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エホ証はカルトか②

エホ証側からのよく聞かれる反論は、1世紀のイエスとその弟子たちだってその定義にあてはめれば反対者たちから「カルト」とみなされていたであろうから、気にしないもん♪というものです。

・生きた人間に従う。その人間は神に選ばれたと主張してはばからない。

地上ではイエスも「生きた人間」で、「神に遣わされた」と公言してはばかりませんでした。

・その自称指導者またはその教えに対する献身が極端で排他的。

イエスは「二人の主人に奴隷として仕えることはできない」と教えました。

・考え方や慣行が急進的で、正常な社会行動に反している。

当時のユダヤ人の神殿が破壊される、というイエスが残した予言は急進的でした。

・(信者でない)友人や家族から孤立する。

イエスは家族より、弟子たちといつも一緒にいました。

・・なので、イエスの行動と教えが「カルト」にあてはまる、なんて至極当たり前のことです。

イエスは本当に神に遣わされた、神の独り子だからです。

全く同じことでも、「自称指導者」がその真似事をして信者を

支配するから「カルト」になるのです。人間の予言は外れることも

あれば、その命令は間違うこともあるからです。


エホ証が残念なのは、イエスの弟子たちと同じことをしようと熱心なのは事実ですが、従う相手がイエスではなく、「イエスによって選ばれたと自称する指導者たち」である、という点です。

1世紀には聖書の予言通り、西暦33年にイエスはメシアとしての奇跡的な証拠を示し、それを目撃した世代が過ぎ去らない内に(37年後)、予言通りエルサレムとその神殿は破壊されました。

他方、エホ証の主張する1914年に聖書的根拠はなく、そこから「1世代」や「2世代」やらと先延ばしにする解釈には何の意味もありません。何度も外れた彼らの予言がそれを証明しています。

まとめ:「自分たちだけが聖書を解釈する権威を持っている」とか「自分たちだけが神によって選ばれている」という排他的な主張をする人間(たち)に追随するなら、そのグループのやっていること全部が偽りで破壊的ではないにしても、「カルト」と言われても仕方ないのでは、と個人的には思います。世界人口の0.1%程度しか信者を獲得していない非主流派の団体ならなおさらでしょう。
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エホ証はカルトか②

エホ証のすべてがカルトだと言うつもりはありませんが、前回取り上げたカルト的な要素にあてはまるのではないか、という部分をものみの塔風にあげてみました。

① 生きた人間に従う。
②その人間は神に選ばれたと主張してはばからない。


エホ証の主張 ⇒自分たちは神とイエスに従う。

事実は何を示しているか ⇒イエスに選ばれたと主張してはばからない少数の人間から成る「統治体」を神の唯一の経路とすることで、人間に従うことと神に従うことを同列に置いている。このブログで指摘しているように、排斥は神の取り決め」「エホバが書いてくださった」「神が言われた通りになどの表現をサブリミナルに用いて巧妙にそのことを行う。

② その自称指導者とその教えに対する献身が極端で排他的。

エホ証の主張 ⇒自分たちに人間の指導者はいない。信者間の階級もない。

事実は何を示しているか ⇒「統治体」という自称指導者の教え・指示を神のそれと同一視しているので、それに異議を唱えれば「神に対する反逆=背教」で一方的に排除される。1世紀のクリスチャン、また使徒でさえ、互いの間違いを率直に指摘し、意見の違いをイーブンにぶつけ合うこともあったが、エホ証内では一般信徒⇒長老⇒巡回監督⇒支部⇒統治体という絶対的タテ社会の中で序列が下位に位置する信者が間違いを指摘すると、「組織の権威に反抗した」ことが「背教」とみなされる。

③ 考え方や慣行が急進的で、正常な社会行動に反している。

エホ証の主張 ⇒(これからエホ証になる人もいるので、あくまで現時点での)自分たちだけが救われるとは言っていない。排斥されても「家族の絆」は変わらない。

事実は何を示しているか ⇒「ハルマゲドン」までのタイムリミットを何度も先延ばしにしながら、今でも終末の恐怖を煽るような表紙の雑誌を配り、この組織に入信しない人間すべては滅びる、という過激な主張をしてはばからない。

⇒ 緊急時の救命措置としての輸血さえ拒否するよう教え、輸血した信者を忌避する。

⇒ 組織が排斥した信者は、集団で、家族でも同居していなければ忌避するよう命令する。

④ (信者でない)友人や家族から孤立する。

エホ証の主張 ⇒自分たちは人との関わりを避けることはせず、むしろ(布教という手段によって)人を助けようとしている。

事実は何を示しているか ⇒エホ証は物理的に孤立しなくても、社会的に孤立することは多い。非信者との布教目的以外での接触を最低限にするので職場や学校で変わり者扱いされるか、孤立する。家族との関わりを犠牲にしてでも、統治体が決めた日数の集会、大会すべてに出席することが「神の命令」なので、よほど「協力的な」家族に恵まれないと、家族・親族内で孤立する。

⑤ 説得や支配の仕方が巧妙で、ごまかしの手段も用いる。

エホ証の主張 ⇒自分たちは「すべてのことにおいて正直」である。

事実は何を示しているか ⇒エホ証に有給の聖職者はいない」「排斥されても家族の絆は変わらないなど、「有給」→「払戻金」、「聖職者」→「特別全時間奉仕者」、「忌避する」→「絆は変わらない」などの置き換えを巧妙に使い、事実とは全く異なる印象を与えて巧妙にごまかす。

1914年は「ハルマゲドン」が起きると宣伝していたのに、いつの間にか、「歴史の転換点」とか「大きな変化が生じる年」などの言葉に巧妙にすり替え、第一次世界大戦によって自分たちの解釈が当たったかのような話に変えてしまう。

まとめ:こうまで書いていうものなんですが、この記事はエホ証がカルトだと、決めつけることが目的ではありません。ただ、エホ証がカルトだという人は少なくありませんが、なぜそう思われるのか、「エホ証がカルトだと思う理由」としてよく指摘される点をまとめてみたものです。

何もエホ証が悪いところだらけだ、というつもりはありませんが、「カルト」であるとの印象を与えたくないのであれば、上のような組織のあり方や教義を改善する必要があるんじゃないですか?という一個人の客観的な感想です。

エホ証は秘密主義か

エホ証指導部は『秘密主義』を否定していますが、本当にそうでしょうか。

『指導の任に当たっている人たちの指示を理解し,それに同意できるとき,従うのは容易かもしれません。しかし,決定の背後にある理由が分からない場合はどうでしょうか。(中略)長老たちは事情をよく知ったうえで決定を下していますが,わたしたちはそうした内密の事柄すべてを知っているわけではない,という点を覚えておくのもよいことです』

『ある人がクリスチャン会衆で不公平な扱いを受けているように思えることがあるかもしれません。何ができるでしょうか。「それは本当に不公正なのだろうか」と自問すべきです。多くの場合,わたしたちは事実をすべて知っているわけではありません

『聖書的でない事が起きているのに,地元の長老たちは気づいていながら問題を正そうとしていない,と思えるかもしれません。もちろん,その件は聖書の教えどおりに,またわたしたちの知らない諸事実を踏まえて扱われたか,目下扱われていることでしょう』

・・本来なら、「お前たちの知らない諸事実」「お前たちは事実をすべて知らない」になるところを「わたしたちは・・」って隠すよう指示している側が言うのもどうなんでしょう。

なぜ、隠すのでしょうか。知られるともっと不公正だと思われるからでしょうか。理由はどうあれ、このようなものみの塔の教えがいかに聖書とかけ離れているかは、一目瞭然です。

『わたしはもはやあなた方を奴隷とは呼びません。奴隷は自分の主人の行なうことを知らないからです。しかしわたしはあなた方を友と呼びました。自分の父から聞いた事柄をみなあなた方に知らせたからです』

しかし、この組織は「神の経路」と主張する一方で、↑の文面から明らかなように、長老などの一部のエリート信者には『組織から聞いた事柄』を信者に知らせないよう指示しています。実際、「組織からの指示書」はしっかり鍵をかけて「機密ファイル」に保管しまうs。上の聖書の言葉が示すように、一般信者は「友」ではなく、「何も知らない奴隷」です。

『あなた方について,クロエの家の者たちからわたしに打ち明けられたのですが,あなた方の間には争論があるとのことです』

これはほんの一例にすぎませんが、聖書は会衆の問題について、さらにそれが誰からの情報なのかもオープンにしています。他にも不品行や偏見など、会衆名や、時には個人名まであげて記録し、さらにその問題をどう扱うべきかもオープンに指示しています。一般信者には見せてはいけない手紙を送り、秘密の指示を与えていたことを示す個所はどこにもありません。

まとめ:一世紀にはイエスから直接任命された使徒職があり、その使徒には奇跡的な力が与えられていました。問題を隠す必要などありませんでした。エホ証統治体も、自分たちはイエスから任命されていて、この奇跡のような組織は神から祝福されている、と自画自賛しますが、なぜか、組織内の問題・不祥事を徹底的に一般信者と一般社会の目から覆い隠そうとします。言うほど自信がないのでしょうか。

個人的なこと②

自分にとって「1914年から1世代で終末」はエホ証から教えられた「真理」でした。

そのことを知人にも「非公式の証言」をしていた時期もありましたので、「アイツはとんでもない嘘つき野郎」と思われているか、サッパリ忘れ去られていることでしょう。

「1914年に生きていた人の中にはこの世の終わりを目撃する人がいる」(1984年教材)という解釈が限界を超えようとしていた1990年代半ばに、エホ証統治体はこの解釈を「調整」します。「世代」は人の寿命とは関係がなく、その長さは分からない、ということになりました。

その時は、そんなに失望しませんでした。

1975年のことも知っていましたし、逆にもうこれで終末の年代を特定しようとする非聖書的な解釈からようやく決別したのだと思いました。「分からない」ものを普通に「分からない」、と認めることはかえって進歩のように思えたし、これでまたいつ「調整」されるかも分からない年代の解釈を「真理」であるなどと人に教え、宣伝することから解放されたように感じました。

実際、その後10年くらいは、「1914年」や「七つの時」などの怪しげでカルトチックな年代計算が語られることはあまりなくなった・・がしかし、自分が愕然としたのは、2010年の新解釈。

「1914年に生きていた人と生涯が重なる人の中にはこの世の終わりを目撃する人がいる」・・というまさかの「2世代」宣言でした。

せっかく決別したはずの年代を特定しようとする非聖書的な試みに完全に逆戻りするこの解釈で、結局、エホ証の増加は何度も先延ばしにされる「終末までのタイムリミット」に大きく依存しているに過ぎないことを思い知らされました。「1975年」が外れて減少した時も「1914年から1世代」を打ち出して増加に転じたので、「1914年から1世代」が外れて「もう分かりません」では増加が伸び悩んでいる現状を踏まえ、「1914年から2世代」を設定したのでしょう。

そして極めつけは、2011年の「エルサレム滅亡はBC607」のシリーズ記事でした。何千年も前の歴史など、その基となる大昔の人間が残した不完全な文献・記録にささいな間違いや欠けている部分があることなどあたりまえです。なのに、1914年を計算するために外せないBC539(バビロン征服)は「要となる年代」などと持ち上げる一方で、同じく一般の歴史でBC586であるエルサレム滅亡は、その基となる資料のささいな間違いだけを徹底的に研究し尽くして信憑性を貶めようとする・・「何が真実か」よりも、とにかく敵側の証人・証拠の信憑性を傷つけ、心証を害して裁判に勝つことが第一の、「訴訟社会アメリカ弁護士」のやり方そのものでした。

この記事を読んで完全に確信するに至りました。今の「組織」はもはや真理を探究することではなく、とにかく組織を拡大し、自らの解釈と権威を正当化することにしか関心がないのだ、という事実、そして、勝手に終末論を振りかざして多少の数を増加させたところで、彼らの解釈が「真理」にはなり得ない、という事実を。(遅かったですかね)

個人的なこと①

今さらですが、自分は現役のエホバの証人です。

更新が少し間が開いたのは、カミングアウトするべきか、祈りの内に(笑)考慮していたからです。

内容からお気づきの方も当然いたかと思いますが、なぜ、今まで明言しなかったかというと、

① このブログの冒頭で書いたように、内容をありのままに読んでほしいと思ったからです。

② 小心者だからです。


エホ証関係者の方ならお分かりのように、このブログの内容は現役とバレれば即、審理委員会という異端審問にかけられてあぼーん☆な内容なのでビビりながら書いていました。

では、なぜカミングアウトする気になったかというと、

ブログのアクセス数が増えてきたからです。

テンプレ丸出し&テキストのみのこんなブログですが、毎日のユニークアクセスが多い日で100近くを数えるようになりました。広大なネットの世界でたった100か、とも思いますが、エホ証で言えば会衆1つ以上になります。さらに、同じ100人の方が毎日1回アクセスする訳ではなく、何日、何週間に一度立ち寄ってまとめ読みされる方もいることを考えれば、その何倍↑の人に読んでいただいているのかもしれません。(その辺の詳しいことはよく分かりません)

それである程度、個人的なことも書いていく責任があるのではないかと感じ、とりあえずは現役であることから始めようと思いました。人生のある程度の期間をエホ証として活動してきたので、カミングアウトしたからと言って別に今すぐ辞めようとも思っていませんが、一応現役ではあっても心は彼らから離れてしまっているので、第三者的な言い回しで書いてきましたし、これからもそのスタンスでいくつもりです。

エホバの証人は預言者か

Yes⇒では、宣伝したことがことごとく外れてきたのはなぜですか

No⇒では、モーセやエレミヤといった預言者を自分たちに適用するのはなぜですか


エホ証統治体は宣伝したことが外れると、「期待しただけで自分たちは預言者ではない」と言い訳し、かといって自分たちの権威に反抗すると、「預言者モーセに反抗した反逆者は神に裁かれた」という旧約聖書の事例を引き合いに出し、服従を要求してきます。

このように、預言者ではないと言いながら、自らの権力基盤を強化し、また信者を布教に駆り立てようとするとき、大好きな旧約聖書の預言者の記述を自らに適用します。

実際、現在エホ証が毎週の集会で使っている教材は預言者エレミヤをこれでもか、とウンザリするくらい現代のエホ証に無理やり適用したものです。

例えば、「預言者エレミヤは郷里アナトテの人々から迫害された」という記述を、「現代のエホ証も家族や職場の人間から反対される」と適用し、職場の同僚からヤな顔をされながら集会に出かけようとするエホ証の写真を掲載します。

集会や布教のための多少の決まり事が必要なのはある程度理解できますが、人間が決めたことに強制力を持たせてよいのでしょうか。聖書は「集まり合うことをやめたりしないように」としか書いていないので、それを⇒「統治体が集会は週何回と決めれば、何が何でも、家族や同僚に迷惑をかけようがヤな顔されようが、絶対に休んではならない」「だって預言者エレミヤも郷里の人々から迫害されたから、お前らもそれくらいの反対に耐えろ」、というのは話が飛躍しすぎていますし、何よりも「あなたたち預言者なんですか?」と尋ねてみたくなります。

宣伝し、教えるよう命令されている肝心の教義が、まさに神の預言者のごとく、すべて的中・・していればまだ救われますが、10年20年単位でコロコロ「調整」されますからね。

家族から縁を切られようが、職場で村八分にされようが、結婚して子どもを作る時間的・経済的余裕がなくなろうが、とにかく「布教に人生のすべてを費やす」というトコだけは預言者に見倣え、なんて書く権利があるのか、普通にギモンです。

何人ミチビイタ?

数字ばかりを重視するエホ証の布教のやり方はどんな実情を生み出しているでしょうか。

「○○人を導きました」

・・布教で勧誘してエホ証にならせた人数を語る時の表現。そして、この数字の多寡でその人の評価が決まります。大会や印刷物中でも決まって「私は○○人をミチビキマシタ」と語られる。

ある出世志向の開拓者が「必要の大きな」会衆に移動します。とにかく誰かをミチビイて、上からの評価をあげたいこの開拓者は1人暮らしの人の良い年配の男性を見つけ「再訪問」します。

この男性は知り合いも親戚づきあいもほとんどなく、毎週足しげく来てくれることがうれしくなって、この開拓者と「聖書研究」を始めます。

さらにすべて車で送り迎えしてくれるというのでエホ証集会に行ってみると、何十人もの人からチヤホヤされ、歓迎される、という人生で一度もしたことのない経験をしてさらにうれしくなり、連れられるがままに布教も始めます。

そんなこんなで「バプテスマ(洗礼)を受けませんか」の誘いに応じ、エホ証になります。

1年後、この開拓者は別の会衆に「栄転」します。すると長老たちは、この身寄りのない信者の送迎や世話を誰に押し付けるべきかに頭を悩ませます。最初はこの人をチヤホヤしてたはずのエホ証にも、他人の手柄であるこの人を残りの人生世話し、週何回も集会やら布教やらの送迎をしたい、と本気で思う人は実はあまりいない。

この人自身も、集会に出始めたころの上っ面のチヤホヤ感がなくなり、会衆のお荷物的な存在になりつつあることを感じ始める。やがて集会を休みがちになり、最終的に活動を止めます。

それでもこの人はミチビイた数にカウントされる。出世志向の開拓者は行く先々で「私は○○人をミチビキました」と嬉々として語るのでしょう。

これが、数がすべてのエホ証の布教の現実を示す、よくある一般的な例です。

毎年3000人もの人間が洗礼を受けているのに、それに見合う分だけ増加していないどころか、減少している一因は、数がすべてのいい加減な「ミチビキ」方をしているからでしょう。「この1時間ごとに、世界中で○○人が洗礼を受けています!」とお得意の数字で自慢しますが、その同じ1時間で何人がエホ証をやめているのかもぜひ公表してほしいところです。
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