業と信仰(おまけ)

このシリーズで取り上げた「業=活動」を重視するJW組織の方針は、人の評価にそのままつながります。たとえば、英語、主にアメリカの文化圏で、付き合う相手を選ぶ基準になるのは、

“What he is like” ・・「どんな人か」

よりも、

“What he likes”・・「何が好きか」

が重視される、という言い回しがあります。

肯定的にも否定的にも使われる表現ですが、好き嫌いの話や好みが合う、というのは人付き合いの一つのポイントになるとは思います。

これが人を評価するJWの基準になると、

“What he is like” ・・「どんな人か」

ではなく、

“What he does”・・「何をしているか」

ということになります。「してるか」「してないか」がその人の内面を裁く基準になります。

「布教の取り決めによく“出ている”から、彼は忠実な人だ」
「王国会館掃除の取り決めによく“出ている”から、彼は謙遜な人だ」
「集会でよく“発言している”から、彼は熱心な人だ」

JW若者は「ベテル奉仕」「奉仕の僕」「○○学校」と言った特権を目指すように教育されます。その評価を得るには↑のような業を、人からの評判になるように見せなければなりません。

他方、リアルタイムで子育てをしていて普通に会社勤めしているような人は、集会や布教の参加率などの“数字”が悪いと内面の霊性さえ裁かれることがあります。「してる」人がみんな見せるため、とは言いませんが、見える所で「してない」人を悪く言うのもやめてほしいですね。

そういう人の中にこそ、年齢と社会経験を積んで人の苦労や痛みが分かる人がいるのですが、家族を養うために残業で集会に“出ない”ことがあり、布教の「取り決め」にも他人との比較でそれほど“出ない”という理由で、「王国をもっと第一」に、と指導されます。家族のために頑張っているお父さんが、本人や子供の活動不足で長老や奉仕の僕をクビになるのを見て、ただでさえ退屈な集会に来る気が失せた若者も見てきました。

人からの評価や特権など信仰には関係なく、どうでもいいことです。でも以前の記事に書いたように、そうした特権がなくなるとみじめな気持ちになるよう方向付けしているのもこの組織です。

もともとJWはラザフォードの時代、他宗派の人格陶冶よりも、「何かをする」ことの方が重要、と強引な差別化を図り「エホバの証人」という名称を採用した経緯があります。

一方、自分が聖書を読んで感動したのはサウロの記録です。サウロが「していた」のは、イエスの弟子を迫害し、殺すことでした。サウロが「何かをする」前にイエスは彼に目を留め、「諸国民への使徒」に選びました。そういうイエス様が指導する組織と聞いていたのですが・・
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業と信仰⑤

信仰が人に行動を促すことはパウロも語っているので、ヤコブの言葉はそれと全く矛盾しているとは考えませんが、「集会は週○回」「毎月1回の布教報告」など人が決めた一定の習慣を「義と宣せられるための神の要求」であると課すことはヤコブが意図したことでさえないと思います。

現代でもヨブのように極度の失意や深刻な健康問題に悩まされ、JW活動という業を行えない時期にある人もいるでしょう。しかし統治体は、意識不明でない限り毎月布教報告を出す、それが忍耐する=救われる、という意味だ、と日本中の信者の前で口にしたのです。

このシリーズの最後ですが、預言者が書いた訳ではない新約の一字一句、しかも文脈や背景を無視してその文言自体が無謬であるかのように権威にすることには、リスクが伴うと思います。

「血を避けよ→輸血も禁止」

「業のない信仰は死んでいる→布教報告しないと救われない」

「あいさつさえしてはならない→組織が排斥した人も無視」

「2人の証人が必要→めちゃめちゃクロでも1人だから絶対に何もしない」

・・など、所々の文言だけを取り出して自分たちは文字通りやっている、という原理主義は、分かりやすいゆえに危険も潜んでいます。しかもその文言を解釈し、信者を裁く権力を少数の人間だけが持つのが本当に1世紀のクリスチャンの型なのでしょうか。

「あなた方の語るところは一致しているべき」という聖書の言葉は、すべてのクリスチャンが目標にすべき理想論と思います。1世紀のクリスチャンは完全に一致していた訳ではありません。今回のシリーズで書いたパウロとヤコブのスタンスの違いは自分なりの捉え方で、一般のキリスト教の理解とも少し違います。でもそれ以外にも多くの対立やトラブルが、「気持ちの良い正直さ」で記録されているのは事実です。でも彼らは時に譲歩し、時に意見をぶつけ合い、そして和解し、同じ主を信仰しました。新約部分はそういうことも教えているのであって、その過程での一人一人の発言すべてを無謬の権威とみなすべきなのでしょうか。

しかしここでも、JW統治体は「語ることは一致しているべき」という文言だけを取り出して、自分たちの解釈と一致して語らない人間を一方的に除名する根拠にします。

人を真に一致させるのは権力ではなく、真実のみがそうできる・・と願います。

もう「地球が丸い」かどうかで議論する人がいないのと同じです。人間が一致できる真実の知識などまだその程度かと。それで表向きの一致のために権力に盲従して真実から目をそむけるのではなく、「神の義を第一に求める」ことを聖書は勧めています。

些末な解釈において「語ることが一致」できなくても、クリスチャンがその理想を求めながら「同じ主を信仰する」ことは可能でしょうか。自分は可能だと信じたいです。

業と信仰④

パウロとヤコブのスタンスの違いはなんでしょうか。

「割礼を受けた人たちに対する使徒職に必要な力をペテロに与えた方は,わたしにも諸国民の者たちに対する力を与えてくださったのです」

この言葉が示すように、パウロはユダヤ人にはあまりウケがよくありませんでした。パウロは基本的に正しいのですが、「ユダヤ人も非ユダヤ人もない」という正論を前面に出すので、非信者だけでなくイエスへの信仰を受け入れたユダヤ人からも不信感を持たれていました。ユダヤ人信者の感情を考慮して彼らの前で非ユダヤ人と食事をしない使徒ペテロを公然と糾弾したこともあります。

他方、ヤコブはエルサレム会衆の指導者として、ユダヤ人信者のサイドにいる人でした。

割礼問題でもヤコブはこう発言しています。

「わたしの決定は,諸国民から神に転じて来る人々を煩わさず, ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです」

ヤコブの結論は、「諸国民から転ずる人」は律法を守らなくてもよい(でもエルサレムにいる我々は律法を守り続けるよ)、というものです。エホ証は、これが密室会議での聖書解釈による信条決定の前例であるかのように使いますが、無割礼の異邦人に目に見える形で聖霊が注がれた、という誰にも否定しようのないペテロの証言を聞いて、エルサレム会衆の長老「一同は沈黙」してしまい、それに追い打ちをかけるようにパウロとバルナバの証言が続いたので、最後はヤコブが譲歩したに過ぎません。

クリスチャンがユダヤ人と非ユダヤ人に分裂することはありませんでしたが、この問題は根強く続きました。後にエルサレムに戻ったパウロはヤコブからの指摘を受けます。

「兄弟,あなたが見るとおり,ユダヤ人の中には幾万もの信者がいます。そして彼らはみな律法に対して熱心です。しかし,彼らはあなたについて,あなたが諸国民の中にいるすべてのユダヤ人に対してモーセからの背教を説き,子供に割礼を施すことも,厳粛な習慣にしたがって歩むこともしないように告げている,とのうわさを聞いています。それで,この点をどうすべきでしょうか」


ここでもヤコブは「エルサレムのユダヤ人信者」サイドの発言をしています。諸国民の中にいるユダヤ人=ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人(ヨハネ7章35節)が、パウロの宣教によりますますユダヤ人としての伝統と独自性を失う事を懸念しています。今回はパウロの方が譲歩し、ヤコブの提案通りエルサレムの神殿で清めの儀式を行います。

さて、ものみの塔の最新の理解では、ユダヤ人であっても律法の習慣にこだわり続けるこの考えは「間違ったものだった」と認めています。では↑の言葉を語ったヤコブはどうなのですか。

『こうすればだれもが,あなたについて聞かされているうわさには何の根拠もなく,あなたが秩序正しく歩んで自らも律法を守っていることを知るでしょう。 諸国民の信者たちについては,偶像に犠牲としてささげられた物,ならびに血と絞め殺されたもの,また淫行から身を守っているべきであるとの決定を下して,使いの者を送ってあるのです』

このヤコブの言葉は「まだ新しいユダヤ信者を“つまづかせない”ために仕方なく」という理由ではなく、彼自身がこのユダヤ人信者の意見を支持していたように感じます。彼も間違っていたのではないでしょうか。

こういうパウロとヤコブのスタンスの違いを考えると、それぞれの発言もより理解できるのでは、と思います。さすがにヤコブも「子供の割礼」や「厳粛な習慣」によって義と宣せられる、とは思っていなかったはずですが、それでも業=一定の習慣が神によって明確に要求されていた律法の概念にまだ強く影響されていたのではないでしょうか。

さらにその反動なのかもしれませんが、「クリスチャンて楽だよな~信じてりゃいいんだから♪」みたいに、弱者の救済という律法では明言されていた精神さえ忘れて、困っている仲間を見ても見ぬふり・・そういう人を率直に諌めるアドバイスであったとも考えられます。

こういう背景を考えれば、ヤコブが手紙を書き送った「各地に散っている十二部族」とは「ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人信者」と考えるのが自然ですが、JWはここもパウロの議論と強引に一致させたいがために、この十二部族とはパウロが語った「神のイスラエル」のことで、ユダヤ人のことでは断じてないっ、と強弁します。

これが示すように、今のJWは旧約偏重のヤコブ主義なのです。次回、シリーズの最後です。

業と信仰③

「業と信仰」シリーズの続きです。

「業を行なわなくても,不敬虔な者を義と宣する方に信仰を置く人に対しては,その人の信仰が義とみなされる」― 「諸国民への使徒」パウロ

「人は業によって義と宣せられるのであって,ただ信仰だけによって義と宣せられるのではありません」― 「エルサレム会衆の長老」ヤコブ

両者は真っ向から衝突する意見を述べています。ヤコブ寄りの現代JWはこれが矛盾ではないと抗弁するためパウロの方を否定したいのですが、正面切って否定はできないので、パウロはあくまで「モーセの律法の業」について語っていた、と主張します。

本当にそうでしょうか?

『肉によるわたしたちの父祖アブラハムについて何と言えばよいでしょうか。例えば,もしアブラハムが業の結果義と宣せられたのなら,彼には誇る根拠もあったことでしょう。といっても,神に対してではありません。聖句は何と言っているでしょうか。「アブラハムはエホバに信仰を働かせ,彼に対してそれは義とみなされた」』

アブラハムは「信仰の人」でした。まだモーセの律法など存在しない時に生きていた彼の義が律法の業によるものだった可能性など、議論する必要自体があるのでしょうか。ここでパウロは「聖句」は何と言っているか、と聖書を権威としています。前回書いたように、その聖句とは預言者モーセの書物のことです。「自分の解釈が権威デアル」とは主張していません。

パウロが「律法の義を行う者たち」に宛てて書いているのは事実です。しかし律法の業がクリスチャンの業に代わっただけ、とは書いていません。むしろ「罪過を満ち溢れさせるため」に入ってきた律法がキリストと共に杭につけられることでその役目を終え、それによって明らかになる神の憐みにより、キリストへの信仰によって義とみなされる時が来たのです。

人は罪と業を課す律法から自由にされたのです。古い考えに逆戻りし、人間の要求を「救いに不可欠な業」として仲間に課すことが、だれに許されているのでしょうか。

自分は、パウロが正しいと思います。

人は業を偽ることはできても、神の御前には信仰=心を偽ることはできないからです。

アブラハムやラハブのように、信仰を分かりやすく、目に見えるドラマチックな形で業=行動に表した人もいれば、ヨブのようにただ悲嘆にくれてじっと座っていただけ、という人もいます。しかしヨブの「心」は神から離れることはなく、その唇で罪を犯すこともありませんでした。

『善を行なうこと,そして,他の人と分かち合うことを忘れてはなりません。神はそのような犠牲を大いに喜ばれるのです』

JW教材は、パウロも「業」の重要性について語っている、として↑の聖句を引用していますが、ここでパウロが与えているのは単純な励ましです。

純粋な信仰に業=行動が伴う人を神は喜ばれる、という励ましを与えるのは間違っていないと思いますが、それ(=業)が救いの絶対条件として常に要求されているかのように、業そのものによって義と宣せられる、とまで語ったヤコブはちょっと言い過ぎだと思います。

かといって、自分はヤコブのメッセージには価値がない、とも思いません。それが誰によって、誰にあてて、何の目的で書かれたのか、という全体のメッセージを汲みとることが大切だと思います。さらに続きます。

珍しい一文

昨日のものみの塔記事に珍しい一文がありました。

13節の最後です。

『本当に聖書から学んだことを当てはめて自分を変革できたかどうか、・・は自分自身にしか分かりません』

今までは「進歩を他の人に明らかにしなさい」という言葉ばかりが使用され、進歩とは人の評価・評判によって明らかになるもの、という偏った傾向が顕著でした。

しかしその13節では、本当に変革できていないのに「周囲の人からはよくやっていると言われるかもしれません」とさえ書かれていました。

半年に1回しか来ない巡回さんの前で取り繕って評価を得ようとするために、普段から周囲の評判を高めておこうとする人たちですね。それが好きな人は好きにやってもらっていいのですが、そういう人が「立場」を得て、弱者を傷つける無神経な言動をし始めるのは何とかならないでしょうか。

そうなると時すでに遅し、いったん「立場」を得た人にモノ申すのは「反抗的」とみなされ、組織や巡回さんも自分たちが推薦・任命した人の肩を持ちます。

今回の記事で、人の変革とは神の言葉が内奥に達することで自然に生じる内面的・本質的変化のことで、その人自身にしか分からない、とはっきり書かれていた点はよかったと思います。

まず、巡回さんやその奥さんに当てはめてもらって、集会の出席率や布教報告の数字でこの会衆は「よくやっている」とか、「難しい会衆」とか評価するのをやめてほしいですね。

BSCC消滅

シリーズの途中ですが「BSCC消滅」の一報が入ったので一言。

BSSB(独身男子の学校)とBSCC(夫婦の学校)が統合、王国福音宣明者の学校?みたいな感じになって独身シスターズも申し込めるとの事。

鳴り物入りで始まったBSCC、ようやく日本でも最初のクラスが開かれているらしいが、その矢先にまさかの事実上の消滅。

この流れは、一応は評価したいですね。

1年少し前、BSCCの記事を書きました。特別開拓者というステータスをチラつかせ、門戸を狭めて普段の布教に精を出させ、エリート志向に訴えるあからさまなやり方を批判しました。公平な神の組織のスバラシイ教育と言うなら希望者みんなに受けさせてあげれば?と普通に疑問でした。

今回の“調整”で65歳までの人や独身シスターズも申し込めるので、門戸も広げられると思いたいですね。別会衆に移動を希望する人向けの、開拓学校の任意の延長版みたいな。

すでにどの巡回区でも旧MTS出身者という理由での特別扱いはなくなっているようなので、トッケン学校の終焉という意味では歓迎です。MTS生のみなさま、組織への御奉公お疲れ様でした。

新しい学校の目玉は何といっても独身の男子と女子が申し込めることでしょう・・恋の予感??

狭いローカル会衆でくすぶっている独身信者は、開拓者になってこの学校にGO!

とにかく、“学校”の趣旨も少しずつ変わりそうな気もします。

新約部分を読んでも、一部の信者しか受けられない“学校”を作ることの意義や必然性を見出せないのですが、とにかく“開拓者”にならせて何かの“学校”へ、という流れは死守したい模様。

門戸は広がるとはいえ年齢上限引き上げや独身女子が申し込める、さらにゼロ成長でも開拓者だけはムダに多い日本ではそれなりの申し込みはあるはずで、それを処理しきれるのか、結局、行ける人と行けない人の差別ができてまた特権意識の温床になるだけなのか・・詳細は分かりませんがまだ紆余曲折はありそうです。

業と信仰②-聖書は無謬か

結論から言えば、聖書、特に新約部分は無謬ではないと思います。

お、聖書まで否定し始めたか、と思われそうですが、「このブログの目的」シリーズにも書きましたが最初からそのスタンスは変わっていません。

聖書は類を見ない本だとは思いますが、万物の造物主である神が存在するとして、人が書いた1冊の本で時間さえ超越するその神のすべてを知るなど、到底不可能であると思います。

この本が様々な人間によって記され、編纂されていく過程で神の意志が働いたことはあるのかもしれませんが、その一字一句が無謬である、と考えるのは行き過ぎた原理主義だと感じます。

誰かが直接書いた本でさえ、その「本」は書いた人自身より偉くはなりません。その「本」を勝手に利用する人間のアイデアに、書いた本人が縛られる筋合いもありません。

本を崇拝すると、微細な言葉遣いや一字一句を読む側が勝手に解釈して、筆者の意図はこうだとか、筆者はこういう人に違いない、など本の解釈が独り歩きするからです。それで、聖書についてもその全体のメッセージを汲みとることは必要だと思いますが、一字一句の解釈に隠されたメッセージを探すかのように目を血走らせる研究や議論にはあまり興味がありません。

「聖書全体は神の霊感を受けたものである」

この文言を取り出して、JWは“聖書”すべてが無謬だと言いますが、当時の聖書とは旧約の預言者たちのことです。まだ新約部分はその目録すら存在しない時です。

「聖書の預言はどれも個人的な解釈からは出ていないということです。 預言はどんな時にも人間の意志によってもたらされたものではなく,人が聖霊に導かれつつ,神によって語ったものだからです」

「神は,昔には,多くの場合に,また多くの方法で,預言者たちによってわたしたちの父祖に語られましたが,これらの日の終わりには,み子によってわたしたちに語られました」


それで、神の霊感によって直接語られたとみなすのは「預言者」たちのことであり、新約の書簡を書いた使徒でさえ、「神が自分によって語った」とは主張していません。新約での例外は巻末のヨハネへの啓示であり、その名称が示すようにそれは直接の啓示です。

たとえば、新約の四福音書には、同じ出来事を記録していても矛盾しているように思える部分があります。批評家たちは些細な矛盾を探しますが、JWもムキになって聖書にはいかなる矛盾も存在してはならぬ、と必死のつじつま合わせで対抗します。

別に福音書の筆者は預言者であると主張していませんし、まして過去の出来事を記すときは、伝聞や記憶の間違いがあってもおかしくないと思います。だからと言って、その部分には価値がないということにはなりませんし、大事なのは福音書全体から読みとれるイエスの人物像とそのメッセージであって、一字一句のつじつま合わせで争うことに意味はないと思っています。

JWが聖書の一字一句に至るまでの“不可謬”に頑なに固執するのは、「聖書を擁護する」という名目ですがその実、聖書の断片的な文言を取り出して自分たちの解釈や制度に利用する特殊な原理主義が否定されてしまうからです。その結果、一字一句に拘るあまり聖書全体の精神を無視してしまい、「ぶよは濾し取るがらくだは呑み込む」状態に陥っています。

これを書くきっかけになったのは前回の記事、「業と信仰」の問題です。この問題でも新約部分には筆者によって矛盾しているように思える部分があります。次回に続きます。

業と信仰①

ちょっと間が空いてしまいましたが、以前の記事で、ヨブの忠誠は業によるものではなかったこと、「主権の論争」に人間の業による忠誠が含まれる、という解釈には聖書的根拠がないことについて書きました。しかし聖書には「業のない信仰は死んだもの」という言葉もあります。

純粋な動機で何かの業を行えば、神はそれを喜んでくださるのかもしれませんが、それは幼い子供の書いたつたない絵を見て親が喜ぶ程度のことです。

『ご覧ください,天も,いや,天の天も,あなたをお入れすることはできません。まして,私の建てたこの家など,なおさらのことです。けれども,私の神エホバよ,この僕の祈りと,恵みを求める願いを顧みて,懇願の叫びと,この僕がみ前にささげております祈りをお聴きください』

イスラエルで最も繁栄を極めたソロモン王でさえ、人間の業が神の御前で取るに足りないものであることを謙虚に認め、自分の業を誇るよりもただ神の恵みと赦しを求める祈りを捧げた。

自分たちの組織を拡大するための業で「神の予言を成就させている」「神の主権の正当性を証明している」など人間側の勝手な驕りで、ソロモンの謙虚さとはかけ離れた主張です。組織信者にはこの上ない快感なのかもしれませんが、現実社会で生きるまっとうな信者には重荷と罪悪感を課す概念になり始めています。

「わたし自身、責められるようなことは何も意識しないからです。しかしそれによって、わたしは義にかなっていると証明されているわけではありません。わたしを調べる方はエホバなのです」

なので、組織や人にダメとかイイとか言われてどう、というよりも一人一人が聖書を読んで↑のような自尊心と慰めを得られることが大切なのだと思います。その人は「何かを証明する」ためにではなく、ただ感謝に動かされて、人にではなく神に対して何かの業を行うこともあるでしょう。

クリスチャンの集会とは、そういう励ましの場であるべきだと思います。月「70時間」「50時間」「30時間」「それ以下」など、布教時間でランク分けして個人名を公表する場ではありません。

親子の間に“組織”という「家庭教師」が割って入り、「親をもっと喜ばせたくないのか」と子供が書く絵の枚数や上達度を数値化してノルマを課すようなものです。

ここまでスパルタな巡回監督は最近珍しいのかもしれませんが、「言い訳をする」信者が増えていることに辟易しているのか、「(たった)週2回の集会に来れない理由など本当にありますか」とか、布教の量・方法についても「これくらいはできませんか」などとおっしゃっる方がいます。仕事もせずに現実社会から乖離して生きていると、こんな無神経な発言にもなるのでしょう。巡回監督の質も地に落ちたものです。

「スパルタ家庭教師に評価される」=「親に喜ばれる」と思い込まされた子供の中には絵が上手くなる子もいるのかもしれません。しかしついていけない子供は、「自分は絵を書くのが人より遅い」「どうせ下手だ」と落ち込み、そのピュアな動機を汚すだけです。

エホ証の現実でも、責められるようなことばかりを意識し、落ち込むどころか気持ちを病む人もいます。

当の家庭教師は、自分の指導で傷ついた子供など存在しないかのように業績だけを誇ります。

やがてこの家庭教師は愛情深い親が雇いたいと思っていた人とは全く別人の、なりすまし自称スパルタ教師だったことが明らかに・・そんな結末だったら本当に悲惨ですね。

JW的隣人愛

JWと研究歴のある方から拍手コメントを頂きました。記事「部分公表の意図」の拍手コメント欄で公開されていますが、拍手ボタン押さないと見れないので別記事の形にさせていただきました。

>私は、3年近くエホバの証人の方と聖書研究をして来ましたが、私をうまく勧誘出来ないとわかったら、冷たい態度になり、それからは、私の家にこなくなりました。本当に、エホバの証人の方々は、神の教えを守っているのでしょうか?

⇒JWの“隣人愛”とは、小刻みに遅れるハルマゲドンで殺されずにすむ唯一の手段として、自分たちの宗教団体に勧誘することです。それで研究生がJWになる可能性があるとみる内はその他の“親切”も一方的に示されますが、その見込みがないとみれば関係を絶つのはよくあることです。

>エホバの証人の方々は、神の教えを守っているのでしょうか。

⇒よくやっている面もあると思います。でも、最近の記事で取り上げた独自の“隣人愛”のように、聖書からズレている部分も多々あります。




以下は、この記事の追記です。

「うまく勧誘出来ない」という言葉からあくまで一般的な話ですが、自分なりの信条や考えを持っている人にJWが対応できないことはよくあります。JWの“研究”とは独自の教材を使い、その内容に忠実な質疑応答をすることなので、「自分たちが絶対に正しい」という土俵からいったん降りてイーブンに話し合うことができません。

それで自分がうまく言い返せないことを次々に言われると、やがて感情的な「拒否反応」にスイッチが切り替わるタイミングがあります。基本、「口答えする人」には冷たい人たちで、その傾向は開拓者⇒長老⇒巡回監督⇒・・と上に行くほど強いものがあります。

部分公表の意図

最近の記事で書きましたが、「ものみの塔聖書冊子協会」さんは寄付の使途や収支、資産額について、実質的に「傘下にある」各会衆に知らせていません。

黒字が続いている時はメリットだらけです。どんどん資産が増えます。しかし人間の性というか、経費を賄うために寄付しているだけなので当たり前ですが、年毎、月毎の剰余額を知らせてしまうと、それ以上の寄付は集まりにくくなります。

1円単位で収支を公表するローカル会衆の会計がそうです。修繕や土地購入のために積み立てているお金を別にすれば、ウン百万円も基金が貯まっている会衆は稀だと思います。毎月の収支はすべて知らされているので、それを信者数で割った大体の額を目安にしているからです。それが「ものみの塔協会」を、収支の公表義務がない単立別法人にして、億どころか100億円↑もの資産(本部は数百億?)をため続けてきたカラクリなのだと思います。

しかし寄付が減ってくると、収支を知らせないことは逆にデメリットを生みます。ローカル会衆の場合、毎月の残高が公表されるので、「最近赤字が続いているな・・」「残高が減ってきたな・・」とか分かるのでそれなりに寄付をしようという意識が働きますが、ものみの塔協会はたとえ赤字が続いても、その時だけ知らせることはできないからです。

「ものみの塔協会」さんが最近、知ってほしい寄付の使途だけを都合よく小出しに公表し、その金額を明示して強制徴収を始めていることには、「とにかく目先のお金がほしい」だけでなく、全体の収支を知らせずにそのデメリットを少しでも解消したい意図が見え隠れします。「巡回監督の車代」とか「大会ホール維持」とか、本丸の支部に関わる部分は隠匿したままで、「印刷業以外でも億単位の金がかかってる」と信者に知らしめるという意図です。

「協会」さんの資産額はまだまだ余裕だと思います。ただ、ここ最近赤字に転じていてこのままだとマズいので先手を打っている、という可能性はあると思います。

他のJWブロガーの方たちも呼びかけていますが、この組織に自省を促すには「寄付をしないこと」が一番効果的だと思います。人が減るよりも痛いはずです。この組織における「人」とは「組織をアピールするための人」なので、その目的から外れた人間はためらわず切り捨てます。しかし人がいながらにしてお金が集まらない、というのはこれまで経験したことがない事態でしょう。

印刷物を紙媒体で受け取ればチップ程度の寄付をするのはやむを得ないと思ってしています(紙媒体が激減した今、それもほとんどありませんが)。でも巡回監督やら大仰な支部施設やらそこに勤務する職員の生活には何の義理もありません。印刷物生産のためだけの「ボランティアです☆」と言い張るなら、通える範囲に自分で住んで自分で仕事をして身の回りの世話は自分でする、という社会人として当然の生活をした上で、どうぞ交代で「ボランティア」してください。人の金に頼らないでください。

彼らの方がそういう人件費や収支を一切信者に公表していないのですから、そうするまでは具体的な使途が分からない「世界的な業」という名目にまとまった額の寄付をするつもりはありません。
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