指月


「誰かがこう言っていた」に依存する信仰には、限界があります。


限界があるだけでなく、危険でもあります。


その人(組織)の言うことがどんなに奇妙でも、心身を、家族の絆を、ズタズタに切り裂いてでも、頑なに実践することが信仰になってしまう。


突き詰めれば、聖書(パウロ)がこう言っているから、に盲従する信仰も同じです。


文字がなければ伝わりませんが、文字は指月の指にすぎません。


聖書がなければキリストは伝わらなかった、くらいの「聖書のみ」でいいと思います。


「も塔の」言っていることが真理でないのなら、「誰の」言っていることが真理なのか。


どうして「人の言うこと」ばかりに頼るんでしょうか。


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宗教の選択

同じ騙されるなら景色はより広くて自由な(と思える)方がいい、たどり着くことはなくても、できるだけ上からの景色は見てみたい、というのは人の性です(そこに山があるから)。

宗教というものに騙されていたと、もう一つ覚醒するのもいいですが、結局は、誰でも感覚器官を経由する何かの情報に振り回されて生きていく、その情報源と居場所を自分で「選ぶ」ことしかできません(善悪の知は選択することでしか取得できない)。

「選ぶ」と「信じる」は違う。

シュライエルマッハーのようにそれを「知った」上で(彼の場合はキリスト教に一度は幻滅した上で)、何かの宗教という枠組み(階層)を居場所として留まる(選ぶ)人が増えれば、それだけでもカルト団体の実害は軽減されてゆくと思います。

選んだだけで、その選択(選択した宗教や宗派)が信仰の対象にはならない。


聖書でも、人が神を選ぶのではなく、神が人を選ぶ。

人がまだ生まれもせず、善や悪を成す前から、神の選びは召される方に依存する (パウロ)

モーセやパウロに、自分が神を選んだという意識はない。

宗教団体のチョイス、神名表記のチョイスは、神の選びとは何の関係もない。

そのチョイスを「真の宗教」だと自賛する人は、自分の選択を崇めているだけです。

「真の」神が存在しないように「真の」宗教も存在しない。
(神や宗教が実在しないと言っているのではなく)

「真の」ラーメンや「真の」ハンバーガーが存在しない(決定できない)のと同じ。

選択できるだけなのに、その選択を誇る人は、自分が創ったのでもないものを讃える偶像崇拝者や表記(ブランド)崇拝者、または自分の目利きを高める自分崇拝者です。


神が神でないのなら、神にとって恥なのは人であり、その逆ではない (カール・バルト)

おこがましい表現を使うと、宗教の迫害ではなく、宗教の変革です。

でもバルトによると、宗教事象(というヒトの営み)の根本的制限を知らない者が「宗教の変革」を叫べば、どこかの新興教団のように、ただの劣悪な変種に堕ちるそうです。


キリストの恵みさえ罪悪感を煽るのに利用してとにかく業を!ですからね。

お前たちはこんなにありがたいキリストの恵みに感謝をシメサナイのか?

ワレワレに従わなければその恵みを失うのだぞ?

何という劣悪な「恵み」へと変種してしまったのか。

現在的終末

クリエーターを信じるのもいいですが、創造神ならこの世を滅ぼさないことも、気が向いた時に滅ぼすのも自由、各人は今夜にでも言い開きをすることになる(イエスの現在的終末論)。

それが、かのユダヤ人信仰者にも宿るスピリットだった。

神が、宗教会議と伝統で決めた「聖書」に縛られる筋合いがあるのかな、という素朴な疑問。

WT解釈に行動や性格を限定されるWT神はさらに論外ですが(拝むに値しない)。


現在的終末思想は信じた人が「黙って」生き方に表せばいいと思います。

そういう思想を語って広めるのもいいですが、「人の命を救う」と称して具体的なタイムリミットまで宣伝するなら、起こらなかった全責任は取るように。

現在的終末論(明日にでも来る)は偽預言解釈を正当化する言い訳ではない。

そういう者たちに付いて行かないように、とイエスは警告した。

躓かせる者は臼石をくくりりつけられて海に沈むより災いだと。

そもそもJW活動への参加/不参加というちっこい話が裁きの根拠になるとは思えませんが。


JW親の立場にある人が生み出してきた「実」とは何なのか。

腹を痛めて生み出した「命」に受け継がせるスピリット=霊とは何なのか。

聖書を子育てに役立てるのもいいですが、ハルマゲの恐怖を刷り込み、JW活動戒律でがんじがらめにして尊い命のポテンシャルを限りなく狭めてしまう、それが聖書のスピリットなのかな。


恐れを生じさせる奴隷身分の霊(パウロ)を植え込む、強迫観念に貶められた神。

恐れ、恐れ、死を課する者たち(エリフ)が利用するスピリットは恐れです。


『主は霊である、そして主の霊があるところには、自由がある』

主の霊は束縛や恐れとは無縁です。

主の霊がその人の霊=スピリットと同期して「アバ、父よ」と叫ぶからです。

人生の目的

WT信者のように5秒で言い切る(エホバ様の御意志を行い、エホバ様を賛美することです)人はいないでしょうが、今まで読み漁った中でぐっとくるインスピレーションがあった本は何冊かあります。

あえて名前は挙げないのは、宗教関係者はもれなく政治的な活動や発言もしていて、「政治に関わる発言はすべて悪だ」というJWの短絡的な中立思想は論外としても、このブログでは宗教のお話にとどめておきたいので。

何かを読むときに、誰かが「こう言っていた」という引用(利用)目的の読み方はつまらない。その人の言っていることの何が正しい/間違いか、とジャッジしながら読むのはさらに最悪。

怪しい言い方をすると、その人の霊=スピリットを感じる読み方です。聖書にも様々な霊感(スピリット)が宿っているように、本にも書いた人のスピリットが宿って(生きて)います。

本とは何かを主張するために、何かを伝えるために書くものですが、正しい間違いを単純に主張する次元を超えて「魂」で語っている人の本や、逆にできるだけ主観を排して(不可能ですが)検証目的で書かれているストイックな本が好きですね。


人生の目的はそれぞれ考えればいいと思いますが、何人かのキリスト者に共通するスピリットは感じました。

スピリットは永遠で、命も永遠です(啓示された真理)

それを後世に伝えることです。

命だけなら全生物に共通ですが、スピリットを遺せるのはヒトだけです。

命を育むのは尊いことですが、願ってもできない人はいます。

でもスピリットを伝えることは誰にでもできます。

といっても、後世に語り継がれる思想や本を遺すことも限られた人にしかできません。

発信する方法はいくらでもあります。

毎日会う人に「証し」すればいい。

その証しとは、もっともらしく「持論の正しさ」を語ることではありません。

宗教に限らずウザがられます。持論はブログにでも書いて夜中にひっそり読んでもらうくらいがいいでしょう。片道発信だから、ウザいと思えば読まない自由もあります。

話し方、接し方、言動に表れるスピリットは人に伝わります。自分もJW非JWを問わずインスピレーションを受けた人(本の著者含む)はたくさんいます。

できるだけそういう人や本に巡り会い、その霊を感じること。「キリストの霊」(パウロ)を伝えたい人はそうすればいい。持論を独善的に主張するよりもキリストの思いが宿る言動でね。

どの宗派や団体がナンバーワンだとか、不毛な聖典解釈論争に明け暮れるよりも、クリスチャンとわざわざ称するなら、自分を見ればキリストを知る、こんなに自分と長く付き合ったのにあなたはまだキリストを知らないの?と、真顔で言えることを目標にして頂きたい(自分には無理ですが)。

たった一人が後世に伝えられる命や霊はわずかなものですが、それらは永遠に続きます。キリストを愛する人は「彼の命」に移されています。

ものみの塔が潰れるかどうか、なんて永遠の観点から見ればどうでもいいですが、思考停止状態でWTのみを情報源に、大会集会で半分寝ながら睡眠教化されて「楽園での永遠の命と復活」を夢見て、やがてボケるのも悲しい人生です(思考を永年停止させて決まりきったJW日課を続けてきただけのご老人に多い)。

表れては消える新興宗教団体や、その都合よくコロコロ移り変わる偽預言解釈に人生をかけても、命も霊も遺せない。それが「滅び」なんでしょう。

バルト語録②

何度かWTにも引用されているバルトですが、真理シリーズのおまけにWT信者向けに引用してほしいバルト語録(載る訳がない)を少し引用します。

『真理はわれわれと共に生きず、われわれと共に死なない。われわれが正しい時に正しいのではなく、われわれが間違っている時に間違っておらず、われわれの勝利の時に勝利せず、われわれの敗北の時に敗れない。それゆえに、真理はこんなにも強く、自分自身の生を生きる・・それゆえに、真理はゆりかごの上にも陰を落とす死であり、墓の上でも息づく生命である』

BC607年の間違いが“証明”されたら真理の負けですか。

進化論の間違いが“証明”されたら真理の勝ちですか。

人が唱える“論”や“説”のどっちが勝つか、正しいか、とは関係ない真理です。


「わたしは救いの音信を恥とはしない」(パウロ:ローマ書冒頭)

『救いの音信は、世界宗教や世界観の争いを探し出す必要も、ことさら避ける必要もない。この音信は、既知の世界を、もう一つの未知の世界によって限界づけることについての音信だから、既知の世界の内に、比較的未知な、より高い存在領域をなおも発見し、近づきやすいものとしようとするすべての試みとの競争の圏外に立っている・・それは弁護され支えられることを必要としない。この音信が、それを聞き、宣べ伝える者たちを弁護し、支える・・もし神が神でないならば、われわれは神にとって無用であり、神はわれわれを恥じるに違いないであろう・・どちらにしても、その逆ではないのである』

エホバの証人が悪く言われそうな時は、エホバの証人だと言わないがいるよね~

財布を拾ってお巡りさんに届けるときは、わざわざエホバの証人だと言うよね~

恥ずかしい、誇らしい、どちらも表裏一体。

普通、財布を拾って届けたくらいで「誇らしい」とは思わない。自賛する話でもない。

校歌を歌えない、乾杯できない、誕生日を祝えない・・親と組織に洗脳されて「誇らしい」と思うか、親と他信者の目を恐れて「恥ずかしい」と思うかの二択しかない。

どっちもさ~、普通のことだよ。誇らしいとも恥ずかしいとも感じることじゃない。

掟と要求による敬虔競争に、もれなく二点セットでついてくる優越感と罪悪感。

「要求が来た時、罪は生きはじめたが、わたしは死んだ。そして、命を目指す要求、まさにそれこそが、わたしを死に至らせることが明らかになった」(パウロ)


この世のあらゆる神が神でないのなら、にとって恥であり無用なのは自分たちだと彼は言う。

その逆ではない・・この転換は脳みそに刺激的でした。そこに生じ得る逆転現象。

「だれが神の思いを知るようになり、その助言者となったのか」・・宗教的事象の制限を根本的に知らない者が宗教の変革者になろうとすれば、必ずや劣悪な変種になるだろうと予告していた。

予言解釈を外しても、寄付を懇願しても、エホバ様は恥ずかしいとは思ってないからと言い切る、ある意味で恥も外聞もない宗教的事象を利用する、神の思いを知る代弁者たち。
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