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野獣の像

啓示の予言を良くも悪くもいちマイナー教団中心に解釈することに逆戻りする気はありませんが、人が人を支配するために使う手段の一般論として学べることもあるように思います。


・野獣の像に息を与え、崇拝させる・・特定の人物や組織、枠組みを神格化する

・大いなること、冒涜的なことを語る・・自らを高め、神格化する誇大な宣伝を行なう

・野獣の印を拒む者は売り買いできない・・服従を拒む者にペナルティーを課す

・打ち傷の癒えた野獣を称える・・内外の敵からの攻撃に対する強さをアピールする

・『誰がこの野獣に等しいだろうか』・・その枠組みを唯一無二と称えるよう仕向ける


程度の差は大きいとしても、こういう要素と全く無縁である国家など存在しないのかもしれません。神話であれ、理念であれ、その枠組みを正当化する思想・教育・報道、また法とその違反に対してペナルティーを課す権威など、それを全部排除すれば国家として成り立たないでしょうから。

自分は民主主義信奉者でもありませんが、健全な民主主義には国家という枠組みを誤った方向に進むことを抑制する一定の効果はあると思います。

キリスト教もイエスという人物や、直接には人が書き、伝えてきた聖書、さらに人の集まりであるキリスト教会という枠組みを神格化している訳ですが、内なる信仰の絶対的自由は多くの国で認められているので、信仰を持つ人たちが組織立とうとする時に問題が生じるのかもしれません。

完全な民主主義を採用すれば宗教組織としての体をなさなくなるでしょうが、少なくとも↑のような傾向が非常に強い、自由に意見を言える余地は極めて少ない、という枠組みには注意が必要と思います。
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理想郷

少し前にドラマで取り上げられたことで話題になりました。

『オメラスから歩み去る人々』

オメラス・・ある短編で描かれる架空の理想郷。上下関係も貧富の差もない、誰もが幸せに暮らす理想郷。でもその町のどこかの地下に陽も差さない、固く錠で閉ざされた暗い牢屋がある。そこに一人の子供が、汚物にまみれる劣悪な環境に幽閉されている。その子がそこにいなければならないことは、みんなが知っている・・とにかく、彼らの幸福、町の美しさ、友情の優しさ、子どもたちの健康・・そして豊作と温和な気候までが、すべてこの一人の子どものおぞましい不幸に負ぶさっていることだけは、みんなが知っているのだ。誰もその子を助けることをせず、自分たちの理想郷を謳歌していた・・

この寓話を自分が経験した宗教団体に適用すること自体、程度が低くておこがましいのですが同じような空気を何度も肌で感じましたね。

「○○さんはJWではなくなりました」

その発表がある度に一瞬、何かが張り詰める。でも集会後には理想的なクリスチャンの優雅な交わりが始まる。理由は知らない。誰も話題にしない。何事もなかったかのように。昨日まで兄弟、真の友だったはずの人がその一言でもう存在しないかのように、仮に集会に来てもあいさつどころか目を会わせることなく空気のようにすれ違う。

理由は知らない。聞いてもいけない。声をかけてもいけない。でも誰もが知っている。そのルールを守ることがこの理想郷を維持する絶対条件なのだ、ということを。そしてその秩序に逆らえば明日は我が身ということも。

権威によって成り立つ秩序・組織には程度の差はあっても、少なからずあるんでしょうね。情報を厳重に管理し、秘密裏に裁き、秩序を乱しかねない事実を構成員と社会の目に触れさせないようにする牢番たち・・それが組織と、組織の恩恵を受ける者たちのためと信じて・・

他方、以前の記事に書いたように、聖書は失われた百匹目の羊が見い出されるとき、残りの99匹以上に天で歓びが生じる、とあります。社会や組織全体における幸福の最大量が優先される、というのは聖書の精神ではありません。この世で組織立つことの代償とはいえ、神の唯一の経路と称する団体が同じやり方ではお粗末ですねぇ・・

その事実を知って組織を去る人々、それはオメラスを静かに歩み去る人々と同じ心境なのかもしれません。まあ表に見えてる部分でもう理想郷から程遠い、というのもあるんでしょうけど。腐った上下関係も霊的貧富の差もイジメもありまくりだし。次々に去っていくし。

オメラスに留まる人が悪人とも言い切れません。正義感ゆえに事実を知って苦しみますが、自分一人の正義感を満足させるためにその子を救い、代償として住民すべてに災厄が臨むようなこともしません。だからその代償の上に成り立つ繁栄を一層、貴重なものと認識するのかもしれません。

知った上でそこまで開き直ればまだ潔い、と思います。その子を見ても「神を待つ」とか「ふさわしい時に正される」なんて自己欺瞞を繰り返す人たちよりは、の話ですが。少なくとも自分たちの“一致”がどんな犠牲によって成り立っている(きた)のかを知った上で判断してほしいものです。

なんて言ってる自分も、先進国から見れば奴隷のような劣悪な環境で作られた果物やコーヒーを、そんなの知らないフリして嗜んでいる訳で・・だからこそ、不都合な情報を隠蔽しながら自分たちだけ美化するきれい事ばかりを言うどこかの組織を宣伝する気が失せたのも事実なんですが。

主の業

「この世」と「あの世=JW的には楽園」を隔ててしまうと、「この世」の生き方に消極的な影響を及ぼしかねない事実は、JWをお手本にすると良く分かります。

「この世」における労苦とは何かについて、島先氏はこう語ります。

『主に拠り頼み、御霊によって自分と他者の心身の癒しを求めます。本当の意味で自分らしい、また人間らしい文化(料理、芸術、音楽、建築、科学、政治・経済機構を含む)を主によって形成しようとします。そのような歩みは、簡単でないにしても生き生きとして喜びを与えてくれるものでしょう。また私たちは主により頼んで、神が造られた自然界を犠牲を払っても守ろうとします。料理であろうと、研究であろうと、陶芸であろうと、職場での歩みであろうと、庭の掃除であろうと、私達は創造本来のあり方を目指し、主にあって歩もうとします。たとえ寝たきりであってもイエスとの交わりの内に憩い、生きようとします。実はそれらは全て、たとえ私達が意識していなかったとしても、未完成のものであっても、キリストのみ業です。創造秩序の回復(神の国の樹立)のために地上に来て下さったキリスト・イエスご自身が、ご聖霊により、ご自身の民を通してなさっている力強いみ業なのです』

(引用終わり)

キリストによって完成される神の管理を望むことは、現在の世で成し遂げる事柄を否定するものではない、と自分も思います。「どうせこの世は滅ぼされる」、「サタンの世だから何やっても無駄」というのはイエス本来の教えからも逸れてしまっています。

信仰によりキリストを迎え入れる人は、そのただ中にあるキリストの支配を受けるゆえに「世のもの」ではないかもしれませんが、彼らは「地の塩、世の光」である、とイエスは教えました。その山上の垂訓は、この世でどう生きるか、にシンプルに焦点をあてています。

世の光となるとはどういう意味ですか。この世の環境保護活動を沈没寸前の船の修理に例えながら、無意味な集合離散を繰り返して排気ガスを撒き散らし、区域につけば時間を入れるために噂話をしながら牛歩することですか。寝たきりでも意識があれば15分の布教報告を出すことですか。

そうしたい人を否定はしません。でもキリストのみ業とはそんなちっこいものですか。人としてなすべきこと、人が不完全(未完成)でも成しうる業、とはそれだけでしょうか。

律法を持たない人が律法の業を行う・・家族を愛し、隣人を愛し、仕事に打ち込み、技術や才能を磨いて社会に貢献する、一つ一つはどんなに小さくてもそれは「世の光」ではないですかね。

『私の愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされることなく、主の業に励みなさい。あなた方は自分たちの労苦が、主にあって無駄でない事を知っているのですから』

自分について言えば、この聖句を利用してJW活動以外は基本的に無駄であると真逆に思い込まされた時期にも後悔はありませんが、部活も受験も本当に自分がやりたかったことを奪われた若者も、子供にそれを許しただけでこの組織で不当に扱われた親も、この組織で数え切れない程見てきました。その教育に加担したことの責任は感じます。

もう少しこのブログで発信させてください。

プラトン主義

初期の教父の一人、アウグスティヌス。

も塔でも時々、出てきます。彼らからみた「キリスト教世界」の主要な教えを形成することに大きく貢献した人物だからです。WTが攻撃するのは主に、次の3つです。

・三位一体
・魂の不滅(新プラトン主義)
・千年王国(地上の楽園)の否定・・文字通りの千年の否定、これは意見が割れている

JW的、三大「さたんの偽り」です。

新プラトン主義について、興味深いことにキリスト教関係者が指摘している文献を読みました。各種千年王国説についてもうちょっと調べようかな、と思ったら見つけたものです。島先克臣氏の「千年王国説の違いを超えて」です。以前、ある種の「地的希望」を持っているのはJWに限らないと言いましたが、それをはっきり説明している点において珍しいと感じます。

以下、引用です。

『プラトン主義の霊性では、全世界は結局消えてなくなるので、地上でなすあらゆることは、永遠の意味は持ち得ません。救われた霊魂だけが天国に行き、そこで永遠を過ごすので、地上でなす唯一の価値ある仕事は伝道となります。すると「証しになるかどうか」だけが問われてきます。「世俗」の仕事で時間を取ることは、証しにならない限り意味のないことになります。そして、その他は伝道のための手段となります。友情さえも手段となってしまうのです。

愛を込めて家族のために料理しても、家を注意深く綺麗に掃除して美しく飾っても、愛をもって子育てしても、貧しく抑圧されている人々を助けても、医療技術を発達させて不治の病と闘っても、環境保護のための市民運動に参加しても、職場で誠実に質の高い仕事をしても、良い「もの作り」をしても、謙遜に研究をしても、質の高い芸術を音楽を求めても、結局世界は消えてなくなるので、それ自体では意味がないのです。そのためクリスチャンは、真剣に、心から、確信と喜びをもって日常の営みができなくなってしまいます。腹の座った生き方、社会に影響を与えられるような貢献ができず、逃げ腰になります。そして、伝道と教会生活だけはしっかりやるけれども、政治やビジネス等の残りの全ての生活は、どうしても周りに流されていくという結果になりやすいのです・・(中略)

この世界から逃げて・・天に行くという考え方は創造世界に対して非聖書的な態度をもたらすもので、環境を守る活動や孤児の世話、また飢えたものに食べさせるという働きに携わるものはどこか信仰に背を向けているかのように思われてしまう。もっと「霊的」な事をすべきである、と』

(引用終わり:赤字は強調)

天に行くことを願うクリスチャンすべてがこのように考えている訳でもないので、賛否両論はあるかと思います。ちなみに、この世=物質=悪=無駄、もっと「霊的」なことをせよ、という二元論的思想を「グノーシスの霊性」と呼ぶ人もいるそうです。


つまり、表面的な用語を変えて「天国」を「楽園」にして他のキリスト教すべてにケンカを売っても、また「不滅の魂」は「永遠の命」に置き換え、とにかく霊性、霊性 (⇒ たぶん意味は履き違えている)、一方でこの世の物質主義は悪 (⇒ 楽園で永遠にヒャッホー)、を強調するあたり、実はJWも新プラトン主義やグノーシス主義の影響を色濃く受けている、というかその点では他のキリスト教よりも極端に傾倒している、とさえ言えるのかもしれません。

エホバの風

ぴゅうさんご指摘の記事、自分も読んでみました。

『ものみの塔は建設奉仕者をほしがっている』

相次ぐ支部施設の閉鎖・・まあ普通に見れば、ただの企業の合理化、リストラによる経費削減以外の何物でもないのですが。その記事でさえ、一部のべテラーが開拓者に降格されてる、という事実も認めています。よくあることだし、別に悪いってこともないので、そう普通に正直に書けばいいのに、絶対に他の組織と同じに見られたくないからどうしても神を持ち出したいんですよね。

自分が脳を撃ち抜かれたのは↓です。運よく合併先の支部に行けた人の話です。

『幾つかの支部が統合され,多くのベテル奉仕者がドイツ支部での割り当てを受けました。 これも容易なことではありませんでした。 山の景色が好きな人ならお分かりでしょうが,スイスの兄弟たちにとって,アルプスの絶景に囲まれた場所から離れるのは,後ろ髪を引かれる思いでした』

・・一瞬、言葉を失う、とはこのことでしょうか。

高齢や、難病、失業に悩まされる末端信者を尻目に、彼らのなけなしの寄付で生活する自分たちにとってはアルプスの絶景を去ることが試練であり、調整だったと言います。

地方から都市部に来るJKさんもよく言います。山に囲まれた美しい区域を去ることが挑戦?だったとか、前の区域は山の幸(海の幸)が豊富で去り難かったとか。でもそんな自分はエホバの任命に謙遜?に応じてここに来ました的な。地方信者はみ使いでも来たかのごとくお供え物で接待するので、そりゃ食べたんでしょうね。そうやって統治体まで登りつめれば、あんな感じのメタボ体型になりますか。何十年もサティアン教団施設生活や接待三昧の生活を続ければ、ここまで一般信者との意識が乖離して行く訳で、無駄に肥大化したWT協会の腐れっぷりが清々しいです。

あともう1つヒットが。

『エホバから変化の風が吹いて来たら,防壁を築くのではなく,帆を張るほうが良い』

この組織で“勝ち組”になるには欠かせないアドバイスですね。

迷走するかのようなたて続く調整・・今回、WTが使うたとえは「風」です。

でもコロコロ変わる風向きって、新約ではネガティブな意味でしか使われていないんですよね。

『人間のたばかりや誤らせようとたくらむ巧妙さによって,波によるように振り回されたり,あらゆる教えの風にあちこちと運ばれたりすることのないためです』

『これらの者たちは・・あなた方の愛餐における水の下の隠れた岩であり,恐れもなく自らを肥やす羊飼い,風によってあちらこちらと運ばれる水のない雲,晩秋になっても実がなく,二度死んで根こぎにされた木,自らの恥のもとを泡立てる海の荒い波,進路の定まらない星であって,そのためには,闇の暗黒が永久に留め置かれています』


父には影による回転の変化もありません。偽りません。コロコロ変わる嘘で導きません。

数年前と言ってること全然違う、やってること違う、で試すような神なんですね。

エホバの風か、それとも恐れもなく自らを肥やす羊飼いたちの自己保身か・・

初臨の予測

忘れていましたが、も塔2014年2月15日号で、ダニエルの70週の予言を基に1世紀のメシア到来について事前に予測できた、という見方は一般的ではなかったと解釈を変更しています。

今までは「民は待ち設けていた」⇒ 70週の計算から1世紀の第2四半期中にメシア到来が期待されていた ⇒ 1914年の前からその年に期待していた聖書研究者とリンクさせていました。

『ビグルー,バクエ,ブラサク共著のフランス語の「マニュエル・ビブリーク」はこう述べています。「人々はダニエルの定めた七十週年が終わりに近づいていることを知っていた・・」。ユダヤ人の学者,アバ・ヒレル・シルバーは,当時の「一般に流布していた年代計算」によれば,「メシアは西暦1世紀の第2四半期ごろに現われるものと考えられていた」と書いています』(1998年も塔)

しかしも塔2月15日号は↑を真っ向から否定しています。

『1世紀のユダヤ人が・・(ダニエルの)70週の預言に基づいてメシア到来の時を算定していた、ということは考えられるでしょうか。可能性はないとは言えませんが、その確証はありません』

BC607年についても、これくらいの慎みのある書き方ができないものでしょうか。

このタイミングでの解釈変更が何を意味するのか、よく分かりません。

100周年で煽るだけ煽って集金、異例の光と称して1914年を放棄、大量離脱も視野に入れた再建のための巨額の資金?・・とはさすがに考えにくいですが、今まで1914年に始まったとされていたことをいやらしいくらい少しずつ先送りする解釈がたて続いています。

天界の異兆・・・・・・・宇宙開発のこと ⇒ これから将来起きるリアルなやつ
羊とやぎ・・・・・・・・まだ分けていない
奴隷にすべてを与える・・ハルマゲの直前=ラプチャーと同時だよ

今や、主が1914年に来てしたことと言えば、3年半かけてあらゆるクリスチャンを精査してお選びになったのがなんとWT協会の2代目独裁者ラザフォード、その彼がラッセル派を強権排除して協会を乗っ取り、出版・不動産ビジネスを拡大させていくお手伝いを始めたくらいでしょうか。

あ、あとこれから世界人口爆発しようかって矢先にサタンをブチ落として100年放置とか。そんなんで、自分たちが700万程度になったくらいでイエスの支配100周年の証拠!とかメデタイこと言うから、脳内自己中お花畑とか言われちゃうんですよ。数でいえば同時期に拡大してきたモルモンやSDAにも余裕で負けてるっつーの。

話を戻します。

それで1914年は形式的に維持しておいて、大患難からハルマゲが「一つの世代」の内に起こる、という解釈も可能です。も塔2013年7月15日号では、その期間さえ「長さは特定できない」となっています。以前は1914から始まっている、とされてきたことがどんどんと、その期間中に起きるとして先延ばしされているからです。

それってもうほとんど前千年王国説に寄せてるような・・最近は14万4千人もハルマゲ前にラプチャー(携挙)されるとか言い出す始末・・そうすれば100周年でも200周年でも延長できますが、「世代」を使って大患難の始まりに大まかな時期予測をすることはできなくなります。つまり、1914年は間違っていたと認めなくて済みますが、終末を予測する計算起点としての事実上の放棄です。

こんなこといちいち考えるのも、かったるくなってきました。好きにやってくれ。

排斥という抑止

排斥制度についてもう少し。

少しだけ擁護しますと、排斥者をソッコー無視する組織人間ばかりでなく、親しかった人が排斥されて苦しむ人間味のある人もいます。でも繰り返しますと、パウロは自分の父の妻を有している程の邪悪な者を除き去りなさい、と会衆宛の手紙で言いました。ヨハネは、キリストが肉において来られたという教えを携えないで来る者を家に招き入れてはならない、と言いました。それらは公然の、周知の事実です。

排斥という脅し=タガが外れれば、おそらく、不道徳系の問題は増えるでしょう。主観ですが、こういう脅しで抑止するとか、毎度の雑誌でポルノポルノ言うとかの事実が示すように、JWの道徳レベルがそんなに高いとは思いません。楽園で健康になりたい、おいしいものたべたい、あちこち旅行いきたい、何不自由ない環境で長生きしたいなど、潜在的な物欲を煽られて入信するが、サタンの世でそれを追い求めるのは罪だと今は抑圧しているだけで、問題が一見して少ない=レベルが高い、とはならないように思います。ガッチリ報道規制もかかってますので。

例えば、犯罪者は小1時間の密室裁判で即刻銃殺!冤罪の可能性?そんなの知りまへん、というおっそろしい国があったとします。

表向きの犯罪率は他国より低いかもしれません。でもそんなの、自慢になりますか。

JW裁判は、傍聴人はおろか弁護人もいない、告発する証人はいても弁護する証人は基本認められない、さらには社会的にド素人の長老たちが検察と裁判官を兼ねる、というメチャクチャなシステムによる、たかが小1時間の審問ゴッコで霊的死刑が言い渡される場です。しかも「何をしたか」だけでなく、検察側の尋問に答える態度まで裁きの根拠になります。

こんなやり方で「世の人」より道徳レベルが高い、なんて誰が納得しますか。

排斥制度がなくなれば当然、いいことばかりでなく問題も増えるでしょう。配偶者と別居しておいて他の異性と公然と同棲しながら集会にも来る、とか。食事などの交友を控えるように(人として無視することではない)、と言ったのはそのレベルの人ではないですか。

しかもパウロは「信仰を支配する」つもりはなく、「喜びのために協力する者」としてアドバイスしていたにすぎず、あくまで個々の信仰と良心に訴えています。自分の掟を破りそのような人と食事をする人まで除き去れ、なんて恐ろしいことを命令してません。

統治体まで経験した人を、排斥者と1回食事をした、という理由で裁く組織です。

JW組織には信者に対して独自システムで裁き、宗教上の制裁を科す自由があります。でもありがたいことに、勝手に死刑!とかムチ打ち!とか制裁自体がその国の良識的な法律に違反することはさすがにやってはいけません。

JW国家なるものが存在したらいったいどこまでやるのか・・背筋が寒いです。彼らの楽園ではそうなるんしょう。ますますお断りしたいです、そんな世界。

優越感

JWが人を集める要因の一つ・・それは精神的優越感を与える教義でしょう。世の人は、真の神も人生の真の目的も知らずにもう哀れすぎる一方、自分たちは唯一の真理を知り、祝福された最高の組織にいる。

『人類の大多数が闇の中を歩いているのとは対照的に,わたしたち神の霊的な光の中を,喜びをもって歩み続けています』・・7月1日の「日々の聖句」より。

もとの聖句は神を光と真理の源として称えるものですが、も塔注解文では組織を高め、それ以外の人を見下す文章にすり替わっています。「日々の聖句」とはいっても、聖句は断片的に2~3行、その10倍くらいのも塔注解文、しかも↑のようなフルスイングな解釈を読まされます。

組織は高めますが、個人には罪悪感を抱かせます。唯一無二の神の組織、でも自分はそんな組織の励ましに十分応えていない、もっと頑張らなくちゃ・・この二面性を使い、依存度を高めます。

ある親は、組織に疑問を感じてJWを離れようとする子供に「エホバの証人をやめるなら、わたしたちを見返すくらいの生き方をしてみなさい」と言いました。残念な教育が生み出す、残念な愛情ですね。もうちょっと爽やかに送り出してあげられる懐の深さはないんでしょうか。

見返すくらいの生き方・・??おそらく社会的な成功や地位に加え、この生き方はエホバの証人よりも幸せだと言い返せる人生・・そんなところでしょうか。

何の優越感の張り合いなんでしょうか。

JW人生が見返さなければならないものには思えないんですが、依然としてJW思考の根底にあるのはこの選民としての優越感です。冒頭のも塔注解文のようにすさまじく主観的なので反論しようがありませんが、客観的な根拠に乏しく理解されないこと自体を「狭い道」だと思い込む、生活はカッツカツでもプライドは高い状態です。武士は食わねど高楊枝ってやつですか。

組織にはダメ人間と思い込まされて表向きは腰が低かったりしますが、大好きな組織(神ではない)が批判されると強力な選民モードが発動します。ダメなのは自分であり、間違いを犯した人間であり、絶対に組織じゃない、のです・・・・逆だよ、逆なのに。

『安息日は人のために存在するようになったのであり,人が安息日のために存在するようになったのではありません。ゆえに、人の子は安息日の主なのです』

集会は人より偉くないのにどうして休む人が責められるんでしょうか。

最終的にJW思考から抜け出すとは、JW人生に勝てる何かを見つけてやろうとか、見下げてやろうとかじゃなく、その優越感の張り合いのスパイラルから降りるということであって、JW組織を相手にしようとも思わなくなれば、ほんとうの卒業でしょうか。情報提供、被害抑止、信者救済、などの目的があって長く続けてくださる方も貴重ですが、自分も経験者の一人としてとりあえずは書ける所まで書こうと思います。

連帯責任

これは繰り返し強調する必要を感じます。

JW組織は「自己責任」と「組織としての連帯感」を上手く使い分けます。

組織に従え、組織に導け、世界的な組織、と言いながら、問題が起きると個の信者、個の会衆、個の長老の責任にすり替えて、連帯責任を回避します。

ある学校法人が運営する1つの学校で、一部の行き過ぎた教師が過激な体罰や、わいせつな行為を行なっていたことが明らかになれば、学校また運営する法人が謝罪します。そんな場で、法人が掲げてきた理念や業績を自画自賛することは常識的にしません。どこかの教団のように、この崇高なる学校に入り込んだその個人が悪、なんて言い逃れもしません。

WT協会という法人は違います。表向きは印刷物をスッてるだけの単立法人なので、ローカル会衆とは法律上の関係はありません。ローカル長老や信者は自己責任でWT印刷物を読んで実践しているだけなので、一部の暴走長老が悪事を働いても、法人は公表も謝罪もしません。

しかし事実上、WT協会はローカル会衆を強力に指導・監督・支配しています。

・北海道大量排斥事件では、WT協会の代表者への不敬・不従順で排斥されています。

・児童虐待については、WT協会が極秘のガイドラインをローカル会衆に送り、
 警察に通報する前に WT協会に指示を仰ぐよう定めています。

・信者1人あたりの金額を提示し、WT協会に送金する決議を取るよう指示しています。


こんなのごく一部ですが、これだけやっておいてローカル会衆の不祥事は自己責任で切り捨てるシステムを作っています。ローカル信者の善行は、組織教育の手柄としてWT印刷物に載りますが、ローカル信者の悪行は、組織指導に責任はないので載りません。信者にも知らされません。

信者もそこを切り離して思考するよう教化されています。だからメディアやネットでJW信者の不祥事を目にしても「でっちあげ」「事実でもソイツがどうしようもない人間で、組織の責任ではない」「自分個人は誠実に神に仕えている」と、連帯責任を感じないようコントロールされています。

内容について責を問われないWT印刷物では組織崇拝がエスカレートしていますが、最近の相次ぐスキャンダルやコンプライアンスの問題からか、ローカル会衆の実務的活動では「個の責任」が強調され、WT協会の表向き関与を限定するダブルスタンダードが進行中です。

ある超真面目現役の方からも「どうして最近は個人、個人ばかりが強調されるのか、今までは組織、組織、と組織の指示に従ってやってきたではないか」という声を聞きました。

リスク分散のためにこんなやり方で宗教法人格を利用するよりも、WT協会とローカル会衆の関係を登録し、自分たちが指導・監督・任命権を持つローカル会衆が起こした不祥事を公表してほしいものです。あと寄付の使い道も教えてね☆☆その当然の法的義務も生じますので。

残念ながらWT協会が実効支配するやり方は社会はおろか信者にも隠されていますが、最近、WT協会が陰でこっそり送りつけている極秘の指示がネットの力で拡散されているのは、いい兆しだと思います。

ノルマ管理

最近とあるビジネス雑誌で、業績を伸ばしているエステサロンの営業方針を見ました。

表向きノルマなし。スタッフの必死感や悲壮感が店の雰囲気や印象を悪くしてしまうから。その会社の社員管理方針にこんなくだりがあります。

目標管理制度を導入しても約4割が失敗をしてしまっているというデータがあります。
「目標に向かって自律的に行動して欲しい」「目標達成に向けて意欲的に取り組んで欲しい」
という願いとは逆に目標管理が社員の意欲を削いでしまうこともあります。
その原因は、目標管理ではなく、ノルマ管理になっていることが考えられます。
目標管理制度が失敗するのは、目標管理制度の目的が、
目標管理制度と言いつつ、ノルマ管理をしてしまっているからです。
社員を評価するため、社員を思い通りに動かすため、業績を上げるため、
というような、会社本位の目的になってしまうと、ノルマ管理になってしまいます。
(引用終わり)

でも「やっぱり勧誘された」という口コミもあり、その人のつける評価は最低です。

つまり勧誘されることにすさまじい抵抗がある時代です。

特に個人顧客を獲得するビジネスでは、一昔前のように汗水流して飛び込み外回りをする営業マンの押しの強さや人柄に負けて・・という時代ではありません。ネットを調べ、評判を調べ、自分で選ぶ時代です。そういう世の中の変化を先取りできる企業が成功しているのかもしれません。

JW組織も当初は否定的・限定的だったタブレット使用も全面解禁し、ようやくネット布教に力を入れていますが、遅れに遅れている感は否めません。

かつては片方の腎臓を売ってタブレットPCを手に入れた途上国の若者を「何と愚かでしょう」とボロクソにいう偏った実話をしれっと載せておいての、最近のタブレット押し・・「巧みな宣伝により、必要だと思い込ませ」ているのは今やWT協会です。世のものとはならない、世から教わることなどない、という妙なプライドから最初ははねつけるんですが、結局は世に迎合するんですよね。

ローカル会衆では相変わらず、70時間、50時間、30時間、なんて一昔前の営業マン管理のような布教報告とランク付け制度を続けています。意欲を削がれまくりです。「神の命令だから」と悲壮感を漂わせた信者を集めても、もうそんな場所に魅力はありませんぜ。

「信者を評価するため、信者を思い通りに動かすため、業績(数字)を上げるため」

というような、組織本位の目的になってしまうと、目標ではなくノルマ管理になるそうですよ。
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