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jw.orgの不誠実な回答⑤

今回の法人問題で今さらですが、自分なりに分かったことがあります。

「公式ページの不誠実な回答シリーズ」でも書きましたが、「エホバの証人に有給の聖職者はいますか」でも、ローカル会衆のヒラ長老のことしか書かれていません。つまり彼らが「エホバの証人は~」と言うとき、ものみの塔聖書冊子協会は完全スルーで、法人を取得しているかどうかに関係なく、各ローカル会衆に所属する個々の人間の集まりを指して言っているのではないか、ということです。「エホバの証人の○○会衆」というように、末端の会衆に法人格を取得させる場合はエホバの証人という名称を入れさせています。

一方、「ものみの塔聖書冊子協会」という法人が所有する施設には何百人もの専属の職員がいます。その名称が示すように表向きはただ「雑誌をスッてるだけの施設だよん」と思わせたいのかもしれませんが、上級職員は法人が所有する施設内だけでなく、「傘下にない」はずのローカル会衆の実質的な人事権を掌握し、そこから億単位の金を集め動かしています。しかし彼ら自身も近くのローカル会衆に所属し、そこではただのエホバの証人であり、ヒラ長老であり、ローカル会衆から報酬を受けている訳ではありません。

公式ページのよくある質問でも、「会衆では会計状況が定期的に知らされます♪」とトカゲのしっぽ切りでオープンさをアピールしてますが、これもたかだか数十万円程度の「エホバの証人のローカル会衆」の会計のことで、上場企業並みの資産を有する本家本元のものみの塔聖書冊子協会の会計状況は信者すら知りません。

組織は信者に対しては協会=支部・組織の権威と同一視させておいて、対外的にはそういう都合のいい使い分けをしているんだな、ということが今さら分かりました。

なんかスッキリはしました。同意では決してありませんが。
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別法人だったとは・・

幾つかのJW関連HPで拡散されていますが、エホ証の主要な宗教法人であるものみの塔協会が単立宗教法人として登録されている、との事です。文化庁HPの宗教年鑑で確認できます。

文化庁の説明によると、

『宗教法人には,神社,寺院,教会などのように礼拝の施設を備える「単位宗教法人」と,宗派,教派,教団のように神社,寺院,教会などを傘下に持つ「包括宗教法人」があります。単位宗教法人のうち包括宗教法人の傘下にある宗教法人を「被包括宗教法人」,傘下にないものを「単立宗教法人」といいます

「王国会館」という「礼拝施設」を備える地元のJW会衆が別個の「単位宗教法人」として登録されていることは知っていましたが、それはどこの傘下にもない「単立」宗教法人であって、大元の「ものみの塔協会」ですら「単立宗教法人」として登録されている事実・・

ある程度現役を続けてきた自分も気づきませんでした。

どうりで、ローカル会衆の会計は1円単位で信者に公表されても、組織は億単位の寄付の使途を各会衆に公表しないワケです。その義務がないんだから。

→法律上は、各会衆という単立法人が全く別の単立法人に勝手に寄付しているだけ。

→ものみの塔発行の“出版物”も、別の法人の信者が勝手に教材や布教に使っているだけ。

→輸血禁止などの指示も、ものみの塔の一読者が勝手に実行しているだけ。

→ものみの塔に従わない信者を、各会衆という独立した別法人が排除しているだけ。

・・ということになるのでしょうか。だとすればすべての責任は組織ではなく、自己責任、またはローカル会衆という単立宗教法人の長老たちが取らされる仕組みになりますね。

おそらくものみの塔の言い分としては、エホバの証人=宗派でも宗教法人でもなく、宗教法人は宗教活動を行う「道具=法的な手段」として法律上の最低限の要求を満たす登録だけしている、ということでしょう。ものみの塔協会=印刷施設を所有するための法人、各会衆のローカル法人=礼拝施設という不動産を所有するための法人、みたいな。

しかし、ものみの塔を少しでも読めばJW関係者でなくとも、

                 →実効支配・統制→
ものみの塔聖書冊子協会            エホバの証人のローカル法人
                 ←運営資金の負担←

という実態が存在することは明白です。こないだの「寄付徴収」の手紙を掲示板に貼らないのも信者に詳しく知らせないため、くらいに思っていましたが、傘下にない別法人に「恒常的な寄付の送金を指示」している、ととられかねない手紙はグレーなのでしょうか。

これでも各会衆は「どこの傘下にもない宗教法人」と言えるのでしょうか。
行政指導とかの対象にならないんですかね。

自分は、ものみの塔の文面の背後に見え隠れする思惑や矛盾を指摘するくらいしかできませんが、こういう告発系の記事を書かれる方々の情報収集能力にはただ頭がさがります。

組織は必要?

エホ証が「組織は必要」と主張する理由は主に2つ。

① 神はどの時代も組織を持っていた

「聖書中の証拠が示しているとおり、神はいつの時代にも、ご自分の組織を用いて目的を遂行してこられました」

聖書に記録されている期間はそうだったかもしれませんが、それを現代にまで適用して「いつの時代にも」というならそれはウソです。前にも書きましたが、ではラッセルがものみの塔協会を設立するまでは、どういう名前の組織を神は持っていましたか。

これまでは「小麦級=真のクリスチャン」イコール「奴隷級」だったのですが、今回の調整で「奴隷=1919年以降の指導部」にする代償として、昨日の研究記事でも、1914年以前も小麦はずっと存在したが、組織的な経路は存在しなかった、と明確に認めざるを得なくなりました。

あれ?イエスは「いつの日もあなた方と共にいる」と言いましたよね?「わたしの小さな羊たちを養いなさい」・・羊に対するイエスの思いがひしひしと伝わってくる実に感動的な言葉です、とか言いながら2000年近くも完全に放置していたことになり、奴隷=人間による組織的な経路が存在しなければ、養うことにも導くことにもならない、というイエスの言葉を否定するような解釈です。イエスは個々のクリスチャンとずっと共におられました。今でもそうです。

それで1914年そのものを調整してしまうと、現在、神を崇拝するには組織が絶対に必要、という概念そのものすら崩壊してしまいます。それで意地でも撤回できません。

② 布教と集会のためには組織が必要

『王国の良いたよりを全地で宣べ伝えるというイエスの命令を遂行している,エホバの献身した民からなる組織』・・・


「王国のメッセージは人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう」(マタイ24章)※・・これをなぜかエホ証は命令である、と解釈します。どこが命令なんでしょうか?「宣べ伝えられるでしょう」としか書いていません。これは文法における命令ではなく自発です。これが命令というなら新世界訳の日本語がおかしいです。

自分はこの聖句を、キリストが本当に再臨して世界的論争が生じるのであれば、文字通り世界中にいる数十億のクリスチャンの中でも変化が生じ、その混乱に乗じ「自分がキリスト」だと主張し個人や特定の組織に追随させようとするグループが現れる一方で、キリストのバシレイアに回帰するシンプルなメッセージがおのずと(自発)、宗派を超えてあがり始める時が来ると、理解、というか期待しています。

それに近い状況が1914年にあったのかもしれません。

『それらの僧職者はプロテスタントの主要教派,つまりバプテスト派,組合教会派,長老派,監督教会派,およびメソジスト派を代表していました。その声明文は,「現在の危機は異邦人の時の終結を指し示しており」,「主の顕現はいつ何時始まるかもしれないと期待し得よう」と言明しました』


彼らは「イエスの再臨が始まるかもしれないという期待」にすぎないことを認めていました。ラザフォードは彼らが時期尚早と判断しその期待について語らなくなったことを非難していますが、むしろ潔いのは彼らの方だと思います。1914年にいつまでもしがみつき、イエスの再臨を期待どころか既成事実化してハルマゲドンの誤報まで何度も繰り返すのと、どちらがいいのでしょうか。

今でも個々のクリスチャンは様々な方法で聖書のメッセージを伝えています。最近はものみの塔もしているようにネットでそうしている人もいます。「この手段」とか「この組織」にこだわる必要があるのでしょうか。細かな解釈論で一致させる権力などいりませんし、クリスチャンという引き網に入った一人一人を裁くのは人間の権力でもありません。

ヘブライ10章の「集まり合うこと」にしても、2人か3人で集まり合うとしてもイエスは共にいる、と約束しています。巨大組織を作り、数千万円↑もの金を集めて何かの施設を建て集まらないとイエスは見向きもしてくれない、とは書いていません。

エホ証になる前の聖書研究者たちは既存の組織化されたキリスト教やその権威に縛られずに聖書そのものを理解しようとしました。しかしエホ証自体が高度に「組織化されたキリスト教」になってしまった現在、その原点に立ち返ることはもう無理なのかもしれません。


※追記:もう一つ似たような記述にマタイ巻末の「行ってすべての国の人々を弟子とせよ」という言葉があります。これは紛れもなく命令です。でもエホ証は「唯一の組織」を主張する目的では、こっちにはあまり触れません。なぜなら、こっちの命令は終末とはリンクしておらず、むしろ「事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいる」とイエスは語ったからです。それで、この聖句はイエスが昇天してから現在に至るまでの約2000年に渡るキリスト教の布教とその拡大について言及したもので、彼らはこっちの聖句には、ほんのちょっぴりしか参加していないからです。

組織化したキリスト教

「1980年代には『歴史上かつてないほど大勢の人がキリスト教に改宗し,同時にこれまでのどの時代よりも多くのクリスチャンが組織化されたキリスト教から脱退する』であろう」―1979年7月21日付,シドニー・モーニング・ヘラルド紙。-1981年ものみの塔より

この言葉は、皮肉にもエホ証という「組織化されたキリスト教」にもいずれ成就していくと思います。日本を含む一部の先進国ではその兆しがすでに見えています。

日本では、聖書に興味を持つ人がいない訳ではありませんが、キリスト教人口が増えている訳でもありません。かつては既存のキリスト教に幻滅した人の受け皿として、強気に↑のような第三者の文章を引用していたエホ証も、もう日本での増加は頭打ちです。

組織に属することを嫌う人がいるのはなぜか。同じものみの塔記事での別の引用。

「教会に行くのがいやなのは,大酒飲み,うわさ好き,うそつき,詐欺師だと分かっている人々が毎週日曜日そこにやって来てお祈りをし,賛美歌を歌っているからです。偽善者を尊敬することは決してできません。ところが,わたしの通っている教会は偽善者で一杯です」―1979年5月27日付,パームビーチ・ポスト‐タイムズ紙。

エホ証に大酒飲みはあまりいないかもしれませんが、隠れ酒癖の悪い人(笑)はいます。うわさ好きはゴロゴロいます。悪意のあるうそつきはいません(たまにいる)が、偽りのタイムリミットを命令されるがまま宣伝し、結果として他人の人生を狂わせておいて何の責任も感じない人もいます。あからさまな偽善者も(そんなに)いませんが、見せかけの「業と特権と数字」ばかりを重視し、他人をも見下し裁く人間もいます。

善良な人もいます。悪いところばかりを見たくありませんが、エホ証が自分たちだけは違うとばかりに他宗派を上から目線で貶めることは、もうできなくなっていると思います。

↑のコメントが示すように、組織になるといろんな人がいます。組織の一員になるとその相手を選べません。ただでさえ会社という組織で人間関係に苦労し疲れているのに、組織化された宗教にまで深入りしてそのストレスを増やしたいなど、だれも思いません。

業と成果を何よりも重視するエホ証組織も、その国で当初見せる成長期には魅力的に映る時代もありますが、増加が頭打ちになれば、その上っ面の魅力もストレスと落胆と罪悪感、他者への批判とねたみに取って代わります。組織・制度化された宗教から脱退して本当に自由になったと感じる人もいて、エホ証も今や例外ではありません。

「ではどの組織に行けばいいのか」と考えるようエホ証信者は教化されていますが、そもそも、聖書は神を崇拝するために組織を通さなければならない、とは教えていません。次回にします。

個人的なこと⑤

話を戻します。

「天の王国はあらゆる魚を寄せ集める引き網」の、調整=否定される前の解釈です。

聖書を教える権威を持つととなえる多くの人々によって聖書の音信が曲げられることがあっても、聖書そのものの内容は損なわれずに保たれました。幾世紀にもわたり、ヒエロニムスやティンダルのような学者たちなど、勇敢に神の言葉の翻訳や頒布に当たった人たちがいます。多くの人が、聖書に、またまがい物とはいえ、ある種のキリスト教に接しました』

自分も↑の説明の通り、「聖書を教える権威を持つととなえる」エホ証統治体によって聖書の音信が曲げられることがあっても、彼らによって「聖書と、まがい物とはいえ(笑)、ある種のキリスト教」に接することになりました。

そしていつか、「クリスチャンであると主張する組織(エホ証含む)」という引き網がたぐり寄せられます。網がたくさんあって、その内の一つに入った魚だけが選ばれるのではなく、網は一つだけで、そこに入った魚は一匹づつより分けられる、というたとえです。

「裁きは神の家から始まる」と聖書に書いてあるように、これはキリストの再臨(1914年にはまだ起きていない)の直後に生じる、クリスチャンという引き網に入った一人一人(過去に死んだ人含む)が、「天の王国にふさわしい魚」かどうかの審判で、その後の短い期間に生じる、その時点でクリスチャンではない人に“ハルマゲドン”を通過する機会が与えられる裁きとは別だと考えます。

まとめ:エホ証も他のキリスト教と同じく人を聖書に引き寄せる網の一部に過ぎない、と気づいた今では、エホ証組織の幾つかの重大な間違いに目ざめたとしてもそこで知ったすべてが無駄だったという後悔はありませんし、聖書に接するきっかけとなったことにおいて一定の役割があったとさえ思えるようになりました。

今、冷静に考えるとあたりまえです。聖書は何十億冊も流布してきた本です。それに接する機会、解説する個人、団体、書籍など、無数にあります。「この組織の“お陰”で聖書を知ったはず。他にどこに行くのか」・・初めて見た存在をずっと親だと思い込むペンギンの赤ちゃんか(笑)。

個人的なこと④

エホ証が真実の神が用いる唯一の経路ではないと確信したとはいえ、自分が彼らを通して聖書とその神についてある程度を知ることになったのも事実です。

この「他にどこにいけばいいのか」という疑問がエホ証支配から抜けられない理由になる人もいるようですし、自分も「結局はこの『組織』で聖書を知ったのだから・・」と無理に言い聞かせようとしたこともありました。そんな時期に参考になったのが、イエスのたとえ話と、矛盾しているようですが、そのたとえについての「ものみの塔」の説明でした。当時はまだ、聖書のある部分について純粋でより深い理解を得させてくれる記事が、たまに(笑)ありました。しかし元統治体レイ・フランズも執筆のために客観的な調査を行ったことが、逆にエホ証解釈の矛盾に気づくきっかけにもなりました。その教訓もあってか、最近の記事はひたすら「組織賛美」「do’s and don’ts」ものばかりです。「聖書的」な記事を書かせると執筆者クラスですら背教しかねないので。

・・また話はそれましたが、そのたとえ話はこれです。

「天の王国は、海に下ろされてあらゆる種類の魚を寄せ集める引き網のようです」

そしてこのたとえの説明はこうでした。

『イエスは、天の王国をあらゆる種類の魚を寄せ集める引き網に例えられます。魚をより分けるさい、ふさわしくない魚は投げ捨てられますが、よい魚は取っておかれます。(中略)イエスご自身、人をすなどるこの事業を開始し、「人をすなどる者」となるよう最初の弟子たちを招かれます。最後に「引き網」をたぐり寄せる時が訪れますが、その引き網は、自分たちはクリスチャンであると主張する地上の組織を表わしています』

それでエホ証でさえ、自分たち以外のキリスト教にも役割があることはかつて認めていました。しかし、組織至上主義が暴走する近年、この解釈も「調整」されました。その調整も必然性や意図、何がなぜ、どう変わったのかを巧妙に隠したやり方でしたので、よく覚えていない信者もいると思います。今では、引き網はエホ証組織だけで、網から放り出されるふさわしくない魚はエホ証をやめる人間、という感じになっています。

エホ証の一番の“お得意様”は他のキリスト教徒です。キリスト教がまさに「からしの種粒」のように成長し、あらゆる魚を寄せ集める引き網のように何十億もの信者を抱える世界最大級の宗教になったからこそ、その既存キリスト教に不満を持つ分子をちょっぴり改宗させただけで、エホ証もある程度の数になれたのです。なのに今では、「からしの種粒」も「引き網」も全部、「自分たちの増加」だけを予言したもの、と解釈を変える・・組織至上主義の暴走は止まりません。

かつては自分たちも審判を受ける存在の一部、と一応形式的には認めていましたが、今では、この組織だけが「唯一の引き網」であり、そこから出される人間は「ふさわしくない魚」ですからね。

調整とは聞こえはいいものの、以前の解釈を真っ向から否定することも含まれます。今回取り上げたのはまさにそのパターンです。統治体の強権化に伴い、記事執筆に採用される人のタイプ・考え方もかなり変わってきているのでしょう。でも前任者を明確に否定する言い方はできないので、お茶を濁すような複雑で遠回しな構成・物言いに終始します。それで最近の解釈変更の記事は特に分かりにくい、感じる信者が増えています。

前の解釈を書いた人からすれば背教的な解釈でも、今はそのファシズム的な解釈についていかない人間が、逆に背教者にされる・・彼らは誰の追随者なのでしょうか。ちょっと長くなったので続きは次回にします。

陶器師はどっち?(おまけ)

宇宙主権の論争の話になったので、1回だけ追記します。

自分はこの宇宙主権の論争解釈の全部を否定しませんが、前から?と感じていたのは、エホ証の主張する「二次的な論争点」です。それもざっくりと説明しますと、

サタンは、人間は苦しみや不利な状況のもとで「無私の心で神に仕えることはしない、と主張することで人間の忠誠心にも疑問を投げかける。神はこの疑問を解決するためにも、サタンが一定の期間、人間を苦しめることを許される。

確かに聖書のヨブ記で、サタンがヨブの忠誠に挑戦し、神がその賭けを受けた、という記録があります。エホ証はこの記録を、「人は皮のためには皮をもってする」というサタンの言葉から、この聖書の一記述は人類全体を対象とした挑戦デアル、との相変わらずの過大解釈を主張します。

・・でもそうすると、勝っているのはどっちでしょうか?

自分は、この問題はヨブ個人によってすでに解決済みだと思います。仮にそうでないとしても人間イエスが「ただ一度限り杭につけられた」ことで完全に答えが出たはずです。

お得意の数の多寡で正邪が決するなら、圧倒的にサタンが勝っています。エホ証のみなさんは、何人以上の勝敗ラインで自分たちの「えほば」が勝ったことになる、と考えるのでしょうか。ハルマゲドンは明日にでも来て、わたしたちの「えほば」はJW以外全員=70億人↑の99.9%を大虐殺しますと例のごとく神の行動を決めつけるなら、逆に勝負になっていないのでは?

むしろ、この人間の忠誠という「二次的な論争点」は、組織が信者を業=行動へと駆り立てるために都合よく利用されているにすぎない、と思います。

組織の指示に従うことにより、神の主権を支持していることを示しますか」・・とか、

「その決定は、あなたが神の主権とサタンの主張のどちらを支持するかを明らかにします」

など、無私の心で奉公する対象を神⇒組織にすり替えるのに何かと便利だからです。

そもそも、ヨブは何をもってして忠誠を保ったとみなされたのでしょうか。体中が重病に侵されても毎月最低ノルマの動物を捧げる儀式でも続けたからですか。

「『わたしたちは神から良いことだけを受けて,悪いことは受けないのだろうか』。このすべてのことにおいてヨブはその唇をもって罪をおかさなかった」

ヨブの忠誠はの問題であって、その忠誠のゆえに唇で罪をおかしませんでした。何を「していたか」といえば、ただ悲嘆にくれてじっと座っていただけです。

「 神への犠牲は砕かれた霊なのです。打ちひしがれたを,神よ,あなたはさげすまれません」

一方、どんなに疲れ落ち込んでいても、重病で入院していても、意識不明でない限り月最低ノルマの布教時間を報告しない人は忠誠に欠けている、と業で他人の心を裁くのはだれでしょうか。

奉仕報告の度にしつこく電話をかけてくる長老、報告は神の命令であり怠る人間は認識が低い、と演壇から微笑んではいても脅すような言葉を語る長老、「不活発」と分類された信者を慰める名目でやって来るが、結局は布教活動を再報告させ、数字ばかりを見る巡回訪問(上級信者による査察)の印象を良くすることが目的の長老・・・彼らこそ砕かれた心をさらに砕き、罪悪感を募らせる偽りの慰め手のような気がしてなりません。

陶器師はどっち?③

人間の側が陶器師になり、神の行動を分かりきったように限定してはいけないと思います。

『ああ,神の富と知恵と知識の深さよ。その裁きは何と探りがたく,その道は何とたどりがたいものなのでしょう。「だれがエホバの思いを知るようになり,だれがその助言者となったであろうか」,また,「だれがまず神に与えてその者に報いがされなければならないようにしただろうか」とあるのです』

聖書を書いた使徒パウロでさえ、「神の道は探りがたく、たどりがたい」と語っています。

しかし、現在のエホ証指導部はもう「神の裁きと道」を探りきってしまったかのような自己満足に陥っています。その自分たちの解釈や説明により、神が公正で愛と知恵のある方であることが証明されるとでも考えているかのようです。自分たちだけが神を正しく理解し、説明し、擁護できるという“善意”のつもりがその思い込みが暴走し、自分たちの枠組みの中の「神」とその「神」の代理たる組織が非難されると、もう我慢ならないとばかりにその神=組織を擁護するためこじつけの聖書解釈をあみ出してきます。

神に「助言者」は必要ありません。知恵があるのは誰なんですか。自画自賛の解釈と説明を思いついた人間の方ですか。人間が形作った枠組み=アイデアの中で行動が縛られ先読みされる程度の、底の知れた浅い神がなんて知恵と愛のある方なんでしょう♪・・と賛美したところで、その枠組み=アイデアを思いついた自分たちを賛美しているだけだということに気づかないのですか。人間に説明されることで神の栄光が少しでも増し加わることなどありません。その過ちを繰り返してきたことを自分も含め悔い改めなければと思うのです。

「1914年に神は自分たちを天に取り去る」

「1925年に神は過去の義人を復活させる」

「1914年から一世代の内に、神はハルマゲドンを起こす」

「1914年以降に死んだ人を神は復活させない ⇒復活しないとなんかマズい」

イエスは1935年に天の王国に召すのをやめた ⇒やめたままだとマズくなってきた」

イエスは1914年から人間を羊とやぎに分けている ⇒まだ分けていないことにしよう」


数え上げればキリがないですが、エホ証は塵に等しい人間でありながら、事実上神やイエスの行動を先読みし、しかもことごとく外してきました。自分たちの描く枠組みに矛盾が生じると、神やイエスの行動にさえ調整を加えるとは、あなたたちはいったい何者なのですか。今までも、これからも、あなたたちが思いついたアイデアに、神の側がそれに縛られて行動することなどありえないでしょう。先走った期待と言えば聞こえはいいものの、それに同意できなかった、間違っていなかった人間を神への反逆だと裁いてきたのはだれですか。

指導部はその過ちを悔い改めるどころか、その過ちによって求心力が低下した自分たちの権威を何とか強化しようと、神や聖書まで私物化することに突き進み、その業(ごう)を深めているとしか自分には思えません。たぶん、もう彼らも本気で神など信じていないのでは、と思います。ただ一人知恵のある神を信じているなら、その真実の神を冒涜する誤った解釈を繰り返し、その偽りに基づいて無実の信者を断罪してきたことに、まともな良心など保てるはずがありません。彼らが信じている神とは一体誰なのですか。

『彼らの最後は滅び,彼らの神はその腹,彼らの栄光はその恥にあり,その思いは地上の事柄に向けられています』

自分たちの「腹」づもりでどうにでも調整できる神を崇め、目に見える業のみを誇り、この「地上の」組織を拡大することにしか関心がないのはだれですか。「地上の」楽園を謳い、キリストと同じ「死へのバプテスマ」を受けるクリスチャンが本来は放棄するべき「物質の報い」ばかりを強調してきたのはだれですか。神の名によってことごとく予言を外してきた恥を栄光と履き違えているのはだれですか。

自分たちにできるのは、人間には決して探り、辿り切ることなどできない「神の道と裁き」を、ほんの僅かづつであっても探究し続けることだけです。宇宙と同じで決して辿り切れないから、その深さと人間の微小さとを思い知るのです。

自分もかつては、エホ証がそのための唯一の経路とまでは言い切れないとしても、少なくともその「経路の一つ」ではないかと感じたので現役にもなりました。でも、今や真理そのものを純粋に探究する気配すらなくなり、ただ自らの拡大と正当化のために突き進む現在の組織を、ただ残念に思うのみです。

答えなど探り切れるはずもない些末な解釈論で異端者を排斥し、その解釈に従って神やイエスは行動し自分たちだけが報われるはずだ、などという傲慢な考えを捨て、ただ神の御前にへりくだり、もっと神の憐みの豊かさを強調する聖書の原点に立ち返った精神を思い出してほしいと願います。

陶器師はどっち?②

エホ証が意図せず神の側の行動を制限してしまう例は他にもあります。

例えば、エホ証の超重要解釈の一つでありながら、彼ら自身が勘違いしていることが多い教義=宇宙主権の論争・・超ざっくりと説明しますと、

反逆した天使の一人サタンは神の主権=支配権が正当かつ最善のものかどうかに挑戦し、最初の人間アダムとエバに、「禁じられた善悪の木の実(=善悪を決める神の主権の象徴)」を食べさせ、神の支配から独立する道を選ばせることに成功する。神は即座に反逆者を滅ぼすことも可能だったが、反逆の結果がどうなるかを示すことにより、ご自分の主権の正当性が明らかになるようにするため、時間の経過を許される。

現役のエホ証の方に質問すると仮定します。「はい」か「いいえ」の二択です。

質問:神はこの「宇宙主権の論争」をエデンの園で即座に解決することもできましたか






答えは「はい」です。これは自分の考えでなく、エホ証の現解釈においても、そうです。でも結構、「いいえ」と答える方も多いと思います。サタンは神の力ではなく主権の正当性に挑戦したので、サタンと反逆者を即座に滅ぼしても解決にはならなかった、とか、時間がどうしても必要だった、とか言います。

・・えーと聖書を信じる人にとって、造物主である神の主権とその正当性は、宇宙どころか、宇宙という言葉では括れない程のあらゆる領域、世界、どんな言葉でも人間が表現も理解もしきれない、すべてを超越し、すべての前から或る、神の存在そのものと同義と言っていいくらい絶対的なものです。それは証明される必要もなければ、誰かによって支持される必要もありません。これはちゃんとエホ証布教教材「聖書から論じる」の本にも書いてあります。

「それは神がご自身のために何かを証明する必要があったということではありません。しかし,これらの論争のために宇宙の平和と安寧が二度と再び乱されないようにするため,エホバはそれらの論争が一点の疑問の余地も残さずに解決されるよう,十分の時間を見込まれました」

なので人間の側が傲慢にも、全能の神がその時点では解決できなかったとか、神の方がそういう行動をせざるを得なかったとか、時間をかけることがどうしても必要だった、など、神の行動の方が縛られる可能性について考えることさえ大きな間違いです。

あくまで、すぐに感謝を忘れて反逆する天使や人間という存在を憐れみ、物分かりの悪い(笑)彼らの思考の中で可能な限り「疑問の余地を残さず解決・証明」されるために、あえて神の側が多大の辛抱により時間を見込んでくださった、というだけのことです。多くの現役エホ証ですら、神が「自分の正しさを立証する」なんていう器の小さい目的のために人間の側が苦しみを辛抱強く耐えさせられているなんて勘違いしていますが、全くの逆です。

かつて、自分もこういう解釈に魅力を感じていた時もありました。でも特に世代交代してからの統治体は「自分たちの出版物は神がお前たちのために書いてくださった」とか、安易に神を持ち出し、さらに自分的には史上最悪の出版物「エホバに近づきなさい」が出たあたりから「神は○○な方なので、こうする、とか、しない」とか、自分たちが陶器師であるかのように望むままに神のイメージを作ってその行動を限定する傾向が強まっています。もう1回だけ続きます。

陶器師はどっち?

真面目な聖書の話を書きます。昨日のものみの塔集会の記事。「神は陶器師」のたとえ。

神は自らを陶器師とし、形作られる人間をその手にある粘土である、言われました。

「陶器師が粘土で作っていた器は彼の手によって損なわれた。それで陶器師は戻って,自分の目に作るのが正しいと見える通りにそれを別の器に作っていった。そして,エホバの言葉が引き続きわたしにあって言った、『イスラエルの家よ,わたしはこの陶器師のようにあなた方に行なうことはできないだろうか』と,エホバはお告げになる」

陶芸家(陶器師)は自分が作った器が気に入らなければ割ります。そして作り直します。

当時神の選民であったイスラエル国民も当然、神の目に正しい状態でなくなれば、いつでも「割られ」てしまう存在にすぎませんでした。

しかし神は続いてこうも語っています。

「わたしがある国民,ある王国に向かって,根こぎにし,引き倒し,滅ぼすと語ったのに,その国民がわたしの責めたその悪から実際に立ち返るときにはいつでも,わたしもこれに下そうと考えていた災いを悔やむ」

つまり、人間の側が態度を変化させるなら、「割る」ことはしない、ということです。

ここまでは聖書に書いてある通りだと思います。問題はその後の“解釈”です。

「エホバはご自分の主権を行使する際、その贈物(自由意思)を無視されません・・とか、

「エホバは人間の反応に応じて扱い方を調整することにより、陶器師のような権威を行使されます・・など、

別に間違っていないのかもしれませんが、その書き方です。

ちなみに、「自由意思」という言葉は聖書にはでてきません。まして「神は人間の自由意思を無視されない」とも書かれていません。これは前々から思っていることなのですが、エホ証の大きな間違いの一つは、聖書の記述を過大解釈するあまり、「神は○○な方なので、こうされる(はずだ)、とかこうされない(はずだ)」など、形作られる人間の側が神のイメージを「形作って」しまい、神がその「自分たちが形作ったイメージ通りに行動する」はずだ、と恐れ多くも人間の方が神の行動を方向づけるかのような書き方をすることです。

人間が態度を変化させるとき、神がそれに応じてご自分の明言した意図をさえ変化させるのは、ただ過分の憐みにすぎません。それを「神は人間の自由意思を無視されないので、人間の反応に応じて扱い方を調整します」というのとでは、意味合いが大きく異なると思うのです。神に対してさえ上から目線かよ、と感じずにはいられません。

聖書は「神は愛」とか「神は善良」など、はっきり書いている部分はあります。しかし人間の側が、神は○○な方なので、こうします、とかこうしません、などその行動まで普遍化して言い切ってしまう事には問題があると思います。間違っているいないに関係なく、ただの人間側の解釈です。

意識せずともこういう教育が、エホ証が神の見方や行動を、組織が形作ったイメージに沿って思い込み、さらには他者に対する神の見方さえ一方的に決めつけてしまう、という勘違いのもとになっているような気がします。ただの勘違いで済めばいいのですが。次回に続きます。
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