妬む愛

もう一つ、仏教との違いは「愛」の捉え方です。

仏教でも他者に対する善行は説かれていますが、動機というか質がやや違います。

JW楽園に入りたいから、は論外として、聖書では人格神の愛に倣え、と教えられています。

そして、JWで教えられる神の忠節なる愛、とはこんな感じです。

「対象に関連した目的が実現するまで愛情を込めて対象に密着する親切」 (WT洞察)

ロイヤルラブってやつですが、はっきり言って重いんです(汗)

イスラエルの神は、妬む神、とも言われています。

自分以外の神に浮気したら絶対に許しません。

でも許しちゃうんです(笑)

絶対に見捨てないんです(笑)

だからまた浮気されるんです(笑)

旧約は、こんな感じの繰り返しです。


仏教では、こういうのは「執着」または「煩悩」と教えられます。

だから「WTねたむ君」に倣って培われるJW愛は押しつけがましく、ストレスになります。

例えば、非信者の家族という「対象」に関連する目的とは、JWに「ならせる」ことです。でも実現しません。そして諦めてはなりません。あの手この手で懐柔しろ、と組織には教え込まれます。

しかし「相手を変えよう」としても上手くいかず、逆に関係は悪化するので思い悩む、いわゆる「対象」や「目的」に執着するゆえの「煩悩」になってしまう訳です。


「対象に関連した目的が実現するまで愛情を込めて対象に密着する親切」と言ったところで、旧約バージョンWTねたむ君の究極の目的は今も相変わらず、全人類を自分限定崇拝者に「ならせる」ことでしょ。

その実現のためにはWT教理を信じない人間を抹殺するんですよね。

何が「自由意志」だよ。

何が「忠節な愛」だよ。

自分を愛して(拝んで)くれる者だけを愛したからといって、誇れるものが何かあるんですか。

自分に倣えと仰るなら、そう教えている神様本人が、まず範を示してくださいね。
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主知主義

キリスト教関連の本は飽きてきたので、仏教本に手を出し始めた、と少し前に書きましたが、もともとのイエスの教えとは共通する部分もたくさんあれば、イエス後のギリシャ哲学(主知主義)の影響が色濃いキリスト教神学との対照がおもしろいです。


とりあえず主知主義について、ウィキではこんな説明です。

「知性や理性の働きを意志や感情よりも重視する哲学・神学・心理学」

その源流はギリシャ哲学とされています。

前にも書きましたが、初めは信仰だけだったのに、信仰に徳を、徳に知識を、とだんだん加えるものが増えてきた第二ペテロ書簡にも、その影響が見られます。

そのギリシャ哲学を取り入れて発展したのが、新約に始まる、初期~中世のキリスト教神学です。

イエス後に形成されたキリスト教宗教が絶対宗教であり、あらゆる神学上の、歴史上の、そして世界どころか宇宙の、すべての問いに答えを与えるものだという大層な主張もしくは願望は、この主知主義の影響が強いと思います。

そんな大層なことをイエスは教えていなかったと思うのですが。

この影響を今でも、もろに受けているのがJW神学です。

ギリシャ哲学大嫌いと言いつつ、こういう尊大で独善的な主張は、他のキリスト教よりも色濃く残っているんですよね。100年以上前の根本主義のまま進歩がない。1914年とかいつの話だよ。


全知全能の唯一人格創造神が存在する「はずだ」(偶像=定義崇拝)

その唯一神は究極の目的を持っている「はずだ」(知識崇拝)

その知識は聖書に書かれている「はずだ」(聖典崇拝)

聖書を正しく理解している唯一神の組織が存在する「はずだ」(組織崇拝)


そんな西洋キリスト教神学でしか通じない演繹前提、どっから持ってきたんだよって話です。

情緒的なもの、宗教的なものさえ、「知識」に変換されなければならず、究極の目的(についての知識を所有しているという自己認識)がないと禁断症状を起こす病巣をばらまくのがJW教理です。


信仰か知識かって言われたら、JWは迷わず知識の方が重要だ、と答えるでしょう。

イエスやキリスト教の神をどれだけ「信じて」いようが救われない、と宣いますからね。

その信仰が(自分たちサイドから見て)正確な知識とやらに基づいていないからです。

続きます。

新たなる掟

「友のために自分の魂をなげうつこと、これより大きな愛を持つ者はいません」


これがイエス曰く、新しいおきてのようですが、「自分の神」のためじゃなく、「友」のために魂をなげうつ愛、これを超える確からしい真理があるんでしょうか。

旧約律法ばかりに偏重して、「宗教」や「信条」のために命をなげうつ、なげうたせることしか頭にない。そういう教条主義や浄化主義はイエスが終わらせたはずなのにね。

輸血拒否も自爆テロも本質は変わらない。

唯一正しい信条(これが正解)と言い張ったところで、「神の目に正しい」 と聖典から自分や他人が解釈すること、宗教のお偉いさんに教え込まれること、を信じているにすぎない訳で。

そういうのは相対的(お互い様)だよね、ということかと。


律法(聖典)こそが絶対ですか?

その律法の解釈すら49通りあるとユダヤ人も認めてますが。


仮に、全人類の誰が読んでも解釈の余地がない 「完全なる戒律集」 がこの世に存在したところで、人を罪に定める律法(ルール)では人を贖えず、奴隷となる子どもを生み出すにすぎない。

それが、新約が旧約とセットで言いたいことですか。


イエスが剣を投じるために来たとは、自分が所属する枠組み(宗教)の伝統教義戒律に固執する人たちからの風当たりですよね。

自分たちが排他的・独善的・教条的になって買う、まっとうな反感のことじゃない。


聖書研究者の頃はそのスピリットが多少はあったのかもしれないが、ちょっと組織だったくらいで、その狭い世界で自己の組織や教義の絶対視を要求して裁いて、同じことをやってどうすんだ。

マトリョーシカ人形のように歴史は繰り返すから仕方ないんでしょう。


「私たちがある信条の擁護者になるとき、何かが死ぬ・・つまり、神を信じているのではなく、神について自分の信じていることを信じているにすぎない」

相対的真理

そんなもんあるか(笑)

宗教間の交流を支持するたちは、多くの場合、だれも「真理を教えているのはこの宗教だけだ」とは主張できない、と考えます。実際、「今日見られる諸問題の多くは諸宗教の排他主義が原因で生じている」と言うかもしれません。(JWorg)

これも、その通りなんじゃないですかね。

その人たちは、真理が相対的だと言っているんじゃなくて、人が知りうる(宗教上の)見識や概念、人がそれらを言葉で表現しうる説明はすべて相対的だって言っているんですよ。

それが宗教者の慎みってもんでしょ。

そんなの空しい不可知論だ!とでも言いますか。


じゃあ新世界訳を引用しますよ。

「すべての人が偽り者であったとしても、神は真実であることが知られるように」

「神の富と知恵と知識の深さよ、その裁きは何と探りがたく、その道は何とたどりがたいものなのでしょう」


これを不可知論と言うなら、聖書は不可知論を教える本ですから。

人としての慎みと限界をわきまえて、排他的・独善的にならないようにね。


そのような意見とは対照的に、エホバは「真理の神」と描写されており、ご自身のことを「わたしは変わっていない」と言っておられます。(JWorgさんの反論)


聖書にそう書いてあるから何なんですかね。なら他にも引用しましょうか。

「これは、水と血によって来た方、すなわちイエス・キリストです。水だけでなく、水と血とをもって来られたのです。そして、証しをしているのは霊です。霊は真理だからです。」

「わたしは道であり、真理であり、命である。」


聖書で語られる真理とは、「地の高貴な者たち」が都合よく思いつく宗教解釈でも独自戒律でもなく、神、キリスト、御霊ですよ。でも3つの真理ではなく、唯一の真理が存在する。それを「さんみいったい」と言いたければ言えばいいし、その単語が嫌いなら使わなければいい。

そんな表記のチョイスに真理は左右されないので安心しましょう。


「宗教の限界を知らぬ者が宗教の変革を試みても、必ずや劣悪な変種になる」

これも、真理ですねぇ。

指月


「誰かがこう言っていた」に依存する信仰には、限界があります。


限界があるだけでなく、危険でもあります。


その人(組織)の言うことがどんなに奇妙でも、心身を、家族の絆を、ズタズタに切り裂いてでも、頑なに実践することが信仰になってしまう。


突き詰めれば、聖書(パウロ)がこう言っているから、に盲従する信仰も同じです。


文字がなければ伝わりませんが、文字は指月の指にすぎません。


聖書がなければキリストは伝わらなかった、くらいの「聖書のみ」でいいと思います。


「も塔の」言っていることが真理でないのなら、「誰の」言っていることが真理なのか。


どうして「人の言うこと」ばかりに頼るんでしょうか。


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