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閉鎖的階級制度

2つのグループがあります。

1つのグループは「だれでも自由に意見を言える場」であることを規約としています。ところが、その中の1人がある事案について、「この件については自分の意見が絶対に正しい。反対意見をする人は考えを改めるべきだ」と強く主張します。この人の物言いに傷ついたり、萎縮したりして、自由に意見が言えなくなったと感じてグループを去る人も出ます。

それを見かねた他のメンバーは結託して、「ここは誰もがイーブンに意見を交換する場所です。自分の意見を強制するような発言を繰り返すなら、あなたの出入りを禁止します」とその人に通告し、実際にその人は排除されます。

別のあるグループは「代表者の意見が絶対でそれを学ぶ場」であることが規約になっています。ところが、その中の1人が「自由に意見が言えないなんておかしい。代表者の意見が間違っていることもある。規約を変えるべきだ」と強く主張します。

同じように他のメンバーは結託して、「ここは代表者の意見を守ることでみんなが一致する場所です。その一致を乱すような発言を繰り返すなら、あなたの出入りを禁止します」とその人に通告し、その人は排除されます。

多数により一人の人が排除された、という構図は同じです。では、どちらのグループが狭量なのでしょうか。難しいですね。一見、最初のグループの方が正しいように思えますが、「自由」を強制するのもアメリカ的です。自由主義・民主主義を絶対視して、それを採らない国家や宗教すべてを力で排除しようとすれば、それはまた別の支配です。

どちらのグループから排除された人も不当だと言いますが、不当に排除された、というのもちょっと違うと思います。どのグループにも内部規約があり、それが「正しい」かどうかは別として、それをちゃんと知らされた上で、同意して入った人が従わなければ排除されるのも仕方ありません。

でも、グループが掲げている公約自体に反するやり方で排除されるならまた違う話です。例えば、最初のグループは「だれもが自由に意見を言える場」と謳って人を集めているはずが、あるテーマで自分の意見を言っただけなのにそれがリーダー格とされる人物の不興を買い、密室に呼び出されその類の発言はしないよう圧力をかけられる ⇒「ここは自由に意見を言える場ではないのか」と問い返すと、その場で一方的に排除を通告され、グループには「○○さんはこのグループの一員ではなくなりました」とだけ発表される。しかもその発表には「一切の接触を禁じる」という暗黙の命令が含まれていますが、狭量なサークルと思われたくないので、対外的な公約には「メンバーでなくなった人を避けることはしません」としれっと書きます。

そんなやり方をするなら、「だれもが自由に意見を言える場」であるとの看板が偽りです。後者のグループのように「代表者の意見とその任命による序列は絶対 ⇒ 自由な思考・発言は禁止 ⇒ その一致を乱す人は排除 ⇒ 以後メンバーからの接触も禁止」と言っていれば、その代表者の信条に心酔して入った人も、間違っていることに気づけば自ら辞めるだけです。実際、初めから「この人が絶対的な教祖!」ということがはっきりしていて、それを公言している教団に比べ、JWを辞めた(辞めさせられた)人が声を上げている割合が多い一因はそこにあるのかもしれません。

『エホバの証人は、長年にわたって「あなたがたはみな兄弟」です、というキリスト教の創設者の指示に従っており、彼らの間には僧職者階級がありません』

↑のように、この組織が「キリストだけが指導者・創始者で、(他のカルトとされる教団とはちがい)人間の指導者はいない、上下関係もない、みなが兄弟であるミラクルな組織」と謳って人集めしているので、「騙された」と感じる人も多いのでしょう。対外的にも「組織の方針に反対する人に何かの措置を取ることはしていない」と言ってるようです。もうウソつき☆

なので、あるグループが狭量かどうかの判断は、ただ排除された人がいるかどうかよりも、公約の内容そのもの、またその表向きの公約通りに人を扱っているのか、ということによるのでしょうね。

『中世以来腰を据えてきた誤った閉鎖的階級制度を覆すのは容易ではない』

ある司祭の言葉を引用したものみの塔・・その誤った閉鎖的階級制度が暴露されまくりですよ。

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続・輸血

輸血問題でJWに見られる傾向は、輸血のリスクと無輸血医療のメリットをやたらと強調することです。それは論点をずらしている、と思います。

当初、JWは「健やかにお過ごしください」というヤコブの言葉に「健康にいい」との意味合いがあるかのように適用していましたが、今ではその言葉は「さようなら」の慣用句でしかない、と認めるに至りました。実際、神が血を避けよ、と命じている理由が「体=健康に悪いから」というなら、命を賭してまでそれを拒否する聖書的な理由が見当たりません。

ノアの時代に「血を伴う肉を食べてはならない」との命令は、血によって表される命を神聖なものとし、食べるために殺す命=血は地面に注ぎ出す、という掟と理解しています。もちろん生きたままの動物の肉や血を殺さずに食すことなど、言うまでもなくさらに残酷でしょう。ヤコブの言及も同様に、血(を伴う肉)を避けよ=食べてはならない、ということです。

つまり「食べるか食べないか」だけの話で、命を左右する類のものではありません。聖書が明確に特定している「殺して食べる」行為と、聖書に何も書かれていない医療としての「生きたままの移植」行為をごっちゃにしていいのでしょうか。臓器移植もNGになってしまいますね。事実、JWはそう解釈していましたが、今では“調整”されて臓器移植は個人の判断になっています。

個人レベルで安易な輸血はしたくない、というなら別の話ですが、問題は不測の緊急事態が生じた時に救命措置として行う輸血をも全信者に禁じている、ということです。リスクなど承知の上で、命を救うための一種の移植行為として行ないます。献血者の命を奪う事もありません。臓器移植も輸血も術後のリスクがあるのは当然で、必要もないのにしてほしい人もいないと思います。

「血(を伴う肉)を食べるな」という文言が、救命措置として行なう輸血という医療行為を神が禁じているという人間の解釈に強制力を持たせ、神聖な命を失わせてもよいのでしょうか。

「輸血のリスク VS 無輸血のメリット」

「輸血拒否で死んだ人数 VS 無輸血医療で恩恵を受けた人数」

「安全な血液確保のためのスクリーニング手法の進歩 VS 無輸血医療の進歩」


という勝負ではないと思います。

無輸血医療が進歩するのは普通にいいことです。でも過去において現場の医師が、自分の知る範囲で他に手段がない、その時、目の前の命を救いたい、とやむなく行う緊急措置としての移植行為までを神が本当に禁じていたという根拠を、医学ではなく純粋に聖書そのものから示していないように思います。JW解釈の正しさは、医学上のリスクの有無に依存しているのですか。

純粋に聖書だけを読んで、神が本当に禁じていると思うならそうしてください。禁じられた木の実は毒だったんですか。その成分と体に与える影響を医学的に調査して「理に適った禁止命令だ」とでも言いたいんですか。一方で分画なら個人の判断でいいよ、なんて偽善的な指導はもうやめましょう。木の実を丸ごとかじらずに、ジューサーにかけて果肉を除けば飲んでもよかったんですか。

臓器移植解禁の時に一緒にやっちゃえばよかったのに、今さら後には引けないので、部分輸血を徐々に解禁しながら少しでも一般ウケしようと論点をずらしているだけです。ヤコブが割礼問題のおまけで語った「避けよ」の1点張りがもう限界なのを、指導部も薄々分かっているように思います。


過去、無輸血手術を同意しながら緊急時には輸血する方針を立てていて、それを実行した病院側が敗訴していますが、それは仕方ないと思います。はっきりと、命に関わる緊急時には輸血します、と言ってイヤだというなら他を探してもらうしかないでしょう。病院側の良識やリスクはお構いなしに自分の権利ばかりを主張するJWに辟易して受け入れを断る病院も増えていると聞きます。

日本支部が近々、手術時に病院側から署名を求めるよう信者に指導していた書類の一部を廃止する話が拡散されていますが、そんな背景も理由なんでしょう。さじ加減一つの微調整で段階的緩和なんて神権的戦術はやめて、組織のメンツよりも人の命が神聖だと思うなら、さっさと全面撤廃、すべては個人の判断と自己責任にした方がいいんじゃないかと・・

共存関係

前回のものみ記事に限らず、巡回さんやベテルの人が大会等でする「やもめの硬貨」的な話を聞くと、自分としては「人の肩に重りをくくりつけて自分は指一本動かす気がない側の人間が・・」でしかなかったのですが、こんなお決まりの話でも毎回のように感動する方もいました。

旬な話で言えば、「やもめの硬貨」がどうとか言いながら「巨額の資金」を要請したり・・この「言ってることとやってることの矛盾(ギャップ)」に誰も疑問に思わないのか?と不思議でしたが、実はこの手法には強力な効果があるのではないかと思います。

以前の記事で、いわゆるカルトとされる宗教団体の被害とDVによる被害は似ている、というコメントを頂きました。ドラマとかに出てくるDV夫の場合でも、ただ虐げるだけのどうしようもない男だと妻が見切りをつけて出ていくのも早いのですが、タチが悪いのは時折、妙に優しくなる夫です。

「オレはお前を必要としているんだ・・そばにいてくれ」

そのギャップにもう胸キュン(死語)で、「必要とされたい」とか、普段の無理難題要求も「自分がまだまだできていないからだ」とか思い込んでしまう共存関係が深まります。これだけ義務要求が多い組織で、その話に慰められてしまう一因にも同じような要素があるのかもしれません。

たとえばの一般例ですが、週3~4日のバイトで生活費を得ながら開拓奉仕、他の時間も個人研究、予習、集会、集まり・・組織が勧める模範的生活・・これが神に喜ばれる生き方だと疑うことを知らずも体がついていかず、慢性的な疲労や体調不良に悩まされるようになるが原因は特定できず、ついに開拓を降りると「エホバ、ごめんなさい」と泣き続ける日々・・

そこで集会に来て「あなたはエホバの目に貴重です」とか「今できる奉仕は高く評価されています」なんて話を聞くと、涙が止まらないんですね。まさに自分の今の気持ちを分かってくれている神様のことば・・となるようです。

話す側にとっても「自分の話で聴衆が泣いている」というのは最高のJW的エクスタシーで、話の後にはお礼を言うために信者が列を作ってならんでくれます。

こんなステキ集会を開く場所を建設コストの高い地域(笑)でしかもいっぱい作るのに巨額の資金が必要 ⇒ でもあなたの助け(寄付)という形で神が備えてくださることを確信しています♪なんて言われたら、なけなしの生活費をさらに削って寄付しちゃいますよ、それは。

個々のJWの必死さや純粋さを揶揄するつもりはありません。彼らから組織という偶像を取り上げたところで、モーセがいなくなるや今度はアロンに「自分たちを導くを神を作ってくれ」と必死に懇願するイスラエル人のように、自分はそれに代わる神や組織を作ったり示したりもできません。問題があるのは人の心理を利用してこのような虚構を作り上げている側です。アロンのように求められたからでもなく、自ら神の組織と謳い、神のイメージを形作り、支配するのに利用しているからです。

この歪んだ共存関係がどこまで計算なのかは知りませんが、次の聖書の言葉は真実です。


『あなたが慕い求めるのはあなたの夫であり,彼はあなたを支配するであろう』


罪を犯す前の女が「補うものとなる助け手」と呼ばれた時、上下関係は示唆されていません。ふたりは一体となります。その変化に自我=罪?の意識がどの程度関係していたかは分かりませんが、人は支配を慕い、支配し支配される生き物になってしまったのでしょうか。

誤った前提

昨年の目ざめ12月号『ニュース報道を信頼できますか』・・海外のメディアでJWの児童虐待や排斥問題の報道がされたことへの牽制球でしょうか。最近も、ヨーロッパのNGOが国の法務省にJW排斥措置について報告したとの情報がエホバの証人研究さんの記事にあります。

この目ざめ記事、JW集会に倣って復習してみましょう☆

相変わらずですが、内容そのものはけっこう正論です。それでJWに関心を持つ方にも是非、同じ原則をWT出版物にも適用してバランスの取れた判断をしていただきたいですね。

ニュース報道が信頼できない理由①: メディア王

『報道機関の所有者の収益を阻害するような記事は、概して報道されません』

WT協会に民間企業のスポンサーはない・・はずです。しかしその内容を支配している「非常に強力な一握り」の人間・・それは統治体です。彼らはJWという狭い世界における広報機関=WT協会の王です。統治体の権益や寄付の収益にマイナスになる記事は概してどころか、決して載りません。ものみの塔が敗訴した裁判の記事が取り上げられるでしょうか。

ニュース報道が信頼できない理由②: 省略

『幾つかの事実が誇張され、他の事実が滅殺されます』

「排斥されても家族の絆は変わりません!(でも復帰しない限り関わりを避けます。同居していない場合、連絡することも禁じています。安易に交流を持つと、唯一救われるこの組織に戻ってくる気が失せてしまうからです。それがわたしたちの家族としての愛の示し方です)

「会衆では、会計状況が定期的に知らされます!(でも「世界的な業」の寄付の行き先である、億単位の資産を扱う『ものみの塔協会』は、『エホバの証人』との法律上の関係はありませんので、資産額も会計状況も使い道も一切公表しません)

JW.orgのよくある質問への回答がこんな具合です。もっともらしく聞こえる部分だけ書かれていて、重要な事実に触れられていないことがありますか。

ニュース報道が信頼できない理由③: 誤った前提

『今日は事実と思われていたことも、明日には間違いであったことが分かる場合もある』

エルサレム滅亡BC607年を主張する特集記事などのように、「1914年」が絶対に正しい、どうしても逆算したい、という前提のもとに“根拠探し”が行われる場合もあります。最近の解釈変更は、何かの前提・結論ありきになっている可能性はありませんか。まさに今日明日で解釈がいきなり都合よく変わることを悪びれるどころか、神様の時宜にかなったお導き、と開き直っていませんか。

以下、この記事の結論です。

『ニュース報道を何でも信じ込んだりしないのは賢明なことですが、どれ一つ信用できないというわけではありません。要は、固定観念にとらわれないで、確かめてから判断することです』

「ニュース報道を信頼できますか。『経験のない者はすべての言葉を信じ、明敏な者は自分の歩みを考慮する』という(聖書の)言葉は、健全なアドバイスであると言えます」

すばらしいアドバイスですね。それでWT出版物を読む方にも、「ニュース報道」→「WT出版物」に置き換えて、固定観念にとらわれずに判断をされるようお勧めします。

このブログの目的も、JW.orgには載らない情報や考察を発信することなので、取り上げる内容には偏りがありますのでご了承ください(笑)。でもWT協会はこのようなブログは絶対に見ないよう紙面で訴えますが、自分は遠慮なくJW.orgも精査して比較してほしいと願います。

自己認識②

先回取り上げたも塔記事、「利己的な傾向を克服しましょう」という内容が間違っている、という訳ではありません・・が、こういう記事を読んで誤解する人もいるような気がします。

「自分は利己的な人間だ」と言葉にするとわざとらしいですが、それを自己認識できる人はすでに利己的ではない可能性があります。イエスが教えたように、見せかけではなく私的な祈りで「罪人のわたし」と自己言及した人こそ「義にかなった者」であることを示しました。

私利私欲のために意図的に悪事を行ない続ける人もいますが、利己的であるとは、それを認識できていない状態そのものである場合が多いように思います。自分は利他的だと自己満足している人ほど、実は利己的だったりします。JWの自画自賛の自己言及もこれに似ています。

実際、努力で利己心を克服し、利他的になりましょう☆という教育は、人を気遣っているように見えても実は独善的で利己的な人を生みだしているのではないかと。逆に克服しようとしては挫折し、自らを愛せずに気持ちを病んでしまう人もですが。

頑張って頑張って頑張って、「ついに自分は利他的な人間になれた!」と自己認識して賛美できることが目標ですか。あれ?パリサイ人にループしてませんか。

ニーチェも自己満足という錯覚に陥る見せかけの「無私」や「隣人愛」を語っています。

『あなた方は隣人のまわりに群がり、それをさも美しいことのように言う。しかしわたしはあなた方に言う。あなた方の隣人への愛は、あなた方自身への愛がうまくいかないからだ。あなた方は、あなた方自身から逃げ出して、隣人の所に行くのであり、それを美徳にしたいと思うのだ。しかし、わたしはあなた方の「無私」を見抜いている。・・あなた方は、あなた方自身にがまんできないし、自身を十分に愛してもいない。そこであなた方は隣人を愛へと誘惑し、隣人の錯誤によって自分自身に鍍金(メッキ)をかけようとするのだ』

えーなにこれってJWに多いような・・そりゃーそうでしょう、世界で唯一正しい宗教に入信したと自己言及する人の集まりなので・・そんな大仰な看板を負わせては自らをそれに適う存在にせよとの教育や、それが生み出す義務要求や人間関係に疲れ果てる人が続出です。


『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』


JW教育に欠けているのは、組織に依存しない個としての自身への愛であるように思います。というか依存するように仕向けることが目的なのでそんなつもりもないでしょうけど。

ヤコブが意図していたかは知りませんが、その言葉は自己認識の限界を示していると思います。「地の人の道はその人に属していない」のです。だから人にみ言葉が与えられたのではないでしょうか。それは自分を責めるためでも、高めるためでもなく、ただ「それを行なう人」となるように・・それが聖書のシンプルな教えだと思います。

自己認識

昨日のも塔記事も、聖書は「自分の汚点探しの本」とばかりに、とにかく利己的な傾向を克服しろ、という普通に気が滅入るものでしたが、気になったのがヤコブの言葉です。

『み言葉を聞いても行なわない人がいるなら,その人は,鏡で自分の生まれつきの顔を見る人のようなものだからです。その人は自分を見はしますが,そこを離れると,自分がどのような者であるかをすぐに忘れてしまうのです。しかし,自由に属する完全な律法の中を熟視し,守り通す人,その人は,聞いてすぐに忘れる人ではなく,業を行なう人となっているので,行なうことによって幸福になります』

JW的業=活動の奨励に利用するお得意の聖句ですね。

これを根拠に、彼らは聖書=鏡(毎朝出かける前に髪の乱れやひげのそり残し、汚れをチェックする)であり、内面の汚点・欠点を日ごとにチェックするものだ、と主張します。

鏡を比喩に使ったヤコブの真意は分かりません。自分はこれからたぶん違うことを言います。でも1世紀の平均的なユダヤ人が、現代人のように毎朝の出勤前に身だしなみチェック!のように鏡を使っていたのかは知りません。

「鏡で自分の生まれつきの顔を見る」・・とあります。これは自己認識のことを言っていると思います。鏡を見て「自分だ」と思うのは人間だけです。でも自分だと認識したからといってどう、ということもありません。それが自分の生まれつきの顔であり、それ以上でもそれ以下でもありません。鏡を離れれば、自分がどういう顔をしているかを意識して生活する人も、1日に何度も鏡の前に立って自分の容姿を再確認する人もあまりいないでしょう。

それが人間の自己認識の程度です。ヤコブは、良し悪しではなく、ただ人間とはそのようなものだ、と語っていたようにも思います。イエスも「藁とたる木」の例えで教えたように、自分の内面を客観的に判断して言及することにも限界があり、それを忘れがちな生き物です。だから、み言葉の教えを聞いたのなら、まずそれを自らにあてはめよ、という戒めの言葉ではないでしょうか。

自己認識の問題で有名なのが、次のパウロの言葉です。

彼らのうちのある者,彼ら自身の預言者が言いました,「クレタ人は常に偽り者,害をもたらす野獣,無為に過ごす大食家」と』

今さら自分が語るまでもない話ですが、このクレタ人への言及が正しければ、この言葉を語ったクレタ人は正直者です。またはこのクレタ人が、自らが語ったように常に偽るクレタ人であれば、この人が偽り者であって、実は善良で正直なクレタ人を誹謗中傷しているのかもしれません。

自己評価と自己言及が生じさせる表記(言語)上の矛盾は、イエスも語っています。

2人の人が祈っています。1人はパリサイ人で、自信満々に天を仰いで「自分は不義な者ではなく、週ごとに断食をして十分の一税も納めている」と誇ります。

他方、もう1人の収税人は天に目をあげることもせず、「罪人のわたしに慈悲をお示しください」と祈ります。イエスは自分を罪人である、と自己言及した人の方が「義にかなった者」であることを示した、と言います。

さて、前置きがやたら長くなりましたが、これが昨日のも塔記事、「利己的か利他的か」にどう関係するのかは次回にします。

任命権

えーと、長老と奉仕の僕の任命について。

今後、WT協会はノータッチで巡回さんが任命・削除の権限を持つとのこと。下々の者が何を言っても憶測でしかありませんが、一応自分なりの感想といいますか。

単純に、協会さんは長老や僕の任命に関心がなくなったと思います。

かつて開拓者も協会の任命でした。長老が推薦しても通らないこともあり。それは特権意識を高める効果がある一方、「自分は協会から任命されている」という妙なプライドの元にもなり、長老が削除しようとするとトラブったり。北海道大量粛清事件も開拓者の資格削除が発端だったり。

今や開拓者の任命は、協会ノータッチでジモ長がweb上で登録するだけで完了。

長老の任命も リスク > メリット になってきたので、“簡素化”するのかもしれません。

巡回さんの一存が全てであることは今までも同じですが、長老・僕の任命でも、巡回さんが同意しても協会の承認が通らないことが多々あるようです。すると巡回さんの目も厳しくなります。巡回さんは毎週そんなことやってるので、その人がどうこうよりも(というか半年に1回しか来ないから評判という名の噂話を収集するだけで、本当はよく知らない)、手紙の字面でしか判断しない協会が承認時にこだわるポイントを熟知しています。お粗末な推薦を上げると協会からの評価が下がりますし、自分の同意した推薦が蹴られると長老団の手前もちょっと恥ズカシイです。

それがなくなると、巡回さんの好み次第で長老・僕の任命がしやすくなるはずです。もちろん、削除もしやすくなりますね。これにより長老の相対的なステータスは格下げされ、巡回さんとの上下関係がこれまで以上に明確になると思われます。


協会は一般信者を信用していません。導かないとすぐ迷う、繰り返し言わないとすぐ忘れる、義務づけないとやらなくなる、規則で囲わないと罪を犯す、余計な情報を知れば動揺する。

今やローカル長老もあまり信用していないと思います。一般信者を統制するためにローカル長老にセキュリティークリアランスや特権意識を与えて代理支配させてきましたが、最近は長老クラスからも造反が止まらず、批判サイトに情報提供する人もいます。長老の統制が取れません(笑)。

それで長老宛のブラック情報も減らしていくのかもしれません。ローカル会衆に最小限の基金だけ残して有り金をすべて徴収すればもう用はない。今後はトラブルの元になる余剰金は増えないようローカル会衆への寄付も巡回さんが会計検査でチェック ⇒ 毎年の決議額の調整ですべて搾り取る。「強く異議を申し立てる」長老は巡回の独断で削除。


さすがの巡回さんも大丈夫か?と思いますね。これまでにも増して協会の代理支配をたった一人で行うのですから。巡回クラスからも燃え尽きや造反組、逆に権限強化で勘違い暴走しちゃう人、とか出てきたら面白いことになりそうです。そうなればまさに末期的です。

何に導く?

服の話になったのでおまけですが、前にも取り上げたも塔の引用です。

「教会に行くのがいやなのは,大酒飲み,うわさ好き,うそつき,詐欺師だと分かっている人々が毎週日曜日そこにやって来てお祈りをし,賛美歌を歌っているからです。偽善者を尊敬することは決してできません。ところが,わたしの通っている教会は偽善者で一杯です」―1979年5月27日付,パームビーチ・ポスト‐タイムズ紙。

教会は偽善者だらけのように思わせる引用はどうかとおもいますが、人につまずいて通うのをやめる人は他教会にもいます。

しかし同じ理由でJWを離れる人も多く、その数は増えています。

だからJW組織は、人をよく見せて引き寄せよう、他組織とは違うところを見せようと必死です。“高い基準”を自慢します。業を誇ります。ドレスコードなどの不文律もいっぱい作ります。その基準に達しない人は神に栄光を帰していない、と思わせます。せっかくのイエスの贖いも「JW的2つの希望解釈」「感謝する=JW活動を行え」の記念式の話で台無しです。

「すべての者は罪を犯したので神の栄光(=基準)に達しない」(パウロ)

「わたしは義人たちではなく、罪人たちを招くために来たのです」(イエス)

人をよく見せて人を集めても、同じように人=罪人につまずいて離れる人が増えるだけです。キリストではなく人や組織をアピールしている分、その傾向はJWに特に強いです。キリストを通して神に引き寄せられるのがクリスチャンではないでしょうか。素朴な疑問です。

JWは入信する人もいる一方で、辞める人も非常に多いです。毎年JW洗礼を受ける人の数は、日本ではもう全盛期の数分の一ですが、それに見合う増加さえしていません。

JWが公表しない辞めた人の数は、無責任で都合のいい勧誘方法の表れと思います。事実、いい所だけアピールしてとにかく洗礼を受けさせ、後になって人につまづくと・・

① 「あなたはキリストの弟子ではないのか?」
② 「神との個人的な関係はどうなったのか?」
③ 「他のどの組織が自分たちより優れているというのか?」

・・と、それ自体は答えようがないマニュアル通りの質問で問い詰められます。

辞める人の決定を尊重するどころか、“真理”を知った以上あなたには永遠の滅びしかない、と脅すだけでなく、辞め方によっては家族を含む全信者に一生忌避することを命じます。

さすがにその論理もいい加減、なんか釈然としない感じになる人が増えていますよ。だって冒頭のような恣意的な引用をして偽善者だらけの教会に行くのをやめるのは至極当然、みたいな言い方しておいて、自分たちにはどうしてそんなに都合よく甘いのですか。

教会やそこに通う人の不完全さなど承知の上で、場所や団体を探すのではなく神とキリストを求めるために教会に通い続ける人もいます。程度の高い低いや、業の多い少ないを誇って競って人を奪い合うことが聖書的な布教ですか。イスラム教圏なんか、ごく少数のキリスト教徒メインに“布教”しに行くだけですよね。キリストに導こうという気が本当にあるのでしょうか。

服で賛美②

旧約の律法には、体や衣服の清潔さについての細かな規則があります。しかし、人を罪に定める律法主義者の偽善を非難したイエスは、服装についても何の成文規則も残しませんでした。

『指に金の指輪を幾つもはめ,きらびやかな衣服を着た人があなた方の集まりに入って来るとします。また,汚れた衣服を着た貧しい人が入って来ます。ところが,あなた方はきらびやかな衣服を身に着けている人に好意を示して,「あなたはここの良い場所に席をお取りください」と言い,貧しい人には,「あなたは立っていなさい」とか,「そこのわたしの足台の下の席に着きなさい」と言います』

これはパウロではなくヤコブの言葉です。ヤコブも何も間違ったことは言っていませんね。「あなた方の集まりに入って来る」とあるので、JW的に言えば“新しい人”を想定しているのかもしれませんが、一見さんに限っては汚い服でも大目に見ろ、とも書かれていません。

JWも表向き「服装や外見で人を差別しません!」と言います。それで長髪の男性やJW的に“だらしのない服”を着た人が集会に来ても、歓迎している写真を載せます。一見さんだからです。

それも最初の内だけで、そんな外見のまま何カ月も何年も集会に来ることを続けても、洗礼は受けられません。だれかがマンツーマンで聖書勉強をしていればその人が「どういう指導をしているのか」と指摘されたり、最初の歓迎シャワーがなりをひそめ、よそよそしくされ始めたりします。

これがしばらくJW活動を休止していた人の場合、もっと露骨に手のひら返されるの早いです。久しぶりに集会に来た時に「この世的な服装や髪形」をしていても歓迎されるかもしれませんが、その外見のまま集会に来れば他信者からの目は険しくなり、長老からの指導が入ります。会衆によってはハナっから裁く目で見る人もいるでしょう。

前記事の繰り返しになりますが、ジャケット着用を要求するレストランのように、JWにも営業戦略の自由があります。そのレストランはドレスコードを守らない人の入店を拒否できます。JW組織にも同じ権利があるとはいえ、神や聖書を持ち出して人の意見が神の裁きであるかのように思わせるのはどうかと思いますね。統治体がタイトパンツ捨てろと言えば、それは神の助言であるとか。


人が何を着るかで神の栄光が左右されることはありません。かといって服装がどーでもいい、という訳ではなく、それは社会通念上のマナーの問題で、個々が判断すればいいことでしょう。自分と違う感覚や基準を持った人がいるからと言って、けげんな目で裁くように見る、自分の見方を押し付けるかのような物言いをするのが聖書の教えでしょうか。

ドレスコードでイメージを良く見せることができるのは場所であり人です。身につけるものに関する独自の習慣を実践することで人目につく敬虔さをアピールしたのは、神を称えているように見せかけて自らの誉れを追い求めた1世紀の律法主義者たちです。

イエスはあなた方の光を掲げよ、と教えました。でも「霊的セレブ」の記事で書いたように、お上品できらびやかな衣服を身に着けている人が弱者をイジめる光景を目にしてきました。クリスチャンがイエスに倣って掲げる光とは、おもに外見によるものではないと思います。

服で賛美

『女も,よく整えられた服装をし,慎みと健全な思いとをもって身を飾り・・』

パウロは何も間違ったことは言ってません・・が、問題はこの文言をさらに垣根で囲うかのように独自のルールや規則を付け加える人たちですね。

あと、服装で神を賛美する、って何でしょうか。人間がどういう服を着るかで神の栄光が左右されることなんてあるんでしょうか。イエスは人の栄光を極めたソロモンでさえ、野のゆりほどにも美しく装っていない、と教えました。JWとはいえ服まで自作しているはずもなく、“世”の業者が作ったものですね。そのチョイスとコーディネートで神を賛美できるとは興味深いです。

服装とは、社会通念上のマナーの問題に過ぎないと思います。

営業回りをする人が、Tシャツとジーパンを着るでしょうか。相手がどういう考えや好みか分からないので、社会通念上、日本では大抵スーツとネクタイで行きますし、そのことで相手が気分を害することはないと思います。

だからそんなの、聖書とか信仰以前の問題で、誰もが意識・判断している対人関係のマナーです。宗教とビジネスは同じではありませんが(同じか)、JW的営業回りをする人や演壇から説教する人に同じ服装をさせるのもそういう理由で、そのマナーで優劣を競っているように思います。

JW集会で一般信者にもスーツorジャケット着用、という聖書に書いていないドレスコードが要求されるのはどうでしょうか。主催しているのはJWなのでそれも彼らの自由です。でもそれが神の見方とか聖書の原則、というのはちょっと違うような気がします。

まあ、ジャケット着用を要求するレストランやドレスコードがある社交イベントみたいなもんです。それは主催者側がどういう場所に見せたいか、どういう人をターゲットにしたいか、という営業方針上の判断なので、そこに行く以上は当然のマナーです。

なのでJW指導部が、スーツorジャケット着用が要求されているかのような空気を作り出すのも、彼らの営業戦略上の判断です。そこに行く以上それに従うのもマナーですが、それを勝手に神の見方とか聖書の原則とか言い出しては互いの服装をチェックし、聖書に書いていないアイテムが集会に“ふさわしい”かどうかで裁き合っている様子は滑稽ですね。



ちなみに、集会が「崇拝の場」というのはどうなんでしょうか。自分が読む限り、新約における集会とはおもに個人の家で開かれる、学び合い、励まし合い、慰め合う機会であり、正装や何かのドレスコードが要求される集いのようには思えません。これはも塔でも書かれていますが、JWの王国会館とは、都市ごとに存在したユダヤ人の会堂を意識したものです。会堂から追放するシステムまでそっくりです。

自前の土地と会館を持っていないと認識が低いとばかりに数千万、場所によっては億を超える事実上の借金をさせては残金がゼロになるまで取り立てし、今後は借金をしていない会衆からも自発的な?決議で金を巻き上げる、出版ビジネスに代わる不動産ビジネスに成り下がりましたが。

クリスチャンは何かの場所に依存することなく、霊と真理を持って神を崇拝する、とイエスは教えました。パウロも、クリスチャン一人一人がその内に宿る霊によって崇拝する神殿である、と言っています。神への崇拝だからジャケット着用しなさい、というなら自宅で祈る時もそうですね。

ジャケットを着るのは、神にではなく人に見せるからです。神はいつでも見ています。人に見せるのは崇拝ではなく社会人としてのマナーの問題です。
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