消えたパン

ここ何年かは記念式の招待状からパンとワインが消えていましたが、今年もそうでした。かの有名な「最後の晩餐」ですよ~、みたいな感じで宣伝していた時期もありましたが、やはり「食べたり飲んだり」する場ではないことをアピールしたい模様。

『イエスはパンを取り,感謝をささげてそれを割き,それを彼らに与えて,こう言われた。「これは,あなた方のために与えられるわたしの体を表わしています。わたしの記念としてこれを行ないつづけなさい」。また,晩さんがすんでから,杯をも同じようにして,こう言われた。「この杯は,わたしの血による新しい契約を表わしています。それはあなた方のために注ぎ出されることになっています」』

マタイではこうなっています。

『イエスはパンを取り,祝とうを述べてからそれを割き,弟子たちに与えて,こう言われた。「取って,食べなさい。これはわたしの体を表わしています」。また,杯を取り,感謝をささげてからそれを彼らに与え,こう言われた。「あなた方はみな,それから飲みなさい。これはわたしの『契約の血』を表わしており,それは,罪の許しのため,多くの人のために注ぎ出されることになっているのです」』

何を「行なう」のかと言えば、イエスの記念としてパンを食べ、ぶどう酒を飲むことです。

『わたしの肉を食し,わたしの血を飲む者は,ずっとわたしと結びついているのであり,わたしもその者と結びついています』

今のところ、パンを食べ、ぶどう酒を飲む、という物理的行為そのものに、救いやイエスを自らの内に住まわせることと直接の関係がある、とは考えていません。

『あなた方は自分が何を求めているかを知っていません。あなた方は,わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか』

『わたしの父よ,もしできることでしたら,この杯をわたしから過ぎ去らせてください』


これは自分なりの捉え方ですが、当然、「イエスの杯」には血を注ぎ出すことも含まれていました。指導部はその御利益 → だから感謝しましょう、奉仕しましょう、ばかりを強調しますが、↑の聖句からすると、その杯から飲むことはクリスチャンとして生きる覚悟の程をも表すもの、と感じます。何せイエスの流されたその血を飲むのですから。言われるがままに、回ってはくるがだれもその杯に手をつけず、「過ぎ去らせ」ていく様は悲しい限りです。

いずれにしても、JWも認めるようにイエス本人が「行ない」として続けるよう与えた数少ないおきての一つですので、食べたり飲んだりすることをやめさせる理由もよく分かりません。

『パンにあずかる人は全くいないか、いるとしてもごく少数でしょう』

仮にJWが解釈するように、食べたり飲んだりするのが「14万4千人の残り者」のみ、とすれば「これを行ない続けなさい」という命令も、その人たちだけのものです。何かそれを特権階級のように仕立てたり、食べたり飲んだりしない見守る人?=ギャラリーを集めて食べにくい空気を作ったり、しかもクリスチャンでない人も呼びなさい、とは言われていません。

贖いや2つの希望についてのJW解釈発表会なら、別にこの夜でなくてもいい訳で、パンとワインさえ消えてしまった招待状に「特別なご案内」と書かれても一体何の集まりなのか、ますます分からなくなりました。
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何人食べた?

さて、今年のエホ証の記念式。

去年パンを食べた人数に言及しなくなったようです。

こうなると、以前の記事で指摘したように、毎年の年鑑でもついにパンを食べた人数そのものが近い将来公表されなくなる可能性が高くなりました。

これまで、減り続ける一方だったパンを食べた人数を公表するのは、「終末へのカウントダウン」と「これ以上食べるなよ」という2つの意味があったが、「1914年世代」の統治体メンバーが死亡するまでに終末が来なかったので世代交代のため解釈変更を余儀なくされ、今や増え続けるこの数を公表することは自分たちの解釈にかえって不都合になったからでしょう。

「1914年」「14万4千人」「忠実で思慮深い奴隷」・・エホ証の根幹をなす解釈がもはや崩壊しつつある前兆でしょうか。

パンを食べる人数の公表をやめるなら、説明くらいしてほしいものですがね。聖書的な説明などあろうはずもなく、また都合よく聖句をとってつけたかのような苦し紛れの言い訳になることは分かっていますが・・

「これを行ない続けなさい」

今年もやって来ましたエホ証記念式。

出席者のだれもがパンにもぶどう酒にも手をつけない、異様な儀式。

なぜだれもパンに手をつけないかというと、以前に書きましたが、「油そそがれた信者」と「その他大勢群衆」という彼らの聖書解釈に基づく信者の2階級制度のためです。

それで「記念式」といっても、なぜ出席者が「パンに手をつける」というおいたをしてはいけないのか、その2階級制度の説明が話の大半を占める。つまりものみの塔解釈発表会です。

イエスは「わたしの記念として、これを行ない続けなさい」と言われた。何を「行なう」のだろうか。ユダヤ人が行なっていた無酵母パンの祭りを、これからはイエスの記念として行なうのだ。

『イエスはパンを取り,祝とうを述べてからそれを割き,弟子たちに与えて,こう言われた。「取って,食べなさい。これはわたしの体を表わしています」。 また,杯を取り,感謝をささげてからそれを彼らに与え,こう言われた。「あなた方はみな,それから飲みなさい」


でも、彼らは断固として食べない。

エホ証は学校の卒業式に出席はしても、国家・校歌は歌わない。仏式の葬儀に居合わせることはあっても、焼香は断固としてしない。

皮肉にも、それと同じことを自分たちの記念式でしている訳ですね。出席はしても、イエスが与えてくださったパンとぶどう酒に手をつけない。つまり、あまりにも直接で、明快な、聖書そのものに書かれている命令に従うことを断固として拒む一方で、統治体のよく分からない、よく「調整」される解釈への絶対的信仰を表明する行事です。

「我々こそ真のクリスチャン」と自称する一派の信者が、パンにもぶどう酒にも手をつけない・・想像を絶する苦痛と逆境の中で自分の体と血を捧げる直前に、「わたしの記念としてこれを行ない続けなさい」と言われたイエスはどうご覧になっているのでしょうか。

増え続ける『残りの者』②

さて、記念式でパンを食べるエホ証がなぜ増えているのか。

数年前に「14万4千人の募集は終わっていなかったみたい」解釈を打ち出したものの、それは「統治体の世代交代」のためで、平信徒にパンなんか食べてほしくないのです。

ものみの塔読者からの質問:
■エホバの証人の中で,毎年の主の晩さんの時に,パンとぶどう酒にあずかる人が非常に少ないのはなぜですか。

答え:それは,キリスト教世界の諸教会とは対照的に,エホバの証人は,天における命を得るのは少数の人であり,そのほかの神の忠実な僕たちは地上における永遠の命という報いを受ける,という聖書の教えを受け入れているからです。(以下略)


つまり、他のすべての偽りのキリスト教とは違ってパンを食べる人は非常に少なくてはならないのです。何でもそれが『聖書の教え』らしいです・・にも関わらず増えている。さらにそのペースも上がっている。これは・エホ証内にも度重なる強引な解釈変更に同意できなくなっている人が増えている、ということなんじゃないでしょうか。

「記念式でパンを食べる」・・これはエホ証でありながら統治体の解釈に同意していないことを示せる唯一の合法的手段と言ってもいい。自らを「神の経路」と称し、いかなる聖書解釈でも規則でも義務でも、同意しない人間を一方的に排除できる権威を作り上げた統治体でも手をつけていない不可侵の領域。

“To be or not to be; that is the question.”

「なるべきか、ならざるべきか、それが(答えを出すべき)問題だ」

エホ証について言うなら、聖書の命令に本当に従いイエスの真の兄弟になるのか、それとも「よし!」といわれるまでひたすら「まて!」と言われるがまま食べないでいる統治体の犬でいるのか。パン食べた人数の公表をその内やめるのかもしれませんね。

増え続ける『残りの者』

エホ証年鑑2013年が公式で公開されていたのでのぞいてみた。

記念式で表象物にあずかった人の数12,604

順調に増えていますね。

1914年から1世代でこの世が終わるはずだったのに、そう言っていた「1914年世代」の統治体のおじいちゃんの方が全員死亡。「世代交代」のために苦肉の策とも言える「14万4千人の募集はまだ終わっていないってことにしました」解釈を発表したのが数年前。

「統治体」は18年ほど前にこう言っていた。

「近年,まだ地上にいる小さな群れの人数はかなり少なくなりました。油そそがれたクリスチャンは,こうなるのが当然であることを知っています。(中略)霊的なイスラエルに証印を押すこの業は明らかに相当進んでいるので,胸の躍るような出来事が間もなく起きることが分かります。一つには,滅びを意味する四方の風が地に放たれる大患難の時が非常に近いに違いありません。(1995年ものみの塔)」

こうなるのが当然」「この業は明らかに相当進んでいる」、だって「大患難が非常に近い」から・・つまり「この数が減る=終末へのカウントダウン」のはずだったのですが・・

今や完全な嘘っぱちですね。

自らを「神の経路」と称しながらこうまで解釈が外れていることに単純な羞恥心すら持ち合わせていないのでしょうか。数千年の歴史がある聖書を看板に掲げながら、10年20年単位でコロコロ解釈を変えられてはね・・

1世紀のクリスチャンが神の目的の理解において成長する必要があったのは事実ですが、先走ったことを「宣伝」して、それを後で繰り返し「調整」したなど、聖書のどこにも書いていないと思うのですが勉強不足なんでしょうか。

アポロが伝えていたのは「ヨハネのバプテスマについてのみ」だった。彼は仲間のクリスチャンから教えられさらに多くの事を伝えられるようになった。自らを「神の経路」と称し、後で「調整」が必要になるような先見の明が全くない解釈を先走って「宣伝」するよう命令する人間は1世紀には1人もいなかった、ということです。
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