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神の名⑯

自分としては、クリスチャン向けに翻訳された旧約写本が、御名を神聖に扱う、との敬神の念からヘブライ文字yhwhをキュリオスと訳した、そして新約写本にはyhwhの直接転記や何らかの音訳が含められた形跡が皆無、という単純な事実証拠がすべてと思います。

イエスがWTの解釈通りに「御名を知らせた」のであれば、書物を一切著さなかった師の代わりに、その発声を聞いた使徒や弟子がそれをコイネーに音訳して70人訳写本や新約書簡にいっぱい残せばよかったのですが、何かの議論や逡巡があった形跡さえ、皆無です。

イエスが発声した言葉が直に音訳されている(日本語でもカタカナ表記が可能)のは、「エリエリレマサバクタニ」「エファタ」「タリタクミ」「アッバー」など、わずか数箇所しかなく、至高者に呼びかけるときに使った言葉も、アッバー(父よ)と、死の間際に搾り出すようにして呼びかけた詩篇の引用も、エリ(わたしの神)です。

写本の発見・研究が進んだ20世紀もJWが期待する?新約側の証拠なるものは見つからず、現存する写本証拠がこれだけ議論の余地なく明確なので、キリスト教では、キリスト教史での神名使用の議論は、過去も、今も存在さえしない、というスタンスのようです。

そこを逆手に取って、聖書やキリスト教史の知識がない人に、神名のローカル言語による便宜的な音訳表記をアピールして勧誘するのがJWです。

自分の周りにもいましたが、日本でも文語訳に愛着があり、このエホバというカタカナ3文字表記を使っている組織というだけで、どんな不祥事も指導部の偽善も過ちも免罪され、雲散霧消してしまう中高年信者がJWコミュニティーの中核にいます。

統治体もJehovah表記を使った新世界訳改訂版を優先しているらしいです。

・・が、先週の記事、アルバニア語でもう改訂版が出てるのかと思いきや2007年も搭のコピペ、従来版へのコメントらしいです。半ばツッコミ目的で読んでる自分さえ騙されました。

まー資金不足とはいえ、日本語でもそのうちにでるんでしょう。一応は聖書なんだし、発表されても電子版を読め、どうしてもというヤツだけ注文印刷、とはさすがに言えないしね。5月のタブレット購入促進祭りでは私的にも集会でも布教でもデータ版聖書を読め、2月の人もタブレットで聖書を読んでるのは気になるが。

自分も経験者なのでJehovah表記を全否定しませんし、その発声に愛着を持つ人がいるのも分かりますが、便宜上の表記が「真の宗教と悪魔の宗教」の境目になるとは到底思えません。

さらにWTの偏った聖書解釈と唯我独善の組織運営もあり、KJVやASV、文語訳で使われた頃は別に叩かれていなかったのに、今ではエホバは注文の多い不寛容な神、エホバの証人限定の部族神(組織神)の表記として、実情を知る人には嫌われちゃってます。

「不完全な」人間が御名をみだりに唱えてはならない、いたずらに担ってはならない、という掟はこういうことだったのか、を見事に例証してくれた組織です。イスラエルは律法の実践を怠って神名を汚した、その過ちから学び、旧約の型にもっと完璧に倣い神名を高めよう、とすれば同じ失敗を犯すだけなのに、そこから反面教師的に学ぶことを知りません。

せっかく新約で、キリストは自分が属するヘブライズムを反響版にして戒律主義や選民意識が生み出す敬虔競争からの自由を教え、自らは旧約(律法)ごと磔にされたというのに、その新約にまで写本にはないイスラエルの神名表記を音訳したものをねじ込みますからね。

せめて文語訳に倣うならそれだけはやめた方がいいんじゃないかと。
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神の名⑮

文語訳旧約で使われた日本語のエホバ(ヱホバ)は英語のJehovahからきているようですが、英語のJehovahの起源はというと、よく分かりません(笑)が、エホ証ではありません。

英語自体が古英語から近代英語を経て複雑な過程で形成されてきているので、英単語そのものに語源が分かっていないものもあります。

聖書に使われた起源としては、KJV(ジェームズ王欽定訳)の旧約側4個所で、さらに遡ると、KJVがかなりの部分を参照しているティンダル聖書ですが、表記はIehouahだったとか。さらにその前のウィクリフ聖書には使われていないようです。ウィクリフやティンダルという名前が示すように、聖書が英訳されること自体、プロテスタンティズムによる宗教改革と関連があり、カトリック側はラテン語ウルガタ訳を公認しています。

KJVに4箇所使われたことから、Jehovahがどれほど「広く知られた」表記だったのかもよく分かりませんが、その表記の是非や使用頻度についてキリスト教史で議論された様子はないようです。

KJVから約300年後、Jehovahを本格的に使用したアメリカ標準訳(ASV)が作られ、日本でもほぼ同時期にヱホバを旧約側に使用した文語訳が作られます。JWの前身、聖書研究者がキリスト教の伝統解釈を否定した独自の教理体系を作り始めたのも、この時期です。

この流れからすると「エホバ」聖書はまず非JWが作り(既存の聖書で自説を展開したラッセルはエホバ表記にそこまでこだわった様子もなく、聖書研究者初期もKJVが使われていた)、2代目さんが「神の唯一の組織」を自称し始めたとき、この表記を便宜的に採用して団体名をエホバの証人に変えた、と言えるでしょう(夜中の2時に彼が思いついたらしい)。

しかし彼らが独自翻訳を出すまでになると、先週の記事にあったように、新世界訳(新約)の直後に出された改定標準訳(RSV)では逆にJehovah表記をぱったりやめています。日本でもメジャーな現代語訳では「エホバ」は使用されていません。

さらにJehovahはJHVH(英語の発音がY→Jに、W→Vに変化した)にアドナーイ(ヘブライ語で主)の母音を充てた造語(誤読)との可能性が指摘され、最近はヤㇵという短縮形に示唆されるようにヤーウェ(ヤㇵウェ)がより原音に近いとの見方が主流です。

そこにJWを異端視する思惑がどれほど働いたのかは知りませんが、キリスト教側はJWなど相手にもしていないというスタンスですので、その影響は否定するでしょう・・が、KJVにも出ていたJehovahをクリスチャンが使いたがらないのは、正確な発音という可能性は薄いことが分かった上に、とある新興団体の商標に落とされてしまったのも一因かもしれません。

ただASVの版権取得からNWT ⇒ RSV発行などきれいな住み分けで、それ以降Jehovah市場はJWの寡占状態になっている事実を考えると、累計部数が数十億(数百億↑という説も)と言われるモンスター本を扱うキリスト教ビジネスが、裏でカルテルでも組んでるのかと勘繰りたくなります。

キリスト教に限らず、主要なくくりの内部でも宗派などの対立軸があった方が盛り上がっているみたいですし、人とカネも動くのでしょう。それなりに聖書を「研究」しようと思えば、一人で数冊↑は入手せざるをえませんからね。(このブログは陰謀論とは関係ありません)


話はそれましたが、JW側はJehovah誤読説を否定も肯定もせず(オリジナル発音は失われた以上、その正確さの議論は無意味という、そこはけっこう適当なスタンス)、広く知られてきた?からこれでいいじゃん?という割と曖昧(笑)で便宜的な基準で採用しているだけです。

古さ、に限ればマソラ本文のレニングラード写本ではエフワー/エフウィと読むように発音記号が打たれているらしく、それにはティンダルが使ったIehouahが近いのかもしれません。

以上をまとめるとこんな感じになるかと思います。

Jehovahの起源はさておき、中世英語圏で幾らか使われた時期があった

19~20世紀初頭にそのJehovahを使った訳が英語や日本語(ヱホバ)で作られる

(他の言語は調べてないので知りません汗)

Jehovahは誤読との見方もあって使われなくなり、現在はWT協会による寡占状態
(それで勧誘ビジネスしている団体という意味で)

続きます。

神の名⑭

先週までのも記事・・

ますます分が悪くなっている、新約側の「エホバ復元」問題には一切触れていない。

直接証拠が皆無だからです。

その記事が指摘するように、西暦前2世紀(キリスト教なんてまだどこにも存在しません笑)から西暦1世紀に作られた70人訳写本(そしてはこれは旧約)にyhwhの転記が残っているものがある・・が、これはWT洞察が認めるように「ユダヤ人が(ギリシャ語を話す)ユダヤ人のために」翻訳したもの、と考えられます。

「聖書からyhwhを抜き去った?」のが、他ならぬ、キリスト教をローマ圏に広めた1世紀以降の使徒や弟子たちだった、という可能性に気づかれてしまうからでしょうか。

現存する新約側の証拠はすべてねつ造されている、失われた原本や一切残っていない最初期の写本にはあった「はず」、というのは信仰としては「信じたいんだからほっといてくれよ」レベルの仕方ない話ですが、およそ学問的な主張にはならない。

カレブさんが指摘する新バビロニアの「20年の空白」と同じで、解釈や希望的憶測ではなく、直接証拠が一切ないのに、新約側に「復元」したと言い張るのは、学問的に全く信用に価しない翻訳だと自ら言ってしまうようなものだからスルーなんでしょう。

70人訳自体がすでにキリスト教に「乗っ取られている」「ねつ造・改ざんされている」聖書だと言う学者もいます。しかしyhwhをキュリオスと訳したことは都合よく背教的改ざんだよ、と主張しておいて、現存する新約写本のそれ以外の箇所は、まことの神によって保存されてきた一字一句違うことのないみ言葉だ、と崇めるのは矛盾してませんかねぇ。

一番大事なはず?・・の神名だけは保存し忘れたか、できなかったのかな。

「諸国民への使徒」パウロがユダヤ人が使っていたヘブライ文字表記yhwhを自らのギリシャ語書簡で、旧約引用を含めて1回も使っていないのが背教なら、それは何からの背教なのか。

新約写本にはその最古のものにさえ、yhwhはありません。

ユダヤ人向けの古い70人訳写本にあるとはいえ、それはヘブライ文字yhwhの直接転記です。
(一部にギリシャ語アルファベットへの翻字、さらに母音を加えたものもわずかにある)

旧約ヘブライ語側には「復元」しましたよ、というのはまあいいとして、原文にはない母音を加えてしまうのは、その発音が「正しいか間違いか」の議論は別にして、いいのかな。

御名を神聖に扱う、との敬神の念から、キリスト教初期の70人訳写本がyhwhの音訳を避け、彼らにとって至高者を意味するキュリオスと訳すようになった、ことは尊重できると思います。

新世界訳改訂版もシェオルやハデスの音訳をやめ、「墓」と意訳するようになっています。

大元のギリシャ語にさえ音訳されていない御名を、「主」と意訳したのが70人訳です。

どうしても旧約側に「復元」するならユダヤ人向けの70人訳写本に倣い、ヘブライ文字のまま直接転記でいいのかもしれませんが、エホバの証人側の主張通り、他言語で母音を付けて音訳した神名を使用したのは彼らが最初ではなく、それが「悪い」とも言い切れません。

それについては次回。

永遠の父

『初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、自分の目で見たもの、注意して眺め、自分の手で触れたもの、すなわち、命の言葉について、(そうです、その命は明らかにされ、わたしたちは、父のもとにあって、わたしたちに明らかにされた永遠の命を見、それを証しし、あなた方に伝えているのです)わたしたちは自分が見、また聞いたことをあなた方にも伝えます。それは、あなた方もまた、わたしたちと分け合う者になるためです。さらに,わたしたちのこの分け合う関係は、父との間、またみ子イエス・キリストとの間にもあります。それで,わたしたちは,わたしたちの喜びが満ちたものとなるようこれらのことを書いているのです』(ヨハネ第一冒頭:新世界訳)

おそらくですが、この赤字の部分をアウグスティヌスは、人間もまた、いつもすでに存し、前提されている自己意識において三性である一性を担っている、としているようです。

認識するもの、認識されるもの、その同一性(表現上の矛盾)となる認識そのものです。

父よ、と呼びかけられるとき、父とは、呼びかけたものは子であると認識するものであり、子からは父であると認識されるものです。

逆に、「わたしの愛する子」と呼びかけられるとき、子とは、呼びかけたものは父であると認識するものであり、父からは子だと認識されるものです。

これだけならただの父子関係ですが、それも分け合う関係という点では、すでに三一性を含有している、らしいです。分かったような分からんような。

しかし人間イエス受洗の際、その相互認識を生じさせたものは、DNA鑑定でもなく、戸籍上の父子関係でもなく、天が開けてはとの形(象徴)をとって下ってきたもの、聖霊です。

ラテン語では、母は常に確かだが、父は常に不確かである、という言い回しがあります。

子は常に母の胎から生まれ出ますが、だれが父であるかを決めるのはこの現代でも、「父」本人による直接の認知(宣言)であり、信頼(夫婦の)であり、愛(親としての)です。

キリスト教とは、人(間)性とは動物にはない、確かなる究極の父性への希求だと例証する宗教とも言えます。その認知により、WTが解釈する「一心同体」を超越する至福があると。

つまり、神の三一性はただの父子関係にとどまらず、父と子と、両者を愛しつつ結び合わせる聖霊との統一性により、この三つの位格が相互に完全に等しくなり、自己との関わりにおいては「ひとつなる神」であり、それは言葉では表現しえない父と子の抱擁である、という教えです。

認識するもの(愛するもの)、認識されるもの(愛されるもの)、その二者の関係を結びつけるものは認識(愛 ⇒ 第三の位格)です。

ひとつなる神の内にさえ永遠の差異が存する、その区別=他者性を包含する「ひとつなる神」だからこそ、その差異(分け合う関係)が統一を希求し、神的な愛の交わりを生じさせる。

それで神とは愛する者(父)であり、愛される者(子)であり、愛(聖霊)そのものです。

だからWT解釈では、常識的な範囲での(一心同体的な)父子関係の延長にとどまっていて、それはそれで「間違っている」訳でもない、分かりやすい解釈ですが、神的な三一性を受容する人は、そこに通常の父子関係や「正しいか間違いか」という人間側のジャッジを超えた、理性ではなく聖霊によってのみ享受しうる認知が生み出す至福を、キリスト教の根幹を成す「これはわたしの愛する子」という、とこしえの父の宣言に見ているのかもしれません。

霊による証(認知)はその宣言に呼応し、「子」であるとの自覚を生じさせます。

『神の霊に導かれる者はみな神の子であるからです。あなた方は、再び恐れを生じさせる奴隷身分の霊を受けたのではなく、養子縁組の霊を受けたのであり、わたしたちはその霊によって、「アバ,父よ!」と叫ぶのです。霊そのものが、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子供であることを証ししています』(ローマ書8章:新世界訳)

永遠の言

久しぶりに三位一体について書きます。

繰り返しますと、三位一体を擁護するつもりはありませんが、表現上の矛盾と偽り感(笑)を強調するWT文献ではなく、キリスト教側、さらにできるだけオリジナルを考えた人に近い文献をまっさらに読むと、けっこう面白いこと(不謹慎な言い方ですが)が書いてあります。

以下の引用が示すように、神学上、「誰かが考えた」という表現は“ふさわしくない”とされています。WT含む逐語霊感説に立つ人が、「パウロが考えた」とは言わないように、神の三一性もあらゆる思惟に先立っている、という前提だからです。神学はその延長上にあるようですが、霊感説に立たない人が自由に聖書を読み、意見できるように、神学書を読むにもそれくらいのおおらかさがあってもいいのではないかと(勝手に)思います。

15巻にも及ぶ(らしい)アウグスティヌスの『三位一体』を読んだことはないのですが、とりあえず今まで自分が読み漁ったキリスト教書の中で、ぐっときた要約をしている箇所を引用します。


『その先達の誰とも異なり、アウグスティヌスは、神の三一性が認識の対象としては考えられないことを発見した。というのもこれは、あらゆる思惟と存在に対して、その源泉として先立っているからである。人間もまた神の似像として、その実存の最内奥において、つまりいつも意識しているわけではないが、いつもすでに存し、前提されている自己意識において、三性である一性を担っているのである。

私が呼びかけられる時、呼びかけられているのは、私だと気づくただそれだけの意識においても、私は、認識するものであり、また認識されたものであり、この二つを結びつける認識そのものなのである。

神の三一性とは、父と、父より生まれた子と、両者を愛しつつ結び合わせる聖霊との統一性である。この三つの位格は、相互に完全に等しい。なぜならこの三つの位格は、自己との関わりにおいては一つなる神だからである。それらは相互の間では、つまり相互に他なるものとの関わりにおいては区別される。

アウグスティヌスは、父と子の、言葉では表現しえない抱擁について語る。それは享受なしには、喜びなしには、愛なしには、ということは聖霊なしには存在しないのである。堕罪によって押しひしがれた人間は、神のかたちと僕のかたちとを自らの内で統合したキリストによってだけ、この真実の、完全な至福にあずかることができる。

しかし神の内にはこの幸いが存する。なぜなら神の内にさえ、永遠の差異が厳然と存し、この差異が統一を希求し、神的な愛のときめきをおこさせるのである』


えーと、なんのこっちゃよく分からないのですが、素人の感想を書きます。

「わたしと父とは一つです」

「わたしを見た者は父を見た」

「わたしの内に父がいて、父の内にわたしがいる」


これらは永遠なる父の「ことば」です。

「ことば」とは発せられた時点で聞こえるようになります。

人間にも記憶という、確かなようで確かでない、よく分からない認識機能がありますが、例えば何かの聖句を暗唱する人はその時点(定められた時)で、記憶というなぜか時に縛られない内的世界?に前もって潜在するものを、時間的な広がりのうちに展開することになります。

「ことば」であるイエスも受肉の時点で、聞こえるように発言されたことになります。

しかしその「ことば」は「初めからあったもの」です。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」

続きます。
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