喜びと悲しみ

「主にあって常に歓びなさい。もう一度言います、歓びなさい!」

パウロらしいまっすぐな正論です。もちろん、クリスチャンには歓ぶ理由があります。

しかし、悲しみもまた、自然の感情です。喜ぶこと、幸福であることが義務であるかのように、消極的なことや否定的なことには目を向けてもならず口にしてもならない、と強制されるなら逆に喜びを奪うことになりかねません。

悲しむこと、落胆することは信仰が足りない、“ふさわしい”見方ができていない証拠、と言い聞かされると、顔はニコニコしていても心が悲鳴をあげていることもあるのです。

「嘆き悲しむ人たちは幸いです。その人たちは慰められるからです」

こちらはイエスの言葉です。

特に自分のことではなく、他の物事、他の人の状況に目を留め、「悲しむ人と共に悲しむ」ことは、人間特有の貴い感情であると、自分は思います。

「都の中,エルサレムの中を通れ。その中で行なわれているすべての忌むべきことのために嘆息し,うめいている者たちの額に,あなたは印を付けなければならない」

背教したエルサレムにおいて、独自のグループを作って歓んでいる人ではなく、その中にいて、行われていることに嘆き悲しんでいる人に印を付けよ、と命じられています。

百匹目の羊の記事でも書きました。痛み苦しんでいる一匹の羊を、「牧場や経営者の評判を落とす」とばかりに存在しないかのように扱い、元気いっぱいに歓び草をはむ99匹の羊を宣伝して自慢することは、イエスが示した精神ではないと思います。

悲しむ人と共に悲しむことは、やがて歓びに変わります。イエスは、その百匹目の羊を探し求めそれが見つかるなら、他の99匹以上の歓びが天で生じる、と言われなかったでしょうか。

嘆き悲しむことこそ、真の喜びと幸いを生み出すのです。

喜びと幸福しか存在しない、と謳われている場所には、虚構の喜びしか存在しません。

「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」

仮に、人類が精錬されてこの言葉がいつかその通りになるとして、嘆きも痛みもない世界で人間がどのような感性や霊性を持つようになるかは、今の自分たちには理解できないことだと思います。「悪いことも苦しいこともぜーんぶなくなってみんなハッピー☆」のような単純な話ではないかと・・

少なくとも、今ある悲しみから目をそむけてはいけないと思います。
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悲しい集会

昨日のものみの塔研究は悲しすぎました。記事が悪いのではありません。

「過ぎ越し」からどんな教訓が得られましたか・・

「災厄によってエジプトの初子たちが死ぬと、ファラオはイスラエルを解放しました」

「神のみ使いはエジプトの初子たちを殺しますが、神に従順なイスラエル人は保護され、その後に自由にされます」


エジプトの赤子に何の罪があったのでしょうか。旧約から聖書を読み始めるとこのあたりでつまづきます。普通の感覚です。選民思想全開の残酷神です。自分はJWのようにおこがましくも神を“弁護”するつもりなどありません。

でもこれが、旧約が示す、罪が生じさせる現実なのだと思います。

数日しか生きない乳飲み子も,自分の日を全うしない老人も,その場所からはもはや出ない。人は百歳であっても,ほんの少年として死ぬからである。罪人については,その者が百歳であっても,その身の上に災いを呼び求められるであろう」

人は罪の内に宿され、生まれた瞬間から罪人です。命が1日ごとに長らえること自体が神の憐みです。数日で死のうが、100歳まで生きて死のうが、その命に差異はない・・そんな馬鹿げた話があるか、と殆どの人は感じます。

『道理をわきまえない者よ,今夜,あなたの魂は求められる。そうしたら,あなたの蓄えた物はだれのものになるのか』

これはただのたとえ話なのですか。不慮の事故の可能性のことを言っているのですか。ではなぜ、イエスは愛ある天の父がその人の魂を求めている、と言ったのですか。ただの脅しなのですか。文字通り、神が今夜、自分の命を求めるとしてもそれは全く正当ではないのですか。

過ぎ越しの夜、それはまさにそうした夜だったのです。神は全く正当な権利の内に(創造者に権利も何もありませんが)、乳飲み子の命を求めたのです。それを免れる唯一の手段が、身代わりの命を屠り、その血を戸口に振りかけることだったのです。天使は、その家に住んでいるのがイスラエル人かエジプト人かを判断したのではありません。身代わりの血が戸口に振り掛けられているかがすべてなのです。それだけの話です。エジプト人の初子の命も、イスラエル人の命も全く差異はないのです。ただ神はご自分の憐れむ者を憐れむのです。なんと恐ろしい書物でしょうか。人を支配するために、また実際にその目的で悪用されてきたこれほどの本は他にないでしょう。


「では過ぎ越しからどんな教訓が得られますか」(復習の質問)

「エホバの指示に従ったのでイスラエル人は救われ、エジプト人の赤子は殺されました。わたしたちも、組織の指示に従いたいと思いまーす♪」

「指示にその通り従ったのでイスラエル人は救われました。わたしたちの救いも、奇妙に思えても長老たちの指示に従うことにかかっていることを思いに留めたいと思いまーす♪」


長老:「そうですね」(ニコッ)

・・ほら、こうなるんですよ。


そんなこと言ってんじゃねーよ!!

エジプト人の子どものために泣けよ!まがりなりにも聖書を信じているというなら、自分の命が1日ごとに生かされていることを感謝しろよ!自分が今生きている命など、エジプト人の長子の命と全く等しい価値しかないことを知れよ!

・・毎度のことながら子供の命が絡むと感情を抑えきれません。記事そのものは悪くないのに、こういう捉え方しかできないから、自分たちの想像するハルマゲドンが来るとして、自分たちさえ救われるなら、そこで殺される人間や赤子など、どーでもいいのでしょうね。

救われるための指示って何ですか。

『神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされたからです』

彼らも彼らなりに贖いに信仰を働かせているのかもしれません。個々の人としての彼らにさえ恵みは差し伸べられるのでしょうか。それは自分が決めることではありません。ただ悲しいです。

世の支配者

この世界と人類を統一しようとする勢力、それが何なのかはよく分かりません。やがてその勢力が支配する一つまたは複数の国、そしてその中の一つの都市を中心とする世界帝国主義がはっきりと姿を現すのでしょうか。それは「秘義」であって、「主の日」が到来して「地とその中の業があらわにされる」時までその確かな実体は隠されているのかもしれません。

『わたしたちのする格闘は,血肉に対するものではなく,もろもろの政府と権威,またこの闇の世の支配者たちと,天の場所にある邪悪な霊の勢力に対するものだからです』

「闇の世の支配者たち」(暗闇の世界の支配者:新共同訳)・・複数形で語られています。表向きの政府と権威とは別の存在です。邪悪な霊の勢力でもありません。

この一つの聖句の文言だけではなんともですが、「暗闇の世界」を支配する者たちの実体と世界を統一しようとする彼らの試みが「主の日」に明らかになる可能性を考えています。この勢力が自らの力で「統一世界」を実現させる試みが成功するかのように見える段階まで進めば、「平和だ、安全だ」という叫びも上がることでしょう。

それで、主の日が始まる前後に稲妻のように生じる世界的混乱からこの大いなるバビロンが姿を現し、この勢力による世界秩序を支持するのかどうか、世界を二分する論争が起きるのかもしれません。

しかしいずれかの段階で、軍事力に対する直接の指揮権を持つ「十人の王」が彼らに反旗を翻すことはあり得ると思います。少なくとも、国連が宗教すべての殲滅を全会一致で決議し、全宗教に対する武力行使を始め、なぜかWT協会だけが後回しにされるよりは、の話ですが。そんなことがあるとしたら真っ先にやられそうですが(笑)。

『わたしたちが神から出ており,全世界が邪悪な者の配下にあることを知っています』

「邪悪な者(=単数)」が世界を支配しているのであれば、政治的な力もあるはずです。でも数ヶ月、数年単位で変わる表向きの政治家が逐一その者に影響されている、とも考えにくいです。闇の世の支配者たちを媒体としている可能性はないのでしょうか。


最後の使徒ヨハネが「主よ!来てください」と祈ってから1900年以上経過しました。しかしイエスはいつの日もわたしたちと共にいてくださる、とも約束されました。その方が再び来られるのがあと何十年、何百年先になるのかは分かりませんが、主の日は盗人のように、稲妻のように訪れるのでしょう。いずれにしても、「主の日が来ているという趣旨の霊感の表現や口伝えの音信(人による吹聴・宣伝)には注意したいですね。

大いなるバビロン

「バビロン」の由来は神に敵対する狩人ニムロデの王国にあります。

王という言葉は人が人を支配する立場として人間が作った造語と考えられます。

神は後に、ご自分が正当なる支配者であることを示し、人間が作ったこの言葉をご自身に適用して、「エホバ自ら王となられた」と預言者を通して語られました。

神から疎外された人類を一つにまとめあげようとした最初の人物がニムロデです。

『彼は地上で最初に力のある者となった。彼はエホバに敵対する力ある狩人として現われた。それゆえに,「エホバに敵対する力ある狩人ニムロデのようだ」という言い習わしがある。 そして,彼の王国の始まりは,シナルの地のバベル,エレク,アッカド,カルネであった』

聖書で初めて王また王国という言葉が出てくる例です。この王という言葉・ステータスが人間の造語であることは、後にイスラエル人までが王を求めた時、神がそれを好ましいとされなかったことにも示唆されているかもしれません。

ニムロデの野望は神によってくじかれましたが、バビロンは西暦前7世紀には再び、世界を席巻するバビロニア王朝の首都になりました。全盛期の王ネブカドネザルは「この大いなるバビロンは,わたしが自分の偉力の強さをもって王家のために,またわたしの威光の尊厳のために築いたものではないか」と豪語しました。

それで、過去において「バビロン」とは政治上の帝国、もしくは人類と世界を自ら支配しようとする個人また勢力による試みのことです。

では啓示の書の「大いなるバビロン」についてはどうでしょうか。

「彼女は倒れた! 大いなるバビロンは倒れた。そして,悪霊たちの住みか,あらゆる汚れた呼気のこもる場所,またあらゆる汚れた憎まれる鳥の潜む場所となった! 彼女の淫行の怒りのぶどう酒のためにあらゆる国民がいけにえにされ,地の王たちは彼女と淫行を犯し,地の旅商人たちは彼女の恥知らずのおごりの力で富を得たからである」

JWに限らず、この大いなるバビロンを、人類を誤導してきた宗教だと考える人がいます。確かに一部の宗教は「地の王たち」や「旅商人たち」に迎合してきました。

しかし、大いなるバビロンは7つの頭と10本の角を持つ野獣の上に君臨しています。世界を支配しているのです。自分は宗教そのものにそこまでの力はないと思います。かなりの力を持っていた時期もありますが、多くの場合、宗教、特に組織宗教は権力や金集めに利用されてきた側です。

それでこの「大いなるバビロン」とは、表向きの「地の王たち」を動かし、数々の産業を支配して「そのおごりの力」で「地の旅商人たち」にも富を得させてきた、そしていつかはこの世界と人類を統一しようとする勢力のことではないかと考えたりします。一部の宗教も彼らに利用されている可能性はあります。

戦争や紛争の背後で無数の兵器・武器が取り引きされ、ビジネスになるなら「敵の王」にさえ売り渡す、その姦淫の結果、「国民は国民に対して敵対する」という聖書預言の成就という大義のもとに「あらゆる国民がいけにえ」にされてきたのではないでしょうか。

核兵器の使用が現実味を帯びた冷戦時代のように、JWの増加も神やキリストがどう、よりも、とにかく終末の恐怖と「もうすぐハルマゲ ⇒ 楽園」に大きく依存してきました。続きます。

7つの会衆

以前の記事にも書きましたが、かつてJWも、天の王国という引き網=クリスチャンと称するすべての組織と解釈していました。エキュメニカルと紛らわしくてイヤなのか、天上天下唯一組織主義を加速するためなのか、この解釈も引き網=JW組織オンリーに変更されました。

でも以前の解釈にしたがって聖書巻末の啓示の書を見ると、しっくりくる部分があります。

つまり、イエスが「炎のような目」でつぶさに調べておられる「主の日」における7つの会衆とは、キリスト教と称するグループ全体を指しているのではないか、という考えです。

啓示の書に出てくる7つの会衆は、それぞれに褒めるべき点と、責めるべき点があります。もちろん、それぞれの会衆が現在の特定の宗派に当てはまる、ということはないかもしれません。

エフェソス会衆・・労苦と忍耐、でも最初の愛を離れた
ペルガモン会衆・・迫害に耐えた、でもバラムの教えを持ち込む者がいる
テアテラ会衆・・・行いが多い、でもかの女イゼベルを容認している

・・など。

では主が到来する時、この地上に何を見るのでしょうか。クリスチャンと称する人を裁くのは主がなさることです。

このブログで「告白すべき罪のない教会は存在しない」というカトリック神学者キュング氏の言葉を何度か引用しました。ちょうど罪の程度に差はあっても「すべての人は罪を犯したので神の栄光に達しない」のと同じように、聖書からの逸脱の程度に差はあっても完璧なエクレシアなど存在しないのかもしれません。それが、啓示の書の7つの会衆の描写とも一致するように思います。一応、JWも“キリスト教”からは出て行きたくないようですし。

自分は聖書の神を信じるようになった方々が天の王国という引き網に留まることを願っています。ある人にとっては、組織の間違いと矛盾に目ざめながらも当面はJWに留まることであり(改革派の方や様子見の方)、また完璧な会衆ではなく神を求めて他教会に行かれる方もいます。今のところ、どこの教会にもJWにも戻る気にもなれず、個人で祈り信仰を実践している方もいるでしょう。

それが神と聖書は否定しない、というめんどくさいスタンスで自分がブログを書いている理由です。もちろん、元かどうかを問わずキリスト教から離れた立場からJW問題を考察される方のサイトも楽しく拝見しています。

話を戻しますが、クリスチャンと称するすべての人をキリストが調べているのなら、その同じ巻末の啓示の書が示す、クリスチャンが出なければならない「大いなるバビロン」とは何でしょうか。


これは予想というか個人的推測の域を出ませんが、最近一つの可能性と思えるようになってきたことがあります。聖書の予言は抽象的な言葉が多く、人間があーだこーだと解釈に踏み込んだところでJWのように外しまくるのがオチです。でも引き網=JWオンリーを否定するなら、「大いなるバビロン」て一体・・という対案も一応出しておこうかと思いました。個人の趣味です。

だれの資産?

組織信者の方は「すべての資産はエホバのもの!」と仰るでしょう。

王国会館の名義は、地元の独立したローカル宗教法人です。

近年の歯止めがかからない日本での信者・出席者減少と超高齢化からふと思うのですが、王国会館が維持できず、さらなる合併だけでなく王国会館そのものが閉鎖になるケースが出てくる可能性もそろそろ現実味を帯びてきたように思います。

1世紀のクリスチャンが金を集めて宗教建造物をあちこちに所有した記録はありません。

王国会館が閉鎖、さらにそれを所有していた法人が解散になると、不動産そのもの、またはそれを売却したお金はどうなるのでしょうか。やっぱり、地元法人が解散する前に決議を取るなりしてものみの塔協会へ寄贈することになるのでしょうね。

この可能性まで含めて考えると、

王国会館基金への寄付 ⇒貸し付けに使う(タダで受けてもタダでは与えない)⇒ 地元信者が10年以上かけて返済する ⇒ いつか信者が減少して売却、そのお金も協会へ

すごいシステムですね。

各会衆の「王国会館基金」への寄付
“返済”するまで地元信者が続ける寄付
閉鎖された時の売却金

すべてが協会に集まるようになっていますね。

もちろん、会衆が存続する限りは「世界的な業」への寄付や、最近では金額指定の決議を次々に取らせることで協会への送金も確実に行われ続けます。不動産に関わる事務処理や維持費の負担はぜんぶ、忠実な地元信者が肩代わりしてくれます。その上、会計の公表義務がない別法人である自分たちに毎月、非課税の上納金を送ってくれる・・よくできたフランチャイズシステムです。

法律的に“傘下にない”が、実効支配下に置く各ローカル法人に所有させている不動産まで含めると、協会さんの実質の世界総資産って一体いくらになるのか、と思いますね。そんなに資産を集めて何がしたいんでしょうね。


会館が建てられない○国なんかでは、個人の家で集まっていると聞いたことがあります。どの国でもその原点に立ち返ればいいのに。信者とお金が集まり始めると土地を買って施設を建てては自画自賛し、専属の職員を雇い特権階級を作る聖書的理由がよく分かりません。

白でも黒

少し前の記事「小さな事」で昔、知人から聞いた話を思い出しました。

この方、もう組織にはいません。このブログを見ることもないでしょうし、見たからと言って本人をスっ飛ばして組織に告げ口するような、組織に魂を売り渡して裏切るようなヤツではないので、安心して書けます。今さら安心も何もないのですが・・

この方、JW大会で音響部門に配属されたそうです。最近はどうだか知りませんが、数千人が集まるJW大会での音響部門は花形です。プログラム打ち合わせ等で、地域さんや巡回さんとお近づきになれるからです。

大会当日のステージ上でのリハーサル、いつもは偉そうにしている巡回さんも、地域さんが臨在する所では空気のようにその斜め後ろにぴったりと控えています。

さてこの地域さん、ある実演リハの時、「えーと、じゃあこのシマイにはそこの黒のマイクを渡してください」と指示します。すぐ近くにあったマイクが目に入っただけです。ちなみに複数のマイクは柄の色で区別されています。

しかし、どの実演・インタビューでだれが、何色のマイクを使うかは、事前に打ち合わせがされていました。1本でも変更があれば、他プログラムにも影響するので調整がややこしいのです。

音響入りたてのこの方は、「あの~・・この実演では白のマイクを使うことになっているんですが・・」と普通に言おうとした矢先、「あの・・」の時点で青ざめた音響部門監督から俊敏な動きで背後から腕を強く掴まれ、周りには聞こえないように小声だが脅すような強い口調で「ダメだよ、兄弟、地域監督の言う通りにして!早く!」と叱られたとの事。

音響部門監督も、花形のトップですからエリート長老です。次期巡回を視野に入れている方もいます。自分の部下が地域さんに「口答え」しようものなら、下手をすれば車両省、じゃなかった駐車場部門とかに回されかねません。この監督さんの必死な怯えっぷりも滑稽だったとか・・

地域さんが「黒」と言えば「白いマイク」も「黒」になる。

これもJW的に「小さな事」、なんでしょうね。

マイクの色ごときで一言も言えない連中が、資格や審理が絡む問題で地域や巡回さんが有力長老の話を鵜呑みにして「クロ」と言えば、いや「シロ」です、と庇うことなどできるはずもない。一方的かつ不当な扱いで名誉を傷つけられた仲間たちの声が溢れています。

断言してもいいでしょう、「JWに僧職者階級はない」はウソです。呼び方を変えただけです。

仕事で勘違いした上司から叱られる程度でいちいち辞めてたら生活になりませんが、そんな上下関係や不正とは無縁だと信じ込まされて入信した“神の組織”なるもので、ちょっと内部に入り込むともうこういう世界が待っていることに幻滅する人は数知れず・・そうやって若者を潰してきたことのツケが確実に回ってきてる感が漂う今の組織。

最後の使徒

キリスト者は聖書を勧めるときにヨハネ福音書から読むように、と言うことが多い。

イエスの死後、半世紀以上も経って書かれたヨハネ福音書は独特です。他3つのいわゆる共観福音書にも個性はあるものの、イエスの誕生や洗礼のエピソードから始まり、基本的にイエスの活動と教えをアーカイブ的に記録していますが、ヨハネ書はいきなり「初めに言葉がおり・・」です。

その言葉が「独り子の神」であり人の内に宿ったことを明らかにしているのもこの書です。さらにヨハネの名が付された聖書巻末の啓示でも、「神」や「主」の実体の区別はますますつきにくくなっています。ヨハネ自身がこの書を記したとするなら、啓示の書に「この預言」とあるように、新約部分の筆者では「預言者」に近い存在です。というか預言者です。

様々な個所で、「霊」が語ったり「主」が語ったり「神」が語ったり、もうだれだかよく分からないが(笑)「アルファでありオメガである」「最初であり最後である」方が語ったりまじカオスです。JWもこの節は「えほば」がゆった、次の節は「いえす」、と区別するのに必死です。

1世紀のクリスチャンは三位一体を教えていなかった、とJWは言います。三位一体が“正しい”かは別として、「言葉=独り子の神の受肉」「聖霊が人の子に宿る」ことによる神への近づき方の変化は、歴史的・宇宙的な転換であり、70人訳しかなかった当時の人々の理性を超えたことでしょう。以前の記事に書いたように保守的なユダヤ人は激怒しまくり、弟子たちさえすべてを理解できたとは思えません。

実際、子についての深い洞察は、イエスの死後しばらく経ってから記されたこれらの書に依るところが非常に大きいのです。その最後の使徒に続く初期の教師たちが「子」と「霊」に対する理解を“漸進的に”深めていった過程が無謬である、とも思いません。でもそのすべてがサタンによる全面的な“背教の歴史” であれば、新約そのものの信頼性が疑われることにならないでしょうか。


聖書は歴史的文献、というスタンスから批評する人が指摘するように、人の業である以上、新約写本とそれに基づく本文批評に誤りが含まれている可能性はゼロではないと思います(福音系の方ごめんなさい)。自分も本や文字を崇拝している訳ではないので、一字一句の無謬性にこだわりたくはありません。でも現在の新約で示されるイエスとその教えをその人なりに“信じている”のが個々のクリスチャンなのでしょう。

「あなた方に言うべきことはたくさんあるが、あなた方はそれに耐えられない」

「子がどのような者であるかは、父のほかにはだれも知らない」

「聖霊が到来する時、その者が真理の全体へと案内し」

「その霊が神の奥深い事までも究めるであろう」


父がどういう方か、というのは「子」を通して示されたので、とても分かり易いです。でも神の本質が何なのかは人間が探り切れるものでもないと個人的には思います。そこまで分からないと身近に感じない、という人と、そこは人の理性だけでは分からない、という神秘に惹かれる人に分かれるのかもしれません。


重力がどういう力か、は小学生にも説明できますが、その本質が何なのかは諸説あります。科学屋さんは自然界のすべての力・現象に「統一されたシンプルな理論」が絶対にあるはず、なきゃいやだ、と考えます。真理とは唯一で、美しく、合理的で、シンプルで、僅かな綻びも反証の余地もなく完璧に統一されていなければならない、という強烈な願望とプライドです(悪い意味ではなく)。

JWはその思想を宗教に持ち込もうと試み一部の人を惹きつけましたが、やはり無理があったようです。最近は悪い意味でのプライドだけが先走って、肝心の解釈が綻びまくっています。

2世代は異質

自分がブログを書くきっかけになったのは「1914年から2世代でハルマゲドン」解釈(2010年)でした。その1点が納得できないからと言って、いきなりJWの解釈すべてを否定するようになった訳でもありません。もともと?に感じていたことはありましたが、組織の教育通り、必要な情報は「時に応じて」明らかにされる、と自分をコントロールしていました(されていた?)。

覚醒してから、時間をかけてそれまでの疑問を再確認しました。ベレアの人々のように「そのとおりかどうか日ごとに聖書を調べる」ことにしたのです。何かが正しい、という前提で決めてかかることをやめ、聖書そのものとWT資料、そして必要に応じ他の資料を調査しました。

「1914から2世代」の話に戻します。

過去の予言の失敗は、すべて「1914年から1世代」の範ちゅうでした。1925も、第2次大戦前の期待も、1975もです。「1914年から1世代」の中で「早まって期待」しちゃった☆という言い訳も・・その時代にリアルに生きていた訳でもなく、まあしょうがないんでないの、程度の感覚でした。

『現代の神の僕たちも同様の誠実な意図を持ち,イエスが「世代」について言われた事柄から,1914年を起点として計算できる何らかの明確な時間的要素を引き出そうとしてきました。例えば,次のような推論が行なわれました。1世代は70年ないし80年の期間と考えられ,第一次世界大戦や他の出来事の意味を把握できる年齢の人々から成るので,終わりがどれほど近いかは大体計算できる,というわけです。そのような考え方は,いかに善意から出たものであったにせよ,イエスが続いて述べた忠告に調和していたでしょうか。イエスはこう語っておられます。「その日と時刻についてはだれも知りません・・」』(1997年ものみの塔)

かなりの失望と反発はあったでしょうが、「1914年に生きていた人」(1984年教材)が過ぎ去ってしまった以上、仕方がありません。神やキリストがどう、よりもとにかく「もうすぐハルマゲ→楽園」に依存する増加にしがみついても意味がありません。「世代」という語は時間的要素を示唆しない、というのはどうかと思いますが、いずれ起点である1914年も意味をなさなくなると予想するのは自然で、そう考えた人も多かったと思います。

・・しかし現指導部はこの解釈を真っ向から否定し、善意であろうとイエスの言葉とは調和しないゆえにもうやってはいけないことだと明言したやり方 = 1914年を起点として計算できる何らかの時間的要素を引き出そうとする(大体計算する)解釈に逆戻りしたのです。

間違うことは仕方ないです。この世代」=「1914年の世代」=「1914年に生きていた人」が過ぎ去ってしまったのですから、自分たちの解釈=1914年が間違いでした、イエスからのものではありませんでした、と言えばまだ救いはあったかもしれません。

「1914年から2世代」は根本的に異質です。それが真実ならイエスが1世紀にその言葉を語った時点でそのように意図したはずです。イエスが本当に1914年に来て「奴隷」を直に任命した?(1919年)ということは、自分の意図とは異質の解釈、ウソの解釈を奴隷に与え、「偽りの緊急感」を持たせ、宣伝させたと言っているのです。

そして90年経ってようやく“真の意図”を知らせる・・しかも前例を考えればこれが最後の真実である保証もない、それでもこの奴隷に逆らえばわたしに逆らうことになる、これがわたしの導き方だ・・ウソつきはだれですか。イエスですか。

この記事で引用した1997年のものみの塔と比較すれば、その記事を書いた人間が背教したか、背教的な思想を持つ勢力がものみの塔執筆において優勢になったか、としか考えられません。

小さな事

『ごく小さな事に忠実な人は多くのことにも忠実であり』・・・聖書の格言です。

もちろん、クリスチャンにとっての忠実の対象とは、神と聖書の教えです。

でもJWにとってはそうではありません。ものみの塔4月15日号のライフストーリーです。

そこで語られているエピソードで、2代目会長のラザフォードが当時の工場長ノアに「昼休みに事務所に戻って来る時、消しゴムを持って来てほしい」と指示することがよくあったようです。するとノアは昼休みを待たず、連絡を受けるやすぐ倉庫に消しゴムを取りに行ったとのこと。忘れない内に、ということでしょう。

ノアは次期会長になります。すると、自分の部下に同じような命令をします。「毎朝、鉛筆を削っておくように」という指示です。ノアから↑のエピソードを聞かされたこの方は、その指示に従い長年、毎日削りたての鉛筆をノアの机に準備しておいたそうです。

・・これがJW的「小さな事」です。

鉛筆くらい自分で削れよ、と思いますが、JW組織は「組織への忠実度」や「指示系統への従順度」を試すためによくこういうことをします。ベテルでも、入りたての頃は「無意味な雑用・指示」を受けることもあると聞きます。とにかく、“謙遜”に指示に従うかどうか、を見るのです。

弟子たちの足を自ら洗ったイエスとは正反対のやり方です。

今時、それを主な目的として雇われている秘書なら別ですが、ただの部下に自分の机や事務用品の整理までやらせる上司なんて「世の会社」にもいるのかどうか。下手をすればパワハラです。


『その人たちがふさわしいかどうかまず試し』なさい・・

この一句を取り上げて、すべての指示を正当化します。何かの仕事を委ねて、それをどう果たすかによって評価されるのはどの組織も同じですが、消しゴムを取ってこい、とか、自分の鉛筆は毎朝削っておけ、とか陰湿なイジメのような指示で“試す”ことが聖書的なのでしょうか。

ラザフォードも消しゴムが必要なら、自分で取りに行くか、新米の若者に行かせることもできたはずです。でもわざわざ工場長だったノアに指示するあたり、次期会長候補として“謙遜さを試して”いたのかもしれません。

ベテル内ではそういうの、好きにやってもらっていいと思います。好きな人が申し込んで、好きで呼ばれている訳ですから。でもそういう指示に飼い慣らされてベテルで出世する人間が、同じ基準で巡回さんを選び、教育し、協会に雇われてもいない現場の信者を指導させていれば、そのやり方が一般的な常識や聖書の精神からも乖離していくのは当然でしょう。最近では「奇妙で異例な指示」にも従え、とか全信者向けに言い出してますからね。

この方、何の失敗かは分かりませんが、あるミスについてノアに謝罪の手紙をしたため、自分はもう別の部門に配属されるべきではないか、と申し出たそうです。見事なまでの怯えっぷりです。その姿勢が評価されてかその件は不問になり、この方は今でも組織の中枢で働いています。

ただの過失なのに、絶対的権限を持つ“会長”に事実上の始末書でクビを覚悟に詫びたら許された、それが将軍様、じゃなかった会長様の何という恩情でしょうか、という美談の記事になるなど、もう“クリスチャンの組織”とは思えませんね・・

上が一方的に下を試し、評価する、そして上になれば同じように下を試す、下は常に上の評価と顔色ばかりを気にする、イエスの精神を思い出してこんな悪循環を断ち切ってほしいと思いますが、難しいでしょうね。
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