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エホバの証人は戒律主義か

エホ証は聖書に直接書かれていない規則を守ることで知られる。

ある擁護系サイトにはこんな反論がありました。超大ざっぱにまとめるとこんな感じです。

「聖書にはっきりと書いていないことに盲目になるキリスト教世界の消極的な態度の方が問題である。エホバの証人は聖書に書かれていなくても、聖書の原則と良心を頼りに積極的に判断する」

・・言っていることは間違っていませんが、擁護系サイトらし論点をずらしは公式サイトに似ている。

「聖書に明確に書かれていなくても、聖書の原則と良心を頼りに積極的に判断する」

これは間違いなくいいことだと思います。でも、だれが判断するんでしょうか。輸血にしても、誕生日を祝うことについても、学校教育の柔道をスポーツとみなすかどうかにしても、聖書にはっきりと書いていません。それを良心的に判断するのは個々のクリスチャンの責任であるべきで、他者はそれを裁かない、それがクリスチャンの一致ではないですかね。

しかし!エホ証の現実は個人の良心・判断で誕生日を祝ったら排斥されますよね?

さらにそのサイトでは元統治体のレイモンド・フランズの手記を引用し、「彼は『聖書の原則を基にして直接書かれていないことでも積極的に判断する』というエホ証の精神を忘れたのか無視しているのか、底が浅い」などと貶めていますが、やはり論点がずれている。

レイモンド・フランズは一握りの権力者=統治体だけが決定し、その決定が他者を裁く(=排斥する)ための権威とされ、個々のクリスチャンは自分の良心を押し殺してその決定に服従せざるをえないあり方がクリスチャンにあるべきではない、と批判してように思います。
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「神の声だ!人の声ではない!」

他ブログでも指摘されていたが、最近のものみの塔にはえげつない表現が多い。

「きっと皆さんも出版物を読んで『これが欲しかった!エホバがわたしたちのために書いてくださったんだ』と感じたことがあるでしょう」

今までも組織の印刷物は神の備えやら霊的食物やら、という主張はあったが、最近はもっとダイレクトにえげつなく『エホバが書いてくださった!』とか『エホバの言われたとおりに』という表現が増えている。

クリスチャンが「神が書いた」として認めるのは聖書。さらに聖書の一部を書いた使徒パウロでも「神は昔には預言者によって語られましたが、これらの日の終わりには、み子によってわたしたちに語られました」と、「神が自分によって語った」と主張してはいない。後にパウロは「聖書全体は神の霊感によって書かれた」とは言ったが、当時の聖書とは主に預言者たちが書いた旧約聖書の希望や預言を指す。

しかし彼らは使徒や聖書さえ差し置いて「自分たちが書けば神が書いた」ことになる、と言う。もはや神のお告げらしき幻聴でも聞こえてしまっているのでしょうか。

聖書によれば、ユダヤ人の王ヘロデは「神の声だ!人の声でない!」というへつらいの称賛を受けたとき、天使に打たれて死んだ。自分がそう言ったのではなく、民衆からの冒涜的な称賛をとがめずに受け入れただけで、その声をあげた民衆ではなく、ヘロデの方が神に裁かれた。

「エホバが書いてくださった!」と言う文言を「あなたもそう感じてますよね?」と押しつけがましく自分たちでねつ造して載せてますからね。統治体は邪悪なヘロデなんかと違う、だって世界中の(哀れな)信者を駒のごとく使って伝道させる、というグレートな業を行っているからそれぐらいの放言は当然、という反論が「組織に忠実」な信者からは帰ってきそうですが・・

最近こうしたえげつない表現が増えているのは、ものみの塔を「一般向け」と「信者向け」に分けたので、「信者向け」にはフルスイングで書けるようになったからでしょうか。

やはり「宣伝は背教」だった

ものみの塔2013年1月号の「エホバの証人は終わりが来る年に関して、間違ったことを述べてきたか」という記事についてはすでに書きましたが、そこで書ききれなかった点について。

冒頭で、エホ証が何度か間違った予想をしたことを認めてはいるが、「でも1世紀のイエスの弟子たちも間違った期待してたし」といういつものお決まりの言い訳から始まる。その根拠として3つの聖句をあげている。

ルカ19:11と使徒1:6。これはこのブログの「期待と宣伝は違う」という記事で書いたように、彼らは間違った「期待はした」が、それを宣伝し、宣伝し、宣伝するよう命令してはいない。

オモシロいのは3つ目テサロニケ第二2:1,2

エホバの日が来ているという趣旨の霊感の表現や口伝えの音信によって,またわたしたちから出たかのような手紙によって,すぐに動揺して理性を失ったり,興奮したりすることのないようにしてください」

この3つ目ではただの「期待」ではなく、「音信や手紙」によって「宣伝」されている。

この聖句に触れた意図は何か?

この聖句は人を「動揺させ、理性を失わせ、興奮させ」てきたエホ証統治体の度重なる先走った解釈を「手紙や音信」で宣伝することが思いっきり背教的行為であることを暴露するものですが、これがまさか自分たちにがっっつり当てはまる、とは思わないのでしょう。「警告し続ければ、誤報があっても許される」なんて言い訳は統治体が自分たちで引用したこの聖句が戒めている。

神の経路と称し先走った解釈を宣伝し、その解釈に同意しない人間を罪に定めておいて、後で調整する。

「『わたしは憐れみを望み,犠牲を望まない』ということの意味を理解していたなら,あなた方は罪科のない者たちを罪に定めたりはしなかったでしょう」

また強制寄付

もう「エホ証の寄付は自発的」と言えるのだろうか。またもや寄付の強制徴収。

今度は普段から寄付で生活している「特別全時間奉仕者」を一斉に帰郷させるための旅費まで払えと。

今回も「伝道者1人あたり20円×17ヶ月分でお願いします☆」の金額指定付き。

「会衆の集会でも大会でも,エホバの証人の集会場には,寄付をしたいと思う人のために寄付箱が設けられています。寄付が集められることはありません。会費とか十分の一税などを支払う義務もありません。聖書に示されているように,各自はその心に決めたとおりに寄付をすることができます」

「聖書に示されているように寄付は自発的なもので、集められることはない」・・こんな文言は彼らの印刷物によく出てきますが、1人あたまの金額と月数まで言及して決議取らせることが「寄付を集める」こととどう違うのがよく分かりません。

「個人がだれかのために呼びかけて寄付を集めるのはふさわしくありません」的なことも言われたようです。そりゃあそうですよね!聖書にははっきりと、寄付は自発的なもので、集めるものじゃないってかいてありますからね。

でも、統治体が呼びかけて集めることはふさわしいらしいです。

増え続ける『残りの者』②

さて、記念式でパンを食べるエホ証がなぜ増えているのか。

数年前に「14万4千人の募集は終わっていなかったみたい」解釈を打ち出したものの、それは「統治体の世代交代」のためで、平信徒にパンなんか食べてほしくないのです。

ものみの塔読者からの質問:
■エホバの証人の中で,毎年の主の晩さんの時に,パンとぶどう酒にあずかる人が非常に少ないのはなぜですか。

答え:それは,キリスト教世界の諸教会とは対照的に,エホバの証人は,天における命を得るのは少数の人であり,そのほかの神の忠実な僕たちは地上における永遠の命という報いを受ける,という聖書の教えを受け入れているからです。(以下略)


つまり、他のすべての偽りのキリスト教とは違ってパンを食べる人は非常に少なくてはならないのです。何でもそれが『聖書の教え』らしいです・・にも関わらず増えている。さらにそのペースも上がっている。これは・エホ証内にも度重なる強引な解釈変更に同意できなくなっている人が増えている、ということなんじゃないでしょうか。

「記念式でパンを食べる」・・これはエホ証でありながら統治体の解釈に同意していないことを示せる唯一の合法的手段と言ってもいい。自らを「神の経路」と称し、いかなる聖書解釈でも規則でも義務でも、同意しない人間を一方的に排除できる権威を作り上げた統治体でも手をつけていない不可侵の領域。

“To be or not to be; that is the question.”

「なるべきか、ならざるべきか、それが(答えを出すべき)問題だ」

エホ証について言うなら、聖書の命令に本当に従いイエスの真の兄弟になるのか、それとも「よし!」といわれるまでひたすら「まて!」と言われるがまま食べないでいる統治体の犬でいるのか。パン食べた人数の公表をその内やめるのかもしれませんね。
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