世界政府

「大いなるバビロン=暗闇の世界の支配者たち(新共同訳)?」の続きで書いた記事ですが、お蔵入りになっていました。でもなんか面白そうなこと、というか、笑えない感じになってきましたね。


① 王国100周年 ⇒「王国が来ますように」⇒「今年が最後の記念式になるでしょうか」⇒
「世界政府」(今年の大会テーマ)

② ブルックリン本部の売却 ⇒ ローカル法人が蓄えている運営資金も、当面必要な分だけ残してWT協会に送金するように ⇒ 世界規模では数百億円↑の回収?


何がしたいんでしょうか。児童虐待の裁判費用とかのレベルじゃないような気が・・

なぜ「世界政府」という聖書に出てこない俗っぽい単語をまた使い始めるのか・・

今やたった7人の人間によってイエスは支配している、という解釈を世界中の信者に認めさせてしまったのですから、どんな人間また人間の集団を通してイエスが支配している、という主張 ⇒ それを否定するなら「反キリスト」である、というやり方はいくらでも可能なワケで・・

JW組織と暗闇の支配者たち (いればの話) との関連を示す陰謀説も語られています。それについて何かを言うつもりはありませんが、事実としてWT協会は世界規模では数千億円レベルの資産を蓄え、投資に回しています。投資そのものは悪いことではありませんが、そのカネがどこに回され、どう運用され、何に使われているのか、一切公表しないのでサッパリ分かりません。協会内部でさえすべてを把握できる人がどれ程いるのでしょうか。彼らの資産が、何かの思惑を抱く世の支配者たちに与する金融・投資機関や関連産業に間接的に利用されている可能性はあるのかもしれません。

組織側の表向きの言い分は、タラントを増やした奴隷のごとく主の資産を合理的に増やすことも神聖な奉仕だと勘違いしているか、投資したカネがどこに回されようが関係ない、法的に正当な配当を得ているだけ、ということでしょう。

宗教とは集金マシーンにもなり得ます。信者が自発的に使役されるよう精神教化すれば、人件費のかかる製造・マーケティングをしなくてもカネ(非課税)が集まります。神を持ち出せば、「ベストな方法で使われている」の一言で、使途を公表せずとも従順な信者は満足し、さらに「この宗教は寄付集めなんかしていない」と擁護までしてくれます。

世の支配者たちからすれば宗教上の教義の違いや不毛な争いなど、どうでもいいことでしょう。むしろ宗派間の対立は不満のはけ口になり、宗教的熱狂を煽るのに有効です。“キリスト教”に幻滅した信者の受け皿となる団体ができて、信者とお金を再回収してくれるならありがたいことです。そういう意味で有用な器の一つとなってきたJW組織が存続するためには、1914年を仕切り直しできる程の何かが起きることが必要かもしれません。

ブルックリン本部の売却・・最近のビデオクリップでは、統治体は神の王国(世界政府)のためには物に執着しないとか、歴史は読む物だが自分たちはその歴史のページを書いている、とか仰っています。あくまでJWの歴史のことを言っていると思いますが、以前の記事で書いたように「歴史は自分たちが作る」「聖書予言は自分たちが成就させる」という信念は、現在は良好な関係にあるユダヤ人シオニズムとアメリカ白人キリスト教原理主義に共通するものです。なんかこわい。(一応、JWは表向きシオニズムを否定する立場)。


これはただの噂話です。しかし「聖書のクリスチャンに倣う」と称する組織が莫大な世界的資産を蓄え、その額や使途を信者にさえ公表していない、というのは異様な事実です。

それどころか、ついにローカル会衆が1円単位で収支公表していた運営資金まで吸い上げることで、ただでさえ不透明なカネを桁外れの規模でさらに増やそうとしているのも事実です。こんなウワサを封じるためにも?一刻も早く、会計状況を公表してほしいものです(笑)。
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霊的セレブ

この組織を実効支配しているのが「霊的セレブ」たちです。彼らには幾つかの特徴があります。

・JW的に由緒正しい家柄とか、親類、知人に有力者が多い、もとべテラー率が高い
・有名人が好き(“世”の有名人でJWになった人、出版物に経験が載った人など)
・そういう交友関係をさりげなく自慢する
・貢いでくれるお金持ちも好き

こういう霊的セレブたちはさながら貴族気取りで、JWという社交界における優雅な交わりを華やかに満喫しています。彼らにとってそんな「場所」は他にありません。

上流階級ばかりで交際しているとねたみや反感も買うので、ローカル会衆の下々の恵まれない信者にもまことしやかに優しくし、ぬかりなくそういう姿勢を見せて評判を得ようとします。JW末端信者の多くも「自分に何をしてくれたか」で人を判断しますので、割と簡単に懐柔できます。

一方で、自分の華やかな活躍や交際を妨げるだけの、別の会衆にいる年老いた親の世話のようなつまんないことはしたくないので、自分の「神聖な奉仕」を口実にしてローカル会衆に世話させたりします。ものみの塔もそれを後押しするような記事を書きますので。

誤解しないでください、純粋な動機でしている人もいると思います。 2%くらいかな?

人の動機を裁きたくないんですが、イヤになる程、現実に見てきたんですよね。

この霊的セレブたち、評判を得るために、明らかに自分よりポジションが↓で、比較にもならない下々の者たちには優しく見せかけます。その反面、自分に近いポジションにある長老、僕、開拓者やその妻には手厳しいんですな。周りにうまーく気づかれないように軽やかに無視したり、お上品に微笑みながら巧妙な皮肉や嫌味を言ったりします。特に奥様方。狙うのも妻です。さたんか。

なぜ妻を狙うのでしょうか。ちょっと気の弱い奥さんなんかは、有力長老の妻に陰湿にイジメられると、もうダメダメです。そういうセレブたちは会衆では下々からの評判を築きながら、自分を脅かしかねない立ち位置にある人だけを巧妙にイジメるので、誰からも理解されないどころか、自分が悪者になります。

気持ちがまいってしまい、「集会」は休みがち、「注解」もできない、「布教時間」も減る・・追い打ちをかけるかのように、そういう表面的な業や数字だけに注目するのは誰ですか。巡回さんです。そのプレッシャーに耐えかね、波風立てず自ら立場を退く夫もいます。一方、家族の霊性や素行を理由に資格をはく奪すべく、根回しされる場合もあります。一丁あがりです。

立場を失うやセレブは手のひらを返し、「シマイ~元気~?」「心配しているのよ~?」とか気色悪いくらい優しくなります。下々の者に落とされたからです。

ここまで露骨に、また計算でやってる真の悪人もそんなにいませんが、権威=特権=序列という強力な刷り込みから、ほとんど本能的に、また無意識に相手の格付けと自分の立ち位置を比較して接し方がガラリと変わる人はザラにいます。

この組織を腐らせている一因は上層部だけでなく、彼らに寄生し、裸の王様にしてしまうこの霊的セレブたちであり、そして彼らの本性を見抜けずに、媚びられるがままに重用して代理支配させる上層部の人間でしょう。彼らに虐げられた側の声が届くことはありません。

罪と愛

自分は「愛は罪を覆う」という聖書の教えは、愛は罪を「包含する」ものだと感じています。

JWの教えでは、愛があれば罪を許す、とか、大目に見る、というくらいの捉え方だと思います。罪は罪で「悪い」ままです。罪=絶対悪です。どんな時でも絶対に悪い行為というのは存在すると思いますが、もっと広い聖書でいう罪とは、刑罰の対象となる行為(それも含まれる)のことではなく、的から外れているという意味です。

弓道の修練している人が、精一杯頑張っても的を外すこと自体が「悪い」のでしょうか。故意に誰かを狙い撃つことで的を外すなら悪いことですが。

血の流出に悩まされる、律法的に汚れた女性が人と接触する群衆に紛れることも罪でした。しかしイエスは彼女をとがめませんでした。「あなたのした事は“悪い”ことだが、今回は例外的に大目に見ます」と言った訳でもありません。あなたの信仰がよくならせた、と褒めたのです。

だから愛とは「こういう場合はこうすべき」のように、マニュアル化できることではなく、いつもそうではないにしろそれを大胆に否定することが愛となる場合が多いのではないかと。罪を超えて、それを包含するかのようです。

律法や規則があるところには罪過が満ち溢れます。律法は罪を明らかにし、その罪をも外側からすっぽり覆ってしまうものとしての愛がキリストによって示されたことにより、罪が定義されなければ愛も知ることができない、完全なる律法はキリストへと導く役割を終えた=成就したのであって、逆戻りしてはいけないと思います。イエスは何の成文律法も残しませんでした。

人の作る際限のない要求規則は、できなさ加減ばかりを明らかにし、再び罪が王として支配しています。的を狭めに狭め、自分は下手くそで、欠点ばかりで、神様を十分に喜ばせていないと苦しみます。そうやって支配する宗教が力を持ち、拡大してきたのも事実ですが。


映画マトリックスシリーズも面白かったですが、アーキテクトは人を支配する「完全なプログラム」を作ろうとしては挫折します。完全なものは完全であるゆえに不完全さ=矛盾=愛を定義できず、その存在も包含できない。アノマリーが生じてその度に世界を終わらせてはリロードする。アノマリーは正の方向(愛=救済)と負の方向(憎悪=破壊)に無限ループで広がって、それがネオとスミスの凌ぎ合いだったりして(たぶんそんな感じ)。

JW組織でもアノマリー=覚醒者が続出しまくりですよん♪JWアノマリーにも正と負の方向がありますが、自分はどっちも否定しません。自分の中にさえその両面があるので。

話を戻しますと、愛とは、(ある意味での)完全さと対極にあるような気もします。「この場合はこうする・こうしてはならない」という際限のないマニュアルを緻密に履行する完全なプログラムに囚われてしまったのが、1世紀における律法主義者たちではないでしょうか。イエスはその律法に、さらなる垣根を巡らした彼らの慣習を大胆に破ることで愛を示したのだと思います。

通告義務②

通告義務の補足ですが、いわゆる児童虐待の定義です(Wikiより)。

アメリカ:「親またはその他の養育者の作為または不作為によって、児童に実際に危害が加えられたり、危害の危険にさらされたり、危害の脅威にさらされること」

日本:「保護者(親権を行う者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護するものをいう)がその監護する児童(18歳に満たない者)に対し、次に掲げる行為をすること」

つまり何らかの保護監督責任を持つ人がその関係を利用して虐待するのが、児童虐待です。コンティ裁判の原告が最初にけしからん事をしたのが義理の娘=児童虐待です。しかし次に餌食にしたのが、会衆の女の子=コンティさんです。

協会の裏指示では、加害者が誰かに関わらず被害者が児童であるケースを一般的な「児童虐待」として話を進めます、と一応ことわりを入れています。しかし、日本ではコンティさんのケースは法律上の「児童虐待」にはあたらず、13歳以下なので刑法の「強制わいせつ」に該当します。なぜそこまでをはっきり書かないのでしょうか。

日本では強制わいせつの被害者、または加害者から告白を受けた場合、警察に通報する義務はありません。なぜ児童虐待にそれを知り得た第三者に通告義務があるかと言えば、保護する立場にあるはずの親また監督者によってそれが行なわれているからでしょう。

強制わいせつの場合、罪としてはもっと重い(懲役6か月以上10年まで)のですが、基本的には被害者側が警察に被害届を出すことで罪が成立します(親告罪)。繰り返しますが、第三者である会衆側に通報義務はありません。

事実、コンティ裁判で協会側は『フリーモント会衆の長老は原告女性を虐待から守る義務を負うような「特別な関係」は存在しなかった』と主張しました。

あくまで第三者で法的義務はないよ、という言い分は“正しい”のかもしれません。霊的家族ですよ♪牧者の指示には絶対服従ですよ♪とか言いながら、都合が悪いと守る義務はないとか逃げるんですね。しかしこの裁判で画期的なのは、それでも協会側の指示とそれに盲従するジモチョウたちの道義的責任を認め、民事において巨額の賠償を命じたことです。

それで「強制わいせつ」をされた、と被害者が長老に訴えても、長老には加害者を警察に突き出す義務はなく、極秘の内に宗教的に裁くだけで、そこに「2人の証人」ルールを適用します。そこは彼ら内部の勝手な宗教裁判の自由ですので、法は介入できません。一方、その人を社会的に制裁することにはノータッチです。会衆としては「組織の手順通り扱われた」と言っておしまいです。

「児童虐待の訴えを警察や他の機関に報告すべきではないと示唆することは誰に対しても決してしてはなりません。もし尋ねられたら,問題を当局に報告するかどうかは個人的な決定であることを明確にしてください」エホバの証人研究さんより)

ここがミソです。警察に通報するな、とは言えません。でもその選択肢にこちらから言及することはせず、尋ねられた場合にのみ、それは「個人的な決定」であることを伝えます。禁じることもできませんが、勝手にやってね、という半ば突き放した対応です。

一方、ある県警のHPには「性犯罪は被害を訴えにくい、それが犯人の思うツボ、積極的に相談してください」とあります。事実、それにつけ込んだのがコンティ裁判の原告であり、彼を野放しにした協会にも責任が問われました。

驚くことに、コンティ裁判後に出された最新の指示でも警察への積極的な通報や相談を勧めていません。事例によってはその義務が生じる、と述べるに留まり、すべては長老を介して支部に報告、遠く離れた場所にいる彼らに判断を仰ぐよう誘導しています。

児童虐待なら通告義務があります。保護者以外による強制わいせつなら通報義務はありませんが、事実であれば問答無用で刑法に違反する犯罪行為です。しかし親告罪なので、被害届がなければ犯罪行為自体もないことになります。

ただでさえ被害を訴えにくい性犯罪、しかも相手が同じ会衆の信者、エホバの証人として大々的に報道されるかもしれない、仲間に迷惑をかけるかもしれない、自分の被害を訴えて組織と神の名に泥を塗ったと白い目で見られるかもしれない、長老には「するなら自己責任でね♪」と突き放される・・想像を絶する恐れと苦しみの葛藤でしょう。一体、コンティさんのように宗教権力に立ち向かう事を恐れず、そのような仕打ちをうけたことを世界中に晒してまでその責任を問おうとする人など、どれくらいいるのでしょうか。

「組織の評判とか気にしなくていい、それは犯罪なんだ、被害者のプライバシーは守ってくれるし、会衆でも絶対にそうする。長老たちも全面的に力になるから安心して」と警察に相談、通報するよう積極的に勧めるガイドラインなんて・・作る訳ないか。


『 悪い業に対する刑の宣告が速やかに執行されなかったため,それゆえに人の子らの心はその中で悪を行なうよう凝り固まってしまった』

『もしあなたが悪を行なっているのであれば,恐れなさい。それはいたずらに剣を帯びているのではないからです。それは神の奉仕者であり,悪を習わしにする者に憤りを表明する復しゅう者なのです』

通告義務

児童虐待についてのWT協会の裏指示が幾つかのサイトで拡散されています。このブログに来られる方ならもうとっくにお読みの事と思います。

一方で、厚生労働省のHPより:「通告の対象となる子供」

子ども虐待の早期発見を図るためには、広く通告が行われることが望ましい。しかし、従来の児童虐待防止法では、通告の対象は「児童虐待を受けた児童」とされており、基本的には、子どもが虐待を受けているところを通告者が目の前で見た、あるいは子どもの体に虐待によるあざや傷があるのを見たといった児童虐待が行われていることが明白な場合が想定されていた。

このため平成16年児童虐待防止法改正法により、通告の対象が「児童虐待を受けた児童」から「児童虐待を受けたと思われる児童」に拡大された。これにより虐待の事実が必ずしも明らかでなくても、子どもの福祉に関わる専門家の知見によって児童虐待が疑われる場合はもちろんのこと、一般の人の目から見れば主観的に児童虐待があったと思うであろうという場合であれば、通告義務が生じることとなり、児童虐待の防止に資することが期待される。

なお、こうした通告については、児童虐待防止法の趣旨に基づくものであれば、それが結果として誤りであったとしても、そのことによって刑事上、民事上の責任を問われることは基本的には想定されないものと考えられる。

「子供が自ら保護を求めてきた場合」

子どもが自ら保護を求める状況とは、激しい身体的虐待を継続的に受けている、性的虐待を受けているなど、子どもがせっぱつまった状態で、救助を求めている危機状況にあると受け止め、事実の確認を早急に行って対応する必要がある。

児童相談所や市町村が必ず守ってあげることを伝えた上で、子どもの訴えをまず聴くことに徹し、その話を支持して安心感を与え、緊張状態を緩和することが大切である。子どもの年齢に合わせた対応の仕方と表情や態度の観察を通して、緊急保護対応の判断のための情報収集を行わなければならない。一方で関係機関からの情報収集と対応についての意見を聴取し、緊急受理会議によって方針を決定する。


引用終わり。以上が厚労省の方針です。(赤字はこのブログでの強調)


平成16年の改正により、虐待の事実が必ずしも明らかでなくても、つまり直接に目撃していなくても、主観的であっても、児童虐待があったであろうという場合には、通告義務が生じます。それが誤りであっても法の趣旨に基づいて行なったのであれば、責任を問われることはありません。後は関係当局の対応、情報収集にお任せすればよいのです。

児童相談所や市町村が必ず守ってあげることを伝えた上で、子どもの訴えをまず聴くことに徹し、その話を支持して安心感を与え、緊張状態を緩和することが大切・・なんか、協会さんの指示よりよっぽど「聖書的」に思えます。組織の手順を機械的に説明するだけで、こういう子供目線に立った表現など、ほとんど見当たりません。

厚労省は、各市町村の窓口や児童相談所が通告を受けた場合のガイドラインを公式HPで公表しています。一方JW組織は、公式はおろか一般信者にも見せない極秘の「裏手紙」で指示しています。「世」と同じようにこんなことでガイドラインを設ける必要がある組織だと思われたくありませんか。今やJWを批判する側のサイトで全文が晒される始末・・何という恥さらしでしょうか。

実名公表

信者からの寄付で活動するWT協会の代表者たちは数百、数千人↑の信者たちに影響を与える存在であるゆえに、いわばJWという狭い世界における「公人」であり、実名公表されるリスクを負うべき、というぴゅうさんの記事に賛同します。

ブログで実名を挙げる、場合によってはその言動を批判すること自体は著名人の間などでは一般的にあることだと思います。問題は、批判された当事者が「事実無根」「誹謗中傷」「名誉棄損」と判断した場合ではないでしょうか。JW問題においても実名を挙げる方は、むしろ民事で訴えてもらってはっきりさせたいくらいの覚悟でしていると思います。

最近では「嘘をつかれた」として、ある政治家の方が個人メールのやり取りを暴露され、公の報道の集中砲火をくらい役職の辞任に追い込まれました。様々な思惑があるにしろ、それなりに健全な自浄作用だと思います。その人や家族が可哀そうという感情論で済まされる問題ではない、と告発者は判断したのかもしれません。

JWという世界における公人=WT協会を代表する人の言動を明らかにすることはこの組織の被害を抑止する意義があると思います。彼らが弁護人も傍聴人もいない極秘の宗教裁判でやりたい放題なことが、この組織が人を切り捨て、傷つけてきた一因だからです。

もちろん、そんな覚悟もなく安易に実名を晒して、信者同士のイザコザで一方的に恨みや悪口めいたことを書きちらすのもよくないと思いますが、実名を挙げる行為自体がすべて、無条件で悪いとも言えないように思います。

続けていいですか

いいもなにも、自分が続けるかどうかなんですが。

休止する予定宣言から1カ月、なんでそんなことを言い出すのかというと、


なにやら面白いことになってきそうな予感、だからです。


児童虐待裁判に始まり、止まらない寄付の決議要請、大会縮小、地域さんリストラ・・

さらに「王国会館建設基金」のアメリカでの廃止・・

http://jwsurvey.org/cedars-blog/governing-body-instructs-congregations-to-pledge-fixed-monthly-donations

このブログでも書きましたが、この基金、寄付の二重取りです。末端信者は「各地の王国会館のために使ってほしい」と思って寄付するのですが、協会さんはこれを「使う」のではなく「貸して」います。貸した分は全額きっちり回収します。

これが無許可の貸金業にあたるのかはよく分かりませんが、法律がどうのより、クリスチャンが「寄付」として金を集めながら、それを「貸し付け」に使っていいんですか?と思います。主は「ただで受けたのです。ただで与えなさい」と言われました。

さらに名目上、この「基金」は廃止になるものの、実質的な回収行為は続ける模様。すでに「借りている」会衆はこの基金に対する「返済」として送金するのではなく、これまでの月々の返済額(笑)と同額↑を、決議を取って送金させるとのこと。さらに借りていない会衆にまで「アンケート」を取らせて毎月定額送金させる決議を取るように、との指示。しかもこれ、会衆には読ませない長老たちへの「裏指示」のようで、あくまでローカル長老たちが自発的に会衆に決議を提出し、信者にも自発的に手を挙げさせる形を取るのでしょう。これ、日本でもやるんですかね?

相変わらず、やり方がきったねーな、とつくづく感じます。

いい加減、決議を取らせるよう裏で「指示」しておいて、「貸し付け」なんてしてませんよ?末端会衆は、自発的な決議で「お返し」してくれてるだけですよ?と言い逃れるようなやり方はやめた方がいいです。さすがに、かなりの現役さんにも疑問に思われ始めています。

資金を援助してくれたことへの純粋な「感謝」なら、各自が「世界的な業」にすればいいんじゃないんですか。毎月、事実上の「返済分」として、“借りた”残金がきっかりゼロになるまで一定の額を決議・送金させることが「貸金行為」じゃない、と言えるんでしょうか。


人の組織に完全さを期待すること自体がナンセンスで、JWもそういう組織の一つに過ぎない、という前提に立った上で、この組織によって傷つき、苦しむ人、分かたれる家族が少しでも減ることが自分の願いです。この組織が衰退することによってか、より開かれた「普通の組織」へと変わらざるを得なくなることによってか、はどっちでもいいです。

JWとの関わりや経験を通じて、この組織が発信する指示や情報の背後にある意図や実態を洞察できるようになったかなりの人たちが発信していて、そのことには被害を事前に抑制する意義はあると思います。JWに入る、続けるにしろ、「インフォームド・コンセント」に繋がるからです。すでに傷つき、苦しみ、迷っている方々には深く同情しますが、その人たちを導き、救うことがブログの目的でもなく、自分はその器でもありません。考え方の少しの参考になればとは願いますが。


そんなブログの一つとしてもう少し続けようかな、と思い始めた次第です。

神の名⑥

いろいろと書きましたが、結局、文字そのものを神聖とみなすのであればオリジナルの古ヘブライ語で表される神聖4字です。YHWHでもJHVHでもYahwehでもやはうぇでもでもありません。他言語では厳密に表記できません。

発音や表記は重要じゃない、とJWは言います。でも同じ日本語である人が「えほば」、別の人が「やーうぇ」とか「やはべぇ」と発音しているのを聞いて、一致していると思うでしょうか。「えほば」と発声しないと洗礼を受けられない団体を作るのは自由ですが、それが救いの唯一の道ですか。

人間側の言語の違いを言い訳にして、発声が違うなんて当然、では人名と同じです。だから父の代理である子がまさに「人」として人間のフィールドに降りてきたことにより、救いのために、人名と同じようにあらゆる言語で呼び求められる名を明らかにしてくださった、と新約をありのままに読むと感じます。

新約写本に一切ないからといって、旧約のYHWHまで「主」と翻訳するのはどうか、という議論はあると思います。でも原語で表記して自己責任で発音ならまだ良心的ですが、発声を1つに限定した“聖書”まで作っていいのか、というのもあると思います。

実際、クリスチャンは保存されてきた写本を信用しているので、旧約を引用しながらギリシャ語の「キュリオス」と翻訳した新約筆者の行為を、また70人訳でも同じように翻訳するようになった初期クリスチャンの行為を、写字生の背教や反逆ではなく、「御名を神聖に扱う」との彼らの敬神の念により許容されたもの、と考えているように思います。

旧約のYHWHと新約のイエスがごっちゃになる、という指摘はもっともです。旧約に限って言えばYHWHとメシアの区別は明確です。ユダヤ人にとってメシアとはダビデの子孫で、その王統をイスラエルに復活させる人間でした。前にも書きましたが、旧約だけ読んでもまさか神に子がいて、その「子」が人に宿って降りてくる、なんて“冒涜的”なことをユダヤ人の誰も想像していなかったと思います。JWの贖いや主権論争解釈も、キリストが「父より生まれ出た独り子」である必然性を排除しています。人間でも天使でも被造物でも何でもいいんです。

ところがイエスは「神の子」であり、ダビデの子孫であるだけでなくその「主」である方だ、という驚愕の発言をします。さらに「わたしと父は一つ」であり、「わたしを見たなら父を見た」とまで言います。その結果、やがてクリスチャンには旧約の“区別する”意味合いが変化したのではと思います。

もちろん、正統な「さんみいったい」でもいわゆる位格の区別はキチンと認められているので、それを意識して何の矛盾もなく読んでいる人もいます。でも完全にごっちゃになっている人もいて、様態論=神の一人変化のような例えで“説明”しちゃうので、JWが攻撃しているのはそういう人やその説明だと思います。

YHWHとイエスが厳密に「同じ」とも言えませんが、ごっちゃにしても・・まあいいんじゃないでしょうか。イエスは御父の言葉であり、万物も言葉もその方を通してあるからです(新約の公理)。

冒頭の創世記で「わたしたちの像に人を造ろう」とエローヒームが言ったとき、父が子に言ったのですか、子が父に言ったのですか。父が子を通して子に言ったのですか。父と子が思いを「一つ」にして言ったのですか。そんなの知りません(笑)。創造の時になされた“神”の発話の真意など、誰に分かるんでしょうか。

クリスチャンがそれによって救いを得るべき唯一の「名」・・父の、そして救いの代理者として遣わされた方が新約で明らかにされました。数千年もの間、秘められていた名です。その名は「YHWHは救い」、救いを在らしめ、可能にする方であり、その方自らが「あなた方はわたしの証人になるであろう」と語りました。

新約の結び、まさに聖書の結びで最後の使徒は叫びます。「呼び求めた」のはだれの名ですか。


「アーメン! 主イエスよ,来てください」

「主イエス・キリストの過分のご親切が聖なる者たちと共にありますように」



イエスばかりを尊ぶとYHWHを軽視している、と心配する人がいるのも理解できますが、イエスは「わたしを尊ぶなら、父尊びなさい」とは言わず、「わたしを尊ばない者は、父を尊んでいない」と言いました。「わたしの言葉を聞く者は、父の言葉聞きなさい」とも言いませんでした。イエスは御父の言葉そのものです。

JWの信じていることと何が違うんでしょうか。頭のいい人ではなく「心の純粋な人こそ神を見る」のです。自分は、あまりにもシンプルゆえに恐ろしいまでに奥深くもあるこの概念を垣間見ることで、JWとして信じてきたことが全く間違っていたのではないことにも目ざめました。それを「知る」ことがJW組織からも真に自由になることだ、ということにも気づきましたので、勝手に始めたこのブログからも勝手に自由になります。

イエスが本当に「人」であり、「神の子」でもあったのか、さえどうでもいいです。真の信仰はそんな議論からも自由にされています。それはキリスト教信仰の真理(=公理)であり、救いの全面的かつ主要な代理者として遣わされた方を純粋に、シンプルに、幼子のように「一心に見つめる」ことが、神をも見ることになる、それこそがあらゆるキリスト教の真の土台、あまたの建築者たちが退けた主要な隅石なのでしょう。

次回、最後の記事です(たぶん)。




追記:組織を下に見るのもいいですし、聖書も・・人が書いた物ですから、それを下というか、ある程度対等また客観的に見るのも必要かもしれません。でもJWを否定するあまり人間の理性にさらに頼りすぎて、信仰そのもの、さらに神やキリストまでも下に見ることはしたくないと自分は願います。

信仰というフィールドには入らない方からすれば、JW組織に対する幼子のような信仰も、キリストに対する幼子のような信仰も、大差ないように思えるかもしれません。でもそこが今の自分のボーダーラインです。

『「だが,あなた方は,わたしのことをだれであると言いますか」。シモン・ペテロが答えて言った,「あなたはキリスト,生ける神の子です」。イエスはそれにこたえて言われた,「ヨナの子シモンよ,あなたは幸福です。肉と血があなたにこれを啓示したのではなく,天におられるわたしの父がそうなさったからです」』

本当に聖書って論理もへったくれもない(笑)、シンプルな本です。

神の名⑤

新約「えほば」問題をもう少し。

JWが取り上げる“間接証拠”の別の一例は、西暦2世紀初めに完成した旧約アキュラ訳(ギリシャ語)です。ここには古ヘブライ語の神聖4字がそのまま転記されている個所があるそうです。しかし、これは主に(ギリシャ語を話す)ユダヤ人のために旧約を翻訳したものです。

『2世紀に,ポントス出身のユダヤ教への改宗者アキュラがヘブライ語聖書の非常に字義的な新しいギリシャ語訳を作りました。(JW洞察)』

ユダヤ教への改宗者?・・イエスをキリスト、神の子として認めない立場であるユダヤ教徒が、異邦人クリスチャンが70人訳でもYHWHをキュリオスと翻訳する流れには加わらなかった、と考えるのは自然です。他にも新世界訳が“根拠”として挙げるJ参照には、ユダヤ教サイドがキリスト教批評の目的で作った新約のヘブライ語訳も含まれている、という指摘もあります・・YHWHが出てれば何でもいいんでしょうか。

↓「洞察」からの抜粋です。

『ギリシア語の聖書本文[70人訳]は、ユダヤ人がユダヤ人のために書いたものである限り、神の名はキュリオスに書き替えられてはおらず、そのような写本にはヘブライ語やギリシア文字で書かれたテトラグラマトンがあるべき場所に保たれたことを今や我々は知っている。ヘブライ文字で書かれた神の名がもはや理解できなくなった時、テトラグラマトンをキュリオスで置き換えたのはキリスト教徒であった(「カイロ・ゲニザ」222,224頁)』

この可能性を採用するとしましょう。自分もたぶん、その通りだと思いますよ。

① ユダヤ人の、ユダヤ人による、ユダヤ人用の初期70人訳写本には「YHWH」が含まれているものがある(神聖4字のまま転記か、ギリシャ文字で近似)。どう発声していたかは別ですが。

② 1世紀、救いの代理者=「主イエスの名が大いなるもの」(使徒19章)とされる。

③ 後に正典とされる新約書簡は「キュリオス」で統一。(写本は最古のものから、すべてキュリオスを示す。原形のまま転記、発音や形で近似したギリシャ文字への翻字など、旧約から他言語への最古の翻訳である70人訳や、他の古代ギリシャ語訳の一部にみられるような、古ヘブライ神聖4字を他言語=ギリシャ語でどう“翻訳”するのか、という問題意識の存在を示唆するバージョンや痕跡も一切ない)

④ ヘブライ文字を理解も発音もできない異邦人キリスト教徒の間では、70人訳(旧約)でも「YHWH」をクリスチャン用に「キュリオス」と翻訳することが定着する。

⑤ ユダヤ人向けの70人訳写本や他のギリシャ語訳写本の一部にはYHWHが残る。

JWが新約でYHWHを使う“根拠”とする資料は、①と⑤にカテゴリーされるものです。

「洞察」によれば、④も事実です。これを、まだ揺らん期にあった初期キリスト教の自然な進展とは捉えずに、いきなり背教とするのがJWです。まだ何が“正統”かも固まってない頃なんですが・・でもこの理由で「新約でも同じことが行われたはず」という憶測は自由ですが、70人訳の古い写本の一部や他の旧約古代ギリシャ語訳には幾つかのバリエーションのYHWHが含まれた写本が残っているのに対し、基本的に別文献であり、初めからギリシャ語で書かれた新約写本に古ヘブライのYHWHが残っているものは一切存在しません。

ニケア公会議はAD325年、でもAD200年前後で「キュリオス」しか出てこない新約写本(パピルス)が存在します。JWが否定するする進化論と同じで「ミッシングリンク」=「ヘブライ文字の直接転記やギリシャ文字で近似させたバージョン等が混在したもの」は全く存在しません。議論があった様子も皆無です。一斉突然変異なのか、もともとそうだったのか・・

新約の「主」が先にあり、そのことについて解釈の相違・議論が後に生じたのでしょうか。

集会は義務?

最後のテーマの途中ですが、もう一つだけ書きます。

集会を義務と思わせるかのような教育はやめませんか。

一般的なよくある(あった)話です。妻がJWの集会に出始め、子供たちも連れて行きます。昔は週3回、夫が反対しようが子供も連れて行く時代です(ハルマゲドンが“もうすぐ”だったので)。日曜日まで家において行かれる夫は猛烈に反対しますが妻は聞く耳持たず頑なになる一方。

こういう事例で、やがて夫が精神を病み、悲痛な結果になったケースさえ自分も幾つか直接聞いて知っています。会衆内では「反対者にはサタンが入るのよ・・」という噂話がまことしやかに流れます。家族が離散になった程度?の話に至っては数え切れず・・

JWはいつも「信教の自由」を主張します。自分の譲れない信仰だ、信仰の自由は尊重されるべき、尊重できない方が悪い、という思考です。だから言えば言うほど頑なになります。

でも勘違いしないでください、信教の自由とは、内なる信仰の絶対的自由と、公共の福祉を妨げない宗教活動と結社の自由が法律で認められているので、その範囲の中では法による制限を受けない、ということです。家族との兼ね合いや人同士の感情は別であり、自己責任です。

でも何かの“行為”をしない、ということでJWを非難するのもよくないと思います。信教の自由とは特定の宗教行為や、信仰上の理由で忌避したいと思う行為を強要できないことも意味します。イエスは、弟子たちが迫害されることは確かに語りました。戦時中、「剣を取る」ことを拒否した明石順三氏などの個々のクリスチャンの信念は尊重されるべきと思います。

ただ「宗教的にできない」とする幅があまりに広すぎて、聖書を都合よく過大解釈しているんでないの、神が第一 ⇒ 自分たちの組織・解釈が第一、に置き換わっているだけで、人や家族の気持ちはどうでもいいの?、との批判もまた、批判する側の自由で仕方ないのかもしれませんが。

集会・大会の義務化もそうです。人工的な“迫害”を作り出しているとしか思えません。

JWも信仰合同を「霊的姦淫」に例えるように、妻が「別の宗教に心が奪われてしまった」「もう自分が何を言っても聞く耳持たない」というのは、同じ程の喪失感を与えるものではないでしょうか。この信仰は尊いものだ、と言ったところで相手はそれを理解していないのですから。週何回の集会や大会が神の命令とか勝手に義務付ける前に、その気持ちをもっと思いやる教育はできませんか。

仮に年300日くらい宗教的会合に出席することを義務付けるストイックな宗教団体があるとしても、反社会的行為をする訳でもなく、ただ祈って勉強するだけならその団体も法で保護されるでしょう。入るのも自由です。でも入る前に、そんな誓いをすることが、家族に対して愛を示すことだろうか、と考えないでしょうか。その団体が“キリスト教”を謳っているなおさらです。


「自分にしてほしいと思うことはみな、同じように人にもしなければなりません」

これを超える法律がクリスチャンにあるでしょうか。

「二人か三人がわたしの名において共に集まっているところには,わたしもその中にいる」


夫が日曜日は家族と一緒にいてほしい、と言うなら、家族との予定が妨げにならない平日のどこかで、仲間の信者を何人か家に招いて「集まり合い」、聖書を一緒に読み、感じたことを自由に語り合えばいいじゃないですか。主はそこにおられます。大勢で集まりたいならたまにでも仕方ない、家族できちんと話し合い、合意できる範囲の中でそうすればいいじゃないですか。

人が決めた回数、特定の場所に必ず行くことが「信仰」 →“迫害”する家族は「サタンの手先」→ その家族に合わせるのは「間違った愛」・・そう信じるのは“自由”ですよ。でもそんな自己都合の二極論がイエスの教えや精神に逆らうものであることに気づいてほしいですね。ぶよは濾し取りながら、らくだを飲み込んではなりません。

キリスト教とは、人間の法律に基づく権利や正当性を主張するものではなく、信仰や信条という枠さえ超えて善を行ない、愛を示すものではないでしょうか。いくら仲間内だけハッピーな様子をアピールした所で、すべてのケースではないにしても、家族の不一致や離散という犠牲の上に成り立つ自分たちだけの「一致」を誇ることに何の価値がありますか。「天と地のあらゆる家族がその名を負う方」への恐れはないのでしょうか。
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