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義に過ぎてはならない

↑は聖書の教えです。自分もこんなブログ書いていて時々感じますが、「自分は義に過ぎているのではないか?」という思いです。

自分は間違ったことが嫌いです。かといって、自分が「間違っている」と思う事ばかりを批判しないように気をつけたいとは思っています(一応)。

でも現役JWの方々に思い出してほしいのは、みなさんがJWになった理由の一つも「間違ったことが嫌い」だったからではないでしょうか。

実際、JWは人の正義感のようなものにアピールして勧誘します。この「世」で一部の人がしている悪事・犯罪・戦争・不正ばかりをクローズアップして、この「世」全体に幻滅するように仕向けます。

一方、ひとたび信者になれば、自分の組織にはいつも「積極的で寛容」になるよう教育します。メディアやネット、また自分の目でJW組織の間違いを目撃しても、

「一部の人間がしているだけ」
「これくらいの“不完全さ”は大目に見ろ」
「“つまづく”のは信仰が足りない証拠」

と繰り返し言い聞かされます。同じように寛容な見方を「世の人」や「この世の組織・宗教」に向けてあげられないものでしょうか。最近話題になっているホテルレストランのメニュー“誤表示”問題でも「自分の組織には甘い」傾向が見られます。

「利益のために騙そうとする悪意はなかった」
「認識が不足していた」

など、“偽装”であるとなかなか認めようとしません。

この人は組織のトップですから、仕方がない面もあると思います。 組織には何百人もの従業員がいて、大部分は真面目に働いている人でしょう。組織がつぶれてしまえば従業員が職を失い行き場に困るので、「自分の保身」というよりも「組織の保身」を考えなくてはなりません。これが組織立つことの宿命でしょうか。JW上層部にも同じような意識が働いているかもしれません。

メニューの中に「言葉」として文言に含めておいて、それと違う食材であることを知っていたのであれば、「悪意」があったか、「騙そう」としていたか、という主観の問題で済まされるものではないと思うのですが・・JWも解釈変更のたびに似たような自己弁護をします。

「騙そうとする悪意はなかった」
「“別の”理解ができることが分かった」

絶対に、それが「偽り」「間違い」であったことを認めません。多数の信者に「真理」であると大見栄をきって言葉にして書いたことが間違いであったのなら、「悪意はない」で済まされる問題なのでしょうか。民間企業であれば一応謝罪もしますし、トップが引責辞任することもありますが、JW組織はそれすらありません。宗教権力・組織には自浄作用がないと言われても仕方がないでしょう。

『偽善者よ! まず自分の目から垂木を抜き取りなさい。そうすれば,兄弟の目からわらを抜き取る方法がはっきり分かるでしょう』

この聖書の教えからすれば、痛みを伴うにしてもまず自分の属している組織にこそ厳しい目を向けるべきではないでしょうか。“大部分の信者はいつもついてくる”と上層部がタカをくくれば、この組織はますます間違った方向へと進み、さらなる犠牲者を生み続けるでしょう。

高い金を払ったのに自分が思っていたのと違う種類のエビを食べさせられた、程度ならそれ程実害はないですが、輸血や終末の解釈なんかは、命や家族、そして人生がかかっています。悪意のない“誤表記”でした、で解釈を変えられてはたまったもんじゃないですね。
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また微調整

信者向けものみの塔2014年1月号の新解釈。薄めるためいろいろ書いてますが、キモはここ。

・2010年発表時の「1914年から2世代でハルマゲドン」の解釈。

「この世代」についてのイエスの言葉をどのように理解すべきでしょうか。それは,しるしが1914年に明らかになり始める時に生きている油そそがれた者たちの生涯と,大患難の始まりを見る油そそがれた者たちの生涯とが重なる,という意味であったようです

⇒今回の「微調整」

「この世代」 に含まれる第二のグループを構成する人たちは皆,第一のグループに属する人たちの一部がまだ地上にいる間に生きていて,その期間中に聖霊によって油そそがれた人たちです。 ですから,今日の油そそがれた人たちすべてが,イエスの述べた 「この世代」 に含まれるわけではありません。 今日,この第二のグループを構成する人たち自身も高齢になっています

さて、以前の記事のコメントで、「1975年」も「1914年から1世代」も経験していない現役信者の方が、2010年の新解釈をもとに嬉々として計算を行い、2070年頃というタイムリミットをはじき出していた、と書きました。この方は組織に忠実な信者です。

どういう計算だったかと言うと、たしか「1914年の油そそがれた信者」世代の終わりを、「1914年から1世代」が外れて解釈が撤回された1995年頃、としていたようです。実際、1913年に信者になった4代目会長フランズも1992年に死んでいます。

そのグループと「生涯が重なっている」のだから、その時に生まれたばかりではなく、10代半ばには達しているはず=約15歳として、1995年に15歳の人が「油そそがれた信者」になり、フランズのように90歳↑まで生きるとして、1995+75=2070年頃、だったと思います。

かなりの大幅延長です。そう受け取られしまい効果が薄いと思ったのか、わずか3年でまた調整してきました。それは、↑のように「第2グループ(笑)は、第1グループが死ぬ前に油そそがれていなければならない」という新解釈です。

つまり「生涯が重なっている」だけでなく、「油そそがれている期間も重なっている」必要がある、と調整することでタイムリミットまでの期間を狭めてきました。

この微調整でハルマゲドンを「近づけた」のは間違いないですが、フランズより長生きした人もいるかもしれませんし、最近トゥーチタイになった若手の人なんかも、いつ「自分油そそがれたッス」とカミングアウトしたかも公表していません。以前は「油そそがれた信者」の数が減る⇒終末へのカウントダウンという分かりやすい目安がありましたが、今回は大好きな数字が見えないので様子見中の信者の「緊急感」をどこまで煽れるか、その効果は不透明ではあります。

ただ根拠はよく分かりませんが、2世代目のグループも「高齢になっている」と書くことで、暗にサンダーソン君とかは入ってないよ、と思わせたいのでしょう。

それで一つの可能性として、かつて「油そそがれた信者の募集は1935年で終了」と勝手に決めたように、いずれ、「事実からすれば」「わたしたちの理解によれば」、第2グループの募集は1995年に終了している⇒今後は1995年以前から油そそがれていると自覚してパンを食べ続けている信者の数だけを別枠にして公表する、なんてこともあり得ると思います。いい案だと思いません?JW指導部のみなさん、採用してもらって構わないですよ(笑)。

『キリストの油そそがれた真の弟子たちの人数が減少しています。しかも,大患難が始まる時にもその一部は地上にいると考えられるのです。残りの者の大半は,かなりの高齢に達しており,真に油そそがれた人々の数は年々減少しています』-2000年ものみの塔

↑たった10年少し前の主張です。彼らが言う当時の「油そそがれた者」はもう死んぢゃいました。それで今回、「第2グループ」を設定して、今度はその人たちが「高齢になっている」と言い始めました。彼らが死んだら今度はどんなアイデアを思いつくんでしょうか。

・・一体この話、本気で信じてついて行く人、どれくらいいるんですかね?

神はどこにいるか(おまけ)

前回の記事のおまけですが、JW統治体が勧める「研究」とはJW教材のみをお勉強することで、「個人的な研究」は禁じられています。

聖書の調査や討議を行なうために証人たちが独自に作った様々なグループを,「忠実で思慮深い奴隷」は認めていますか。

これは、当時「真理真」さんというハンドルネームの方が作成した資料の中で転載されている、2007年の王国宣教に載せられた質問です(31P)。まだその資料全部に目を通した訳ではありませんが、圧倒的な情報量と考察によるものすごい力作です。

上記に対する質問の答えは、当然のごとく「いいえ、認めていません」というものです。

その様々なグループが「意見交換や討議のためにウェブサイトを立ち上げている」ことも言及されているので、当然ネットも監視しているでしょう。

「『忠実で思慮深い奴隷』の監督のもとで制作もしくは組織されたのではない、いかなる文書も、集まりも、ウェブサイトも、その『奴隷』は認めていません

他の「奴隷」が同じ仕事をしようとすると打ちたたく「よこしまな奴隷」のようです。だれが「忠実な奴隷」であると見なすかはイエスのはずですが、その「奴隷」を認めるのも「奴隷」であると、いつからそうなったのでしょうか。

こういう記事を書くこと自体、そういう文書・集まり・サイトが現役JWからも一定の支持を集めていることを認めてしまっています。組織信者は統治体とは、「長年聖書を研究していて自分たちよりもずっとずっと理解がある人たち」と思わされています。しかし元統治体レイ・フランズの証言によればそうではありません。彼は統治体になる前は「聖書理解の助け」を執筆したことでも知られるように「聖書研究者」でした。しかし統治体になると、世界中の事例に対して指示するための多数決による規則作り、人事の形式的な承認作業などに追われ、全信者に影響を持つ統治体のメンバーに聖書そのものを研究する姿勢と時間が不足していることを危惧し始めます。

組織の統制や資産管理の事務手続き、中央集権を維持するための密室会議や無数の秘密文書のやり取りに明け暮れる人間たちに、自らの保身や組織の利害抜きに聖書を調べるピュアな姿勢が欠落していくのは当然の末路です。フリーな立場で聖書を真摯に研究する個々の人に神の霊が注がれて、その多様な感性や考察に他のクリスチャンが刺激を受ける・・そんな当たり前のことを否定し、ただ上から必死に統制を図ろうとする行為そのものが、もう彼らの記事や集会・大会の内容の魅力が危機的なまでに薄れていることを証しています。

「イエス・キリストが今日の地上の会衆を通して成し遂げておられる事柄から、個人的な探究によってそらされてはなりません」

「個人研究」はよくても、「個人的探究」は禁止どころか排斥の事由にさえなり得ます。平信徒は現時点でのJW解釈を説明した教材だけを使って聖書を学んでください。

「イエスが成し遂げておられる事柄」??

たった6年前の記事ですが、このあたりからでしょうか、組織の解釈=神の約束、組織の制度=神の取り決め、組織の活動=イエスが成し遂げ中の事柄・・崩壊間近の独裁政権じみた、半ば自暴自棄とも言えるファシズム的な解釈や表現が溢れてきたのは・・

神はどこにいるか②

前々回の続き、神を探し求める方法・・祈り・研究・個人的経験。
参考程度に流し読んでください。

① 祈り・・何を祈るのでしょうか。

『エホバよ,わたしがあなたに申し立てをするとき,事実,裁きのことについてあなたと話すとき,あなたは義にかなっておられます。邪悪な者たちの道が成功を収めたのはどうしてですか。不実なことをしている者たちが皆,屈託のない者であるのはどうしてですか』

生きていく上で理不尽なことには誰もが遭遇します。JW組織においてもそうです。すべての組織がそうではないにしても、役職が上になればなる程、「不実な者たちが皆」成功しているように思える時もあります。

人間の組織に「申し立て」をしても、もみ消される、うやむやにされる、返り討ちにあうことがほとんどです。そんな時、この言葉を思い出して祈ることができます。いつも状況が好転するとは限りませんが、必要以上にネガティブにならなくて済む、そんな内面の変化に神を感じるときもあります。

② 研究

エレミヤは、「ソロモンの事績の書」や「イスラエルやユダの王たちの事績の書」に言及しています。これは聖書の一部ではなく、当時の一般的な文書のようです。

それでJWの“出版物”に限らず、他のキリスト者が著した本も含め、キリスト教史や聖書の知識・理解を自主的に取り入れることです。さすがに限界はありますが・・

「(べレアの)人たちは・・気持ちがおおらかであった。きわめて意欲的な態度でみ言葉を受け入れ,それがそのとおりかどうかと日ごとに聖書を注意深く調べたのである」

何を学ぶにしても大切なのはこの精神ではないでしょうか。ある組織や個人が書いた文書が絶対的に正しいという思い込みやフィルターを通して聖書を学ぶのではなく、全くの逆です。何かを参考にして聖書を学ぶとしても、まっさらな態度で調べ、聖書と相容れない部分は退けます。

それで現役の方にも、組織の命令通りJW発行以外の宗教書籍は読まない、受け取らない、のではなく、もっと「おおらかな気持ち」を持ってほしいものです。エホ証の集会に行かずとも今では公式でほとんどの文書が読めますし、↑の原則を適用して聖書の方をフィルターにして取捨選択するならまだ参考になる部分も多少あると思います。幾人かの現役の方もコメントしてくれましたが、今は捨てるべき部分の方が圧倒的に多いのですが。

③ 個人的な経験

「サタンの手先」の記事でも書きましたが、普通の人生の中にも神はいると思います。

『人はみな,食べ,まさしく飲み,そのすべての骨折りによって良いことを見るべきであるのを知るようになった。それは神の賜物なのである』

聖書は、神を無視してただ「富もうと思い定める」ことを非としますが、JWのように自分たちの宗教活動以外の骨折りは基本的にムダ、という神の賜物を否定するような偏った考えも避けるべきと思います。彼らが、勝手に作った要求や戒律で“未信者”の家族との関係がこじれたり、まともに飲み食いできない貧乏開拓者を長年続けて体壊したり、進学もまともな就職も貯金もしないでただ目先のお金のやり繰りで苦労し、そういった家族・健康・経済上の問題を「信仰の試練(笑)」とか言うのは、まるで「自分の壁を作るのは自分」と言うイチローのようです。

稀代の預言者や一流メジャーリーガーになれる可能性がある人には是非ストイックに頑張ってほしいものですが、もっと普通に神に与えられた人生を楽しめばいいのに、とも思います。

① のような祈りをしなければならない理不尽なことは人生多々ありますが、神に感謝できることも日ごとにあるはずです。

まとめ:「大いなること」を成し遂げることができなくても、何かの組織に依存せずに「慎みをもって神と共に歩む」ことは誰にでも可能だと思います。JW組織の批評と並行して、そのメッセージも発信し続けたいです。

援助マニュアル

前回の続きはちょっと後回しにして昨日のものみの塔記事・・「不活発者援助マニュアル」

① 話を聞け
② 布教に誘え
③ 上手に“証言”できたら褒めろ
④ 一緒にサッカーをしろ
⑤ また話を聞け

① から⑤を繰り返す。これであなたの会衆の「不活発者」もまた元気に!!

では、現実を見てみましょう。

① 話を聞く

この時点で無理なことが多い。傷つけられた人は大抵ネットで組織の情報を調べる。すると、傷つけた人だけでなく、この組織のやり方や教育も問題である事実に気づき、組織にも不信感を持つようになる。そもそも、傷つけた相手が組織の手駒となりその指示通りに無神経な言動や指導を繰り返す長老自身であることがあまりに多い。こういう記事が出るとさらに逆効果で、「巡回訪問が近いから提案通りやっているか取り繕いたいだけ」「結局、布教報告を出させたいだけ」とみられてしまう(事実)。電話をかけても長老の番号だと出ない。メールしても音沙汰なし。

② 布教に誘う

もっと無理。布教に誘うと「やっぱりか」とさらに不信感を持たれ、拒否される。

③ 上手に“証言”できたら褒める

仮に無理やり布教に連れ出すことができても、まともな“証言”などいきなりできるはずもない。組織宗教やエホ証の悪評もこれだけ広まっているので、多少家を回った程度では即追い返されるのがオチ。よく奉仕に“出ました”ね~(苦)くらいしか褒めることがない。

・・この資料を使った実際の集会も、上目線な“注解”だらけでした。

「弱い人は辛抱強く援助してあげることが必要だということがワカリマス♪」
「うつ病の人は思ってもいないことを口にするので、親切に接してあげたいとオモイマシタ♪」

・・元気いっぱいにこんなコメントする、人の痛みなど分からない2世信者に誰が助けてほしいと思うでしょうか。現に傷ついて集会に来ていない人が、こんなお勉強会が自分のいない所でされていることを知ったらもっとヘコむんじゃないでしょうか。

こういう記事が出る度に思うのですが、「傷ついた人を“援助”するための方法論」とかではなく、人を本当に助けるとは、気持ちから出る自然な行動によるものだと思います。内容そのもので傷ついた人自身の内面を癒し、強める記事を書けないものでしょうか。最近の記事はひたすら「こうしろ、ああしろ」というだけで質が落ちていることを痛感します。

この記事を書いたり翻訳したり印刷したりしているものみの塔聖書冊子協会の方たち、ただ上から巡回監督を派遣して“組織の提案”通りしているか偉そうにチェックさせるだけなく、どうぞ皆さん自身が全国を行脚して集会に来ていない人を訪問してみなさんの“ご提案”が本当に効果的かどうか確かめてみてください。「言いはするが実行しない」なんてことありませんよね。

神はどこにいるか①

組織や指導部の偽善に気づいても、とにかく組織に頼らなければ自分一人では何もできない、何をしても意味はない、と感じる人もいます。それは目に見える結果を何よりも重視する組織の教育のためで、「この組織を出て一人で何ができるのか」と言い聞かされています。

でも神は、組織だって何か「大いなること」を成し遂げるよう要求しているのでしょうか。

『エホバがあなたに求めておられるのは,ただ公正を行ない,親切を愛し,慎みをもってあなたの神と共に歩むことではないか』

聖書が勧めているのは、イエスを道として、慎みをもって一人一人が神と共に歩むことです。

組織に依存せずに、どうやってそうできるでしょうか。

現在JWの集会で使用中の教材、「神の言葉 エレミヤを通して」の本にヒントがありました。何度か言及しましたが、この本は預言者でもないのに、預言者などいないこの現代で、その偏った生き方をするよう信者全員に押し付ける割と最悪なものですが、参考になる部分もありました。

それは10章の「エホバはどこにおられるのか」です。

結論から言えば、神を探し求める方法は、「祈り・研究・個人的な経験」の3つです。

・・おや?いつもイヤというほど出てくる、組織の集会と布教活動が入っていません。

なぜならこの章に限っては、神を正しく崇拝している組織が存在しないことが前提だからです。エレミヤの時代、ユダヤ人は国民として腐敗し、宗教上の指導者も神の言葉を歪めていました。組織に依存して神と共に歩むことが不可能な時代でした。

「神はどこにいるのか」・・これは神や聖書への信仰を捨てずにJWを辞めようとする人が避けられない問題です。

エレミヤを含む個々の人たちは、同調者を集めて別の組織を作るのではなく、個人で神を求めなければなりませんでした。エレミヤの書記であったバルクも「大いなること」を求めるよりも、ただ自分一人の魂が分捕り物として与えられることで満足するよう諭されました。

JWがしがみつく「1914年」の誤りを確信した今、現代も同じような状況にあると自分は考えます。歴史を通じて組織化したキリスト教には、その世界的な拡大と共に、支配する側の強権化と圧政と腐敗がつきまとい、自分が一度は入信したエホ証も今やその一つに落ちぶれたことを示す圧倒的な証拠に目ざめたとき、がっかりしたのは事実です。でもエホ証を含むキリスト教全体の拡大のすべてが無駄だった訳ではなく、結果、幾十億もの人が「ある種のキリスト教」に接して聖書を知り、神と共に歩む個々の善意の人々を生み出してきた、ということにも気づきました。

それで今すべきなのは、組織を作ることでも、何かの組織を改革することでもない、と自分は考えます。初めは善意の人々によって一定の“成果”はあるのかもしれませんが、人間が組織だとうとすれば大抵、裏切りと失望につながるからです。中途半端に“成功”してしまうと、やがてその組織を維持することそのものが目的化し、膨大な労力と時間が奪われます。それが現在の、「資産の管理・保護」「組織の維持・統制」のための事務手続きと制度作りに明け暮れる今の官僚JW組織です。

次回、「祈り・研究・個人的な経験」のそれぞれについて考察したいと思います。

明石順三⑤

明石氏がついに組織に見切りをつけた理由の1つは大戦前後の組織本部の偽善です。

明石氏が兵役拒否による投獄中に経験した仕打ちは壮絶なものがあります。

『1939年8月に,明石順三だけが尾久警察署に移され,そこで7か月にわたり,特高警察の宗教部による取り調べを受けました。事実に反する「自白」をさせるために,暴行が加えられました。明石は連日連夜拷問を受け,監房では蚊やシラミや南京虫などの毒虫の同居に悩まされました。ける,何度も床の上に殴り倒す,別人のようになるまで顔面を殴るなどの暴行を受け,全身傷だらけになりました』


ところが当の本部はというと、敵がナチスだろうがなんだろうが中立のはずなのに、ドイツや同盟国の信者を生贄にして「後で美談にしてやるから死んでくれ」と言わんばかりにナチスを非難したのに、自分たちはアメリカの大星条旗が掲げられた会場で小ぎれいにスーツとネクタイで身を飾り、大会を開いていました。そのことについて明石氏はこう語っています。

『今次大戦中本会の指導下に神と主イエス・キリストの神命に忠実ならんとして,多くのクリスチャンは殺害,暴行,投獄,監禁その他のあらゆる迫害を蒙り候。然るに余の出獄後聞く処によれば,ブルックリン総本部部員にして大戦中に検挙投獄されたる者殆ど無しとの事にて候。これ果して何の意味を有するものに候や・・・総本部が今次大戦を通じ如何なる巧妙手段を以ってよく其の苦難を回避し得たるかはともかくとして,もし本会の自称する如く “本会は地上における神の組織制度なり”の主張が事実なりとせば,体の末端の大部分が敵側の手によってかくも莫大なる苦難を受けたるにかかわらず,中心たる総本部がほとんど無疵の状態においてこの大苦難時を無事に通過し得る理由は絶対に成立致さず候・・』

もう1つの理由は、会長がノアに代わったものの、彼もただの「組織人間」だったからでしょう。

強権を振るったラザフォードはようやく死にましたが、3代目ノアの関心は組織を拡大することだけでした。結局、ラッセルの聖書解釈をベースに、ラザフォードの「イスラエルの神エホバの組織」と「旧約的選民思想の復活」の組み合わせを足したものがエホ証の基本解釈として定着し、ノアは組織管理のマネジメント手腕はそれなりにあったのかもしれませんが、聖書の理解を探究することには関心がなかったか、探究するだけの思考力を持ち合わせていなかったようです。明石氏は、当時の組織や方針について「10年以上聖書真理の解明に進歩を認め得ず」「ワッチタワー協会員の獲得運動の奨励に過ぎず」と批評しています。さらにノアは会長就任直後の1943年には神学校ならぬ「ギレアデ学校」を開設し、これも明石氏は「聖書の示す所と完全に背反逆行せり」と批判しています。

明石氏はラザフォードがラッセルを否定し、独善的な選民思想を助長する解釈を前面に出した1926年以降も、20年以上聖書の教えを広めることに尽力し、大戦中は信仰ゆえに過酷な仕打ちも受けた。しかし組織は「偽善者」を演じ続けた、の一言で切り捨てる。

近年、世代交代した統治体も権力基盤固めに余念がなく、調整と言いつつ前任者の解釈を否定し、組織至上主義さらにそのトップに立つ統治体至上主義を加速させています。「奇妙で異例な指示でも従え」など、出版物のテイストも「随分違う内容」に変わってきています。最新の奴隷の解釈でも、ラッセルを除外しラザフォードを「初代奴隷」とするなど、会長権限を手にするや「ラッセル派」をことごとく追放してものみの塔の執筆をのっ取り専制を始めたラザフォードのやり方に忠実に倣っています。

しかし組織に忠実な信者の言い分は、今の組織に同意できなければすぐ辞めろ、偽善者だ、というものです。このブログに対してもそんな典型的なコメントをされてきた方がいます。

どんなに長年、布教や活動に尽くしてきた人でも、上から一方的に振りかざされる解釈や方針に同意できなければその瞬間から「サタンの手先・背教者・偽善者」呼ばわりするのが、彼らの言う神の組織を腐敗させている真の友の正体です。

そういう人たちこそ、だれの追随者になっているのか、考えてほしいと思います。

ラッセルが地的な組織を作らなかったのは、それが『僧職者による支配,宗教会議で作り出された信条に従うことを条件とする会員の地位』に結びつくからではなかったのですか。今のJW組織を見て、絶対にそうなってはいないと、だれが言えるのでしょうか。

明石順三④

ラッセルとラザフォードのもう1つの違いは『他宗教への執拗な攻撃』です。

これも1番目の違いと関連していますが、この世のすべてを「エホバの組織」か「サタンの組織」に区別してしまった以上、その主張通り敵=サタンの組織は徹底的に、容赦なく攻撃しないとつじつまが合いません。そうすることで内部の士気高揚と一致も促進される・・一石二鳥です。

ラッセルは特定の宗派の指導者と魂の不滅などの教義でディベートしたことはありますが、問題にしていたのは教義であって、他宗派すべてをサタンの組織などと考えてはいませんでした。

エホ証は、“キリスト教”を過激に非難するラザフォードの「神の救い」が発行された頃から「キリスト教世界」という言葉を差別的に使用して他宗派を貶めるようになります。

やはりそれについていけない人もいました。

『ニコルソン(当時のオーストラリア支部の書記)は,聖書研究の新しい資料が偽りの宗教(=自分たち以外の宗教全部)を遠慮なく非難していることを公然と批判するようになりました。・・ニコルソンは一人の人物の追随者になってしまったようです』

ついていけなかった人は「ラッセルという個人の追随者だった」と切り捨てますが、じゃあ何のことはない、ついていった人は「ラザフォードの追随者」だったのでしょうか。

さてようやく本題に戻りますが、明石氏が「1926年」以降の出版物には同意していなかった、という理由は、主にこれまで考察したラッセルとラザフォードの思想の違いによるものだと思われます。

しかし彼はラザフォードの見解には同意していなかったにも関わらず、聖書研究者の他の基本的な信条を広めることに尽力しました。彼なりに「神を待った」のでしょうか。しかし第2次世界大戦を機に彼はついに組織に見切りをつけます。その理由も2つあると考えます。次回に続きます。

明石順三③

棄教した明石氏がものみの塔的に背教者なのは仕方がないとしても、偽善者呼ばわりされてもいます。

『刑務所から釈放されて2年もたたないうちに明石は,ものみの塔協会の会長に宛て一通の手紙を書きました。1947年8月25日付のその手紙の中で,明石は,1926年以降の協会の出版物の中で説明されている事がらには同意していなかった旨を述べています。1926年と言えば実際,明石が支部の監督として日本へ来る任命を受けた時よりも前です。したがって明石順三は,彼が自分の述べたところによると,20年以上にわたり偽善者を演じていたわけです』

明石氏が3代目会長ノアに送った公開質問状についてはすでに書きました。さらに彼は1926年以降、組織の出版物に同意していなかったと書いたようですが、「1926年」ってなんでしょうか。

自分が思い当たるのは、ラザフォードが「神の救い」を出版した年です。

『1926年5月の大会では,「神の救い」と題する書籍が発表されました。これは,「聖書研究」に代わる一連の新しい書籍の一つでした』

「聖書研究」は初代ラッセルをカリスマ牧師たらしめた著書です。ラザフォードを含む初期の聖書研究者はこの本を読んで信者になりました。しかし1926年にラザフォードは「神の救い」を出版し、これは「聖書研究」に代わるものだ、と宣言した。

ラッセルとラザフォードの違いは何でしょうか。その1つは『「神と人間の仲介者はただ一人、イエス・キリスト」のはずが、さらにイエスと人間の間に組織という仲介者を置いた』という点です。

ラッセルは組織の必要性を否定していました。

『ラッセル兄弟は自分たちが「地的な組織」を作ろうとしているのではないことを強調し,むしろ「『名が天に記されている』我々は,かの天的な組織だけを支持する」と述べました。キリスト教世界の汚れた歴史のため,“教会組織”と言うと,たいてい分派主義,僧職者による支配,宗教会議で作り出された信条に従うことを条件とする会員の地位などが連想されました』

やがてラッセルは聖書研究者の増加に伴い、「監督=長老」の必要性を認めるようになりますが、やはり組織だとうとすると上手くいきません。死ぬ直前の1916年にはこう書いています。

『教会の僕たちが支配者や独裁者になろうとしており,場合によっては,恐らく自分や特定の仲間たちが長老や執事に選出されるようにするため,集会の司会者の立場を占めてさえいる』

どっちのコメントも今のエホ証そのまんまです(笑)。

そこで2代目ラザフォードの取った手段は、敵を作ることで内部を一致させようとするものです。1925年発表の啓示12章の「女」=「神の組織」、「龍」=「サタンの組織」という解釈。

『対立する二つの異なった組織,つまりエホバの組織とサタンの組織があるということが初めて明確に説明されました』

だれもがエホバの組織とサタンの組織のいずれかに属しているということが非常に明確になりました』

しかし、このバイオレントな解釈についていけない人もいました。それは『大部分がラッセル兄弟の遺稿で成っていた「終了した秘義」に公表されていた事柄とは随分違う内容だったから』です。

このあたりから、すべての事象や人間を「エホバかサタンか」かに乱暴にカテゴライズするエホ証の2極思想が生まれました。今でも不満の矛先を外部に向ける信者支配に使われます。

「会衆を保護するために行動した長老ではなく、サタンに立ち向かいましょう♪」

「今は内輪もめをしている時ではありません。敵はサタンとその手先である背教者です♪」

それでこの思想に教化されたエホ証が背教的情報や最近の児童虐待問題などのエホ証に不利な報道に接する時に、まず感じるのは「敵意」です。それをサタンの敵意とみなし、自らもその攻撃に敵意を募らせる。「客観的に評価する」という理性は消し飛びます。

このように敵を作ることで内部を一致させる手法はどの時代も効果的で、ラザフォードもこの手法で組織をまとめあげることに成功しました。まさに神の祝福(笑)ですね。

ラッセルとラザフォードの違いはもう1つあります。次回にします。

どうしたんですか?

一体どうなっちゃうんでしょうか、この組織。

今度は大会ホールメンテナンス基金で一人当たり800円だそうです。

・・ちゃんと各大会ホールに自発的にできる寄付箱ありますよねー。もう自発的では足りない、って素直に言えばまあしょうがねぇかくらいの気持ちにも・・なりませんが、「皆さんには大会ホールを維持するための責任と特権があります」てな感じの相変わらずの超上目線。

これも年毎になるっぽいので「巡回監督の車代350円」「王国会館保険代250円」と合わせて、年間1400円ナリ。これもう自発的どころか会費ですよね。これまでは一人あたま300円前後と小刻みの徴収でしたが、いきなりの800円。消費税と同じで子供も対象ですよ?布教に参加している小学生からも年間1400円て・・神の組織がきいて呆れる。勝手に作って、維持するのお前らの責任、とか勝手にゆうのやめてください。

しかもこのペース、まだ増える可能性ありますね。「ベテル奉仕者援助基金」「神権的な学校援助基金」「印刷設備メンテナンス基金」など、小出しにすれば名目などいくらでも作れるので。

徐々にこういう形での徴収が増えていくとは思っていましたが、こんなにすぐ別枠での寄付集めを始めるとは予想していませんでした。自分が考えていたよりも組織のお金事情が危機的なのでしょうか。お会計は「別」法人様のことなのでさっぱり分かりませんが(涙)・・まさかこの手紙も「掲示板に貼るな」なんて狡すからい指示を裏で出してないでしょうねぇ。せめて、会計状況を知らせる義務がない「傘下にない宗教サークル」に送金を指示する「単立宗教法人:ものみの塔聖書冊子協会」名義の手紙を掲示板に堂々と貼れ。そしたらだれか写メして文化庁に送ってください(他力本願)。マジで。

「『シオンのものみの塔』はエホバがその支持者であるとわたしたちは信じる。そうであるかぎり,この雑誌は人間に支持を乞い求めたり,懇願したりはしない。『山々の金と銀はみな我がものである』と言われる方が必要な資金を供給しないなら,それは出版を中止する時である,とわたしたちは考える」

『この趣旨と調和して,エホバの証人の文書の中には,お金を乞い求める箇所はありません。・・寄付盆が回されることも,お金を入れる封筒が配られることも,寄付を依頼する手紙が会衆の成員に送られることもありません。・・1894年の昔に,ものみの塔協会は旅行する講演者を派遣した時,すべての人のために次のような通知を出しました。「寄付集めや,金銭を懇願する他の行為は,当協会によって許可も承認もされていないということを最初から理解しておいていただきたい」』


「他の偽りの宗教」とは違って自分たちは「寄付集め」は絶対にしない、との大言壮語を反古にして、一人あたまの金額を指定して寄付の決議を要請する手紙を次々に出し始めた組織・・だれにも寄付集めという行為を許可も承認もしません、と言っていた当の協会自身がし始めた訳ですから、本当に末期的な症状なのかもしれません。そうか、上目線で書けば依頼でも懇願の手紙でもないって言えますね(笑)。指示してるんですから←もっと悪いような気が・・

「神が資金を供給しないなら、それは出版を中止する時である」

組織に忠実な頃はまさかとは思っていたものの、その「時」が予想以上に近いのでしょうか。
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