神は70億人を虐殺するか①

エホ証の答えは「Yes」である。

前の記事でもコメントいただきましたが、たとえ組織の間違いに気づいた後でさえその心身を酷く苛み続けるのは、愛の神がエホ証という一宗教団体以外の70億人を大虐殺するという、“ハルマゲドン”の恐怖です。

エホ証は自分たちの宣伝通りに終末が来なかったおかげで、さらに多くの人が「救われている」と信者を鼓舞する。確かに、エホ証の実情や被害がそれほど具現化していない新興国での増加のおかげで全体ではなんとか微増はしていますが、世界人口も増えています。エホ証は世界で毎年二十数万人洗礼を受けているようですが、何回か書いたようにその「ミチビキ方」は数字稼ぎの無責任なものが多く、また組織に不利な情報は絶対に事前に知らせないやり方で、後になって脱会する人数知れず。なにより世界人口は毎年1億3000万人増えているという統計すらある「終末が遅れるほど、エホ証の数は多少増えるかもしれませんが、神が殺さなければならない人間の数は1年ごとにエホ証純増数の1000倍くらい増える。

エホ証のみなさんには、一度冷静に考えてほしいと思います。日常の中で、スーパーで、公園で、駅前で、同じ職場で、周りにいる人たちのことを。その大部分は、いろんな苦労をしながらも、普通の人生にささやかな喜びを見いだし、また見いだそうとしている人たちです。

その人たちすべてが、「自分たちの布教を断った」という理由で神に虐殺されるのかと。
スポンサーサイト

サタンの手先②

寄付徴収の発表のおかげで中断しましたが、その前の記事の続きです。

そもそも普通の人生にささやかな幸せを感じることができる人はエホ証にあまりいません。エホ証の典型的な勧誘方法は、「家族でも問題が生じているのはどうしてだと思いますか」とか「世の中にはどうしてこんなに問題が多いのでしょうか」など、とにかく現状に対する不満を煽るものだからです。

一方、ほとんどの人は自分の家族は完ぺきではないが、それなりに幸せである、世の中にも問題は多いが、自分はそれなりに充実した人生を送っていると感じています。

しかし、エホ証はとにかく現状への不満や疑問を募らせてからの、自分たちが描く「理想の家族」「理想の組織」「理想の楽園」を宣伝します。

そんな謳い文句につられるのは、自分を犠牲にするより「何かを求めて」エホ証になるタイプの人が多い。しかし入信しても、自分の家族は「理想の家族」になるどころか、非社会的な戒律と義務要求で家族崩壊の危機、でも自分が絶対に正しいのでエホ証にならない夫や子どもを「サタンの手先」呼ばわり、家族が反対を諦めてもその先は同居離婚状態、さらに唯一の救いであるはずの会衆も「理想の組織」からは程遠く、「理想の楽園」も何度も先延ばしにされる現実にやがて気づきます。会衆に居座り続けるオバチャンたちからは、自分の境遇に対する愚痴と、会衆と他人への批判とねたみの言葉ばかり、そんな人間が集まる針のむしろのような場所に行ってもさわやかになるどころか、気が滅入るだけの若者は離れていく。これが、日本という増加が頭打ちになった国でエホ証が行き着く末期的状況です。

エホ証信者向けの記事に「不満を持つな」「批判するな」という内容が多い理由は、もともとそういうやり方で人を集めているからです。「今受けている祝福に注意を向けよ」とか言いますが、あなたたちの勧誘と教育は、神が義なる者にも不義な者にも、分け隔てなく与えてくださった「今あるささやかな幸せ」に満足するどころか、それを否定するようなやり方ですよ。まず無理です。

エホ証という一宗教団体に所属しなければ味わえない祝福なんて所詮、言葉巧みに作られた人工的な幻想によって生じる自己満足という錯覚でしかありません。聖書の神はそんな人を偏り見るちっこい方ではありません。絵に描いた餅のように、現実とは程遠い「理想の家族・組織・楽園」などの写真や絵を見せて回る布教など、本来のクリスチャンの布教ではありません。

「だれがまず神に与えて、その者に報いがされなければならないようにしただろうか」

聖書は結果として、神は忠節な者に報いてくださる、と書いています・・が、↑の聖句にあるようにまだ信者にもなっていない人「まず、報い(=祝福)」ありきの、神に先んじるような布教をしてはならないと思います。使徒17章のギリシャ人へのパウロの証言はそれを教えてくれます。「柔軟性のある紹介の言葉」なんて小手先のテクニックばかりで取り上げられますが、本当に大事なのは証言の中身です。

パウロがユダヤ人の背景を持たない人への布教の際にも、改宗することの利得など微塵も語らなかったのはなぜでしょうか。パウロ自身がそういう仕方でイエスに召されたのではないからです。

「彼がわたしの名のためにいかに多くの苦しみを受けねばならないかを、わたしは彼にはっきり示すのです」

もはや会費制②

しつこいですが、今回の寄付集めについてもう少し書きます。

今回のTOAAとKHAA合わせて信者一人あたま600円・・たかが600円でそんなに目くじら立てるなよ、と思う人もいるかもしれませんが、日本の平均的な信者数75名の会衆では4万5千円の送金になります。これはささいな額ではないと思います。

王国会館の維持にはそれなりに金がかかります。光熱費、修繕・改修用の積立費、土地を借りていれば賃借料など・・その他もろもろ合わせれば地方でも毎月20万円↑、都市部ならさらにその何倍もかかっている会館もあります。高齢化と若者離れで会館の維持ができずに、会衆を合併させ、さらに土曜日も集会に使って3つ↑の会衆でシェアしてやっと、という所もあります。

そこに4万5千円の年貢が要求される訳です。負担感を減らすためか、『一括送金してもいいけど、分割がお勧めです♪』みたいなことが手紙に書いてあったようですが、寄付の分割払いって何ですかwww

「世界的な業」という何にでも使える名目のための寄付箱があり、これまでは一応そこに自発的に集まった寄付から費用が賄われてきた・・はず。最近になって、オープンにしても問題ない使途を小出しで別枠にし、会衆に金額を提示してその分は確実に送金させようなんて、どれだけ組織の財務はひっ迫しているというのでしょうか。その内、BSAA=ベテル奉仕援助の取り決め、とかTSAA=神権的な学校援助の取り決め、とか徐々に増やしてきそうです。

別に寄付を募ったり集めたりすること自体は何も悪くありませんが、金額の多寡に関係なくこういうやり方で「寄付を募る」ことを続けたり増やしたりするなら、エホ証の寄付はすべて自発的と謳うことはやめましょう。エホ証公式ページは非信者向けに言葉弄りで覆い隠されたウソだらけです。

昔あるエホ証が、駅前で「恵まれない子供たちに~」と寄付を募っていた団体に寄付したいという自分の子どもに、「何に使われているのか、恵まれない人にどれくらい届くのか分からないからやめなさい(怒)」と叱ったという話を聞いたことがあります。世の組織は信頼するなという教育です。

自分も集会はまだ適当に行ってるので、支払いを全部オープンにしている地元法人にはまだ寄付していますが、「世界的な業」にはこのブログを始めてからほとんどしてません。「何に使われているか分からない」ので。そもそもアメリカ本部から各支部に億単位の年貢が要求されていて、児童虐待の裁判費用や賠償金の補てんとかに使われたらイヤですし。今や信頼できないのはこの組織です。

もはや会費制

なんかもう恒例になってきたので最初は?と感じていた信者ももう飼い慣らされているかもしれませんが、また寄付の徴収の発表がありました。両方で約1億3000万円の徴収ナリ。

① 王国会館の「保険代」・・信者一人あたま250円

保険なんて各会衆の責任で入ればいいと思いますが、「この世の保険会社」に儲けさせるよりも、自分たちで徴収しようという腹積もりでしょうか。使わなかったらまる儲けですからね。せめて250円の算出理由、去年1年間の徴収した金額からの支払い実績をオープンにしてください。マジで。

② 巡回監督の車代・・信者一人あたま350円

・・これってこれから毎年徴収するんですか??巡回監督なんてずーっといたのに去年から年間約7500万円もの寄付を別枠で徴収するようになった理由を教えてください。

集会と布教の参加率低下に歯止めがかからない中、公表しないものの寄付額も相当目減りしていることが当然のごとく推測されます。今後予想されるものとしては「BSCC基金」「ベテル基金」など、どんどん増えていって事実上、年間一人あたまいくらの会費制になっていくのでしょうか。

しかもこの手紙、掲示板にさえ貼られていません。大抵の手紙は読まれた後、掲示板に貼られてよく読めコラとか言われるはずが、どうやらこの手紙、「貼るな」と組織から指示されている模様。手軽に写メできる時代ですからね。金だけ取って証拠は隠滅ですか。

会衆ごとに金額は決めるが、各信者は「心の決めたとおり」寄付すればよい、これ聖書的ナリ、とか言ってましたが、いったん会衆から所定の金額を組織へ強制送金させれば、後は実際の寄付が少なくて苦しくなるのは各会衆の地元基金ですからね。組織には確実にお金が入る訳ですか。

サタンの手先

以前にオバチャンエホ証の1人からこんな話を聞いた。

その人は夫が「非信者」、子どもたちはすべて「真理」から離れ、自分一人でエホ証をやっている。(一応、特定の個人のことではなく、事実を参考に日本のどこの会衆にもいる典型的なエホ証信者を描いたものです)

子どもたちはエホ証の集会に出ていたが、大人になるにつれてこの組織に疑問を持ち、やがて関わりをやめる。その内の1人は普通に就職し、結婚し、子どもも3人いるという。

普通に聞けば、勤労し税金を納めるという社会的責任を果たし、さらに結婚して子どもにも恵まれる、というまっとうな人生を送っているように思えます。

しかし母親であるこのエホ証からすれば、この息子は幾つかの大きな罪を犯している。

・「真理」の内に育てられながら、離れた⇒ハルマゲドンで殺される
・「世の女性」と結婚した
・「物質主義的」な生き方をしている

この信者は「自分の家族は夫も子供も『サタンの手先』です。家族が集まる時も自分だけが肩身の狭い思いをする。自分だけでも『エホバ』に忠実でなければ」と言います。エホ証にならなかったというだけの理由で、この息子を評価し、褒める言葉は一言も出てきません。結婚を祝福するなど論外、孫ができてその孫の成長を喜ぶ言葉さえ聞いたことがありません。口から出てくるのはエホ証にならない家族と自分の境遇に対する愚痴、神権家族へのねたみの言葉です。

エホ証であるがゆえに、普通の家族の幸せが奪われてしまった典型的な例でしょう。

「普通に就職し、結婚し、子どもも3人いる」

組織に踊らされ、結婚もできず、結婚できても子どもも作れず、まともな税金も納めずに中年になってもパートの仕事しかせず、いい歳にもなって逆に親の援助をあてにするエホ証二世よりはるかに充実した人生を送っていると思いますが、エホ証の極端で偏った価値観に教化されると、こんな普通の人間らしささえ否定されてしまうのでしょう。

まとめ:信仰が生活と結びつくべきなのは分かりますが、預言者でもないのに旧約聖書の預言者ばかりを持ち出して、「働く喜び」「子どもを産み、育てる喜び」などの「あたりまえの人間らしさ」を否定するのはやめましょう。神がすべての人に分け隔てなく与えてくださった「人間らしさ」とそこから生じる「喜び」は特定の宗教・宗派とは関係ないものです。信仰と生活を関わらせる人は、その喜びを否定してではなく、むしろその喜びを犠牲にしてそうするべきであり、どの程度そうするかは個人の決定です。進んでそうする人は尊重されるべきですが、布教時間で信者の立場を差別し、罪悪感を抱かせ、『普通の人生』からは『真の喜び』など得られない、などと神の賜物を否定して布教に駆り立てるような偏った教育はもう本当にやめてくれませんか。

エホ証の聖書劇

今年も暑い夏とエホ証「地域大会」の季節がきました。

巡回監督取り巻き長老たちへの論功行賞イベント、ものみの塔記事朗読会のような単調な話が延々と丸3日間続く、暑苦しい会場だともはや修行というか救急車すらガチで呼ばれてしまう荒行。その中で信者にとっても多少の気分転換になる時間が聖書劇です。

本題になりますが、この聖書劇について前から思っていることがあります。

ドラマや映画でも、歴史ものがあります。いつどこで何があったとか、誰が何をして死んだとか、大まかなストーリーは史実通り作られていても、その行間を埋める細かなシーンや歴史に実在する人物のセリフ、会話などは、作り手側の想像によるものです。ぶっちゃけうそなんですが、そこはお金儲けのための娯楽作品なので、展開はドラマチックに、登場人物は魅力的に、またはえげつなく描くためにどう脚色しようが作り手側の勝手なワケです。

エホ証の劇にも同じような脚色があります。例えば、何年か前の1世紀の若者テモテが主役の劇でも、テモテが当時の高等教育を受けるよう“仲間からの圧力”を受けているシーンがありました。

そんなシーン、聖書のどこにも書いていないので、現代の大学教育を否定するための、100%統治体の脚色により付け加えられたものです。

聖書を題材にした映画も多数あります。興行収入を目的とした娯楽作品で、聖書のストーリーには誰の著作権もないので、どう脚色しようが作り手側の全くの自由ですが、聖書を神の著作と公言し、それを「正しく扱う」べきクリスチャンが同じことしていいのか、とふと思います。聖書は霊感を受けた言葉に対して「付け加える」ことも「取り去る」こともしてはならない、と書いています。

統治体の価値観と思想を宣伝するために、聖書にないセリフ、会話、シーンを付け加える・・それは営利目的とはまた別の目的のために、ただ聖書を利用していることにならないでしょうか。

エホ証になるとは

前回コメントしてくれた方のように、エホ証になる人は神に献身し、キリストの弟子になると思ってそうなります。

自分もそうでした。

「わたしたちは、生きるなら神に対して生き、死ぬなら神に対して死ぬからです。生きるにしても死ぬにしてもわたしたちは神のものです」

しかし、この「組織の一員」になると、従う相手が神とキリストではない事実に気づきます。多くの信者はレベルの差はあっても、ある人は「開拓者」になって、またある人は「奉仕の僕」に、あるいは「長老」になって初めて与えられる長老からの、巡回監督からの、組織からの指示に戸惑うことがあります。

それが、それまで学んだ聖書の教えからすれば、???と思うことでも従わなければなりません。
なぜならエホ証になる洗礼の儀式で、実は誓わされてしまっているからです。

その儀式での2つ目の公開質問。

「あなたは、神の霊によって導かれている組織と交わるエホバの証人の一人になることを理解していますか」

まだ組織の裏と現実を何も知らされていない段階で「ええ、もちろんエホ証になるんですよ」くらいの当たり前な感覚で「はい」と誓わされてしまう質問に、非常に重大な文言というか言質が巧妙に刷り込まれています。

つまり、エホバの証人という宗教団体が「神の霊によって導かれる宇宙的な組織」の一部である、ということを認めた上でその一員になるのか、ということです。

この質問に「はい♪」と答えてしまった以上、組織の命令や指示に従うことは義務であり、その命令に抵抗して排斥になっても、逆にその指示に従ったゆえに人生や家庭がメチャクチャになっても、すべては自己責任であり、誰にも文句は言えない予防線が張られているのです。

自分の好きな映画に、十字軍時代のクリスチャンとムスリムの抗争を描いた「Kingdom of heaven」があります。

その中で、エルサレム王が配下の騎士に語った言葉。

「王は人を動かす。だが、たとえお前を動かす人間が王であろうと、権力者であろうと、お前の魂はお前自身のものだ。『こうするように言われた』とか『やむをえず良心に背く行動を取った』などと、だれも神の御前で言い訳はできない」

この人はクリスチャンですから当然、この考えは聖書からきているものです。

「どうしてあなたは自分の兄弟を裁くのですか。わたしたちは各々、神に対して言い開きをすることになるのです」

この騎士は後に自分の良心に逆らえず、王のある命令に背くのですが、王はそれをとがめませんでした。

エホ証統治体にもこの王を少しでも見倣ってほしいものです。先日の研究記事みたいに「我々の書いた印刷物を読んで『神が自分のために書いてくださった!』とお前も感じることがあるだろう?ん?ん?」みたいなことをおっしゃっている内はまず無理だと思いますが・・

歴史的記事

昨日のものみの塔研究記事について。

「神がわたしのために書いてくださったんだ!」・・エホ証統治体という人間が書いた印刷物を、それを書いた統治体自身が神の地位にまで高める冒涜的な表現についてはすでに書きましたが、改めて記事全体を見ると、酷い内容でした。

「わたしはどんなにあなたの律法を愛していることでしょう」

詩篇を書いた筆者が愛していたのは神の律法です。人が書いたものではありません。

でも、この記事での統治体の説明はこうなっています。

「エホバはわたしたちを強めるため、出版物のかたちで霊的食物を豊かに与えてくださっています・・エホバはそうした備えを用いて、わたしたちを導いておられるのです」

おや?いつのまにか、神の律法が「出版物」にすり替わっています。

この記事では聖書そっちのけで、ただひたすら、統治体の出版物のために行われている翻訳、印刷、発送などの作業が列挙され、賛美されています。

ただ、この号全体を見ると、前半の2つの記事では「聖書、聖書」と続き、大本命の後半の2つの記事で「聖書」を「統治体の出版物」にすり替えて組織、組織につなげるという、聖書無視の批判を受けても反論できる理論武装と予防線で固めた、非常に巧妙な作りになっています。

この記事は、エホ証統治体の出版物がついに聖書そのものよりも高められたことをはっきりと示す、エホ証統治体が超えてはならない一線を完全に踏み超えた、ある意味で歴史的な記事かもしれません。

「わたしはどんなに統治体の出版物を愛していることでしょう。それは一日中わたしの思いとなっています」
プロフィール

GUABELLO

Author:GUABELLO
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR