2段階制度

エホ証のよく分からないシステムに「バプテスマ(=洗礼)を受けていない伝道者」があります。

洗礼を受ける前にこの伝道者になる必要があります。そして数ヶ月間、戸別訪問による布教に参加して、ようやく「洗礼」が認められます。

もちろん、こんな2段階システムは聖書に書いてありません。

使徒2章のペンテコステの祭り、8章のエチオピア人宦官、10章のイタリア隊士官、などの記録ではすべてイエスをメシアと認めた時点で、洗礼を受けています。

彼らがすでに神を信じ、旧約聖書の知識を持っていたにしても、洗礼前に「業」でその信仰を裏付けることが要求されなかったのは確かです。聖書は「業のない信仰は死んでいる」と書いています。当然、彼らはイエスを心から受け入れたのですから、その後の生き方で信仰を実践していったことでしょう。でもそれは他の人間が要求し、評価し、裁くものではありません。

エホ証の信者数とはこの伝道者数のことです。そして伝道者数とは「その月最低でも1時間の布教時間を報告した人の数」(意識不明以外の重病者と“認定”されれば15分)のことです。洗礼を受けても、この報告を所定の用紙で提出しないとその月の信者数にカウントされません。

やり方としては、排斥された人間を復帰させるために最低でも数ヶ月間、集団無視の中で集会に来ているかを眺めてチェックするように、洗礼前にやはり数ヶ月間、戸別訪問という苦行をする気があるかどうかをチェックするものです。基本、見える業でしか人を評価、信頼しません。またマルチマーケィングと同じで、客(信者)になる時点で売る側の責任を負わせる目的もあると思います。

他方、聖書にはクリスチャン会衆が発足後に数千人が洗礼を受けた、という記録は幾つかあるものの、その後の総信者数の推移など記録されていません。

むしろ、人数を数えることの罪としてダビデの人口登録の事例があります。神が直接人口の登録を命じたことは幾度かありましたが、ダビデが独自にそれを行おうとしたとき、「神の怒りが燃えた」と書かれています。

その理由をエホ証はこう推測します。

『ダビデについて言えば、自分の軍隊の人数を誇ったり信頼したりする気持ちに起因した悪い動機を抱いていたのかもしれません。そのため、エホバに対する全幅の信頼を表明しませんでした。いずれにしても、この時のダビデのおもな関心は明らかに、神の栄光をたたえることではありませんでした』

確かに、神の栄光とは数字によって評価されるものでも、左右されるものでもありません。

そうであれば、エホ証がここまで正確な信者数や布教時間数などの数字にこだわるのはなぜでしょうか。「自分たちの人数を誇ったり信頼したりする気持ちに起因した悪い動機」でなければよいのですが。
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奇妙な指示

すでにあちこちのJW関係のサイトでは叩かれまくっていますが、公式にアップされているものみの塔11月15日号・・

「エホバの組織から与えられる指示は、奇妙で異例なものに思えるかもしれない。しかし、わたしたちは皆、同意できるかどうかにかかわらず、どんな指示にもすぐに従うべきである」

・・もうただの軍隊すら通り越していよいよファシズムじみてきました。

「さまざまの奇妙な教えによって運び去られてはなりません」

↑こっちは聖書の言葉です。統治体はこれを「背教者」の主張にあてはめますが、自分たちの指示は「奇妙」でも従え、ということらしいです。この号では「サタン的な宣伝工作」「中傷的な宣伝工作」などの表現も出てきますが、自分たちへの批判をこういう差別的表現で拒絶することしかできない、敗戦ムードが漂う末期に士気を強引に高揚させようとする独裁政権の様を呈してきました。

「同帝国(=大いなるバビロン)がすでに支えを失っていることは、マスメディアで宗教とその指導者に対する攻撃が強まっていることに表れています。それでも大いなるバビロンの支配者たちは、自分たちに危険はない、と感じています。何という勘違いでしょう」

エホ証は啓示の書に出てくる、神に裁かれる「大いなるバビロン」を、自分たちだけを除く他のすべての「りの宗教全部というハッピーな解釈をしています。

最近メディアやネットで叩かれている宗教とその指導者にエホ証とその統治体は間違いなく含まれるのでは?と思うのは自分だけでしょうか。他宗教がメディアで批判されると預言の成就で、自分たちはメディアで批判されても「サタン的な宣伝工作」なので、神の御加護があるという・・何という勘違いでしょう(笑)。もうあなたたちもかなりの支えを失っていると思いますが。

「1914年から2世代」を打ち出したものの、来年ついに1914年から100年を超えてしまう節目の年に、信者離れを食い止めようと必死なのでしょうか。

えほばの懲らしめ

明日の記事から『JWの二大“えほば”の懲らしめ』

① 特権はく奪

『挫折感に打ちのめされました。それまで30年間、多くの特権をいただきてきました。正規開拓者でしたし、ベテル奉仕をしたこともあります。奉仕の僕になり、長老にもなりました。初めて地域大会で話をしたばかりでした。そうした特権が突然、なくなってしまったのです。恥ずかしく、惨めでした。会衆にはもう自分の居場所がないと思いました』

これでもかとばかりに“特権”のオンパレードです。しかもその内3つは組織が独自に作り上げたものです。それを失ったことが「恥ずかしい」のであって、神に対して罪を犯した、という後悔の気持は語られていません。

組織が与えてくれる特権⇒その特権が与えてくれる評判と名誉、がエホ証人生のすべてであることをここまで露骨にコメントされると、むしろ清々しさを感じます。

② 集団無視

『家族が少しでもわたしと交流を持ったり、わたしの様子について尋ねたりしたら、わずかな交わりで満足し、神のもとに戻りたいという動機付けは生まれなかったと思います』

排斥されたら、家族でも少しも関わりを持つどころか、「様子を尋ねる」ことさえしてはいけません。でも一般向けの公式ページには「排斥されても家族の絆は変わりません♪」「家族の愛情やかかわりは続きます♪」と書いてありますが、これは決して二枚舌ではなく、エホ証的「神権戦略」なのです。神の組織を「守る」という至上の目的の前にはすべてが正当化されるのですよ。たかがこの程度をウソじゃないかと良心が痛む人は「霊性」が低い証拠です。ベテルの人たちはどんな不祥事も良心の痛みなど微塵も感じず極秘に処理しています。あなたも組織を讃える記事を中心にもっと個人研究しましょう。

・・にしても薄っぺらい理由ですね。心配する家族から「元気にしてるの?」と尋ねられると神のもとに戻る気が失せるそうです。どういう神を信じているのでしょうか。


この2つの例だけでも、彼らが作り上げた“えほば”という虚像というか偶像が実際には何なのかは・・説明などいりませんね。

ちなみに、家族が彼をガン無視するのは「聖書の命令」だそうです。

『ロバートの両親と実の兄弟たちは神の言葉にある命令を忠節な態度で守り通しました。悪行者との交友をやめ、その者にあいさつをしてもならない、という命令です』

でも聖書は本当にそんな命令をしているのでしょうか。

『この教えを携えないであなた方のところにやって来る人がいれば,決して家に迎え入れてはなりませんし,あいさつのことばをかけてもなりません』

「この教えを携えないで来る人」とはだれでしょうか。少し前の文脈では「キリストの教え、つまりキリストが肉体で来られたことを告白しない者=反キリスト」であると書かれています。

また、「除き去るように」との命令も「自分の父の妻を有するような淫行」レベルの「邪悪な者」に対して与えられたものです。

それで、弱さゆえに過ちを犯した人を、ただ反省不十分という理由で、もうあいさつさえするな、たとえ家族でも様子を尋ねる連絡さえするな、など聖書は命令していません。

「特権はく奪」と「集団(家族含む)無視」の脅しによる精神支配。そこに神はいない。

追記:ちなみにアメリカなど、エホ証2世どころか3世4世もザラにいてカトリックみたいに親類縁者ほぼエホ証なんて家系も珍しくない国では、家族親族からの縁切りは効果的です。

でも日本では妻だけが信者、何人かいる子供も、1、2人だけ信者、という家族がほとんどです。そこでアメリカと同じやり方を強要されても、非信者⇔信者⇔排斥信者の3つどもえになり、特に冠婚葬祭時には全く関係のない親戚をも巻き込みもう修羅場と化すこともあります。排斥された信者は「神のもとに戻りたい」と思うどころか、非信者の都合や感情などお構いなく自分たちの基準を一方的に押し付ける組織に完全に見切りをつける人もいます。

批判することについて

批判することからは何も積極的なものは生まれない、という批判(笑)も聞きます。

でも、それはどういう批判をするかにもよる、と自分は思います。

学生時代かじった程度で哲学を専門に学んだ訳ではありませんが、止揚=アウフヘーベンという考え方があります。何でもうのみにするんじゃなくて、いったん止める(否定する)、でも下げるんじゃなくて揚げる。

「古いものが否定されて新しいものが現れる際、古いものが全面的に捨て去られるのでなく、古いものが持っている内容のうち積極的な要素が新しく高い段階として保持される」

否定するにしても全否定するんじゃなくて、いい所は保持する。そういう建設的な批判をするべきなんじゃないでしょうか。宗教に限らず、人間の思想・芸術・制度はそうやって「新しいもの」を生み出してきた面もあると思います。

ラッセルは様々なキリスト者の考えに自由に耳を傾けることで、聖書を調べる喜びや新鮮な理解を再発見した、とエホ証DVDで紹介されていた。その部分だけ面白かったです。やがてラッセルは伝統的キリスト教の価値観を大胆に否定することで人々の支持を集めます。

しかし2代目ラザフォードは“専制”だと批判する理事たちを一方的に排除し、「自分たちだけが神の組織」と他宗派との強引な差別化を推進し、内部の批判も弾圧するようになった。

「自分を孤立させる者は利己的な願望を追い求め・・実際的な知恵に逆らって突き進む」

エホ証は外部からも内部からも批判を一切拒絶し、自らを孤立させることで、知恵(聖書の理解)において何の進歩もなくなります。ひたすら組織拡大により自らの正当性をアピールすることだけに「突き進んで」きました。進歩してきたのは、外部からの批判を一切拒絶し、内部からも批判させないようにする教育、批判者は即刻排除できる制度・理論作りであって、その統制の結果、数は多少増えてきたのでそれを「神の祝福」と勘違いしています。

自分も十分に建設的な批判ができているとは思いません。でも無責任な批判もしたくないので、このブログでは聖書への信仰や宗教心そのものは否定しない、というスタンスで書いています。エホ証の聖書解釈も全部を否定しませんが、組織を高め賛美するために聖書を利用するような解釈は、その矛盾を指摘します。

この組織を改革しようとかは考えていませんが、留まるにしろ離れるにしろ、組織の指示をただうのみにして実行し、他者にも強要するロボチックな存在になってほしくないというだけです。そういう人は自分の心身が削られ苦しむか、組織の名において他人を傷つけ苦しめるか、どちらかに(両方にも)なる、という現実をイヤというほど見てきました。

このブログの内容もエホ証の解釈や組織の批評がメインですが、肯定的なことだけは全部公式に書いてあるので批判中心になってしまうのは否めません。でも当然全部をうのみにする(そんな人いないと思いますが)のではなく、客観的に評価してほしいと思っています。

地域大会レビュー④

聖書劇:ペルシャの王妃エステルの話。ユダヤ人に恨みを持つ廷臣ハマンの陰謀でユダヤ人滅亡の危機。ユダヤ人廷臣モルデカイの業績が王の知るところとなり、そのタイミングでエステルが王にハマンの陰謀をリーク。怒った王はハマンを処刑し、ユダヤ人には敵に復讐することが許される。

何があってもエホ証には神の御加護があるよ、というメッセージ。

こういう、ユダヤ選民思想が色濃い旧約聖書の話は、統治体がもう大好き♪で、現代においては自分たちの事だ、とおめでたく主張します。

でも選民の時代はイエスがとっくに終わらせたのでは??イエスは「汝の敵を愛せよ」という新しいおきてをクリスチャンに教えたのではないでしょうか。

エステルは「ハマンだけでなく、ハマンの子供10人も全部殺っちゃって☆」と言ってましたが、クリスチャンは一体いつ、どこで、だれに、そんなバイオレントなセリフを言うのでしょうか。旧約聖書ばかりを読んで、自分の子供を殺すのはサタン、敵の子供を殺すのは神の民の正当な権利か。

こういう旧約聖書の話をいまだに組織とかグループに適用して、選民としての優越感と、敵への偏見を助長するような利用の仕方は時代錯誤で、聖書全体の主旨ともズレていると感じます。いい加減、この旧約聖書偏重の教育が生み出す選民思想から抜け出してほしいですね。

組織単位で裁かれる、救われる、という時代はもうとっくの昔に終わったと自分は思います。自分はエホ証と関わったので彼らメインの批評をしていますが、宗教組織の存在そのものは否定しませんが、組織を通して神を崇拝する、という偶像崇拝的な過ちを聖書から指摘するのがこのブログの主旨です。ユダヤ人でもサマリア人でも、ゲリジム山でもエルサレムでもない、だからどこで、どの組織で、とかではなく、イエスだけが道なのかと。

地域大会レビュー③

まだ来週まで大会あるみたいなのでそれからにしようかと思ったのですが、もう統治体の話の時に見てきちゃったので書きます。

現代劇:巡回監督へ出世しようというタイミングで嫁が妊娠して出世がフイに。その子は12歳で、祖父と一緒に事故死。夫は仕事に身が入らずストレス。それも原因かガンになる。隣の人、上司、不良エホ証からも“非聖書的”アドバイスを受け落ち込むが、ヨブ記を読んでなんか元気になる。

エホ証人生、悲惨なことがあっても組織から離れるなよ、というメッセージ。

産児制限の記事で書いたように、エホ証組織は「巡回監督」「ベテル奉仕者」「BSCC」などの子供がいるとなれない、入れない非聖書的「階級」「学校」を作って子供を産まないよう仕向けます。この劇にそこまでの意図はないかもしれませんが、「妊娠からすべてが狂った」かのような自分の一番キライな展開にもう最初からダメでした。わざわざ巡回監督出世間近、という設定にする意図は何なのか。

嫁が妊娠をカミングアウトする時、「巡回監督ができなくなったとしたら・・どうする?」と不安たっぷりな様子・・命を授かったことをもっと普通に喜べないのでしょうか?子供がいるとなれない階級・制度を作ってそれを人生の目標にさせる教育のせいですか。子供ができていろんな不安を感じるなら分かりますが、命そのものを授かっておいて人が作ったポジションごときと比較するのは完全にバチあたりです。

「あの子を守ってくださいって神に祈ったのに!!」というセリフを聞いて、都合いい時だけ神を責めてんじゃねーよ、自業自得なんじゃねーの、ひと言めに巡回監督できなくなるとか言ったのはどの口だ?、人は現実に死ぬ、でもヨブの子供を殺したのはサタン、その子が死んだのはただの事故、ならストーリー上とはいえ信者に見せる目的でわざわざ子供殺す悲惨な展開にしてんのはだれだ?、死んだ子供は話のフリか、ダシか?・・・こんな自分はエリパズなのか。

子供が絡むと自分もつい感情的になります。子供が生まれれば目標の調整だの、子供が死ねばサタンに子供を殺されたヨブの話を読み、勝手に自己完結して「自分たちは悪くない」だの、自分の信仰都合でしかモノを考えないエホ証親はどうでもいいのですが、死んだ子供が不憫すぎる。

人が死ぬドラマや映画はいくらでもありますが、クリスチャンの集まりで子供が死ぬストーリーをわざわざフィクションで見せつけられるのはどうなのか。そこまでやるなら、いっそのこと即死でなく、親が輸血を拒否して裁判所命令だのなんだの間にその子が「生きたい」と泣きながら出血多量で死ぬ様を眺め、そのことが日本中のニュースになり総叩きにあう、くらいのストーリーにしたらいかがですか。それでもサタンが子供を殺したヨブ記を読んで「自分たちは悪くない」と言えるのか。言えるんでしょう。この宗教は。

追記:世の人を現実以上に悪く描いていないところはよかったです。1人目の小島さんは、自分なりのクリスチャンの信仰でエホ証の間違いを気づかせてあげたい、との気持ちがハッスルしてました。いいことなら真の宗教だから神の祝福、悪いことでも真の宗教だからサタンの試練、などいつまでも自分都合でしか稚拙にモノを考えないエホ証親にはこれくらい言ってあげましょう。

2人目の上司は普通にいい人でした。3人目のエホ証は最悪。いますね~こういう人。悪人ではないが、エホ証にありがちな悪意のない無神経さというか、人を気づかうつもりではなはだ迷惑な人。こういう人に限ってお見舞いとかよく来たがる(笑)。

信者アンケート

こないだの日曜日のものみの塔記事で「信者アンケート」みたいなことが書かれていました。

「あなたが長老たちに最も期待する特質は何ですか」

一番多い回答が「近づきやすさ」だそうです。

無作為ではなく「熱心な(=組織に忠実)」信者から選ばれているとのことですが、末端の信者から直接、声を汲み上げようとする姿勢自体はいいことだと思います。ただ、その評価の対象がローカル会衆のヒラ長老止まり、というのが残念なところです。

手紙でしか指示をしてこない「組織」、その組織の指示通りにしてるか半年に1回だけ来て「指導」して組織に報告する使いパシリの「巡回監督」・・末端の信者は彼らが裏で何をやって、どんな「指令」を下しているのか全く知らされませんし、「内密の手紙」はその目に触れることさえありません。

「組織」はこういう使い分けをします。公明正大にオープンにできる指示は、長老たちがその通りにしているか信者の目にチェックさせるため一般の印刷物に書きます。一方、「組織」が指示している、と知られたくないものは「内密の手紙」で送って、巡回監督にチェックさせます。先日の寄付徴収のように、決議を取らせる以上会衆には1回だけ口頭で読ませるが、あまり詳しく知られたくないものは掲示させない、という苦肉の「指示」もあります。

またそれましたが、結局、汚れ役や信者からの憎まれ役になるのは長老たちです。さらにその長老たちを不満のスケープゴートにするかのようなアンケートをしれっと実施するワケです。

「特権」のために上に媚びる「近づきたくない」長老には全く同情しませんが、信者のために、と思いつつも膨大な量に及ぶ組織の“マニュアル”や方針が足枷になっている人もいると思います。

ぜひ、「組織」や「巡回監督」を対象としたアンケートまで踏み込んでほしいものです。

「あなたは今の『組織』に何を期待しますか」

・奉仕報告制度をさっさとやめてほしい
・電話をかけたときくらい名乗ってほしい(笑)

「あなたが巡回監督に最も期待するのは何ですか」

・一般的な社会常識(笑)
・数字で会衆や個人を評価しない姿勢

とか、「組織」はまずこんなアンケートしないでしょうから、ネットでやったら結構盛り上がるんじゃないかと思ってしまいました。

地域大会レビュー②

統治体”迷言集”

録音した訳ではないので、言葉遣いはすべて正確ではありません。

① 物質主義否定

ビートルズも「Can’t buy me love」(愛は買えない)と歌っている。でも、お金で買えないものは他にもある、命だ』


→統治体がイエスでなくビートルズを引用ですか。

② 終末を待ち続けよ

『人間は待つことがキライだ。レストランでも、チケットを買う時でも、マイベイビーが生まれるまで待てない☆・・という人もいる・・だから、「you just don’t give up」(とにかく諦めるな)

→日本は欧米に比べてですが、並んだり待ったりをそれほど苦にしないお国柄のようの気もします。それはそれとして終末をなかなか来ないレストランの注文に例えられても・・

③ 神は偽らない

『ひどい頭痛がしても、集会に行って「How are you?」と聞かれたら「gooood」と言うだろう?それはウソだ。人間はウソをつける。でも、神はウソをつけない

→日本語の「元気?」「お元気ですか?」はメール、手紙、久しぶりに会ったときによく使いますが、英語の「How are you?」とは微妙に使い方が違うような気もします。何人かのアメリカ人と付き合うと、何事においても「OK~」「fine」とかすぐ言うくせにそうじゃないことが多々ありました。この調子いい嘘つきアメリカ野郎、とか初めは思いましたが、それも文化だと気づきました。日本人は「だる~」「今日マジしんどいわ」とか普通に言う人もいると思います。

④ 集会で寝ないように

『ベイビーも眠いのに寝たくない時は、いろいろするだろう?体をあちこち動かしたり、motherをパンチしたり。だから、お前たちも頑張れ

→ここは「パンチングマザー」の訳し方が真面目でスベってました。そのまま「お母さんにパンチ!」と訳せば多少はウケたと思います。会場がウケてないので、「Can you imagine that?」(分かるか?)と念を押しても反応が鈍いので、「Hope you can・・」とションボリ(笑)してました。どこか憎めないおじいちゃんです。

オリジナリティーで話す時の大体がこんな感じで、薄いんです。

統治体が陽気でハッピーであることは構いませんが、休暇と生活と仕事と体力を削って集まった信者相手に、アメリカ人あるある漫談をされてもどうかと思います。あまり深く難しく考えずハッピーにJWしようゼ♪みたいなノリは日本人には必要なのかもしれませんが・・それでいいのか統治体。あなたたちの気まぐれな禁止事項で命を犠牲にした人もいる。組織の要求と規則と懲罰に悲痛な叫びをネットであげるしか手段のない信者の声はあなたたちに届くことはないのでしょう。

以前に、もはや統治体はお飾りで、実権を握っているのは法人を運営している「油そそがれていない信者」の方だ、というコメントもありました。最近日本に来たじゃくそ○、もり○、さみゅえ○、などの薄味ハッピーな精神論を聞く限り、統治体の世代交代以降、陽気なおじいちゃんたちを象徴に祀り上げる一方で、世界本部と主要法人を陰で実質的に運営する、お供的存在の白人信者が組織を統制している、なんて可能性もあるかも、と思えてきました。

地域大会レビュー①

「統治体」がまた日本に来る、というので先週末、話を聞きにいってきました。

春に来たばかりなのに、また別のメンバーが普通の地域大会のプログラムのためだけに、通訳で話を削ってでもねじ込みに来る・・数は目立って減少してはいないものの、「統治体支配」から目ざめる現役信者続出の日本エホ証社会で存在感をアピールしようとの狙いでしょうか。

それとも、支部側が統治体の話を中継することで、地方の大会に派遣するベテル信者の旅費を削り、浮かせたお金で統治体を“サプライズ”招致したのか。

ここ何年か、統治体が日本に来るときはお供がいます。統治体よりもひと世代若い、世界本部付きの白人信者です。前からお供はいたのかもしれませんが、統治体が世代交代したあたりから、お供もよく話をするようになりました。

今回もでしたが、お供の話は、知的でスマートな印象を受けます。でもアメリカ白人至上主義ならぬエホ証組織至上主義のプロパガンダが統治体より色濃く滲み出ている印象も受けます。

それと比較するからなんでしょうが最近、統治体の人の話が、とにかく薄いんです。

毎日の最後に話すので、日本の忠実な信者ですら爆睡している人がいますが、あえて思考を停止させて睡眠学習的に音を脳に直接届かせる狙いなのか(笑)。

しかも通訳を想定していないプログラムに無理やりねじ込んでいるからか、「聖書を開くのもあきらめた」「通訳が速すぎて全くついていけない」という人がかなりいました。

オリジナリティーを出している所ではそれなりにウケてましたが、何と言っても、浅い。

次回はその「迷言集」をまとめてみます。

伝えるべきメッセージ②

あくまで、聖書の予言という前提で話を進めます。

① メシアが本当に再臨することで、世界的無政府状態と、世界そのものを二分するほどの地球的論争が起きる。

② それを経験した「世代」の期間内に(重なる2世代とか100年とかそんなレベルはマジありえない)ハルマゲドン到来。その短い期間内にメシアを認めて悔い改める人のほとんどは“大患難”を通過し、復活するキリスト以前の義者や他の不義者とこの地上で共になる(かも)。

キリスト再臨の開始時点で『天の王国』に入るよう選ばれた者たちは(それ以降の“募集”などない)、再臨中のいずれかのタイミングで天に取り去られ、使徒たち以降の「キリストと結ばれて死んでいる者たち」と天で共になり、キリストと地上を裁き、導く。

大まかな流れではエホ証の主張と大差ないように思えますが、重要なのはそのタイミングです。

キリストの再臨とは人によって宣伝されることで知られるものではなく、本物のイエスが二度目に来る時も、1世紀同様、しかし今度はユダヤ人社会だけでなく、世界的論争が稲妻のようにおのずと、突如に生じるのではないかと思います。

それで予言について語ること自体は間違っていませんが、先走った宣伝をし、「○○年から1世代とか2世代」など、ハルマゲドンのタイムリミットまで勝手に設定して何度も外してはいけません。キリストの再臨のタイミングを間違えて1914年世代のクリスチャンみんな死んじゃったのに、「キリストの1914年再臨は意地でも撤回しませんが、天の王国募集だけは微妙に(笑)再開しました」とか、矛盾を矛盾で繕う解釈を重ねてもいけません。

それで、今伝えるべき主なメッセージとは何度も外した終末論に固執し、人数ほしさに報い=幸福をやたらと強調するよりも、今でもイエスの指示通り、「天の王国は近づいた」=「天の王国に入る選ばれた者たち」を集めることです。イエスを「迎える人すべて」はその体を表すパンを食べ、その血を飲み、神の子供、そしてイエスの兄弟となるべきです。本当の意味で、すべての人に上下関係などなく、兄弟になります。

その機会は「キリストが到来する時まで続く」とあるので、キリストの再臨が「盗人」「稲妻」のように突如として開始した時点で、まずクリスチャンと称する人々(過去に死んだクリスチャンも含め)すべてが『天の王国』にふさわしいかどうかが裁かれると理解しています。「忠実な奴隷」「タラント」「十人の処女」などのたとえでイエスが伝えた「油断なく見張っていなさい」というメッセージは、キリストの再臨を待つべき、クリスチャンと主張するすべての人にあてられたもので、その他の人にはちゃんと大患難を通過する機会が再臨後の短い期間中に与えられるはず(と願いたい)。

統治体が「1914年から1世代」を放棄し、天の王国募集再開を限定的であれ認めた時、やがて1914年そのものや、14万4千人も撤回するのでは、という憶測もありました。でも世代交代した統治体は「1914年から2世代」「マタイ24章の『忠実な奴隷』は自分たちのみにあてられたメッセージ」という解釈を次々に打ち出し、天の王国に入る機会を広げるよりも、逆に信者を支配する権力を狭め、強化する路線に転換しました。

「天の王国は近づいた」というイエスが命じたシンプルなメッセージに回帰するどころか、「天の王国は残念ながらやっぱりお前たちからは遠ざかりました♪」という難解な解釈を、善良なエホ証はなんとか理解しようとがんばっています(笑)。

聖書解釈論シリーズはいったん終了します。個人の感想なのでエホ証の解釈同様ツッコミどころはいくらでもあると思いますが、彼らのように「この解釈に少しでも同意しない人間は“反キリスト”なので一切の接触を拒否します」とは、口が裂けても言えません。
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