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神の名④

『わたしたちには父なるただひとりの神がおられ,この方からすべてのものが出ており,わたしたちはこの方のためにあるのです。また,ひとりの主,イエス・キリストがおられ,この方を通してすべてのものがあり,わたしたちもこの方を通してあるのです』

文字通りの太陽や岩も、ある程度、神のイメージを伝えることができます。たとえでも象徴でもなく、神の恵みは太陽を通してあらゆる人に注がれています。砂漠地方ではその太陽の炎熱から身を隠すため、大岩の陰に避難所を求めます。神は一人一人から遠く離れてはいないのです。

そのすべてに勝るもの、「神の存在そのものの厳密な描出」である「子」が人の内に宿ったので、もうだれも「父を示してください」と言うことはできません。「子を見た者は父を見た」からです。キリスト者は、太陽でも岩でもなく、キリストの中に在る神を一心に見ます。

自分はキリスト教信仰しか知りません。その真理(キリスト教信仰における公理)とは、奥深くもあり、あまりにもシンプルです。どこの山でも神殿でもなく、霊と真理により神を崇拝する道です。それはシンプルな一本道ですが、その先はまだおぼろげにしか見えません。ただ、この真理=道におけるルートは「一つ」であり、死も、生も、政府(=組織)も、今あるものも、来るべきものも、力も、高さも、深さも、他のどんな創造物も、キリストにおける神の愛から引き離してしまう付加的な経路にはなってはいけないのでしょう。


・・話が思いっきりそれました。なので、救いのためにクリスチャンが呼び求めるべき名はイエスである、という新約写本のスタンスは強力なのだと思います。イエスの死後、使徒たちの記録には「主イエスの名においてバプテスマを受けた」「主イエスの名は大いなるものとされていった」(使徒19:17)と記されています。ユダヤ人指導者は「イエスの名によって語るのをやめるように」と命じました。

これが新約に「イエス(の名)」が1500回くらい出てくる現実です。新約写本中ではイエスもYHWHそのものを発声しておらず、全体でも厳密なまでに一貫しています。


『あなたの子の栄光を表わしてください。子があなたの栄光を表わすためです』


「わたしは、わたしの栄光をほかのだれにも与えない」と宣言した方の栄光を、その方自身を他にして、一体だれが表せるのでしょうか。それが神を辱める偽りだと言うなら、イエスに激怒したユダヤ人指導者と何が違いますか。神はすべての中に在り、天さえその栄光を告げ知らせるなら、「父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいる」(新共同訳)と語ったその方が、神ご自身の栄光を表したことをだれが否定できるでしょうか。



旧約が初めて他言語に翻訳された時、神聖ヘブライ4字(母音がない・・)を一体どうしたらいいのか、という問題意識があった可能性は70人訳写本で示唆されています。写本初期においては、幾つかのバージョンが一部に見られ、やがてギリシャ語の「キュリオス」に統一され、完全に定着します。子としての権威を持つイエスが、母音のあるギリシャ文字に変換して至る所に書き遺せば、異なる結果になったでしょう。ただイエスがその前例を残せば、オリジナルとはかけ離れた無数の発声が言語ごとに生まれることも意味します。

自分は神聖4字が他の神々の名や、ただの人名のように他言語に変換されなかったこと・・その事実に、それによって表される方への畏敬を感じます。まさに「神聖」なもの、とされてきたのです。自分の知る限り、そんな名は他にありません。「異端だ、伝統無視だ」と権威で裁くだけでなく、その事実をキリスト教側がもっと知らせる必要もあるのかしれません。

聖書の前提に立つなら、言語の混乱は人の罪深さ、反逆ゆえに神が与えたペナルティーです。そのペナルティーを言い訳にして、最も神聖であるべき名の発声を好きに変えていい、とは思いません。でも神は人の想像をはるかに超えて懐の深い方ですから、前記事に書いた全くの純粋さで「エホバ」と発音して祈る個々のJW信者をその方が退ける、とも言えません。どの組織でもまず言い開きを求められるのは支配する側です。

独り子の神であり、万物のアルケーまたロゴスである方が人の内に宿ることにより、何かの文字や音に依存することなく、「父」そのものを示してくださいました。それを「知る」ことが、言語によってどうにでも変わってしまう音や表記を論争することよりも勝っていると今は感じます。
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神の名③

JWが頼みにする数少ない新約の聖句は↓これです。そこもイエスは発声していません。

『わたしは・・人々にみ名を明らかにしました』(ヨハネ17章6節)

その解釈は後回しにするとして、同じ章には↓のようにも書かれています。

『わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました』
(新共同訳、新世界訳では“わたしに与えてくださったご自身のみ名”)

・・旧約の「YHWH(ヤハウェ?)」・・語源は定かではありませんが、英語のbe動詞にあたる「ある」の3人称使役形が一番近く、それが訛ったもの ⇒ (彼は)在らしめる、というのが有力のようです。つまり、それ自体はなにものも指し示していません。そうであればの話ですが、この「名」の持つ動詞的な側面が他の語と組み合わさることで幾つかの呼称になっている、と考えられる例が旧約にあります。

ヤハウェツェバォート ⇒ 万軍を在らしめる(者)・・(けっこう出てくる)
エヒェアシェルエヒェ ⇒ 在る者である(者)・・(1人称:モーセに明らかにした“名”)
ヤハウェカンナー ⇒ ねたみを生じさせる(者)・・(これも自分の“名”である、と言われた)

それで、「子に与えた名」とはその方ご自身の呼称の一つである、と考えることもできます。

イェホシュア ⇒ YHWHは救い=救いを在らしめる?(者)(ヤーウェの短縮形を含む)

いずれにしても、イエスの名を使うにしてもYHWHを軽んじることにはならない、と個人的には思います。YHWHが含まれているからです。○○ヤ、とかイェホ○○のように聖書時代にもYHWHは普通に人の名前に含めてられていました。「イェホシュア(イョシュア)」という人名も当時では一般的のようです。しかしこの名が「子」に与えられたのは天使の神託によるもので、新約は「それによって救いを得るべき名は、天の下に他にない」と示します。

YHWHを含む名は、「ヤーウェイルエ」(YHWHは備えてくださる)「ヤーウェニシ」(YHWHは旗=避難所?を在らしめる方)のように場所につけられることもありました。YHWHで表される方とは、何でも在らしめることができ、時には自らをそう成らせることによっても、そのように「在り」かつ「在らしめる」ことのできる方 ⇒ その呼称もイメージもまさに無限である、と自分は考えます。

「神エホバは太陽、また盾である」

「わたしの盾、わたしの救いの角、わたしの堅固な高台」

他にも「その翼の陰」や「わたしの岩」という表現もあります。

こういう表現には比喩的な側面があり、自分も万物に宿る精霊信仰的な神を信じている訳ではありません。しかしそれに近い概念は聖書にさえ示されている、と思います。「遍在と偏在」でも書きましたが、一つの場所や物理的実体に限定されるような存在ではない、ということです。遍在するものに人格などありえない、とJWは言いますが、だれが決めたんでしょうか。しかも神を相手に。

『すべての者の神また父は一つであり,すべての上に,すべてを通し,すべての中におられるのです』

太陽も岩も別物であり、別存在です。でもすべての中におられる神は「一つ」なのです。でも太陽やどっかの岩を拝めば偶像崇拝です。「唯一神」を崇拝していたユダヤ人でさえ、太陽崇拝や、文字通りの高台=高き所で崇拝する過ちに陥りました。かといってそれは全くの馬鹿げた行為でもないのです。モーセに燃える茂みからも話しかけたように、ユダヤ人も、いかなる場所にも、どんなものにも臨在し、宿ることのできる「一人の神」を信じていたのではないかと思うのです。でも神が遍在するからといって、崇拝する「もの」や「場所」そして「経路」を勝手に決めてはいけない、というだけのことです。宗教の違いとは経路の違いでもあるのかもしれません。ではキリスト教にとっての唯一の経路とは何でしょうか。

続きます。

昨日のコメント

みなさま、昨日はご意見ありがとうございます。

個別にコメント返しできなくてすみません。ややこしくなるので、少しまとめます。

今回のシリーズの直接的な主旨はあくまで、新約に“エホバ”があっていいか」なんです。写本に基づく正典、そして写本に基づく本文批評(新世界訳が採用するW&Hの定本も)を信用する前提で翻訳を作っているのに、写本に一切出てこないYHWHを、しかも発声を一つに限定したローカル言語表記にして“聖書”を作っていいのか、ということです。

一方、「旧約」にYHWHがいっぱい出てくるのは事実なので、それを日本語で「えほば」や「やはうぇ」など自己責任で発音したい人が間違っているとも言えません。「一つの発声」を伝えられたはずのユダヤ人がそれをしなかった以上、古ヘブライ原形表記が望ましいと思いますが。そこはビブリア・ヘブライカか、「クリスチャンための旧約」=70人訳のどっちを重んじるかで分かれると思います。70人訳とはいえ翻訳です。

これも新約写本を信用するなら、新約筆者は旧約のYHWHを「キュリオス」と訳し、かつ旧約引用以外でも一度も使っていない・・だから旧約の翻訳そのものはヘブライ語原典を底本にするにしても、神聖4字の“翻訳”は新約写本と70人訳に倣う、というのがキリスト教の主流になるもの自然だと思います。

よく新世界訳の「エホバ」を見て、これが神の名だったのか!と感動してJWに改宗する“クリスチャン”の話が載せられますが、はっきり言って、それは↑のような背景さえ知らない人です。神の名が「エホバ」である、というのは正確ではありません。それは発声の選択肢の一つに過ぎません。正確な神名はオリジナルの古ヘブライの神聖4字です。でもギザギザ象形チックな神聖4字を見て、いきなり感動する人がいるでしょうか。「これ何?何て読むの?」となるでしょう。「それはエホバです」と言い切るから、「それが神の名だったのか!」となるのではありませんか。初めて見た存在を親だと思うペンギンの赤ちゃんのように、それを一生、神の名と思い続け、ただの発声の一つが否定されることに拒絶感を持ってしまう純粋さでもあります。だから、旧約で神聖4字を使うにしても原形で表記し、その発声には幾つかの選択肢があることをキチンと説明するのが良心的です。「エホバの証人」という宗教団体を宣伝するのに利用していいものではありません。


以下は全くの私見です。

言語が違う二国間で、相手国の人名をどれだけオリジナルに近く発音するかは、その二国間の関係や言語体系によって様々です。例えば、○国の方は日本の人名をオリジナルに近く発音してくれません。かなり遠くなる、というかほとんど別物になる部類だと思います。逆も然りです。それもあってか、○国で活動する日本人JWの多くは通称を使うようです。本名を名乗ったところで、オリジナルとは似ても似つかない発音をされるので、JW的にはどうでもいいのかもしれません。

自分はYHWHの発音は古代ユダヤ人がしていた「一つ」の発声しかない ⇒ だからイエスもYHWHを一度も発声しなかったのでは、と考えます。イエスがそうすれば、母音のあるギリシャ文字で近似する者が現れる ⇒ あらゆる言語に変換され、オリジナルとは似ても似つかない無数の発音が造られる・・それをしてきたのがJWです。同じ言語内でさえ統一できないのに。言語が違うんだから仕方ないよね、発音は重要じゃないよね、では、神名を人名と同じレベルで、人間の常識・通念で扱っているように思います。「御名が神聖なものとされるように」・・それはあらゆる名から「取り分けられた」=神聖なものではないでしょうか。

神の名②

JWが間接証拠として挙げるのは、古い70人訳(旧約の翻訳)の写本の一部や、オリゲネスが西暦3世紀に作ったヘクサプラ等にYHWHが出ている、というものですが、ヘブライ語で書かれた旧約本文にヘブライ語のYHWHがいっぱい出てくることはだれも否定していません。

旧約部分で古ヘブライ語の神聖4文字をどうするか、という議論にはなるかもしれません。古ヘブライ語原形のまま転記して、「えほば」でも「やはうぇ」でも「あどない」でも「はーしぇむ」でも、自己責任で発音を選んでもらうのか(そういう聖書もあるようですが)、同じ言語の中でさえ意見が割れているどれか1つの発声をベースにしてそれぞれの言語文字で近似するのか・・発声は自己責任にしろ、オリジナル神聖4字を聖書で、しかもあまたの他言語でどう表記するかは、JWが考えるほど単純な問題ではないようです。

「子」について議論がされた歴史は伝わっていますが、旧約引用の「YHWH」を初めからギリシャ語で書かれた新約でどう表記すべきか、最初期のパピルス写本が作られるまでの「事実上無視できるほど小さい」(JW教材より)期間に議論があった様子も皆無です。キリストの神性を否定して初期教会で異端とされた人たちも、ギリシャ語の使徒書簡で古ヘブライ語形式のYHWHを何かの方法で表記すべきと主張した話も聞きません。

実際に新約そのものを読むと、旧約引用部分に限らず、新約そのものが、あらゆるところで、ことごとく、旧約の名を置き換えている、という事実に気づきます。

の名を呼び求める者はだれでも救われる」(新共同訳、ローマ10:13)

JWは↑がヨエル書の“引用”であることを理由に「えほば」に“逆置き換え”するのは正当だ、と主張します。しかし文脈を読めば、「イエスを主であると公に宣言することによって救われる」「すべての者の上に同じ主がおられる」→ 間違いなくイエスについて語っています。さらに、この類の表現が新約オリジナルで(旧約引用以外)出てくる場合はどうなっているでしょうか。

『彼(=パウロ)は幾日かの間ダマスカスの弟子たちのもとにいることになったが,すぐに諸会堂でイエスのことを,すなわちこの方こそ神の子であると宣べ伝えはじめた。 しかし,彼のことばを聞く者はみな非常に驚き,「これは,エルサレムでこの名を呼び求める者たちを痛めつけた人であり・・」』

・・ん?「この名」を呼び求めている、ここではイエスの名です。

『キリスト・イエスと結ばれて神聖なものとされ,聖なる者となるために召されたあなた方,ならびに,いたるところでわたしたちの主イエス・キリスト,すなわちその主でありわたしたちの主である方の名を呼び求めているすべての人たちへ』


ここもイエスです。であれば、パウロはヨエル書を「引用した」のではなく、救いの代理者として遣わされた「わたしたちの主イエス」に「適用した」という可能性はないでしょうか。信用すべき写本が「きゅりおす」なのですから。

「新約写本を信用する」という前提に立つ限り、「主」の使用が「さんみいったい」に繋がる背教なら、最初の“背教者”はパウロやヨハネ、または彼らの名を騙って新約書簡を書いたか、写本で改ざんした者たちでしょう。そこまでの主張をする人も実際にいます。ローマが決めた新約正典を無謬であると肯定しながら同じくローマで成立した三位一体だけ全否定し、さらに写本を信用する=写本は書かれた通りに伝わってきたことの証拠だ!と言いながら写本に逆らって僅かばかりの“えほば”を新約に挿入するのは一貫性がない、ささやかな抵抗のように思います。

神の名①

前から疑問に感じていた別の点は、新約に「えほば」を挿入することです。

最後のテーマになるかもしれません。

JWも認める事実として、旧約のYHWHが出てくる新約写本は「0」= ゼロです。それでも新約に「えほば」を挿入する“根拠”が、参照資料付き新世界訳の付録で説明されています。

保険証券の約款のごとく細かい字で埋め尽くされた説明は、いろんな資料や“根拠”が羅列されていて、JW以外の情報源など調べたことも触れたこともない信者にそれっぽく思わせるには十分過ぎる内容です。「旧約からの引用もあるし、旧約には何千回も出ているんだし・・」となるでしょう。

本文の解釈は様々あっていいですが、解釈の違いで本文まで変えてはいけないと思います。翻訳の相違は仕方ないです。人間の諸言語が1対1の逐語での厳密な置き換えで成り立っていないので、幾つかの「ことば」の選択肢がある以上、翻訳者の解釈や主観を排除することは不可能です。ある程度の自由度が許容される翻訳まで禁じてしまえば、中世に逆戻りです。

それで新約原文にYHWHがあったかどうかも、解釈だけで判断することではないと考えます。

JW側の主張の1つが、旧約を引用している個所です。しかしそこも新約写本は「キュリオス」になっています。さらに旧約引用以外にも他翻訳(主にヘブライ語訳)を参照して数十回↑、「エホバ」に“逆置き換え”しています。それでも僅か237回、割合にして旧約の10分の1くらいでしょうか。

その237個所が、原本の時点で「キュリオス」だったのか、写本の段階で置き換えられたのか、という問題になります。でも原本は存在しないので、状況証拠から判断するしかありません。

ただ、現存する数千点の新約写本のすべて、その最古のものでさえ「主」になっています。両方が混在していてさあどうする、という状況ではありません。聖書が多数の写本によって内容の正確さが失われていない、原本と同じ内容を読めていることを疑う余地なく確信できる、とJWも言います。

新約写本の大半は4世紀以降のものです。でもJWが新約本文の信頼性を裏付けるために言及している、主要な初期パピルス写本の一つにチェスター・ビーティー・パピルス2号(P46)があります。西暦200年頃、最後の使徒ヨハネの死後、約100年しか経っていないものです。もっと早い時期と見る人もいます。もちろんヘブライ語形式の「YHWH」は跡形もありません。

「これら[パピルス写本]を調査して得られた最初の,かつ最も重要な結論は,現存する本文が基本的に確実なものであることをそれらが確証しているという,満足のゆく結論である。・・大切な事実や教理に影響を及ぼす異読もない・・したがって,原文がまとめられた年代と現存する最初期の証拠の年代との隔たりは,事実上無視できるほど小さくなっており,聖書は実質的には書かれたとおりに我々のもとに伝わってきた,ということに対する疑いの最後の根拠は今や取り除かれた。新約聖書の各書の信ぴょう性も全体として元のままの形を保っている点も最終的に確証されたとみなすことができるであろう」(JW教材中での引用)

・・ん?最古の新約写本であるパピルス群は間違いなく原本通りの形を保っている証拠だ!とありますね。「大切な事実や教理に影響を及ぼす異読もない」って。

でも「主」だけは、すべての写本は信用できず悪魔の陰謀なのでしょうか。

そうすると新約写本を信用するという↑のスタンスと矛盾しないでしょうか。JWがギリシャ語で書かれた新約でも等しく重要と主張する古ヘブライ語のYHWHを、サタンの忌むべき偽りのために、さらにイエスの意にさえ反し、口裏合わせて一斉に「キュリオス(主)」と翻訳してあらゆる証拠を後世に残さず隠滅する厚顔無恥な輩が写本したものを信じていいのか、という疑問です。

現存の新約写本すべては意図的な改ざんである、と言っているのと同じように思います。

続きます。

フランズ氏

レイ・フランズ氏について思うことがあります。統治体まで経験した彼が出版した「良心の危機」には貴重な価値があります。

でもそれを読んで感じるのは、もう組織を改革するつもりはなかったとしても、組織の最高責任者の一人という立場にあったのですから、組織のやり方が末端の信者を犠牲にしているのなら、その立場にある内に、もう少し違ったやり方もできたのではないか、という思いです。彼の置かれた状況とその苦悩など知る由もありませんが、本の内容の範囲での感想です。

彼は組織中枢の偽善、組織統制と拡大の大義に少数の信者を犠牲にする“神権的戦略”の実態をその本で暴露しました。でも残念ながら、排斥されてしまえば大部分の信者には読まれない現実があります。本の存在は知っていても、触れること、家に持ち込むことさえ忌まわしいでしょう。

「1975年」が外れて組織の根本的な解釈が揺らいでいたこともあり、「1914年」や「14万4千人」などについても割と自由な議論がされていた時期だったようです。欧米のローカル会衆では権威主義が顕著な日本よりも会話の自由度は高いと聞きます。でも、さすがに本部内でそれやったらダメだと思います。思想弾圧が始まり、会話の内容が密告・チェックされ、有力者たちが次々に狙われて、各個撃破で袋叩きにされて終わってしまいました。

レイ・フランズ氏も統治体会議で真っ向から少数意見を言ったり、自分が良心的に認められない記事には署名しなかったり・・まっすぐで、潔い人です。でも、当時の統治体メンバーの中にも彼を評価し同情する人もいたのなら、もう少し水面下で慎重に事を運んで組織の方針を少しでも変えるための多数派工作もできたのではないか、と思うでのす。でも彼は組織を改革するつもりもないし、表面的にはJW解釈に合わせながら、水面下の根回しとか政治的なこととか、自分が「神の組織」と信じたものの中でしたくなかったのかもしれません。

だからスッパリ辞めて潔し、という見方もあると思います(最終的には辞めさせられたのですが)。でも批判するならさっさと辞めろ、他を探すか教祖になれ、では組織内部だけが“一致”して、周囲にはいつまでも不寛容と不一致をばらまくばかりです。

何度も予言を外そうが、従順な信者にそれっぽく思わせる“解釈の調整”など、いくらでも考えつくでしょう。辞める人、排除される人が一時的には増えても残った人がまた排他的になり、先鋭化することで再び人を集める(ラザフォード的手法)、の繰り返し・・だから目ざめても留まる人が増える方が、この組織が変わらざるを得ず、人を惑わす偽予言をやめ、あまたの家族を引き裂いてきた非聖書的な要求・戒律・制度を廃止、緩和するようになるのでは、とも考えたりします。現にその凌ぎ合いは水面下で幾らか始まっているのかもしれません。

まあ、辞めるも辞めないも結局はその人次第ですが。フランズ氏も自分を偽りながら統治体の責務を果たすことに耐えがたい良心の痛みを感じていたのですから・・

自分はもうじきこのブログから去りますが、JWの“真実”を追求するネットでのこのうねりを「協会」が弾圧することに再び成功するのか、それともかつてのレイ・フランズ氏のように、支部や本部を動かす人の中から、組織よりも個の仲間と神の義を愛する人が出てくることが再びあるのか、そのことにはいくらかの興味があります。今は様々な手段で情報共有、意見交換ができる時代です。フランズ氏の時とはまた違う結果になる可能性もあるのではないか、と思うのです(ないですか)。

抜き打ちテスト②

キリストが再び来るという前提で続けます。

先生は「テストをします、ただしそれがどの日かをみなさんは知りません」とだけ言います。テスト自体は予告するので、全くの抜き打ちでもありません。ただ(みなさんは)いつかを知りません、と言っただけで、「いつまでに」というリミットも設定しません。

しかしある生徒が「先生は来週の金曜日までにそのテストをする」と言います。しかし木曜日になってもテストがないので、他の生徒たちは「明日テストがなければお前はうそつきだ」と言い、実際にテストはありませんでした。

するとその生徒は「いや、今月中にテストをする」とタイムリミットを延長します。この生徒が何度もウソをつくので、一部の生徒は彼が騒いでいる内は“抜き打ち”テストなどない、と考えてしまいます。しかしある日、先生は本当にテストをします。この生徒は「ついに予言があたった。自分を信じなかった人が悪い」と言います。先生には ⇒「何度か早まったことを言いましたが、みんなにいつも“緊急感”を持ってほしかったのです」と勝手な“善意”をアピールします。

一方で、この生徒の予言騒動に振り回されず、毎日しっかり勉強していた生徒たちは落ち着いてテストに臨むことができました。その生徒たちにとっては「抜き打ち」ではありませんでした。先生本人の真意を汲みとって、いつ頃とか、いつまでを、予想しようとしなかったのです。


「惑わされないように気を付けなさい。多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがそれだ』とか,『その時が近づいた』とか言うからです。そのあとに付いて行ってはなりません」


イエスは、偽予言をする者たちに気を付けよ、と言われました。

某団体がいつまで、タイムリミットをしぶとく設定し続けるのかは知りませんが、親切なイエス先生はそういう者たちに惑わされないように、付いて行かないように、と事前に忠告を与えてくださったのですから、「自分がやる気をなくしたのはアイツが何度も偽予言をしたからだ」という言い訳もできないことになります。生徒各自はテストの結果を受け入れなくてはなりません。

それで偽予言者の言うリミットまでに来る、と思い込んでしまうことだけでなく、偽予言者が言っている内には絶対に来ない、と決めつけることも、惑わされることになるのかもしれません。嘘つきは勝手に予言した生徒であり、先生ではありません。

『わたしに信仰を置くこれら小さな者の一人をつまずかせるのがだれであっても,その者にとっては,ろばの回すような臼石を首にかけられて,広い大海に沈められるほうが益になります・・もとより,つまずかせるものが来ることはやむを得ませんが,つまずかせるものが来るその経路となる人は災いです!』

「神の経路」か、それとも「つまずきの経路」か・・

「いつ?いつ?」ばかりを気にしたのは聖霊を受ける前の弟子たちです。パウロも「主の日が来ている」という口伝えの宣伝には注意するよう呼びかけました。「イエスの弟子たちも同じ間違いをした」ことを知りながら、それを言い訳にして繰り返すなら確信犯ではないでしょうか。

『わたしは再びあなた方に会うので,あなた方の心は歓ぶことでしょう。そして,だれもあなた方からその喜びを奪う者はありません。またその日には,あなた方はわたしに何の質問もしないでしょう』

『今こそわたしたちは,あなたがすべてのことを知っておられ,だれからも質問される必要のないことが分かりました。これによってわたしたちは,あなたが神のもとから来られたことを信じます』


いつ?いつ?なぜ?なぜ?と質問するのはもうやめませんか。主がすべてを知っておられます。分からないことだらけの弟子たちもやがてイエスの真意を理解しました。質問をして、自分が納得できる都合のいい答えを知ることが「ほんとうの信仰」ではない、ということを。

抜き打ちテスト

ラストスパートで書き溜めていたものを一方的に出し切ります。
最後までそういうブログです(笑)。

論理の話になったのでおまけですが、「抜き打ちテスト」のパラドックスがあります。

Wikiによれば、予測できない時に起きる」と伝えられた未来の出来事について、いつ起こるかを予想しようとした場合に生じる、とあります。

これも捉え方がいろいろあるのですが、自分なりに説明しますと・・


・先生が「来週(月~金)のいずれかの日に、テストを行なう」とクラスに言う

・それは抜き打ちテストであり、テストが行われる日は事前に予測できない、とも言う



この条件を信じる前提に立つと、たぶん金曜日じゃないだろう(予測)、はまだ何となく理解できます。木曜日終了の時点で、もう金曜日しかないのでその日を待たずして分かっちゃうからです。

ここから先が感覚的には微妙なのですが、可能性としては木曜日が最後 ⇒ しかしこれも水曜日までになかった時点で明日(木曜日)だ!と分かってしまうので木曜日でもないことになります。でもこれを繰り返すと、どの日にも「抜き打ちテスト」はできないことになります。


・・なんか、よく分かったような分からんような・・


論理学的に厳密に分析するとえらくややこしいことになるものの一応の結論?は出ている模様。一方、直感的にどう捉えるかは人それぞれあるようです。

・「抜き打ちテスト」を生徒に予告する時点で矛盾
・どの日にテストを行なうとしても先生はウソつき
・いや、月~木までなら矛盾なくテストを行なえる
・金曜日も、生徒の受け取り方次第で「抜き打ちテスト」は可能      ・・・など


さて、これ以上の深入りは危ないので聖書の話に戻します。JWは人の子が「来る」ことを2回に分けています。再臨の始めに「来る」ことと、ハルマゲドンをしに「来る」ことです。再臨の解釈は様々ですが、一応、人の子が来るのが将来という前提で↑のバラドックスを適用してみます。

再臨にある程度の時間の幅があるにしても、イエスは「(再臨中の)これらすべての事が起こるまでこの世代は過ぎ去らない」と語り、さらに「これらの事」=単なる戦争や政情不安だけでなく、人による吹聴でもなく、東から西へ稲妻が輝き渡るかのような天の異兆や人の子のしるしを含む、が起きているのを見たなら、あなた方の救出=神の王国が近いことを知りなさい、と言われました。

それで、人の子が来るその日も時刻も知らない、弟子たち(あなた方)にとってさえ思わぬ時刻に来るとは、その一連の出来事すべてが起きる期間としての「その日=再臨の日」の始め、であると自分は思います。いずれにしろ、JWは再臨が始まる時(1914年)も暗号解読のように聖書から事前に割り出せていた、さらにそこから1世代(それが外れて現在は重なる2世代)の内にハルマゲドンが来るのでそのタイムリミットさえも大体計算=予想できる、と主張しています。たとえ善意であれ、そんな解釈はイエスの忠告に反している、と一度は認めたのですが・・

続きます。

神の証明②

「家はだれかによって造られるのであり、すべてのものを造られたのは神です」

これをパウロと同様、個人の信仰またその理由として語ることは何も間違っていないと思います。というか間違っていることも証明できません。しかしこれを勝手に普遍化して神の存在を証明するかのようなJW論理を検証してみます。

       宇宙
       /   \
始まりはない   始まりがある
             /  \
  原因となるものはない  原因がある
                   /    \
             何かとこしえの   だれかとこしえの
             存在物による    存在者による (始まりも原因もない・・あれ?)→ 自分の加筆

「家は必ずだれかによって造られる」・・少なくともこの地球では「真理」のようです。「1+1 = 2」の証明と同じように論理学的に厳密な証明ができるかはよく分かりませんが、経験と観測により「だれもがそうだと思う」ことでしょう。

一方、人間が観測できる宇宙はこの宇宙しかなく、その始まりも、だれかが造ったところも、だれも観測したことはありません。家と同質・同レベルの人工物と捉えていいのかも分かりません。

あらゆるものには始まりがあり、かつ無からは生じない(“無”を定義するのも簡単ではありませんが)・・これを論理的根拠にすると、神に始まりがないことを「論理的に」説明できません。

これ以上踏み込むと自分が火傷しそうなのでこれくらいにしますが、↑のチャートを見てお気づきでしょうか(創造者78P)。神は一番下に追いやられています。宇宙に始まりがある可能性や、その原因について本格的に議論され始めてから100年経つかどうかです。その前に神は存在しなかったのでしょうか。

宇宙がある → 始まりがあるらしい → 原因もあるようだ → 「全能」かつ「始まり」がない「神」が存在する(Q.E.D)・・・神とは人間側の論理や思考の都合・過程で最後に定義された概念に過ぎなくなります。しかも最後だけすさまじく飛躍している、というか論理的に「ルール違反」です。

一方、あまりにも有名な聖書の冒頭には何と書いてあるでしょうか。


初めに神は天と地を創造された」 ・・・論理もへったくれもありません(笑)。


ただの書き順とはいえ、伝わるメッセージはかなり違うと思います。

科学知識と証明プロセスが進歩した現代で、科学や論理学(証明)という宗教が立ち入るべきではないところに上がり込むやり方は、本当に論理的思考を重んじる人からは逆に反発を買っているような気もします。それも計算の上での作戦なのかもしれませんが。


「あなた方の間に愛があれば、それによって人々はわたしの弟子であると知る」


「愛がある」とは何かの組織に期待・要求するものでもないと思います。何かの組織に属していようがいまいが、自己賛美や勧誘目的ではなく、キリストが霊によってその内に住まわれる人はだれでも、その愛によりイエスの弟子であると知られるように思います。


創造“論”と進化“論”の土俵違いの 争いではなく、どういう形やきっかけであれ「知識を超越したみ子の愛」を通して引き寄せられる人は、その方が示された「天の父」に近づきたいと思う・・神の存在、さらにその正当性までを独自の「論理的根拠」で証明するかのような手法がクリスチャンの布教でしょうか。神ではなく、その論理や解釈を思いついた特定のグループを強烈に“擁護”する人を生み出すだけではないですか。

神の差配

ネオさんのブログに組織お得意のダブルスタンダードについての記事がありました。詳しくはそちらをご覧ください。

この手のことは自分も普通によく聞きましたし、知っています。

例えば、長老さん。自分や家族の病気で集会に来れなくなります。ほとんど同じ状況に見えても、ある長老はわずか数ヶ月で一方的に削除を通告されショックを受けます。別の長老はおとがめなしで、そのことに疑問を呈した人が巡回さんに脅すようなことを言われやはりショックを受けます。

様々な都合や思惑が隠されているのですが、以前の記事に書いたように、信者側には一切の情報を開示せず、「すべての事情を知らないはずだ」とか「神の差配である」となります。

なぜ、こんなことが生じるのでしょうか。


旧約には、何で?と思うような記述が多々あります。代表的なのはダビデとウザでしょう。

ダビデはバテシバと姦淫を犯し、夫のウリヤを殺します。でも死罪どころか、王の地位に留まることさえ許されます。一方、ウザは契約の箱を支えようとしただけで神に撃たれて死にます。

普通に聖書を読むと、この違いは何?となります。

代々続く超敬虔なユダヤ教徒に聞いたことがあります。彼らは新約を知りませんし、受け入れてもいません。答えは一言、「God is unpredictable」(神の行動は予見しえない)でした。そもそも、何でそんなこと聞くのか?オレ神じゃねーし聖書に書いてない理由なんて知らねーし、という感じでした。

JWにはこのような潔さがありません。意地でも“納得できる”理由を欲しがります。

『エホバが不公正を行なうことはあり得ません。不公正を行なうとすれば,ご自分の主権の基盤そのものを損なうことになるでしょう』

・・人が「不公正だ!」と思うことを神がすると、主権の基盤が傷つくそうです。その神ってどなたですか。自分たちの「理想の神のイメージ」が傷つくだけじゃないんですか。なるでしょうって、神さえも脅しにかかるんですか。

『神の言葉がウザの行ないを「不敬な行為」と評していることからすると,この記述に明示されていない何かの利己的な動機をエホバは見ておられたのかもしれません。もしかしたらウザはせん越な人で,しかるべき境界を踏み越える傾向があったのでしょうか。あまり目立たずに家族として守ってきた箱を公の場で先導するということで得意になり,うぬぼれてしまったのでしょうか』

そんなこと、聖書に書いてありませんけど?

・・と言うワケで、聖書に書いていないイメージを勝手にふくらませ、ありとあらゆる誹謗中傷を作り上げます。その行為だけでなく人格攻撃まで始めます。

そうだったのかもしれませんが、いずれにしても聖書という前提に立つならそれは「神の差配」です。書いてない理由を何で?何で?とあーだこーだ言っても意味がありません。

しかし!人間の組織がこの旧約の神の真似ごとをすると悲惨なことになります。全く同じ理由で、資格はく奪や排斥になったり、ならなかったりします。

さらに面倒なのは、↑のような記事で教化され、全知の神=組織と信じて疑わない人たちです。

資格はく奪や排斥は発表されますが、理由は極秘、表面的には同じに見える・・するとものみがウザに対してしたやり方に倣い、ありとあらゆる悪い理由を想像することで納得しようとします。

「あの人は何かやらかしたに違いない、きっと利己的でせん越な人だからエホバに裁かれたのよ・・うぬぼれたんじゃない?」

その矛先は家族にも向けられ「家族にも責任があるのよ、きっと霊的な問題があったんでしょうねぇ」なんてウワサを流されて酷く傷ついた人もいます。

すさまじい精神的苦痛でしょう。最近、不当な資格はく奪を訴えている人がいるなんて話も聞きますが、それも当然の流れのように思います。


「精一杯やっていますが、人間ですので判断には誤りもあります。できる限り再調査して不当な措置があれば謝罪し、撤回します」って普通に言えないんですかね。パウロとバルナバも「マルコの資格」で真っ二つに割れて大ゲンカしても、後で和解してませんか。自らを神懸った存在にするから、メンツを気にして後に引けなくなっているだけではないのですか。

旧約の神気取りの真似ごとのようなやり方は、本当に神を恐れるならもうやめてほしいのです。
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