何人食べた?

さて、今年のエホ証の記念式。

去年パンを食べた人数に言及しなくなったようです。

こうなると、以前の記事で指摘したように、毎年の年鑑でもついにパンを食べた人数そのものが近い将来公表されなくなる可能性が高くなりました。

これまで、減り続ける一方だったパンを食べた人数を公表するのは、「終末へのカウントダウン」と「これ以上食べるなよ」という2つの意味があったが、「1914年世代」の統治体メンバーが死亡するまでに終末が来なかったので世代交代のため解釈変更を余儀なくされ、今や増え続けるこの数を公表することは自分たちの解釈にかえって不都合になったからでしょう。

「1914年」「14万4千人」「忠実で思慮深い奴隷」・・エホ証の根幹をなす解釈がもはや崩壊しつつある前兆でしょうか。

パンを食べる人数の公表をやめるなら、説明くらいしてほしいものですがね。聖書的な説明などあろうはずもなく、また都合よく聖句をとってつけたかのような苦し紛れの言い訳になることは分かっていますが・・
スポンサーサイト

産児制限

日本のエホ証には極端に子供が少ない。

信者間で結婚相手を探すのも至難だが、なんとか結婚できても、子供を産むことは勧めていない。
昨日の記事から。

ベテル奉仕、巡回奉仕、宣教者奉仕などの全時間奉仕を行なえるよう、独身を保ってきた人や、結婚していても子どもを持たないことにした人もいるでしょう。・・そうした決定を後悔するべきでしょうか。そのようなことは決してありません」

ベテル奉仕者、巡回監督、宣教者・・生活と地位と名誉が保障されるエホ証の「有給の聖職者」たち。出世志向のエホ証すべてが目指す目標。子供がいるとなれません。

しかしその地位は馬の鼻先にぶら下げたニンジンのようなもので、ほとんどの夫婦は子供も作らず、出世もできずに晩年を迎えます。仮に出世できてもその地位に留まれる保証はない。雇用関係のように労働法で保護されている立場ではないので、その首の切られ方は「世」のリストラよりも唐突で、容赦もない。

「子供を作るな」とは表立っては言えないので、子どもがいるとなれない階級を作り、それを目標にさせるという間接手段で子どもを作らないように仕向ける・・子供が生まれると、家事・育児・仕事と言った「普通の生活」に時間と養育費を奪われ布教時間や寄付が減るからでしょう。

相変わらず書き方としては、「子どもを持たないことにした人もいるみたいですね♪」と他人事です。「統治体の責任」の記事で書いたように「お前たちが自己責任でしてるだけ」だからです。

ちなみに、聖書には結婚している夫婦に子供を持たないよう勧めている個所はどこにもありません。むしろ、結婚すれば家族の世話をするのは神聖な義務である、と教えています。

聖書に書いていない、子供がいるとなれない特権階級を作っておいて、それに踊らされ惑わされ子供を作らなかったことを後悔している信者を咎めるのが今回の記事です。

「これを行ない続けなさい」

今年もやって来ましたエホ証記念式。

出席者のだれもがパンにもぶどう酒にも手をつけない、異様な儀式。

なぜだれもパンに手をつけないかというと、以前に書きましたが、「油そそがれた信者」と「その他大勢群衆」という彼らの聖書解釈に基づく信者の2階級制度のためです。

それで「記念式」といっても、なぜ出席者が「パンに手をつける」というおいたをしてはいけないのか、その2階級制度の説明が話の大半を占める。つまりものみの塔解釈発表会です。

イエスは「わたしの記念として、これを行ない続けなさい」と言われた。何を「行なう」のだろうか。ユダヤ人が行なっていた無酵母パンの祭りを、これからはイエスの記念として行なうのだ。

『イエスはパンを取り,祝とうを述べてからそれを割き,弟子たちに与えて,こう言われた。「取って,食べなさい。これはわたしの体を表わしています」。 また,杯を取り,感謝をささげてからそれを彼らに与え,こう言われた。「あなた方はみな,それから飲みなさい」


でも、彼らは断固として食べない。

エホ証は学校の卒業式に出席はしても、国家・校歌は歌わない。仏式の葬儀に居合わせることはあっても、焼香は断固としてしない。

皮肉にも、それと同じことを自分たちの記念式でしている訳ですね。出席はしても、イエスが与えてくださったパンとぶどう酒に手をつけない。つまり、あまりにも直接で、明快な、聖書そのものに書かれている命令に従うことを断固として拒む一方で、統治体のよく分からない、よく「調整」される解釈への絶対的信仰を表明する行事です。

「我々こそ真のクリスチャン」と自称する一派の信者が、パンにもぶどう酒にも手をつけない・・想像を絶する苦痛と逆境の中で自分の体と血を捧げる直前に、「わたしの記念としてこれを行ない続けなさい」と言われたイエスはどうご覧になっているのでしょうか。

神か悪魔か

先日、ものみの塔が信者統制に使う手段が「神か悪魔か」、という乱暴な極論にすり替えることである、と書きましたが、昨日の記事にもその例がこれでもか、というくらいありました。

サタンは、人間にとってエホバは必要ではない、と考えさせたいと思っています」

サタンのわなに陥る必要はありません」

サタンは間違った選択をするよう働きかけてわたしたちをエホバから遠ざけようとします」

「人間の最初の二親がサタンの言いなりになってエホバから引き離された」

「病気はサタンの目的に役だっています」

サタンの体制に信頼を置く人は、必ずひどい失望を味わう」

サタンはそうなる(エホバから引き離される)ことを望んでいます」

・・たった一つの記事でこれだけサブリミナルに「サタン」がちりばめられています。

つまり、ホ証としての活動の妨げになるものは何であれすべて、サタンです。

エホ証の間違いに気づいてもこの「サタンの呪縛」から逃れられず精神を病んでしまう人もいます。

統治体が使うもう一つの方法は「極端で偏った経験の引用」です。

「一人の若者は、タブレット型コンピューターが欲しくてたまらず、自分の片方の腎臓をひそかに売りました。なんと愚かな犠牲を払ったのでしょう」

「ある長老は株の売買を行うようになり、株価が急落。蓄えを失い、家を売ることを余儀なくされ、サタンの体制に信頼を置く人は、必ずひどい失望を味わうことが分かりました」


「世の人」は愚かで、必ず失望を味わう・・こんな偏った事例の引用は公平な教育とは思えませんね・・

排斥は神の「取り決め」?②

エホ証が排斥制度の「根拠」として使う唯一の事例が、コリント会衆に宛てた使徒パウロの手紙。

『兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように,と書いているのです。(中略)「その邪悪な人をあなた方の中から除きなさい」とあります』


文脈には、当時のコリントの会衆に自分の父の妻とさえ関係を持つような「淫行の者」がいたことがパウロに伝えられた、とあります。それでコリントという一つの都市にある会衆に対して、淫行を公然と習わしにする「邪悪な人」がいることが伝えられたので、「その人を除き去りなさい」と書き送ったという事例です。

この事例を根拠に「全会衆に拘束力を持つ制度」として作り上げたのが、「審理委員会⇒排斥」という制度です。統治体が「排斥に相当する罪」として規定した行為を、過ちゆえにたったの1度だけ行なったとしても「審理委員会」に告解し、排斥に値するかどうかの審判を受けるべき、という制度。

弱さゆえに過ちを犯した訳ですから、気持ちや考えの整理がついておらず、また自分を弁護したいという気持ちもあることでしょう。それでもたった1度の審問で「悔い改め(反省)が不十分」と判断されれば、排斥され、そのことが会衆に発表される。事実上「会衆の全信者はカン無視せよ」との命令が下る訳です。これ程の非情な扱いを受けても、エホ証以外に生きる道がなく戻りたい、という人は最低でも数ヶ月かそれ以上の期間、公然と全員から無視されながら集会に出席し続ける、という異様な仕打ちに耐えなければならない。

例えて言うなら校則を1回破っただけの生徒を「反省不十分」という理由で、見せしめとして生徒全員に学校の内外を問わず半年間完全に無視させながら授業を受けさせる、という仕打ちをその学校法人の理事会から命令された教師たちが主導しているようなものです。

教師たちはというと無視される生徒を眺めて良心を痛めるどころか、理事会様のご命令に従い「自分たちは学校の規律と評判を守った」となんかとても満足している。一方、こんな仕打ちに見かねて勇敢にも反対意見を述べる生徒がいると「学校を守るために行動した先生ではなく、悪魔に立ち向かいなさい」と全生徒に通知されます。

残念ながら、暴力や恐喝を伴わない無視や悪口などの精神的ないじめは立件しにくいように、「懲罰として信者に無視するよう命令する」ことでは刑事上の責任までは問えず、独自の宗教解釈の自由として認められるようです。学校という教育の場での「精神的な苦痛を与えるいじめ・懲罰」が社会的問題として議論されている昨今、国からの保護や恩恵を受け、さらに宗教という人の精神の根幹に関わる活動をする法人団体が信者にこんな懲罰を実行するよう指示している訳ですが、まあ日本では信者数が20万くらいで頭打ちになっていますからそこまでの社会問題にもならないかもしれません。

排斥は神の「取り決め」?

最近のものみの塔のえげつない表現は止まることを知りませんね。

昨日の研究記事から:懲らしめを目的としたエホバの取り決めに敬意を払ってください。会衆を守るために行動した牧者たちにではなく、悪魔に立ち向かってください。

↑エホ証が不寛容で反社会的であると非難される理由の一つ、「排斥制度」についての注解。

以前に「自分たちの解釈=エホバの約束」という表現について書きましたが、今回は「自分たちが作った制度=エホバの取り決め」だそうです。

ものみの塔の基本手法は「神か悪魔か」の2者択一に問題をすり替えることです。「審理委員会⇒排斥」という自分らが勝手に作った制度は「エホバの取り決め」であり、それに逆らう人間は悪魔に影響されている、というおよそ理性的な人間が書くとは思えない文章ですね。

エホ証の「排斥制度」が聖書に基づいていないことは、もうあちこちのサイトで非常に理論的に指摘されていますので今さらですが、一応自分なりの考察もまとめてみたいと思います。

統治体の責任②

自らに責任はない、とする統治体の主張は次のものみの塔の文章に要約されると思います。

⇒『もしある証人が,統治体の与えた聖書の諭しを土台として決定を下すのであれば,その人は自分の意志でそうするのです。自分自身で聖書を研究することによって,それが正しい道だと確信したからです。証人は各々神ご自身のみ言葉の影響を受け,自分の下す決定が自分の献身している神との個人的な関係に影響することを十分に認めた上で,統治体から与えられる健全な聖書の諭しを当てはめます』

↑相変わらずですが、このこと自体は間違っていないと思います。

宗教の決定は自己責任です。輸血にしても終末論にしても統治体の解釈が正しいと思いエホ証になったのであれば、その人の責任です。そう思わないならやめればいいだけの話。

ただ「公式ページ」シリーズで書いた例のように、彼らは勧誘し、改宗させようとするとき、有利な情報しか与えず、不利な情報を隠ぺいする傾向が強い組織です。

保険勧誘でも他社の不利な点だけを指摘する「不当な比較」は禁止され、自社の商品についても契約者に不利益が生じる可能性についてきちんと説明することが義務付けられています。そのモラルを守らずに契約を乗り換えさせ「契約した以上は約款を読んでいるはずだから自己責任」と主張するのに似ています。

保険会社の細かい字で埋め尽くされた約款すべてを読まずに契約する人がいるのと同じように、エホ証になる前に数十年分のものみの塔を読み、彼らの解釈がいかにコロコロ変わってきたか自分で気付く人はまずいないでしょう(入手自体が困難)。

その解釈のおかげで人生や家族関係が狂わされた人の「経験談」が載せられることもありません。さらに「組織」についても、ちょっぴり踏み込んだ内容が書いてあるだけの「組織の本」すらエホ証になりたいと意思表示した後に初めて渡す、という周到な手段を取っていますし、信者になった後も「組織」の中枢で極秘に処理されている不祥事について全く知らないままです。知らないままの信者がさらに勧誘するマルチマーケティング方式で、勧誘する時点で「売る側」の責任を負わされる。

そして一旦なってしまえば、何年かたって「目ざめて」やめようと思う頃には「統治体に逆らえばハルマゲドンで死ぬのお前絶対確実」、さらに教義に同意できなくなったと公言すると「背教で排斥」扱いされ、「真の友ですよ」と信じ込まされていた信者全員からのカン無視をくらうという、二重の恐怖に苛まれるのです。

さらに信者でいる間は「世の友」を作るな、さっさと仕事をパートにして布教しろ、と洗脳されていますからね。社会復帰は容易ではなく「真の宗教を捨てる人間はかくも惨めな人生を送るのです」というヤな感じのお手本にされるよう仕向けられています。

統治体はというと「だってエホ証になったのお前の責任じゃん」そこは正論をふりかざしてきます。それが冒頭のもっともらしい主張です。

統治体の責任①

このサイトでも何度も取り上げている統治体の責任問題

ある擁護系サイトの反論⇒『宗教権威はその教義また聖典の解釈について責任を問われないのが普通。責任を免除されることで自由な議論ができる』

・・宗教の専門家ではないので普通はこうとか言えるほど知りませんが、自分たちに都合が悪いと「他の宗教も同じですよ」とすり替える方法は公式ページに似ています。

そもそも、新約聖書をどう読もうが、聖典の解釈や教義について他の信者の上に君臨し、全信者に拘束力がある意思決定権を持つ「宗教権威」が存在したことなど、どこにも書かれていない。

エホ証統治体がお決まりのように根拠としてあげる唯一の事例が「割礼問題」が議論された使徒15章のエルサレム会議。それについてはすでに書きましたが、そこでは「非割礼の異邦人に神の聖霊が注がれた」という誰の目にも見え、理解できるあまりにも明らかな事実が報告され、確認され、そのことが各地に報告されたにすぎない。誰が、どういう発言をして、どのような事実が報告されて結論に至ったのかがすべてオープンにされていて、密室での議論や聖典の解釈だけで何かを決定してはない。

エホ証は何回か、時にはたった1、2回の事例がある、というだけで、それを根拠に「統治体」「巡回監督」「審理委員会⇒排斥」「奉仕報告」などの聖書に出てこない名称をつけて規則・制度化する。「事例がある」というのと「制度として存在していた」というのは全く別次元の問題だと思うのですが・・

だから「宗教権威は普通こうあるべき」とか、どうでもいいですし、そのことに反論するつもりはありません。エホ証が宗教権威という点において他と変わるところのない一宗教であるというのなら結構なことです。

では、自らに責任はないとする「統治体」自身の言い訳についてはどうか。それは次回。
プロフィール

GUABELLO

Author:GUABELLO
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR