背教者 or 犠牲者?

かつてエホ証統治体は強気にこう書きました。

『あなたを洗脳しようとする何らかの試みがなされたでしょうか。エホバの証人はあなたに対してマインド・コントロールの手法を使ったでしょうか。あなたの率直な答えは,「ノー」であるに違いありません。もしそのような方法が用いられてきたのであれば,エホバの証人を支持するどんな論議にも反ばくする圧倒的な数の犠牲者がいることでしょう』

これは、エホ証はカルトやマインドコントロールの類ではない、という反論での一文です。

今回注目したいのは「エホバの証人を支持するどんな論議にも反ばくする圧倒的な数の犠牲者がいるはずだ」、という方の一文です。

最近の児童虐待の裁判で明らかになったように、エホ証組織は徹底した秘密主義で不祥事や被害を隠蔽し、恫喝に近いやり方で犠牲者の声を圧殺してきました。

児童虐待などの被害は実害があるので訴えることができますが、エホ証の一般的な被害は、脱会しようとしたら監禁されたとか、霊感商法で金をだまし取られたとかの類ではなく、もっと複雑で精神的なものです。

偽りのタイムリミットを信じ込まされて仕事をやめたり進学をあきらめたりして人生を棒に振ったとか、非社会的な戒律が原因の排斥騒動や非信者との離婚で家庭がメチャメチャになったとか、そういうのは全部、「信者が自らの意思で入信して決定した」という正論で片付けられ、どこにも訴えようがありません。お金の被害なら仕事があればまた稼げますが(額にもよる)、失った人生の一部と心の平安はそう簡単には取り戻せません。

組織の中で批判すれば排斥され、他の信者は「組織が排斥した」という理由のみで接触を禁じられるので、声を上げる手段そのものが限られていました。

今では、インターネットという手段があります。少し検索するだけでも、エホ証のカルト的な要素によって苦しめられた「圧倒的な数の犠牲者」の声を聞くことができるようになりました。

インターネットでポルノを見ることについては、毎号のようにどこかに出てきますが、インターネットで被害者の声や批判の声を聞くことについては、そんなものが存在しないかのようにほとんど言及がありません。言及するときも「背教者の情報」のように、自分たちに「カルト」という差別用語が使われると反発するのに、自分たちを批判する人間には背教者というエホ証信者にとって最も強烈な差別表現を使って、一切の情報を拒絶するよう仕向けます。

「インターネットはポルノで溢れている」ことは大げさすぎるくらいに強調したくても、「インターネットはエホ証犠牲者や批判の声で溢れている」ことは絶対に認めたくないのでしょう。インターネットの普及が世界中で進む中、いつまで「犠牲者などいない、ただの『背教者』だ」という強気の姿勢を貫けるでしょうか。
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個人的なこと③

前回、ものみの塔記事の質の低下について書きましたが、自分もかろうじてとは言え現役なのであたり前ですが、かつてはものみの塔出版物に啓発されていた時期もありました。

エホ証なりたての頃、一昔前の出版物を読みあさりました。中でも衝撃を受けた覚えのある本の一つに1950年代発行の「宗教は人類の為に何を成したか」があります。冒頭から頭をハンマーで殴られたかのような衝撃があり、一気に読み通したと思います。

宗教というあたりまえに存在するものの、その本質について深く考えたことのなかったテーマについて考えさせられました。ものみの塔発行なので、当然一定の結論に導くようにできてはいるのですが、今のような押しつけがましい感じはそれほどなく、特に冒頭部分の宗教そのものを論じる部分では読み手の深い思考を刺激するような書き方でした。スゲー本だな、と感心したものです。

そのときの組織には、まだ真理を追究する姿勢のようなものが残っていて、巡回さんも今のような上意下達の支部出身天下り官僚監督ではなく、現場叩き上げの人が多かったように思います。真理を追究する過程、途上にある「解釈の調整」なら受け入れもしようと思っていました。

自分が?と思いだしたのは、信者から圧倒的な評価を得ていたカリスマ巡回・地域監督の中から、次々と降格され、中にはエホ証ですらなくなる人さえ出た時期です。

そんな時期に、元統治体レイモンド・フランズの「良心の危機」を読みました。本の内容でしか知りませんが、彼は聖書の真理そのものを探究することを愛していた人のように思います。実際、その姿勢と能力を評価されて統治体に抜擢されますが、不幸なことに信者統制のための「禁止事項」「義務要求」が次々に作り上げられていた時期でした。彼は組織拡大の裏で権力志向を強める統治体の支配体制が信者を不当に束縛し、苦しめているかを目の当たりにします。結果、背教の嫌疑をかけられ統治体をクビになるだけでなく、「排斥者と食事をした」というだけの口実で追放されます。

今では、陳情を反抗としかとらえない天下り官僚監督がかなりの割合を占め、イエスマンの権力長老が幅をきかせるモノ言えぬ空気の中、信者の悲痛な叫びが組織に届くことはなくなりました。組織から出される記事もしろしろばかり、解釈の調整と言えば、外れたタイムリミットを訂正し、外した人間の権力を強化するだけのものに成り下がりました。

心はもう完全に離れていますが、自分がある程度関わったこの「組織」がどこへ行くのか、もう少し様子を見ようと思う日々です。

do's and don'ts

ここ何年かのものみの塔記事の質の低下は酷い。

「してはならない」か「しなければならない」の二択が大半を占める。
信者の行動を統制するものばかり。

「真理(独自の聖書解釈)」についてはもう出尽くした感があるのでネタ切れなんでしょうが、純粋に真理を追究していく姿勢を失わなければまだまだ書くことはいくらでもあると思うのですが、彼らの関心は「組織拡大」「権力保持」「信者統制」でしかなくなっていることを最近の記事からひしひしと感じます。

たとえば、最近号の信者向けものみの塔はこんな感じ。

① 主題「あなた方は神聖な者とされた」
副主題1「悪い交わりを避けなさい」(集会、布教を促す“友”を選べ)
副主題2「神権的な取り決めを支持しなさい」(とにかく寄付しろ)
副主題3「霊的な事柄を第一にしなさい」(集会、布教を何よりも優先させろ)

↑のような「do’s and don’ts」(しろ、と、するな)の記事が延々と続きます。
うつ病になりそうです。

「天の王国はりっぱな真珠を探し求める旅商人のようです。価の高い真珠を一つ見つけると、去って行って自分の持つすべてのものを即座に売り、それからそれを買いました」

イエスがこのたとえで教えたように、人は本当に価値あるものを見つけたと確信したとき、「どう行動すべきか」について他の人から指示される必要などありません。それを手に入れ、追求しようとします。

集会・布教の参加率という「数字」の低下に歯止めがかからない・・エホ証信者にも「真理(エホ証聖書解釈)」を価値あるものと思えなくなっている人が増えています。

でも、末端の信者がその「疑い」を口にすることは、まずありません。どんなに親しいと思っていた友人だろうが家族だろうが、組織への忠誠が優先されるので、長老や巡回監督にチクられてお疲れ☆的なことになるからです。

なので、集会参加率や布教時間の低下を数字でチェックされて、長老やら巡回監督やらに「してほしくもない牧羊(家庭訪問)」に来られると、口から出てくる言葉としては「仕事が忙しくて・・」「体調が悪くて・・」「親の世話が・・」となります。

数字ばかりを見てそれを見抜けない長老や監督がそのまま組織に報告するので、今回のような「とにかくしろ」という記事ばかりが出るし、経験談も「失業して仕事なくても布教はやめません♪」「死にそうな病気でも開拓してます♪」などの悲惨さアピールばかり。ゲンナリします。

信者が自由に聖書を研究し発言できる空気を排除し、都合よく解釈を変えそれに異議を唱えれば異端として排斥する・・そんなことを何十年もやってきたツケが回ってきているような気がします。大部分の信者はついてきているはずだ、との驕りから、実際は相当数の信者に「真理」そのものが疑われかかっていることの深刻さを認識できずにいるのでしょう。

排斥の時効

ちなみに、排斥の話題になったので付け加えると、この排斥制度に時効はありません。

ある会衆の信者が、最近めったに見つからない「聖書研究」を取りつけ、喜んでいました。集会に誘ったら行きたいというのでますますびっくりすると、その「研究生」から25年前に排斥されたとのカミングアウト。その人の家は王国会館から10km以上離れていて、車がなく、交通機関もない。

この人を助けたいと思った信者は、復帰できるまで自分が車で送迎したい、と言いますが、長老から「排斥者を個人的に援助する組織の取り決めはない」とNG。この人は研究をやめます。

別の会衆で、やはり「研究生」が集会に出席し始め、大抵の会衆で研究生が経験するように「チヤホヤ」されます。エホ証はなんて「温かい組織」なんだろうと感じ、涙ながらに自分は20年前に排斥されたことを告白します。次の集会から全員無視です。この人は集会に来るのをやめます。

↑の人たちはエホ証からすれば「悔い改めきれなかった邪悪な者」です。

でも、その人たちからすればイエスのたとえ話の、放とう息子を泣いて抱きしめた愛情深い父親のような組織だと思っていたらそうでもなかったので、戻る気をなくしたのかもしれません。

エホ証に勢いがあった時は「こんなワンダフルな組織は他にないのだから、戻りたかったらそれくらいの懲罰に耐えろ」とばかりの余裕の上目線でしたが、前回の記事にコメントしてくれた方のように、今では「戻る価値がある場所なのか」と疑問に感じている人も多いのではないでしょうか。


「わたしは、祭りを共に祝えず苦しめられていた者たちを集める。・・そのとき、わたしはあなたを虐げる者たちをことごとく処分し、足なえの者を救い、散らされている者を集め、すべての地において彼らの恥辱を誉にかえる。そのとき、わたしはあなたを連れ戻す。わたしがあなたを集めるとき、地のすべての民の中で、あなたに名を、誉を得させる」


エホ証に限らず、既存のキリスト教にも幻滅し、苦しんでいる人もいます。誠実に聖書とその神について知りたいと願いつつも、他人を虐げるような人間や組織から不当に傷つけられ、散らされている人にいつかこの聖句がその通りになるようにと願うばかりです。

追記:排斥には時効はないのに、犯した直後に告白すれば排斥になるような「罪」でも、10年とか経ってから「遠い昔の罪」として告白すれば排斥にならないことが多いようです。そのあたりの整合性がよく分かりません。個々の状況を自分で考えてあげることもせず、とにかく「現時点での組織の指示」という字句通りに対応することしか頭にないので、そういう矛盾も生じるのでしょう。

排斥者の席

前回書いたものみの塔の記事と同じ号に、排斥された人についての指示もありました。

「排斥された人が集会に出席する場合、その人が座る席を制限したり、どの席に座るかを問題にしたりする必要はない」というものです。

この記事はおもにクリスチャンの親が排斥された子どもと一緒に座ることについて書かれたものですが、「排斥者は会館の後ろに座らなければならないという規則はない」「排斥者が家族や他の信者の隣に座ることを制限すべきでない」という「指示」は一般的な排斥者のケースにも適用されるようです。

しかし日本では、排斥された人が集会に来るようになると、大抵、座る席が指定されます。誰も話しかけるどころか、あいさつもできないので、一番後ろの端っこの席に座るよう指示されることが多い。他の信者には「ここは排斥者が来るから空けておくように」と言います。そうすれば、人目につかずに、集会ギリギリに来て、終了直後に帰れるからです。

排斥された人は罪を犯したのが何年、何十年前だろうと、エホ証になりたい(復帰したい)と思えば、この、最低でも数ヶ月間、全員に無視されながら集会に出続ける、という懲罰に耐えなければならない。これが「エホバの取り決め」です。

エホ証は「エホバは愛情深い父親ですよ」と言うとき、イエスの「放とう息子」のたとえ話を使う。そのたとえでは、父親は放とう息子が悔い改めて家に戻ってくる姿をはるか遠くにみたその瞬間に、自ら駆け寄って息子を抱きしめて泣いた、とあります。

しかし彼らは、悔い改めた人が何年もたって王国会館に来ても、全員無視です。それが数ヶ月間続きます。イエスのたとえ話で言えば、その父親が「お前には家の者全員に無視されながら半年間働いてもらう。お前が本当に悔い改めたかどうか確かめるためだ」と言うのに似ています。これが「愛情深いエホバの取り決め」と主張するのですから、天の父に対する許しがたい侮辱です。

確かに神は人の心を知ることできます。しかし、ここでイエスは他の人に憐れみ深く接するべき、という教訓を「普通の人間の父親」を用いたたとえ話でお与えになりました。

前にも書きましたが、パウロが「その人を除き去りなさい」という命令を与えたのは、ある会衆で「罪を公然と習わしにする邪悪な者」がいたからです。では、犯した罪をとうの昔にやめていて、悔い改めようと願い集会に来る人は、全員で無視しなければならない邪悪な者なのでしょうか。

エホ証側の反論は、罪を犯しても「悔い改めた」と言いさえすればすぐに復帰できるようでは悪行の抑止にはならず、「会衆を霊的に保護する」ことにはならない、というものです。

・・そんなに道徳レベルが低い人間が多いんですか?

今回の「排斥者の席を制限してはならない」という指示の理由は「そうするなら様々な問題が生じかねない」と書かれています。排斥問題の裁判では今のところエホ証が敗訴した事例は知りませんが、児童虐待関連の裁判で敗訴し、多額の費用が必要になっている現状を踏まえ、この問題でも多少排斥者に配慮する姿勢を見せているのでしょうか。席がどうこういうよりも、全員が無視し続ける方針を変えない限り、根本的な解決にはならないでしょう。

神にいらだつ?

新しいものみの塔に「神に向かって激怒してはならない」という記事がありました。

相変わらず、すぐに内容を予想できてしまうタイトルですが。

なんか毎度似たような内容になってしまうので、もう書くのもどうかと思うのですが、統治体も同じような言い回しを使って、同じような記事を出すので、一方的な根比べみたいになってきました。「霊的食物」ですから、同じものでも定期的に取り入れないといけませんね。

・・で、やっぱり書きます。

「自己中心的になり、早く終わりがこないことで、『エホバ・・に向かって激怒する』ことがありますか。エホバの日は近いと何十年も宣べ伝えてきた皆さん、伝道活動を続けてきたことで他の人から批判されるとき、エホバに対していらだつことがありますか」


・・その人たちは終末に関して何度もコロコロ解釈を変え、しかもそれが見事に外れながら一向に誠実な反省の態度を見せないエホ証統治体にいらだっているのだ、と思うのですが。

すみません、統治体に対していらだつのは、神に対していらだつのと同じことでした☆

自らを神がかった存在に仕立てあげてしまうと、過ちを認め、真摯に反省することができなくなってしまう・・文字通り何十年も、人生をかけて統治体の解釈を宣伝してきた信者の方が「自己中心的」と反省を促されるのですから・・

そもそも批判されているのは、ただ伝道活動を続けてきた一般信者よりも、明確な「タイムリミット」を想定できてしまう非聖書的な期限を設定してそれを宣伝するよう命令しながら、それが外れる度に都合よく変更してきた、指導部である統治体ではないですか?こういう都合の悪い時は、統治体は姿をくらまし、一般信者が「実行犯」として批判されるかのように書くのも常套手段です。

「期待しただけだ」というなら、会議室で好きなだけ期待でも妄想でもしてください。こういう文章を、非信者を説得するどころか、信者に対して繰り返し書かなくてはならない時点で、「終末論宗教」としては末期的な状況にさしかかりつつあるのではないかと感じます。

以下、追記です。

予言した通りに事が起きないからといっていらだってはならない、という例として、今回は旧約聖書の預言者ヨナを取り上げているのですが・・

それ、適用が完全に間違っていると思います。

ヨナの予言を聞いてニネベの全市が悔い改めたので、神は予言させたことを撤回して裁きを下しませんでした。この事例を適用するなら、世界70億人全員を改宗させてからにしましょう。エホ証の予言が外れてきたのは、ただの誤った聖書解釈によるものです。世界人口の0.1%を勧誘した程度で「ヨナのようにはなるな」と言われても困ります。
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