の全否定、永遠の命に導くのは知識・・信仰の実質的否定 ⇒ 論理的整合性がなければ絶対に信じない ⇒ イエスは信じても知識が間違っていれば救いはない、少数の人間だけが真の知識を得るというエリート思想など、なんとか主義のエッセンスの一部がJWにもあるのでは・・と感じた次第です。

神学を排除するなら、パウロや“ヨハネ”でもう微妙な気が・・この派⇒ 周りも当人たちもユダヤ教の一派と認識していた、エルサレム中心の律法実践主義を続けるユダヤ人信者共同体までじゃないですかね。三位一体なんて絶対に信じてないでしょう。


過激な純化を謳って禁止事項を増やすどこかの教団のように、由来だの異教だのにこだわりすぎるのものどうかと思います。宗教や文化なんて様々な要素に影響を受けたり与えたりして発展していくものです。そのルーツを知ることは大事だと思いますが、仮に、旧約の創造神話や新約の神観自体にさえ“異教由来”の要素や、異教と融合しやすい要素があるとして、その聖書を読んでその人が抱く信仰はその人のもので、だれもその主人になることはできないのですから・・

あなたの信仰は異教由来ですよ?とドヤ顔で言った所で何になるのでしょうか。まず自分が属する教団や、聖書自体のルーツについての知識を取り入れた方がいいかもしれませんねぇ。

研究生

また需要のない神学記事を書きたい衝動に駆られてきたので、一応ことわっておきます。

自分はキリスト教を護教するつもりはないし、そんな器もありませんが、せっかく聖書をかじったんだから、聖書やキリスト教について他のソースからも少しずつ調べてみたいと考えているだけです。

少し前にあるクリスチャンの方と仲良くなったことがあります。とても真面目で穏やかで、とにかく純粋な幼子のようにイエスを信じている方だったのですが、その方からもらった本を読むと、けっこうWT並みにカトリックやカトリックと仲良くする宗派に手厳しく、かといってJWはさらにその百倍くらい最悪な言われようでした。

自分のブログは棚に上げ、結構そういうものを読んでげんなりした自分にとっては、福音系ではあるようですが少し前に取り上げた島先氏の文献などはしっくりくるものがありました。小難しい定義や解釈の違いを超えたキリストの愛が迫る、それがキリスト教のシンプルな本質なのかと(それだけじゃないですが)・・

という訳で、どうせ擁護するならもっとでっかい視野でいきたいなと。

組織に恋していた頃は、この組織だけが聖なる神の組織、聖書に倣う点でほぼ完全に近い組織、と思わされていました。間違いがあってもごく一部、というコントロールです。

最近、そうも言えなくなっています。それでもキリスト教世界よりはマシだ、と言い張るかもしれませんが、どっちが「完全に近いか」を競うのはだれの精神でしょうか。

神学に立ち入るのも、異端排除の歴史を持つ罪深いキリスト教をさらに知りたいからです。

決して許されることではないですが、カトリックで性的虐待を行なった聖職者を10年で800人処分!とか聞くと、それでも組織として成り立ってんだからそこは逆にスゲーな、と思います。なんせ10億人レベルの組織なので一部変態JWと比べて割合としてどうなのかもよく分からんが、法王庁が公式に発表するのに比べて、チマチマ情報隠蔽するJWの小物感は否めない。

規模は小さくても自分たちの汚点を認めてしまうと、結局は見かけの程度・比較の問題で誇っているだけ?がバレてしまうので、必死に隠そうとする悪循環・・

時には甚大な精神的苦痛を生じさせるとはいえ、JW排斥制度など中世神学全盛時の異端審問に比べればかわいいもんです(JW思考は中世神学の焼き直しに近いものがある)。でも自分たちだけは違う、唯一の神の組織だ、とか言うので、やってることは基本的に同じだろーがしかもこの現代で、とついツッコミたくなってしまいます。

人の過ちと教会の罪深さなど当然に承知の上で、一人のキリスト者として真摯に生きる人の言葉を読むと、普通にリスペクトです。一部のカルト的な教団のように、自分たちを高めよう、良く見せよう、教団を宣伝しよう・擁護しよう、とにかく目先の人数を増やそう、統計を取って数字でアピールしよう、とか限りなく狭い視野で考えていないからです。

そういうの、もうお腹いっぱいです。

当面は、自分が経験した原理主義的な教団の解釈を反響板にしつつ、さらに大きな枠組みであるキリスト教の“研究生”としての調査も続けていく予定です。

キリスト教?

昨日のも塔記事も、ますます短い周期で繰り返される、組織への忠節を強化する記事ですが、なんかもうキリスト教ではなくなってしまったような内容にまで劣化していますね。

『イスラエル人が律法によって守られたように、エホバ神の律法と原則に従うなら、わたしたちも保護され、「信仰の点で健全」な状態を保てるのです』

『大患難が迫る今、聖書の正確な知識を取り入れ、適用し、霊的に進歩するのはとても重要なことです』

『わたしたちの命は、エホバのご意思を行ない、エホバを愛し、その声に聴き従い、エホバに固く付くことにかかっています』


あれ?キリストの死と贖いはどこへ行った?

もうキリスト教というより、モーセの律法は廃止されたといいながら、聖書の字句をあちこちから引っ張り出して独自に解釈した教理戒律に置き換えただけで、旧約の神観を引きずった戒律実践主義、いわば疑似ユダヤ教の厳格で特殊な一派、と考えた方がよさそうですね。

でも探してみたら、あーあった、1か所だけ、キリストへの言及がありました。

『イエスがなくなった後の後代、律法に対して熱心で律法から離れられずにいたユダヤ人のクリスチャンがいました。しかしパウロは、手紙により、「律法にしたがってささげられる」犠牲によってではなく、「イエス・キリストの体がただ一度限りささげられたことによって」神聖にされているということを強調しました』

エルサレム共同体のヤコブはユダヤ人の幾万の信者は皆、律法に対して熱心である、とパウロに真っ向から宣言しました。クリスチャンと呼ばれたのはアンティオキア教会が始まりで、律法を実践し続けるエルサレム側が自分たちを現在で言う所の“クリスチャン”と認識していたのか、西暦70年前にどれほどのユダヤ人信者がパウロの書簡を読んで律法から離れたのか、よく分かりません。

それはさておき、この記事で唯一、キリストの贖いに言及している箇所を読んでも、ここまで露骨に組織崇拝を前面に出す記事との矛盾を疑問に思わないんでしょうか。不思議です。

『イエスがなくなって約2000年後、教団の戒律に対して熱心で、教団崇拝から離れられずにいたユダヤ人チックな“クリスチャン”がいました。しかしパウロは、「律法(=決まり)にしたがってささげられる」犠牲によってではなく、「イエス・キリストの体が一度限りささげられたことによって」神聖にされているということを強調しました』

少なくともこの記事で、救いのために強調されていたのはどちらですか?

キリストの贖いへの信仰ですか?人間の組織の指示に従うことですか?

『彼らは邪悪のパンで自分を養ったからである。彼らは暴虐の行為のぶどう酒を飲むのである。しかし,義なる者たちの道筋は,日が堅く立てられるまでいよいよ明るさを増してゆく輝く光のようだ。邪悪な者たちの道は暗闇のようだ。彼らは自分が何につまずいているのか知らなかった

聖書の基本的知識が皆無で、JW解釈のみで教えられた自分たちに一度にすべてを理解するのは無理かもしれません。でも勤勉な聖書の“個人研究”を本当に行なうことにより、まさに光が輝きを増していくように、聖霊によって個々の人に漸進的に明らかにされる神の言葉の理解に抵抗するのではなく、自分の見方を柔軟に“調整”していきたいものです。

神を信じ続けるかは別として、いち教団の間違いに気づいたからといってそこで教えられたことがすべてと、聖書の底を見てしまった気になるのはもったいないなと個人的には思います。

法律上の器

「『忠実で思慮深い奴隷』とその統治体は,法人に付与されているものよりも高度で,はるかに包括的な関心事をゆだねられてきました。そうした法人組織の定款には,それぞれの法人の限定された業務範囲が明示されています。しかし,わたしたちの主イエス・キリストは,忠実な奴隷級を任命し,ご自分のすべての『持ち物』,つまりこの地上における王国の関心事すべてをつかさどらせてこられたのです・・ペンシルバニア法人に関して,バー兄弟はこう付け加えました。『ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会は,1884年の法人設立以来,現代のエホバの証人の歴史において重要な役割を果たしてきました。とはいえ,この法人は,『忠実で思慮深い奴隷』が必要に応じて用いる法律上の器にすぎません』」(2001年ものみの塔)

奴隷級 ⇒ 消滅・・7、8人足らずの統治体のみ

主イエスは彼らにすべての持ち物を委ねた ⇒ まだ委ねてない

主の行動まで言い切っておきながら、こうも“真理”が都合よくコロコロ変わるのも理解不能ですが、注目したいのはそこではありません。

建前上、WT協会とは法律上の要求を満たすことで、その保護や恩恵を受けるために利用している“法的な器”に過ぎないので、WT協会がなくなってもJW組織はなくならない、と言います。

本当にそうかどうか、知りたいですね。

初めはそうだったのかもしれませんが、組織が作り、息を吹き込んだWT協会と、肥大化したその資産が、それ自体を野獣の像のように振る舞わせている一因ではないかと懸念します。

子羊の角のような物柔らかさと人を引き裂く二面性を持ち合わせています。

「誰がこの組織に等しいだろうか」という自画自賛の教育がエスカレートしています。

自分が勧めるまでもなく現役さんの間で進行しているのは「非暴力・不服従」のようです。

一昔前の反対者さんのようにKHや大会に殴り込みをかける人もいないでしょうが、この場合の非暴力とは「表立って反抗しない」ことです。一方で不服従・・自分の良心に反する組織の決めごと・要求には服従(協力)しない、という姿勢です。

当たり前ですが、この組織の要求には「せよ」と「するな」の二通りしかありません。大きな違いは「してはいけない」ことを「する」と宗教裁判の対象ですが、「しなければならない」ことを「しない」だけでは裁けない、ということです。

排斥者と食事を「する」と裁かれます。

輸血を「する」と裁かれます。

でも集会に出席「しない」では裁けません。

一番のダメージは、像に成り下がったWT協会への寄付を「しない」ことでしょう。

宗教法人格を利用しながら寄付の使途や不祥事を公表しない協会、信者一人あたまの提示額に基づく事実上の強制決議を強行し、純粋に会衆のためだけの寄付をできなくする指示におかしいと感じる人もいて、現役ブロガーさんも増えています。

WT協会が弱体化すれば、この組織が生み出していると批判される被害の多くはなくなるのではないかと考えます。神の救済が、巨額の資産や不動産、法人の特権階級に依存するはずもなく。
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