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命の復活

また神学っぽい話になってしまいましたが、続きます。

『どんな人にも光を与える真の光が世に入ろうとしていた。 彼は世にいたのであり,世は彼を通して存在するようになったのに,世は彼を知らなかった。彼は自分のところに来たのに,その民は彼を迎え入れなかった。しかし,彼を迎えた者,そうした者たちすべてに対しては,神の子供となる権限を与えたのである。その者たちが,彼の名に信仰を働かせていたからである』

キリストが来たところで世はそれを知りませんでした。シムチョンも。

ただ聖書を前提にしての私見ですが、彼女はキリストを知って聖霊を受けていないので、神学上、神の子供にはなっていないと思います。キリスト教と無関係な昔話に出てくる人がキリスト教神学的に神の子供かどうかなんて大きなお世話でしょうが、聞かれればそう答えるしかないでしょうね。

ではキリストを知る人に開かれる機会とは何でしょうか。以前の記事にも書きました。

『わたしは・・王国のための契約を結び,あなた方がわたしの王国でわたしの食卓について食べたり飲んだりし,また座に着いてイスラエルの十二部族を裁くようにします』

キリストと共になる人が行なう裁きとはなんでしょうか。

『海はその中の死者を出し,死とハデスもその中の死者を出し,彼らはそれぞれ自分の行ないにしたがって裁かれた』

キリスト教経験者がその他人類を裁くというと他宗教の人は面白くないかもしれませんが、キリスト教経験者と書くと俗っぽいですが、あくまでキリストを人類の救い主・裁き主として迎え入れるのがキリスト教です。ただこれもキリスト者の間では幅広い見方があり、14万4千人の話をしたら、ガンジーや歴代のダライ・ラマからも何人か選ばれるんじゃないかな、と言う人もいました。

どこかの某教団のように、キリスト教経験者どころか、マイナー教団である自分たちの中の選ばれた上級信者、今やその内のたった7人のおじさんの言う事を聞くかどうかがハルマゲドンにおける永遠の裁きの根拠になるという解釈よりは「奇妙」でも「ばかげて」もいない、と思います。


この生を超える何かについて聖書が語る言葉は抽象的で、個別のケースについて何を言っても憶測でしかありません。人を地獄で脅すなんて中世的なキリスト教の方が過去になりつつあるようですが、シムチョンのような人たちも生前の善行ゆえに「命の復活」を受けることを願いますが、ただの憶測までも真理と称して宣伝しようとは思いません。

だから伝道の書の「すべてのことに関する裁き」が私審判とか公審判とかよく分かりませんが、「神の摂理による何かの定めがあるに違いない」と穏やかに希望することも間違っていませんし、むしろそれがほんとうの信仰、また慎み深い答えなのかもしれません。
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裁きの復活

イエスのシンプルな教えメインでいいんじゃないかと思いつつ、難解なパウロ神学も嫌いじゃないんですよね・・どれか一つの定義(解釈)で自らを高めたり誰かを脅したりしなければ、特定の記述をどう捉えるかには多様性があってもいいんじゃないでしょうか。一致とは思想弾圧と宗教裁判ではなく、多様性を包含するものと信じたいです。

・・ということで前回の続きです。

JW解釈の不義者の復活とは、聖書を知らなかったから、とかJWに勧誘される機会がなかったから、復活してチャンスをあげるためだ、と言います。だから不義者の復活=裁きの復活ではない、と解釈しています。

繰り返しますがただの私見です。

JWに勧誘されたかどうかなんてちっこい話はどーでもいいのですが、聖書を前提にしても、聖書やキリストを知る機会があったかどうかさえ主要な根拠にはならない、と自分は思います。

聖書を知らない人すべてが悪人になる訳ではありません。その逆も然りです。聖書は道徳律も教えていますが、それを知らなければ道徳的になりえない、とは聖書も言ってません。

『律法なしに罪をおかした者は皆,やはり律法なしに滅びます。しかし,律法のもとにあって罪をおかした者はみな律法によって裁かれます。律法を聞く者が神のみ前で義なる者なのではなく,律法を行なう者が義なる者と宣せられるからです。律法を持たない諸国民の者たちが生まれながらに律法にある事柄を行なう場合,その人たちは律法を持ってはいなくても,自分自身が律法なのです。彼らこそ,律法の内容がその心に書かれていることを証明する者であり,その良心が彼らと共に証しをし,自らの考えの間で,あるいはとがめられ,あるいは釈明されさえしているのです。わたしが宣明する良いたよりにしたがえば,神がキリスト・イエスを通して人類の隠れた事柄を裁く日に,このことはなされます』

律法なしに罪をおかした者は皆、律法なしに滅びる、とあります。律法に焦点をあてていることから、キリスト以前のことも含まれると考えます。逆に律法を持たない人が生まれながらに律法にある事を行なうのであれば、「律法を聞かなかった」人がそれを言い訳にできるとも思えません。

それで神がキリストを通して人類の隠れた事柄を裁く日に、キリスト以前の人類も含めて義者と不義者の復活=命の復活と裁きの復活(イエス)・・がある、というのは自然に思えます。律法なしに滅ぶと宣告された者に「律法を聞く」チャンスをあげるため、とは書いてありません。キリストのはるか以前に書かれた伝道の書にもこうあります。

『若者よ,あなたの若い時を歓べ。若い成年の日にあなたの心があなたに良いことをするように。そして,あなたの心の道に,あなたの目の見る物事のうちに歩め。しかし,それらすべてのことに関して,神があなたを裁かれることを知れ

伝道の書には新世界訳でさえ「エホバ」が一度も出てきません。モーセや律法への言及も皆無です。その書に、すべてのことに関して神があなたを裁かれること(知ろうが知るまいが)を知れ、とあります。知らなければ裁かれないのですか。キリストが来てとりあえず復活して本命の裁きはその後だから知らない方がいいよ、とはならないように思います。

昔話に出てくるシムチョンのように、キリストが伝わる以前に「律法なし」でも孝行に生きた人はどうでしょうか。復活後のJW講座の受講態度がメインの根拠ですか。逆に裁かれちゃうかも、やめたげて~。

ばかげた信条

自分じゃないです。ものみの塔さんにそう書いてあるんです。

ものみ6月一般号:「先祖に関して希望を持てるだろうか」

『多くの人にとって、そのような人物が、洗礼を受けていないだけで地獄に落ちるというのは、不公正な、さらには腹立たしいことでした』

『そのような信条はばかげている、と考える人も大勢います』


「そのような人物」とは朝鮮民話に出てくる、シムチョンという名の、盲目の父親に尽くし、さらには自分の命を犠牲にした娘さんのことらしいです。

・・JWのメッセージも似たようなものではないかと。

「多くの人にとって、JW洗礼を受けていないだけでハルマゲドンで虐殺されるというのは、不公正な、さらには腹立たしいことでした。そのような信条はばかげている、と考える人も大勢います」

少し前の記事にも書きましたが、WT協会は「自分たちだけが救われるのか」という批判に対し、一般向けを意識したJW.orgでは微妙にトーンを下げ、苦し紛れに論点をぼかして表面的には否定しています。ただ、この主張を明確に撤回してはおらず、信者相手には唯一救われるこの組織に導くことこそ最高善、という印象操作を続けています。

一方、シム・チョンはイエスを知らなかったゆえに地獄に堕ちるのか、という質問に対するある牧師さんの回答も紹介されていました。

『分かりません。神の摂理による何らかの定めがあるに違いない、としか言えません』

慎み深い宗教者らしい答えと個人的には思います。

独善的な聖書解釈で、だれが、いつ、どこに復活する、とか神に先んじて言い切ってしまうよりも。

地獄に関する記述をJWのようにすべて象徴的に捉えるべきか、についてはよく分かりません。

ただ、ある人はこうも考えます。すべての人は罪を犯したがゆえに、神の栄光に達しない、それでもパウロが自らを「罪人の最たる者」と呼んだように、罪の逸脱の程度にも大きな差があります。ほとんどの人から見れば品行方正な人も罪人であり、大量殺人者も罪人です。

聖書にあるように、罪の報いは等しく死・・ですが、イエスは「命の復活」と「裁きの復活」について言及しました。JWは、生前の罪は程度に関係なく死によってリセットされており、あくまで復活後に強制受講させられるJW教育にどう反応するかの違いだ、と解釈します。

一部の敬虔なクリスチャンには、そっちの方がばかげた、甚だしい不公正に思えるようです。

つまり、何がどうなると公正だ、いや不公正だ、という捉え方は人それぞれです。聖書にも「神の知識と裁きの深さは、探りがたく、たどりがたい」とあるのに、人間側のどれか一つの解釈や物差しで探り切ったかのように「これこそが完全なる公正の神だ」なんて言えるんでしょうか。

クリスチャン洗礼を受けなかった人間すべては地獄で永遠に焼かれる、と断定することもどうかと思いますが、先程の牧師さんの慎み深い答えが示すように、公式にはどうだか知りませんがむしろ伝統的キリスト教の方がもうそんな主張はしていない、のかもしれません。

100周年?

組織信仰という狭い枠から出てJW教材を普通にチラホラ読んでみるとどうしても気になってしまうのが、(解釈上の)既成事実化です。

例えば最近、JW集会の教材として使用されている「エホバに近づきなさい」の本にもこんな感じの文章がさりげなくちりばめられています。

『西暦前607年,エルサレムが滅ぼされた当時の忠実なユダヤ人の気持ちを想像してみてください。愛する都は壊滅し,城壁は崩れています』

『イエスは,1914年に天の王国で即位してから間もなく,地上にいる忠実な神の民の霊的な必要に注意を向けました』


・・・どんなに奇抜だろうが根拠があろうがなかろうが自分たちはそう解釈している、とか信じている、というのは別にいいんですが、だったらキチンと、一般に認められている歴史年代と自分たちの解釈の区別が読み手側に分かるように書いた方がいいんじゃないですかね?

聖書には、これこれの出来事が西暦○年に起きた、なんてもちろん書いていない訳で、どうしてもそう書きたい、書く必要がある、というなら歴史や考古学に頼らなくてはならないのに、それと異なっていることを歴史的事実であるかのような言い回しで挿入するのはどうなんでしょうね。そもそも、西暦で年代を特定することが神に近づくのに必要とも思えませんが 。

1914年も当然、その解釈の上に成り立っている訳で、しかもその年にイエスは○○しました、なんて主の行動まで歴史的事実として書いちゃうことに少しはビビらないのでしょうか。

いわゆる「目ざめた」人たちの中には、エルサレム滅亡が一般の歴史ではBC586年とされていることさえ知らなかったという方もいます。まーJW解釈との関わりがなければ日本人にはマイナーな歴史だし、さらにJW教材では完全にBC607年が既成事実になっていて、その資料のみで教育されているから仕方ありません。

神の名を掲げ唯一の真理を教えると主張する団体が、解釈している・信じている、というレベルの事に言及するのにそんな偏った教え方でいいんでしょうか。

近頃は、王国100周年!とかもう完全に開き直ってますが、普通、○周年というのは創立何周年とか、当事者以外にも客観的に確認される事実に使われることがほとんどだと思います。わたしたちはとにかくイエスが1914年に天で即位されたと信じています!というのは全く自由なんですが、信じているにすぎないもの、しかも一般の歴史と食い違う解釈に依存する主張を使って、今年はイエスの支配100周年です!なんて慎みある宗教者が言うことなんでしょうかね・・

聖書研究

JWの聖書研究とは、字句(ピース)探しです。

例・・人は死んだらどうなるか ⇒ 「死んだ者には何の意識もない」

聖書のあちこちから断片的な字句を探して、それを表面的にぶつかったり、矛盾したりしないよう、パズルのように組み合わせることが「真理」だと思っています。

『聖書の基礎的な教えすべてが,この本のおかげで一枚の絵としてまとまり,ジグソーパズルを完成できたような気持ちです』

『神についてのうそを教えられてきた人が聖書を理解しようとするのは,ジグソーパズルのピースを,間違った絵を参照しながら嵌めるようなもので,幾つかのピースを正しく嵌め込んでも,その絵全体に合わないので苛立ちを感じてやめたくなるのです。しかし,正しい絵を見ながら始めれば,ピースはそれぞれ正しい位置に収まります』

こういう文言から分かるように、初めっから「正しい絵」=この本=JW教材を見ながら断片的な字句(ピース)をハメていく作業です。だから聖書の膨大な数の節の中から引っ張り出すピースは大体決まっていて、ハメどころが分からないその他多くの聖句は無視するか、自分たちが前提=結論とする「正しい絵」にハマるように解釈すべき、と言います。

死んだら?どうなるかについては次のような聖句もあります。

『わたしたちはみな[死の]眠りにつくのではありませんが,わたしたちはみな変えられるのです。一瞬に,またたくまに,最後のラッパの間にです。ラッパが鳴ると,死人は朽ちないものによみがえらされ,わたしたちは変えられるからです』

JWはラプチャー(携挙)を否定する立場で、↑の聖句も1914年以降に自然死する14万4千人のみに生じる即座の復活、という解釈です。だからハルマゲドン時にも14万4千人はまだいるかも ⇒ 現在の解釈は「もういない」⇒ でも大患難の開始時点ではいるようだ・・(統治体世代交代の代償として14万4千人の募集解禁、残りの者が減少=終末のカウントダウン解釈が破綻した)なので、本当に終末が近いのなら、高齢者限定の第2グループから外された若手のサンダーソン君とかは、ぽちゃり体系お肌ツヤツヤのままハルマゲドン前に「取り去られる」必要があります。

これは言葉遣いを変えているだけで、14万4千人を文字通りと解釈する違いがあるくらいで、その生じ方は一部のキリスト教が信じている再臨前携挙とほとんど同じになりました。

聖書はいろんな人がいろんな時代にいろんなことを書いていますので、特定された字句の組み合わせだけで分かったつもりになれる本ではないと思います。

これは大昔から指摘されていますが、JW集会は聖句が断片的にしか出てきません。主要集会のWT研究は、その名が示す如くWTの朗読が大半を占め、指定された聖句も読まれますが、部分的に数カ所、朗読にかかる時間は2~3分程度です。これで「主要な教材は聖書」らしいです。

聖書史や原典・原語についての知識の量や正確さを誇ることが信仰でもないと思いますが、聖書研究というからには、字句を探して組み合わせてのパズルゲームではなく、聖書各書の著者、対象、歴史背景等に関する客観的な調査や考察も必要と感じます。JWと“聖書研究”を始めても、指定教材と新世界訳のみを使ってのJW解釈・戒律の断片的根拠(ピース)を覚えさせられる作業で、あてが外れてやめてしまう人も多い。

このブログで書きたいことも大体書いてすっきりしたので、もうやめようかとも思いました。新世界訳の断片的な字句引用をやり返しての組織批評にもようやく終わりを感じてきた、というか飽きてきたので、ほんとうの聖書研究に時間と労力を使いたいという気持ちもあります・・が、組織の迷走ぶりが割とおもしろいことになってきてるのでもう少し続けようかと思っています。

見つめる報い

まだ続きます。

死後や来世や楽園を目的にする宗教は力を失いつつあるのではないか、と書きました。聖書には人類の回復と解放、祝福された時代についての言及もあります。それは聖書のテーマの一つとはいえ、その多くは予言的また抽象的な表現で書かれていて、それがいつ、どのように成るのかはおぼろげにしか分かりません。

ゴッドリーなユダヤ人の主な関心は律法の実践にあり、個人で旧約の予言解釈に踏み込む人はあまりいません。いろんな人がいろんな解釈をすれば不和と混乱のもとになるからです。メシアについても、ユダヤ人の歴史でメシアと主張する人が現れては普通にお亡くなりになっているので、一人の人間というより祝福された時代を象徴的に表わすものと捉える人も増えているようです。

混乱を回避する一つの方法は、一人また少数の人間のみに予言を解釈する権限があり、信者がその権威に全面的に服従する、というシステムを作ることです。そうすれば周りに不和を撒き散らしても、その団体内部は一致できます。ただ某団体のように予言の解釈に踏み込んだところで外しまくるのがオチで、疑問や批判を許されない信者はその時々に言われることをただ宣伝して回るという、イエスが語った盲人が盲人を案内する状態になってしまいます。

最初から話がそれましたが、聖書を基本的に信じる人が、おぼろげに見える祝福された将来、そして「あなた方の場所(イエス)」=「天に属する場所(パウロ)」に穏やかな期待を抱くのは間違っていないと思いますが、細かな解釈に立ち入り過ぎて、いつまでにそうなるとか、その時にこうしている人は救われる、いや救われない、とか宣伝して回るのは信じるとか期待するとかの範囲を超えて神に先んじていることにならないでしょうか。

『キリストの非難をエジプトの宝に勝る富とみなしたからです。彼(モーセ)は報いを一心に見つめたのです』

聖書のせの字もなかった頃に彼が見つめた報いとは何でしょうか。WTは天に属する場所=神の王国の地上の領域?がどうたらとか言いますが、彼が今のJW解釈と似た何かを妄想していたとも思えません。楽園に復活して、自分を有名人扱いするよく分からない人たちにチヤホヤされ、毎日のように予定を組まれては順番にインタビュー的なことをされるとか、ゾウやライオンと戯れる姿を思い浮かべていたのでしょうか。

あえて言うなら、父祖アブラハムに与えられた、彼の胤=子孫が海の砂のように増え、約束の土地を受け継ぐという約束かもしれません。モーセはその地に入る直前に120歳で死にましたが、彼はその約束のゆえにその民と共に虐げられることを選んだのでしょう。

ではキリスト者が一心に見つめるものは何でしょうか。その後の文脈でパウロはこう語ります。

『わたしたちの信仰の主要な代理者また完成者であるイエスを一心に見つめながら』

ある意味での「地的な希望」を抱いているのはJWだけではありません。携挙に続いて生じる患難と裁きの後に、聖なる都市=新しいエルサレムが神のもとから下るとき?それが新しい地に戻ること意味していると信じるクリスチャンもいるようです。

いずれにせよ、抽象的な予言の解釈は千差万別です。どれかの説に基づくその人なりの捉え方でおぼろげな期待を抱くのはいいとして、聖書には「延期される期待は心を病ませる」ともあります。

思えばラザフォードも妄想が行き過ぎて1925年にモーセやダビデなどの「君たち」が復活するからと寄付を集めて豪邸を建て、誰も復活しなかったので自分のオフィスにして余生を過ごす⇒その後協会はちゃっかり売却してますね(ベト・サリムで検索)。今ウォーウィックに建てられている御殿も統治体様の快適なオフィスと余生を過ごす別荘になることでしょう。

この世と生を超えて何かがあるとして、それはおぼろげにしか掴めません。期待は自由ですが、それを勝手に宣伝しての人集めもちょっと無責任なのかなあと。

人の務め

神学の話では割とエキュメニカルっぽいことも書きましたが、キリスト教が組織・解釈において一致することはないと思います。かといって自分たちだけ救われる、という組織は自らの一致のために個々の信者を独自のルールで裁き、犠牲にします。これを拡張すればキリスト教だけ救われればいいのか、となりますが、今はそこまで広げる余裕はありませんし、万人救済もさすがにどうかと・・結局、聖書1冊の解釈で人が“神の意思”をどうこう決めつけることはできないと感じます。

イエスの親切なサマリア人の教えは、普遍的な愛を示します。愛を広げなさい、と教えたパウロでさえ、「すべての人、ことに信仰において結ばれている人」と語ったように、どちらかというと仲間の信者を優先する(かのような)言い回しで、これをキリスト教どころか自らの組織を中心に狭めに狭め、組織が排斥した人を理由も知らずに道の反対側を通って無視するのがJWの愛です。

でもイエスの教えは、宗派だけでなく、宗教の違いさえ超えるポテンシャルを秘めているのかもしれません。1人1人は微々たる存在でも、かのサマリア人のように、自分や自分の民族・宗派を高めるためでも(手段)、救いのためでも(手段)、何かの勧誘のため(手段)でもなく、それを個人レベルで実践する=ただ行なう、ことがイエスの教えのような気がします。

『神を恐れ、そのおきてを守れ。それが人の務めのすべて(人間のすべて:新共同訳)

死後や来世や楽園を「目的」にする宗教は力を失いつつあり、JWもその同じ道を辿っています。目的、目的、目的は何か?ばかりに囚われると、そのために行なう行為が手段になり、歪んだ動機や死の恐怖を利用する者たちに支配されるだけです。

キリスト教の歴史も人間の過ちで満ちていますが、聖書自体がそうです。さんみいったいにも合理的また論理的に説明できない部分はありますが、JWからは、その「神の奥深い事柄」(新世界訳)を知ろうとした上での反論というより、的のずれた物理的、局所的、字句的な攻撃論ばかりを聞かされてきたことにも気づきました(だから“分かり”やすい)。

私見を交えて神学に少し立ち入ってはみても、自分の知識などたかがしれています。さらにいろいろ読みたいという気持ちもありますが、神についての人間側の唯一正しい説明など存在しなくても、「ただひとり知恵がある」のはその方です。人の理解や知識を誇ることが信仰でもないと思います(本当に知識のある人が言うとカッコいいんですが)。

『そねみや対抗心によってキリストを宣べ伝えている者たちもいますが,ほかの者たちは善意によってそうしています。 後者は愛の気持ちからキリストを言い広めています。・・しかし,前者は闘争心からそうしているのであって,純粋な動機によるのではありません。・・ではどうなるでしょうか。見せかけであっても真実であっても,あらゆる方法でキリストが言い広められている,ということにほかなりません。そのことをわたしは歓んでいます。そうです,これからも歓んでゆくのです』

かつてJWは “偽り”のキリスト教が広まることで、“真の”キリスト教である自分たちが増える土壌になったと言い放っていましたが、これからは彼らとの接点がきっかけで聖書に興味を持ち、客観的に調べると ⇒ 他のキリスト教信仰に導かれる人も増えてくると思います。その点において、JW布教すべてが無意味であるとも思いません(経験者ゆえ注意喚起はしますが)。

いい意味での“対抗心”くらいは構いませんが、ただシンプルにキリストを伝える人が、誇らず、裁かず、要求せず、支配せず、ただそのことを歓べる時が来ることを願います(無理ですか)。


「すべての人が偽り者であったとしても、神は真実であることが知られるように」

ただ一人「真実な方」を求め続けるすべての人に恵みがありますように。

尋ねたい質問②

「エホバの証人だけが救われると信じていますか」

JW.orgの答え:いいえ。これからエホバの証人になる人もいますし、過去においてエホバの証人でなかった人も復活してチャンスを与えられるので、(現在の)エホバの証人だけが救われるなんて言っていません。裁くのはわたしたちでわな・・

はいはい、もういいです。質問を変えます。

「みなさんの仰るハルマゲドンの時点で、宗教的観点において、エホバの証人の洗礼を受けた人、または洗礼への途上にある人だけが救われる ⇒ 自分たちに勧誘されても他宗教・他宗派から改宗しようとしなかった人はすべて滅ぼされる、と教える団体なのですか」

WT出版物の答え↓

『その戦争(=ハルマゲドン)を生き残って神の新しい世で命を得るのは,この世が愚かなことと呼ぶもの,つまりエホバの栄光ある王国の良いたよりに従う人々だけです』(WT1992年)

さて、この主張をはっきり撤回はしていないものの、最近では微妙にニュアンスを和らげた表現も見られます。

『ハルマゲドンの時には,矯正できないほど邪悪な者たちだけが滅び,「大群衆」が生き残ります』

「だけ」の位置が微妙に変わりました。

それで人類数十億人の内、残念ながら(幸運ながら?)JWと接点が全くなかった(JWに矯正してもらう機会がなかった)人は滅ぼされない、と言う現役さんもいます。世の中に無数ある宗教・宗派・団体の中でもマイナーないち教団の人に勧誘される機会があったとかなかったとか、まーちっこい話だと思うのですが、神がそれを裁きの根拠にする、と本気で信じているようです。

それは別にいいんですが、接点がなければ滅ぼされない、とはっきり書いてしまうと「救いのためにできるだけ多くの人=接点がなかった人を探し、JW解釈を伝えよ」という号令が無意味になってしまいます。

だから~・・数千年の歴史がある聖書を使って、「今この時に」クリスチャンが布教する主な理由をハルマゲドン云々と絡めることに無理があるんですって。そう信じて宣伝したいなら自由ですよ。だったら接点があるとかないとかどーでもいいから、ハルマゲ時点でワレワレJWに改宗する素振りを見せていない人はすべて滅びます!と潔く公言したらいかがですか。

WTが、微妙なさじ加減でニュアンスを柔らかめに変えているのは、作戦と思います。

対外的には、自分たちだけが救われるとは言っていない、他と同じ宗教の1つ、その自由は保障してね、彼らは他宗教を尊重している、自由であるはずの宗教を批判する方が狭量、国際常識だよ?という印象を与えて人を引き寄せ、取り込まれて信者になれば、自分たちだけが救われる唯一の宗教、救いのためにこの組織に導け、という構図を刷り込む教化を開始します。最近、ものみが一般用と信者用に分けられたのも神権的戦術でしょう。

言質をとられるような明らかな二枚舌は絶対に使いません。特にJW.orgの回答は緻密に計算されています。言質を与えずに、読んだ側がはっきり書いてない事を言って擁護してくれる、でも信者は唯一救われる宗教と強烈に思い込んで宣伝してくれる、こういう印象操作はお手の物でしょう。

「自分たちだけが正しいのか」という批判に対して、「みんな自分の宗教(だけ)が正しいと思うから入ってるんでしょ?じゃなきゃ他を探すでしょ?」とJW.orgで言ってますが、宗教を信じる人すべてが「正しいか間違いか」「救われるか裁かれるか」の乱暴な二極論であらゆる宗教団体をジャッジした結果ではないと思いますよ。

人の集まりで成り立つ宗教にも絶対はないと穏やかに考える人の方が多いのかもしれません。

尋ねたい質問

エホバの証人に尋ねたい質問①

「集会の出席や伝道の参加が救いの条件ですか」

JW.orgの答え:いいえ。救いは神の無償の賜物です。んなこと一言もいってません。

そうでしたね。ごめんなさい、質問を変えます。

「現時点でのエホバの証人のすべての集会に基本的に参加しないとバプテスマは受けられませんか」

JWもバプテスマ=洗礼が救いのための公の宣言であると認めています。ではその条件に、すべてのJW集会への基本的な出席が含まれていますか。

WT出版物の答え↓

『バプテスマを受ける用意ができているかどうか,どうすれば分かるでしょうか。一つの方法は,以下のように自問することです。『聖書の基本的な教えを説明できるか。親が出ていない時でも,奉仕に参加しているか。クリスチャンの集会すべてに出席しようとしているか』

『やがてわたしは,クリスチャンの集会に出席するのは単に証人たちがそうするよう求めているからではない,ということを認識しました。ヘブライ 10章24,25節によれば,それは神が求めておられることなのです。それで,すべての集会に出席し,仲間を本当に知るようになった後,エホバに献身したことの象徴としてバプテスマを受けました』


ヘブライ10章の断片的字句を引っ張り出して、エホバの証人のすべての集会に出席することを神が求めている根拠にするのはどうかと思いますが、こういう文面からだれでも分かります。その時点で統治体=人間が決めた集会すべてに出席することがバプテスマの条件です。

「組織」の本には一応、「道理にかなった範囲で」みたいな一文もあります。でもこれは、健康問題や家族の世話といった個人的状況に応じて時折出席できないことがある、程度に適用されるだけで、非信者家族との兼ね合いや仕事の都合でどれか一つの集会に基本的に出席できない、という人がそのまま洗礼を認められたケースを知りません。休日や平日の夜に家族を置き去りにしてでも、すべての集会に出席するよう要求され、家族の反対=サタンの妨害、と教えられるのです。

バプテスマ ⇒ 救いの宣言 ⇒ その条件 ⇒ すべての集会に出席 ・・でも集会の出席が救いの条件とは一言もいってない・・普通の感覚で言うと巧妙な二枚舌、と言われても仕方がないでしょう。
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