異様な減少

日本の記念式出席者の推移が「エホバの証人研究」さんのこのページにあります。

ピークの1995年、37万8586人から、最新の数字、2013年は31万215人になりました。
6万8000人以上の減少です。

それとほぼリンクしているのが夏の地域大会の出席者数です。

1995年31万7816人 ⇒ 2013年25万5537人(海外からの1500人含む)
6万2000人以上の減少です。

協会はこの原因をどう考えているのでしょうか。

以前の記事に書いたように、末端信者が長老や巡回さんに本音を語ることはますますなくなっています。撲羊、じゃなかった牧羊という名の家庭訪問も、「忙しい」「都合が悪い」とのらりくらりかわすか、はっきり拒否する人も増えています。

ここ何週間かのものみ記事がそうですが、平信徒と僧職者階級の区別を全否定していたJWはいつの間にプレズビテリアン(長老派)になったのですか、と思わざるを得ない長老主義、長老に逆らえば救いはない、と言わんばかりの必死の教育が示すように、“羊飼い”が羊に拒否される、というJW的異常事態が起きています。

協会は個人からのダイレクトな書面による陳情は無視します。以前に取り上げた統治体のジャラズ氏の発言にあるように、組織の秩序と手順を固守することの方が重要であり、個別の事例における2、3人の犠牲はやむを得ない、のです。

組織が定めるルートを無視して個々の仲間を助けようとすることは、下手をすれば背教とみなされます。当然、巡回さんも組織のやり方や最近の解釈に問題があるかのような報告など、絶対にするはずもありません。自分の立場が危ういからです。それで日本を含む主要先進国の上層部からは、すべての原因を信者側に押しつける報告が本部に回されていることが最近の記事からも予想されます。

実際、その内容からして、組織側が原因と考えているのはこんな感じでしょうか。


・世界的経済不況で、信者が生活や老後のことを考え“物質的”になっている

・病気や高齢化による世話や健康管理などのために“霊的な活動”が後回しになっている

・さたんの中傷工作に惑わされ、“組織(の解釈)”への絶対的信仰が揺らいでいる

・大型ショッピングモールが次々に建っている

・旅行業者が世界の珍しい場所へのツアーを勧めている


最後の2つはさておき、結局のところ原因はすべて「この世」「サタン(の手先)」「信者側の認識・霊性不足」であり、「協会(の人間)」に何かの原因があるとは全く考えていないか、仮に考えるところがあっても、協会の権威を弱体化させないためにそんな空気さえ一切たりとも醸し出してやるものか、という意気込みを最近の記事から感じます。

それが組織をさらに全体化、独裁化させ本音が言えなくなる悪循環になっている気がします。
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物質の人

JWがそうした方が有利な場合は、物質的・科学的になる一例が魂の不滅を否定する論議です。

『どうしてそんなことがあり得るでしょうか。人間の五感は思考と同じく,すべて脳の働きと結び付いています。人が死ぬと,脳は働かなくなります。人間の記憶,感情,五感などが脳とは別個に,不可解な方法で機能することはありません。脳が破壊された後は機能しなくなります』

・・えーっと、じゃあ天に召される“14万4千人”って、何かの“脳”を持ってるんでしょうか。まさに人間には説明できない不可解な仕方で彼らの思考・記憶は続きませんか。死後、天に召されることを誠実に願うクリスチャンが信じているのはそれと全く同じことではないですかね。

魂の本質について考察するなら構わないのですが、神の事柄を論じるのに、物質的論議を持ち込むのもどうなのか・・このメイン教材を使いながら感じていました。そんなことツッコんでくる研究生はいませんでしたが(笑)。こうやって何も疑問に思わない従順なJWは出来ていくのか・・と他人事のように思っていました(「ここは普通に科学的ですね」と仰った方はいました)。

マリアの処女懐胎など、聖書は不可解なことでいっぱいです。でも聖書に書いてあるから信じる、それがクリスチャンの信仰だ、ということは基本的にはJWも同じなのですが、この例が示すように他宗派を差別し攻撃する時は「合理的説明」や「科学的根拠」を持ち出して否定に回ります。


神の事柄も、神の霊を別にすれば、だれも知らない」

物質の人は神の霊の事柄を受け入れない・・それは霊的に調べるべき事柄だからです」



宗教上の教えにおいて合理的説明を試みることがいつも悪い訳ではありませんが、神の事柄を既知の物理イメージや科学的知識で縛りすぎるのもどうかと思います。

三位一体を信じていない人は少数派とは言え、キリスト教の中にもいましたし、今でもいます。JWだけではありません。そういう人たちの信仰も尊重されるべきで、異端と虐げてきたキリスト教の歴史にも人間的な過ちはあると思います。

でもJWがその逆襲と言わんばかりに執拗に三位一体を攻撃してきたやり方にも、物質的論議が多いように思います。(神の実体は1つの場所にしか存在しない、聖霊は電気のようなエネルギー・・など)

最近では、宇宙年齢を使って“特殊”創造論という差別語を作ってはファンダメンタル系の信仰を攻撃します。リベラル系の信仰を攻撃するためには、アメリカではやりのID説(=だれかが設計した説:最近のハリウッドSF映画に多い)を採用します。唯一の独自路線をアピールして、あらゆるキリスト教系の信仰を否定し、混ざり合うことを拒否し、そのために使える科学や権威を都合よくチョイスします。

「真理は一つ」しかありません。でも前にも書きましたが、すべての人間が一致している真理など大げさに言えば、まだ「地球が丸い」程度のことです。

「自分たちはこう信じている」と言うのは全く自由ですし、ある程度、他宗派の信条とも比較して、どう“違う”のかを説明するのもいいでしょう。違うものをとにかくまとめようとするエキュメニカルが正しいとも思いませんが、何が何でも唯一無二の組織であるべき、という自らへの縛りが、信者に対しても要求し、制限し、裁き・・というおかしな方向に進んでいる一因なのだと思います。

神のイメージ

② 現在の三位一体は様態論ではなく、位格には区別がある

三位一体を、H2Oが「水蒸気と水と氷」に変化することや、同じ人が誰から見るかによって「教師であり父であり子である」ことに例える人がいます。これは、本質的に同じもの(人)が全く異なって見える(呼べる)存在になる、という点ではよさそうですが、神が一人三役を「演じ分けて」いるようにも取れてしまいます。

タマゴにたとえる方もいます。こちらは区別できる3つの要素「黄身と白身と殻」で1つになる、という点では適していますが、三位一体ではそれぞれの位格が本質的に等しい神性を備えているのでこれも違います。

三位一体を人間の日常的な「ことば」や「たとえ」で説明し、理解しようとすることには必ず不完全さが伴うことは、それを信じている人たちも認めるところです。

最近では位格が別 ⇒ 存在も別で、絆の強い夫婦や親子のように「一心同体」的に一つであればOK、というほとんどJW寄りの捉え方さえ許容されつつ?あるようです。それで「父と母と子」「太陽と月と星」といったもう完全に別存在のまとまりに例える人もいます。

はっきり言ってそういう例えはぜんぶ、厳密に正統とされる三位一体論ではJWと同じく異端になりかねないのですが、信じ方はどうあれ、“さんみいったい”を信じています、と「ことば」として否定しなければそんなに怒られることもないようです。三位一体は今では割と寛容になりました。

皮肉ではなく、その人がどんなフィルターを通してであれ、聖書を読んだ上で自分なりのイメージで「かみ」を捉え、誠実に信じ、愛し、感じているなら、それを否定するために使えそうな聖書の字句をあちこちから探してその信仰を攻撃することに意味はあるのか、と思うのです。

「父と子と聖霊」「・・・・・・」ですから、JWが騒ぐまでもなくあたりまえに人間の言語では、3つの異なる“もの”について語っていることは、小学生の国語力で分かります。そのすべての本質が等しく、かつ実体(存在)としても一つであるような“もの”は物質界には存在しないので、他のどんな「・・と・・と・・」に例えることもできません。それでも“身近な”ものに例えたい、近似でいいから分かりたい、というのは人の性で絶対にダメとも言えないのでしょう。



一方、かつては聖書研究者だったJWが、ここ数十年は「えほばのしょうにん」と名乗り「えほば」と発声して祈ることも・・まあ否定しません。それこそ自己責任で。

でも今思えば、ものみの塔協会を手中にしたラザフォードがたった一人で深夜2時に突然思いついた(預言者か)という、そのご自慢の名称で「組織」を名乗ってから、独自路線をアピールして「数」はいくらか増えたのかもしれませんが、方向性としてはちょっと違い始めたような気もします。

重ねて念のためですが、三位一体を擁護する訳ではありません。少なくとも、自分たち以外の信仰や説明すべてが偽りだ、真っ先に神に虐殺されると言うなら、その相手の信仰が本当に意味するもの、そして自分たちがまいた結果刈り取ることになる批判にも耳を傾けるべきです。それが最近書いている幾つかの記事の主旨です。

増える神の子

ペンテコステの日に120人が聖霊に「満たされた」という記述から、神の霊が120人に同時に宿る(注がれる)ことが分かりにくい、と感じる人は多いです。

これまで書いたように、そのことについての“合理的説明”は存在しません(だからJWも自分たち以外の“合理的説明”をしてみろと騒ぐのですが)。神の聖霊が遍在するかのように複数の人に同時に宿る・・それを内なる神と表現する人もいます。内なる神という言葉自体は聖書にありませんが、感覚としては↓のような幾つかの聖句からきているようです。

「その(神の)霊による力をもって,あなた方の内なる人を強くしてくださり,信仰により,あなた方の心の中に,愛をもってキリストを住まわせてくださるようにするためです」

『キリストの中にこそ,神の特質の満ち満ちたさまが形を取って余すところなく宿っているからです。 そのためあなた方は,彼を通して満ち満ちたさまを有しているのです』


一人一人の中に神の満ち満ちたさまが宿ることを可能にするのが、キリストを心の中に住まわせることであり(キリストが“増える”ことはない)、それはその人に宿る聖霊によります。その霊が、クリスチャンの信仰と経験によって生じる内なる確信と共に「アバ、父よ!」と叫び、その人が神の子であることを証しする、と書かれています。



JWは「心にキリストを住まわせる」という信仰経験については「イエスの“精神態度”に倣う」と捉えます。JW大会で話をしたある長老も、この内在という考えを否定して、「たった500gの心臓にイエスを“入れる”ことなどできますか」と「物質の人」モード全開で語ったそうです。

イエスに倣うことは聖書も勧めていますし、いいことです。でも霊によりキリストを内に住まわせ神の子と証しされることは、イエスに倣って人間の不完全性を克服しようとする努力によるのでしょうか。だとしたら一生無理でしょう。むしろ、聖霊は信仰による無償の賜物です。

でもクリスチャンは「神の子」と証しされても、人として肉にある内は罪から逃れられません。
その葛藤をパウロは語りました。

だからJWはイエスに倣おうとして、倣おうとして、倣おうとして、これをしなきゃ、あれをしなきゃ、これをしてはだめ、あれもしてはだめ、と言い聞かせては落ち込む人も多い。14万4千人は自分より、もっともっともっと、イエスに近くて“完璧に近い人”(イメージ)がなるべき、神もそういう人を選ばれる、と考えます。自分を裁くだけでなく、特権もないのにパンを食べる人をも白い目でみます。「選びに関する神の意図」を人間の業、組織の評価で量っているように思います。

動機は悪くないですし、頑張ることも大事です。でも無償の賜物である聖霊は、わたしたちの努力に依らず「信仰により」一人一人に宿って神の子という内なる証しを与えてくれるものです。クリスチャンは「何か」を行うとしても、それは感謝と愛に基づくものであって、頑張ることの結果や報いとしての救いや祝福されたステータスを強調し過ぎるのもちょっと違うような気もします。

日本人は特にこの傾向が強いようです。欧米では普通に食べる人もいて、14万4千人ってどんなに神々しくてイエスに近い人なんだろうと勝手に思い込み、海外で有名人追っかけ感覚で会ってみたら普通のおばちゃんだった、なんて話も聞きます。

そういう根強い空気と統治体の恣意的な解釈にも負けず、最新のJW年鑑によると、1万3204人の人が神の子として証しされていると表明しました。JWの中でこの数が着実に増え続けているのは歓迎したいです。

偏在と遍在③

旧約では神が特定の場所で、特定の個人と会話している個所があります。遍在する霊の神といっても、いつもそうでなければならないと人間が決めつける理由もなく、一つの場所に存在するかのように描かれている個所もありますし、実際にできる方でしょう。

しかし預言者や天使を介さず個人と直に交渉を持つのは稀で、数千年の歴史の中ではわずかな回数です。ソロモンほどの王に対して生涯中、「二度も現れてくださった方」です。旧約では二つ以上の異なる場所に同時に現れた記録もありません。基本的には神の臨在を示す「一つ」の場所(幕屋→神殿)、「一つ」の経路(モーセなどの預言者)がありました。

一方クリスチャン会衆が誕生した時、すべての人が、同時に、神の霊(聖霊)を宿しました。

『あなた方は自分たちが神の神殿であり,神の霊が自分たちの中に宿っていることを知らないのですか』

イエスが予告したのはこのことです。ゲリジム山でもエルサレムの神殿でもなく、霊である神を、すべての人が自らの神殿(=神の臨在)で崇拝する時が到来したのです。神の霊が一人一人の内に宿り、その人の神殿で真理=道=イエスを通して近づく時にいつでも祈りを聞いてくださることを示しています。

旧約と新約で崇拝の在り方が大きく異なっているのは事実です。さらに聖書自体、それぞれの筆者がいろんなイメージで、表現で、たとえで、自由に神を感じ、語っているかのようです。そのすべてに“統一した説明”でつじつまを合わせようとすること自体に無理があるように思えます。

神の本質は変わらなくても、人間が神に近づく方法は変わりました。そして神ご自身も、人間が考える一つのイメージや“説明”に縛られる必要もありません。そこにこそ、過去・現在・未来のどの時点においても、「在る者である=I am who I am」という神聖なる宣言の真髄が関わっているようにも思うのです(このくだりは完全に自説)。





追記:例えていいのかどうか分かりませんが、80年近くも決着を見ていない問題に量子状態の解釈問題があります。ミクロな粒子は観測しない内は場所を特定できず、どこに存在するかという確率でボヤーっとした「雲」か「波」のイメージでしか説明できない、という問題です。

だるまさんがころんだ状態です。振り返らない内はどこにいるか分からない。人間ならオニが見ていない内も必ずどこか1点にいます。でもミクロな粒子は観測しない内は本当にボヤーっと複数の場所で波のように重なり合って?いて、現実に干渉を起こす。

主流はコペンハーゲン解釈(重なり合い⇒ 観測?⇒ 超光速!で1点に収束)でしたが、計算できてその予測や結果が正確なため本質を問おうとする人が少ないだけで、本音を聞くと“説明”として正しいのかは分からないという専門家も多いようです。

「1つの実体」が複数の状態で重なり合う、なんて“説明”を物理科学が認めていいのか?という反論を分かりやすい思考実験にしたのがシュレディンガーの猫の話で、日常的な世界観と一致する“たとえ”や“合理的説明”を独自に試みる人もいます。

偏在と遍在②

神の遍在について、以下の聖句も言及されることがあります。

「世界とその中のすべてのものを造られた神,この方は実に天地の主であり,手で作った神殿などには住まず,また,何かが必要でもあるかのように,人間の手によって世話を受けるわけでもありません。・・そして,一人の人からすべての国の人を造って地の全面に住まわせ,また,定められた時と人々の居住のための一定の限界とをお定めになりました。人々が神を求めるためであり,それは,彼らが神を模索してほんとうに見いだすならばのことですが,実際のところ神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません。・・したがって,わたしたちは神の子孫なのですから,神たる者を金や銀や石,人間の技巧や考案によって彫刻されたもののように思うべきではありません」

ここでパウロは、時間と場所に限定されない、永遠に遍在する神を「定められた時と居住のための一定の限界」を持つ人間と対比させている、という捉え方です。

「神はひとりひとりから遠く離れているわけではない」・・これはキリスト者にとっては抽象的な表現ではなく、また本当は、はるか遠くにいるけど超光速で天使を派遣してくれる神なのでもなく、文字通りにおいて、そうなのです。だからクリスチャンにはもう、神殿は必要ありません。神を一定の居住の限界を持つ存在のように考えてしまうからです。

他方、JWは体と居場所を持つ神を想像します。遍在というとボヤーっとしてイメージしにくい、非人格的で身近に感じない、と言います。「神たる者」を日常的・物理的イメージで理解できることが“身近”である、ということかもしれません。別記事で書きますが、三位一体を信じる人にもこのような傾向はあります。人の性です。


神は地上の幾億人もの人が同時に祈るとしても、すべての人のそばにいて、祈りすべてを聞かれる方です。膨大な情報を同時に処理するならスーパーコンピューターでもできます。でも祈りとはJWも言うように、二つの人格が意思と感情を通わせることです。神は人の祈りを聞き、喜び、哀れみ、同時にある出来事を“見て”、憤りを感じることがあると聖書は書いています。

JWは詩篇139編のように神の遍在と取れるような記述はすべて聖霊によって可能になる、と主張します。それは三位一体でも同じです。ただJWは、聖霊を物理的な電気エネルギーにたとえます。また、遠く離れた場所にいるだれかと携帯電話で話すときに媒介する電波のイメージです。

一方、三位一体では、電波や電気のように一つの源から複数の場所に同時に分配するイメージ(モデル)は同じですが、ただの“エネルギー”や“波”が、あらゆるところで喜び、悲しみ、怒ることはありません。「聖霊を悲しませてはならない」と新約は教えているからです。携帯電話で話す相手を傷つけてしまった時、「電波を悲しませた」と擬人化することにどんな意味があるのでしょうか。

それでも無数の神や神の分身がいるのではなく、神はただ「一人」です。遍在という人間の言葉で括っていいのかは分かりませんが、神は霊であるので人間の日常的イメージをはるかに超えた方である、というのが三位一体の考えです。最終的に「神はだれに対してもすべてのもの」になられる方です。新約においてその大きな変化をもたらしたものが聖霊と言えるでしょう。

三位一体は合理的説明による理解ではなく、助け手である聖霊による信仰の対象と言われています。JWは宗教的信仰なのに合理性にこだわり過ぎていると思いますが、ただ「理解などできない、信じよ、聖霊は与えられん」と言われて幻滅する人がいるのも事実ですし・・今さら自分がどうこう言える話ではないですが難しいところですね。

続きます。

偏在と遍在

JWの間違いに気づいたからと言って他教会に行く方は少数派で、三位一体は・・という方が多いので物議を醸す内容になるかもしれません(そんなアクセス数もありませんが)。でも三位一体を擁護するというよりも、他宗派が真っ先に裁かれるというなら、これくらいのことは知った上でトライしてほしいという意味も込めて、三位一体についての理解を幾つかに絞って取り上げます。

① 神は偏在か遍在か

JWの神は偏在です。三位一体は遍在です。そう二元に分けてしまうこと自体がどうか、という見方もありますが、JWが三位一体を感覚的に受けつけない理由はこの前提に依るところが大きい一方で、このことが三位一体と関連づけて語られることはありません。

聖書中で、「神はわたしの右手をつかんでくださる」「その目は地を行き巡る」のように、神が人間と同じ五体や身体機能を持っているかのように描かれている場合があります。また幾つかの幻の中では、形ある座にいる方としても描かれています。

さらにソロモンは神殿献納の祈りで「あなたが住まわれる天の定まった場所」と語ります。

この記述から、JWはどこか1点の「定まった場所」にいる(偏在)、人間のように限定された体を持っている神、それが肉体ではなく霊体である、という違いに捉えています。

『み使いたちも物質界の限界をはるかに超えた非常に速い速度で移動することができます。例えば,ダニエルが祈っていた時,神はその祈りに答えるためにみ使いを遣わされましたが,み使いは瞬時に,その祈りが終わらないうちに到着しました』
(JW発行の「洞察」)

↑こういう一文にあるように、人間が祈ると、はるかかなたのどこかにいる神が、“電波”みたいな聖霊を媒介してそれを聞き、天使をタキオンのごとく超光速!!でハケンする、というイメージです。

他方、三位一体では、神は遍在です。

ソロモンが語った「天の定まった場所」はどうでしょうか。

ソロモンはその同じ祈りで、「それにしても,神は本当に地の上に住まわれるでしょうか。ご覧ください,天も,いや,天の天も,あなたをお入れすることはできません。まして,私の建てたこの家など,なおさらのことです!」と、神が特定の場所に限定されるような方ではない、と語っています。

一方で、自分が建てた神殿をあなたが定めのない時までも住まわれる定まった場所を首尾よく建てました」と一見矛盾して表現しているように、その目に見える神殿と対比して語っているにすぎない、とも理解できます。

同様に、神の身体機能に関する記述、さらに特定の座にいる方として描かれている幾つかの幻も、擬人化されているか、少なくとも神の実体や所在すべてを表してはいない、というのが三位一体側のスタンスであり、それはJWもほぼ同じのようです。

イエスもパウロも「神は霊であることを示しました。「神は愛です」のように隠喩とも取れます。でも天に復活する人とは違い「霊のを持っている、とは言っていません。霊そのものなのです。JWも人間が「魂である」という主張で同じ論議を使っていますね。

続きます。

三位一体

キリスト教を正統か異端かに区別する教義。立ち入りたくない所に踏み込んでみます。

過去に他のキリスト教関係者の方々とも意見交換したこともありますが、キリスト者であってもこの三位一体⇒ 区別があるそれぞれの位格とそれが本質・存在として「一つ」であること、をどう捉えているかには個人差があると感じます。

ただ「父と子と聖霊の名においてバプテスマを施すように」という聖句が示すように、三位一体を合理的説明よりも信仰そのものと結びつけることが多いようです。

「知識を超越したキリストの愛を知ることにより、神が与えてくださる満ち満ちたさまに余すところなく満たされる」

「生きているのはもはやわたしではなく、わたしと結びついて生きてくださるキリストです」


こういう聖句が三位一体を証明している訳ではありません。こういう類の聖句でパウロが語っているのは、何か客観的に証明できる事実ではなく、自らの信仰と経験によって生じる揺るぎない内面的確信です。

『神の霊に導かれる者はみな神の子であるからです。・・あなた方は養子縁組の霊を受けたのであり、わたしたちはその霊によって「アバ、父よ!」と叫ぶのです。霊そのものが,わたしたちの霊と共に,わたしたちが神の子供であることを証ししています』

「わたしたち(父と子)が一つであるように、彼ら(弟子たち)も一つになるためです」

JWは↑の「一つ」とは、共通の目的・考えにおいてに過ぎない、何人いても「一つのチーム」でしょ、のように日常的なたとえで説明します。とても分かりやすいです。

しかしキリスト者にはそうではないようです。聖書において、神の像に創られた人類が罪により永らく疎外された時を経て、再び「神と一つ」になることが、何かのチームメイトになるとか、そういう日常的なレベルのことではない、と考えています。

霊に導かれることにより、子であるキリストを内に住まわせ、その霊により、父と子が「一つ」であるように、その霊を受けたクリスチャンも神の子として証しされ、父と子と「一つ」になる・・そのすべては知識すら超越した神の愛であると。

それがキリスト者にとっての信仰=明白な証しのようです。JWにとって信仰とは「第三者に反論の余地がない合理的な説明をすることで証明する」ことのように捉えますが、キリスト者にとって信仰とは、まず自らの内における証しなので、第三者には否定しえないのです。

自分は三位一体を信じているとは言いませんが(信じれば当然辞めるでしょう)、三位一体についてのJW側の偏った捉え方と、それに対するズレた反論を聞かされてきたことにも気づきました。

三位一体を受け入れていないのは少数派であってもJWだけではありません。ただ、末端JWの表向きの穏やかさとは裏腹に、彼らの主張そのものはかなり過激で、排他的です。

JWを批判する人は本当によく調査しています。JW教材もきちんと“研究”しています。批判目的としてもです。JWも他人の信仰が偽りだと言うなら、反論するという目的であっても、まずその信仰を理解しようと相当の努力をした上でそうすべきではないでしょうか。

続きます。

祝福された特権

『やもめに子供や孫がいるなら,彼らにまず,自分の家族の中で敬虔な専心を実践すべきこと,そして親や祖父母に当然の報礼をしてゆくべきことを学ばせなさい。これは神のみ前で受け入れられることなのです』

高齢者を世話するのは子や孫の責任である、それは当然の報礼である、と聖書は教えます。

しかし1世紀には偽善的な主張をしてこの責任を放棄する人がいました。

「あなた方も自分たちの伝統のゆえに神のおきてを踏み越えているのはどうしてですか。・・あなた方は,『自分の父や母に向かって,「わたしの持つものであなたがわたしから益をお受けになるものがあるかもしれませんが,それはみな神に献納された供え物なのです」と言うのがだれであっても,その者は自分の父を少しも敬ってはならない』と言います。こうしてあなた方は,自分たちの伝統のゆえに神の言葉を無にしています」

簡単に言うと、自分の資産を「神に献納されている」ともっとらしく形式的に宣言することで、それを親の世話には使えない、という言い訳にするやり方のことです。

↓はものみの塔2014年3月15日号からの引用です。

「ベテル奉仕者、宣教者、旅行する監督などは皆、自分たちの割り当てを貴重なもの、エホバからの祝福と考えています。それでも、親が病気になれば、まず頭に浮かぶのは、「この割り当てを離れて家に戻り、親の世話をしなければ」ということでしょう。しかし、親がそれを本当に必要としているか、望んでいるかを祈りのうちに考慮するのは賢明なことです。奉仕の特権を急いで手放してはなりません。・・問題が一時的なもので、会衆の人たちが喜んで援助してくださる、ということはないでしょうか」

組織が作ったポジションを「神に祝福されている」と宣言することで、親の世話にはそう簡単には戻らなくてもいい、どころか「特権を急いで手放してはならない」とまで書いています。スゲーな。「親は本当に望んでいるのか?」なんて書き方すれば、自慢の息子が“特権”を「手放して」までも戻ってほしいと願う親にも罪悪感を抱かせかねません。

次の節には実例が挙げられていて、弟は宣教者で兄は世界本部の職員、そして両親が高齢で援助が必要になったときに親の会衆の「調整者」から電話がかかってきて、会衆でお世話したいと申し出た、というストーリーが美談として書かれています。

ものみの塔の常套手段として「会衆はそうすべきである」とは書きません。でもこういう話を載せることで、従順な信者や会衆は「喜んで」申し出るので、それを受け入れるのは悪いことではない、と言っているのです。信者からの寄付で生活費が賄われている「ものみの塔協会」の幹部信者は例外であり、彼らの親もローカル会衆が世話することを事実上、要求しているのです。

さらに実際に世話するのは電話をかけた「調整者」ではなく、調整者から指示される会衆の信者たちです。その根拠として、今回の記事を「組織の方針」という印籠に使います。それをまとめ上げた手柄は「調整者」のものになり「旅行する監督」から高い評価を受けることになります。

信者の中には、「特権」のために親の世話を他人に平気でさせるエリート信者、彼らに媚びるローカル長老の偽善など気にもせず、助けを必要とする高齢者を不憫に思い世話する人たちがいます。

でも善意で助けている人でさえ、子や孫に当然の報礼をしてゆくべきことを学ばせなさい、という明確な聖書の教えを考えると複雑な気持ちになる人もいます。でも組織の方針である以上、長老や巡回さんの前では口にできない。だれも本音を言えない虚構のJWパラダイスの出来上がり。協会さんは現場の実情や本音をどれほど知った上で今回のような記事を書いているのでしょうか。

神は全能?④

『創造物は虚無に服させられましたが,それは自らの意志によるのではなく,服させた方によるのであり,それはこの希望に基づいていたからです』

罪の結果、自らの意志とは無関係に刑に服させられた人が、刑務所の絶望と劣悪な環境の中で「どうして自分はこんな目に合うのか、こんな仕打ちが許されているのか」と問えるでしょうか。

聖書を知って疑問に思うことの一つは、罪を犯したのは両親なのにどうして生まれた子も刑務所に入るのか、ということです。現実には服役中の人が家族をもうけることはできません。しかし神は「希望に基づいて」それを許されました。でも罪は遺伝的欠陥でもあるので、完全な子孫を生み出すことができず、子は罪の内に宿され、やがて自らも罪を犯し罪人になります。それで聖書では出産という行為自体が喜びであると同時に罪深いともされています。

何の「希望に基づいて」いたのでしょうか。いつか、罪と死がもたらす虚無からの解放です。その希望は、ただ「自分の憐れむ者を憐れむ」権利を持つその人にかかっています。模範囚であることは悪くないですが、その希望が業=当人の模範的言動によって保証されるものであるかのように取り繕う人は、人間にさえ見透かされます。映画「ショーシャンクの空に」のモーガン・フリーマン状態ですね。この映画大好きです。

そのタイミングについて囚人がどうこう言えません。無期懲役の刑に服している人が、30年たって解放が認められた時、「なぜこんなに長く入れられたままだったのか」と問えるでしょうか。

人類が教訓を学ぶべき期間としてのこの数千年間は長すぎるのでしょうか。まだしばらく続くのでしょうか。そんなこと知りません。勝手に計算して、しかも何度も外すなど論外です。

しかもそのグループのリーダー達は自分たちも囚人なのに裁判官様から全権を受けていると主張し、自分たちの指示に従わないと釈放されない、というか従わないともうすぐ一斉処刑!などと脅すようなことをかれこれ100年くらい言い続けています。自分も囚人なので彼らを裁く権利はありませんが、その指示に、心身を削り多くのものを犠牲にしながら唯々諾々と従い続ける人たちがちょっぴり心配で、こんなブログ書いています。


詐欺や暴力の被害を直に受けた人が自らを含めた「全世界の罪」という考えを受け入れるのは容易ではないですが、聖人ステファノはパリサイ人の欺瞞を強烈に非難しながらも、その命の最後に捧げたのは、彼らに扇動されて自分をまさに石打ちにして殺そうとする者たちへの憐みを求める祈りでした。自分や家族が犯罪や戦争の被害にあったとき同じ心境にたてるかどうか自信はありませんが・・





自分も数々のブログで指摘されるような、仲間を霊的に打ちのめす人間をこの組織で目にしてきましたが、聖書の言葉を借りれば彼らも「自分たちが何をしているのか知らない」犠牲者だと思っています(確信犯的な方もいます)。組織統制と浄化のために利用され、やり方を間違えれば自らのクビが飛ぶ。「協会」は次の人を任命するだけです。

一度はこの組織に属した者として、「協会」の真の姿が信者に明らかになる時、または「協会」の在り方の根本が変化せざるをえなくなる時に、その先に何があるのかには多少興味があります。それがこのブログを続ける理由の一つでもあります。
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