血液の闇

旬はとっくに過ぎた感はありますが、宗教書の箸休めに「血液の闇」を読んでみた。

輸血に限れば大筋でWTの主張と変わらない。

輸血が必要と判断されるヘモグロビン値の基準はあてにならない
輸血ではなく輸液でまかなえる
輸血はリスクいっぱい

このあたりは聖書とは関係ないお話なので、専門家にお任せするしかないですね。
この人も専門家らしいので、この人を信用したいならすればいいんじゃないでしょうか。

面白いのは、医療全般に対してはWTよりも過激な主張が含まれている点です。

輸血利権はロックフェラーを中心とする闇の勢力に牛耳られている
緊急時でも輸血より海水療法が効果的・・カントンプラズマ(海水由来血漿)?とか

ボランティアじゃないし、医療にそれなりの利権が絡んでるのはあたり前と思いますが。
リスクがある臓器移植と同じで、できるだけ輸血しないのにこしたことはない。

WTが問題視されるのは絶対的輸血拒否を「信者の地位」の条件にしているからです。年端もいかない子どもにまで「輸血という救命行為はエホバ様が憎まれる」と教え込むよう指導している。

この人も現行の西洋医学で行われている99%の輸血は不要と主張しているが、それを額面通りに受け取るとしても、残りの1%の状況でどうすべきかを明言していない。

その1%の事例として、一昔前はほどんどが死産に終わっていた産婦人科疾患の胎盤剥離を挙げている。現段階では私にもこの分野だけは結論が出ない、と言っているが、その少し後では交通事故でも同じ状況(輸液では追いつかない急速な大量出血)があり得ないとは言えない、と書いている(あれ)。

自分の妻が今そのような状況になったら無輸血で他の処置を可能な限りやってもらうことを選択するだろうが、その判断が正しいかは分からない、と正直に言葉を濁している。WT信者の輸血拒否が問題になるのは、まさにそういう状況での、絶対的輸血拒否なんですけどね。

それはこの人自身が使っているたとえが説明している。砂漠で脱水症状を起こし、命が危険な状態になるが手元には体に悪い?コーラしかない。水分補給に適しているのは水やスポーツ飲料だがそんなものはない。じゃあ体に悪いからとコーラを拒否して死ぬ人がいるのかな。

安易な輸血はやめよう、相対的にリスクの低い代替療法を促進しよう、という主張なら結構だと思いますが、絶対的輸血拒否信条は、体に悪いとか、リスクがどうのとは別次元かと。

ま、こういう本を書けば、も塔関係者にはそこそこ売れたでしょう。

カントン療法は医療利権に潰された!というなら、金満WT協会(最近は財政難らしい)とタッグを組んで自前の病院を作って失血死寸前の患者に海水でもポカリスエットでも注入してみたらいいのにね。まず認可が出ないと思いますが、それも闇の勢力がクリーンな医療を潰そうとする陰謀なのかな。

この本に専門的に反論する知識も暇もないが、真偽はともかく、鵜呑みの塔信者には利権まみれ(笑)の病院で治療を受ける時には「血のブロシュアー」よりも、この本で「証し」してほしい。

「西洋医学は闇の勢力を牛耳るロックフェラーの利権温床で、赤十字は人口削減機関、輸血は医療報酬目当ての最たる悪事ですよ?死んでもいいからやめてくださいね?」

それが事実かどうかに全く興味はないが、医療界での立場がさらに悪くなるのは間違いない。
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続・輸血

輸血問題でJWに見られる傾向は、輸血のリスクと無輸血医療のメリットをやたらと強調することです。それは論点をずらしている、と思います。

当初、JWは「健やかにお過ごしください」というヤコブの言葉に「健康にいい」との意味合いがあるかのように適用していましたが、今ではその言葉は「さようなら」の慣用句でしかない、と認めるに至りました。実際、神が血を避けよ、と命じている理由が「体=健康に悪いから」というなら、命を賭してまでそれを拒否する聖書的な理由が見当たりません。

ノアの時代に「血を伴う肉を食べてはならない」との命令は、血によって表される命を神聖なものとし、食べるために殺す命=血は地面に注ぎ出す、という掟と理解しています。もちろん生きたままの動物の肉や血を殺さずに食すことなど、言うまでもなくさらに残酷でしょう。ヤコブの言及も同様に、血(を伴う肉)を避けよ=食べてはならない、ということです。

つまり「食べるか食べないか」だけの話で、命を左右する類のものではありません。聖書が明確に特定している「殺して食べる」行為と、聖書に何も書かれていない医療としての「生きたままの移植」行為をごっちゃにしていいのでしょうか。臓器移植もNGになってしまいますね。事実、JWはそう解釈していましたが、今では“調整”されて臓器移植は個人の判断になっています。

個人レベルで安易な輸血はしたくない、というなら別の話ですが、問題は不測の緊急事態が生じた時に救命措置として行う輸血をも全信者に禁じている、ということです。リスクなど承知の上で、命を救うための一種の移植行為として行ないます。献血者の命を奪う事もありません。臓器移植も輸血も術後のリスクがあるのは当然で、必要もないのにしてほしい人もいないと思います。

「血(を伴う肉)を食べるな」という文言が、救命措置として行なう輸血という医療行為を神が禁じているという人間の解釈に強制力を持たせ、神聖な命を失わせてもよいのでしょうか。

「輸血のリスク VS 無輸血のメリット」

「輸血拒否で死んだ人数 VS 無輸血医療で恩恵を受けた人数」

「安全な血液確保のためのスクリーニング手法の進歩 VS 無輸血医療の進歩」


という勝負ではないと思います。

無輸血医療が進歩するのは普通にいいことです。でも過去において現場の医師が、自分の知る範囲で他に手段がない、その時、目の前の命を救いたい、とやむなく行う緊急措置としての移植行為までを神が本当に禁じていたという根拠を、医学ではなく純粋に聖書そのものから示していないように思います。JW解釈の正しさは、医学上のリスクの有無に依存しているのですか。

純粋に聖書だけを読んで、神が本当に禁じていると思うならそうしてください。禁じられた木の実は毒だったんですか。その成分と体に与える影響を医学的に調査して「理に適った禁止命令だ」とでも言いたいんですか。一方で分画なら個人の判断でいいよ、なんて偽善的な指導はもうやめましょう。木の実を丸ごとかじらずに、ジューサーにかけて果肉を除けば飲んでもよかったんですか。

臓器移植解禁の時に一緒にやっちゃえばよかったのに、今さら後には引けないので、部分輸血を徐々に解禁しながら少しでも一般ウケしようと論点をずらしているだけです。ヤコブが割礼問題のおまけで語った「避けよ」の1点張りがもう限界なのを、指導部も薄々分かっているように思います。


過去、無輸血手術を同意しながら緊急時には輸血する方針を立てていて、それを実行した病院側が敗訴していますが、それは仕方ないと思います。はっきりと、命に関わる緊急時には輸血します、と言ってイヤだというなら他を探してもらうしかないでしょう。病院側の良識やリスクはお構いなしに自分の権利ばかりを主張するJWに辟易して受け入れを断る病院も増えていると聞きます。

日本支部が近々、手術時に病院側から署名を求めるよう信者に指導していた書類の一部を廃止する話が拡散されていますが、そんな背景も理由なんでしょう。さじ加減一つの微調整で段階的緩和なんて神権的戦術はやめて、組織のメンツよりも人の命が神聖だと思うなら、さっさと全面撤廃、すべては個人の判断と自己責任にした方がいいんじゃないかと・・

輸血拒否のニュース

こんなテンプレ丸出しのブログですが、昨日のアクセス数が飛躍的に増えていました。

原因はこれですね⇒『「エホバの証人」信者の家族が輸血拒否・死亡・・青森県立病院』

ここには「エホバの証人」「ブログ」で来る方が多いようなので、エホ証関係者がどう反応しているか、大勢の人がネットを駆け巡っていたようです。

輸血についてはシリーズで書いたのでもう特に書くこともないのですが、今回ケースのように、病院側が一番恐れているのは不測の緊急事態が生じた時だと思います。

「手術中に出血が止まらなくなり、病院側が説得したが、息子は応じなかった。手術は打ち切られ、女性は同日夜、死亡した」

手術中に出血が止まらなくなった原因は分かりませんが、あくまで一般的なケースとして、大抵の手術に100%はなく、不測の事態が生じる可能性はゼロではないと思います。もちろん今回のケースがそうだという訳ではないが、人間がする以上、人為的なミスでその事態が生じることもあるでしょう。

不測の緊急事態が生じた時でも救命措置としての輸血さえできない・・これが病院側がエホ証をイヤがる大きな理由の一つだと思います。

エホ証発行のDVDでは「最近の医療技術はこんなに進歩してるんですよ♪こんな手術も輸血なしでできるんですよ♪」と嬉々として、相変わらずの成功例だけを取り上げます。

では医療や医師の技術が進歩して輸血なしで成功する確率が上がれば、手術しやすくなるのでしょうか。そこを自分のことしか考えていないエホ証は大きく勘違いしていると思います。仮に輸血なしで成功する確率が99.9%になったとしても、不測の事態が生じる確率はゼロではなく、それが生じた時、その同じ確率でもって病院側の責任とみなされることにもなりかねません。どんな場合でも病院には責任を問わないと誓約しても、救命できなかった医師の良心は痛み、医師としてのキャリアが傷つくことさえあるでしょう。

エホ証はいつも自分たちが第一のわがまま宗教です。「信教の自由は保障されるべき」「患者の意思が尊重されるべき」・・それ自体は間違ってはいないが、エホ証は自分たちに都合のいい所だけ正論を振りかざします。毎度おなじみの成功例だけでなく、今回の件もきっちりと真摯に受け止め、病院や医師が背負うことになるリスクやプレッシャーについてもっと考える姿勢を見せるべきだと思います。

輸血について③

では最後に、「避けよ」という命令はどんな方法でも体内に取り入れてはならない、という意味か。

前回書いたように「血と絞め殺されたものを避けよ」という聖書の命令は、当時は食用の肉を血抜きせずに食べてはならならい、という意味でしかない。その点はWT教材も認めている。

彼らはこれを現代の輸血という医療行為にも適用する。その理屈は「避けよ」=「食べてはならない」→だからどんな方法であれ体内に取り入れてはならない、という過大解釈。

食べることと体内に取り入れることはどんな場合でも同じなのだろうか?

前回、輸血とは、血の滴る肉を食べる野蛮な行為とは異なり、命を救うための医療行為である、という点で臓器移植に似ていると書いた。事実エホ証は、臓器移植は容認に転じた。

では臓器移植において、「食べる」ことと「体内に取り入れる」ことは同義なのか?動物のレバーやホルモンのように人間の臓器をも食べることと、命を救うために臓器を移植することは、どちらも「体内に取り入れ」ているのだから、同じように野蛮な行為なんですかね。


「血を避けよ」という命令を文脈や聖書の教えを全く無視して、ただ「血を避けよ」という文句のみを利用してそれを輸血にも強引に適用しようとする統治体は、輸血という命を救うための医療行為を、人を殺してその血が滴る人肉を食べる、という野蛮な行為と同列に置いている。

輸血について②

前回はスルーしたが、「血を避けよ」という命令が輸血という医療行為にも適用されるのか。

まず、聖書の中で血が命を表わすのものとして語られている最初の記述。

「あなたの兄弟の血がわたしに向かって叫んでいる」・・・これはアダムとエバの息子アベルが兄弟カインに殺されたときに神が語った言葉。

神がこう語ったのは、アベルが殺されたから。ただ怪我をして出血しただけならこうは言わなかったはず。

次の記述。大洪水後、動物を食用にすることが許されたが、そのときノアに語られた言葉。

「ただし、その血を伴う肉を食べてはならない」

これももちろん、動物を殺して、食用にすることについて書かれている。

さらに贖罪についても同じことが言える。

モーセの律法下での贖罪の儀式では、動物を殺して、その血を祭壇に振り掛けることが規定されている。

イエスの犠牲についても、もし血がどんな場合でも命を表わすのならイエスは死ぬ必要はなく、ただ自らの体を傷つけ、血を流せばよかった。しかし、イエスは死に至るまで血を流して初めて、その血は人類の罪を贖う価値を帯びるものとなった。

こうした聖書中の例からしても「血は命を表わす」というのは、人や動物を殺してその命を奪うことが関係している。

それで「血と、絞め殺されたものを避けよ」という聖書の命令は、動物を殺して食用とする際に、血が滴るままの肉を食べてはならない、という単純な意味でしかない。ノアの大洪水後、食用のために動物を殺生することは許されたが、その血を地面に注ぎ出すことで、命の源が神であると認め、命に敬意を払うことが条件だったからだ。

輸血という医療行為はこれとは全く異なる。人の命を奪うことなく、むしろ命を救うために、生きている人の血を輸液することだからである。これはむしろ臓器移植と同じ問題ではないだろうか。
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