天使の君②

このキリスト=ミカエル論は、現在のキリスト教では完全に否定されていますが、教父の一人とされるヘルマスが書いているのに、初期キリスト教で特に議論された様子はありません。

なぜか。

おそらく、「顕現体」という発想が、後に異端認定される様態論と相性がいいからです。この様態論、異端認定されはしましたが、今でも根強いものがあり、三位一体を、水が水蒸気や氷にもなるのに似ている、みたいな説明をしちゃう人さえいます。そこまでいかなくても、様態論の香りがほのかに漂う三一理解をする人は神学者にもいます。


なぜ根強いのか。

ある意味で、神の全能性を前提にした、無敵最強解釈だからです。


つまり、おもいっきり極論すると、神は無限に自分の分身(顕現体)を作ることができ、その分身を何にでも自分の望むものに「ならせる」ことができる、という話です。


何でもアリです。

全能神の存在自体が、何でもアリなんですが。

そんな全能創造神を想定しておいて、全能神がそれやったら何でもアリ(ルール違反)でしょ、と人間がダメ出しできないような気がします。


その一方で、位格また人格(ペルソナ)の区別にこだわったのが主流派で、JWはその辺をまったく理解していません。ジーザスが天の父に祈ったとき「自分で自分に祈る演出をしたのか」と無知まる出しの反応をしちゃうように、彼らが否定するのは様態論の三位一体(お得意の藁人形論法)です。


様態論は思想としては根強いものの、教義としては異端認定され、それに伴ってキリスト=ミカエル論も特に議論されるまでもなく自然消滅したのでは、と思います。西暦3~4世紀までは、主流派の教父たちにも三一を前提にした「キリスト=天使の君」を普通に語っていた人はいます。

そしてヘルマスの著作も徐々に影響がなくなり、正典から外れます。

そんな、「聖書」にも残れなかったキリスト=天使論を今さら言い出すJW・・


2000年の周回遅れ宗教ですね。
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天使の君①

ギリシャ詩人ネタをもう一つ。

至高神の子の処女懐胎を「予言」したシビュラへの言及があるなど、紀元前のギリシャ詩人たちにインスパイアされていたことを伺わせる詩人ヘルマスです。ただ、彼は紀元後の人で、クリスチャンでもあったことから、詩人というより初期教父の一人とされることが多いようです。

同時代のパピアスのように、独自色強めの黙示(ファンタジー)文学を書いていますが、彼の著作は、西暦2世紀のムラトーリ断片や、近代聖書翻訳の土台となったバチカン写本やシナイ写本には含まれている、つまり「聖書」のように扱われていた時期があり、パピアスのぶっ飛んだ作品よりは評価されていたようです。


このヘルマスも、JW絡みの部分だけ書きます。

それはキリスト=天使長ミカエル論です。

そんなことは聖書のどこにも書いてありません。自分たちはそう解釈している、ああそうですか、以上には何の発展性も生産性もない話です。

それを最初に言い出したのがこのヘルマスです。といってもはっきりそうだと書いたのではなく、これは同一視してるんでない、が、聖書とは違って「意見が割れていない」という話です。

それを根拠に、WTでは、ヘルマスは三位一体を教えていない、だからJW寄りだ、と主張している(1992も塔)のですが、そんなことはありません。

むしろ、彼の思想はユダヤ教天使論の延長としての三一理解に近い、が定説です。


ユダヤ教天使論て何ですか。

一例をあげると、このブログでも書いた創世記18章に出てくる3人のナイスガイです。

自分は、ユダヤ教の初期伝承では、天使というより、ヤハウェの顕現体としての性格が強いと思います。現在のユダヤ教原理主義が理解するように、自由意志を持たず、ヤハウェの意思をそのまま伝え実行するストイックなメッセンジャー、また執行者です。

異教の影響をがっつり受けて黙示予言が流行りだしたバビロン捕囚後に、初期伝承の顕現体が「天使」と解されるようになり、創世記18章の3人も、リーダー格が他2人の天使を従えたヤハウェである、となりました(自分は誰が残ろうが、3人とも顕現体だと思うんですが)。


ユダヤ教天使論が発展すると、旧約正典では「ダニエル」にしか名指しされていないミカエルの地位がどんどんランクアップして、「これもあれもミカエル」説が語られるようになります。JWもその名残で、18万5千人を瞬殺したおっかない天使や、ヨシュアに「君」として現れたのもミカエルだよね、とされた時期がありました。


ということで、天使を創造したヤハウェは当然、天使を束ねる長でもあるはずで、ヤハウェまでを含めたヤハウェ=キリスト=ミカエル論が存在したのですが、例のごとく、JWは後半の「キリスト=ミカエル論」のところだけを都合よく抜き出して利用する訳です。

続きます。

異教の聖化

原始的クリスチャンの間では、すでに紀元前に活躍したウェルギリウスなどのギリシャ詩人も読まれていて、しかも新約のパウロがゼウス賛歌を引用しちゃっています。

同じく紀元前のオルフェウス(教)もJWの嫌いな「ハデス」(新世界訳改ざん版からは消去)について語っている。霊感を受けたらしい新約筆記者さんたち、「誤解」されたくないなら、ヘブライ語シェオールの訳語にそんなギリシャ語をチョイスしたらだめですよ。向こうが先なんだし。ただの墓なら墓で、別の普通名詞があるのにね。

霊感たっぷりヨハネ黙示録は、その語を使う上で誤解されないよう但し書きするどころか、火の燃える湖とか、永久の責め苦とか、どうぞ誤解してください(笑)の言い回しが満載です。

新約後期の「ペトロ」に出てくるタルタロスも、普通にギリシャ神話の借用だよね。

天上界、地上界、冥界(地下界)の3層構造は古代オリエントに共通する世界観というだけの話で、聖書だけが特別でも何でもない。


ということで、ちょっとキリスト教史をお勉強した程度のクリスチャンには、JWが異教だのクリスマスだの、と騒いだところで、今さら何言ってんの、になります。

「初代奴隷」(現指導部によって解任される笑)のラッセルや、聖書研究者たちもクリスマスを祝っていたのに、ラザフォードになっていきなり禁じ始めたのは、「理解が増し加わった」のではなく、キリスト教史や新約の本文研究を何も知らない無教養独裁者が言い出しただけなんですね。


「聖書を研究する」グループから、「エホバという中世に創作された古い音訳(今では誤訳)を看板にする」グループへと営業戦略が転換したので、仕方のないことではあります。


クリスマスがローマのサトゥルナリア祭を置き換えたもの、だから何なんですかね。

大ローマの祝祭が何と、ローマによって磔にされたキリスト生誕祭に取って代わった、これは当時のクリスチャンにとってはキリストの勝利であり、異教の祝祭が「聖化」された証です。


「あなたは、神が清められたものを汚れている、と呼んではならない」 (使徒10章15節)


原始的キリスト教よりも(そんなものは定義不可能)、ユダヤ戒律・純化主義に回帰する無知蒙昧なJW教は、「汚れている!」と叫んでは祝祭や習慣を次々に禁じて自己満足に浸る。


キリスト生誕のときに、「平和あれ」と天使が謳ったその精神を重んじる現代クリスチャンたちは、一点の良心の曇りなく、家族の平和、地域の平和を願い、メリークリスマス!と叫ぶ。


JWは「原始ユダヤ教ちょっぴりイエス派」に逆戻りして、2000年遅れ(笑)で同じ歴史を狭い世界で繰り返しているだけで、キリスト教にも触れられたくない黒歴史はいくらでもあります。

キリスト教を擁護するつもりもないが、とりあえず、話がかみ合う訳がない。


この現代でJWの非聖書的な独善純化主義で家族が崩壊した方には、言葉もありません。

共通の土台

あなた方の詩人のある者たちも「そはわれらはまたその子孫なり」と言っているとおりです。(パウロ)

皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』 『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。(新共同訳のパウロ)

新共同訳では、前半部分もギリシャ詩人からの引用になっています。例によって、どっちにでも取れる書き方なんでしょう。

少なくとも、後半部分はクレアンデスのゼウス賛歌からの引用ではないかと言われていて、それはものみの塔も認めています。


この有名な説話で、パウロは「お前らは偽りの神々を崇拝している」ではなく「君たちが知らずに崇拝しているもの」を伝えている、と語った。

これが、新約にもその片鱗が垣間見える、混合主義です。

パウロがギリシャ人の歓心を買おうと「共通の土台」を据えただけ、というJW解釈のような甘いものではなく、ゼウス賛歌から引用したんですから。

新約には直接の言及がなくても、ギリシャ人に広まった原始的キリスト教では、早くからギリシャ詩人との融合また混合が盛んでした。なにせパウロがそれをやっちゃっています。

代表的なのが、ラテン詩人のウェルギリウスと、そのウェルギリウスが言及したギリシャ人の女預言者シビュラです。ウェルギリウスは「牧歌」の一節で、またシビュラも、至高神の子が人間の処女から生まれてこの世を救済に来るであろうと謳っています。しかもイエスより前の時代に。

旧約正典ではメシア預言はあっても、唯一神に(生まれた、という意味での)「子」がいる、という発想はありません。唯一神に「子」が生まれちゃったら唯一神でなくなるので、むしろ冒涜です。

イザヤ予言の「おとめ(ヘブライ原語は処女ではない)が子を生む」をギリシャ語のパルテノス(処女)に変えたのは70人訳ですが、それが「唯一神のひとりっ子だよ」とは書いてありません。

ユダヤ教側の文献では紀元前の死海文書に、ルカ福音と酷似した「至高者の子」のくだりがあるくらいです。(自分が調べた範囲では)


それで原始的クリスチャンの時代には、それらギリシャ詩人たちにも神の霊感が注がれていた、という考えが人気を博して、キリスト教がユダヤ人よりもギリシャ人(ローマ人)の方に広まった、という経緯があります。

キリスト教の復活て、それインド哲学の輪廻(再びの生)の焼き直しだよね?とツッコミを入れたケルソスも、原始的クリスチャンを「シビュラ派」と揶揄したことが記録されている。


ここがパウロや、パウロを引き継いでキリスト教を築いた人たちの頭のよいところで、処女懐胎をギリシャ詩人から「パクった」のではなく、事前に、しかもギリシャ人によってさえも「予言されていた!」(あなた方の詩人のある者たちも言っているとおり)と言い換えるだけで、共通の土台(笑)で彼らの歓心をがっちり掴むことができた訳です。


気が向いたら続きます。

主の嘆き

不信心者(非キリスト教徒)は地獄で焼かれる、不信者(非JW)はハルマゲドンで殺戮される、言ってることは大差ない、過激で幼稚な神に成り代わったメッセージには、もう何か言う気も起きませんが、キリスト教にもまだ捨てたもんじゃないと思える教えは「残されている」。


「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」

宗教というと、とにかく、何か(神やら信条やら)を「信じるかどうか」が、究極の選択みたいに思われがちですが、イエスは(自ずから)知ることや、悟ることも教えていた。


前にも書きましたが、外的な事実証明に依存する信仰は、砂上の楼閣です。

「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」


「わたしの言葉(の価値を信じてそれ)を実践しなさい」


イエスがもともと教えたのは、おそらくこれだけのことですよね。

それはイエスの実在証明や、聖書の無誤謬説、伝承の蓋然性とは何の関係もない。

わたしではなく、わたしの業を信じて「今を生きるあなた」がそれを実践すれば、父がその人の内にいることが即ち人性(仏教で言うと仏性)だと、自ずから悟るであろうと。


「父と子と聖霊の名においてキリスト教洗礼(JW洗礼)を施せ」

同じイエスが下したとは思えないこんな形式主義の命令(マタイ編者の加筆説に一票)のために、どれだけの血が流され、家族が分かたれ、悪事が隠蔽され、その隠蔽が正当化されてきたのか。


イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」


「しるし」を欲しがるのも、「信じる根拠」を欲しがるのも、変わらない。

人の言うこと、書いたことに振り回されては、「確かな根拠」を外に求めてさまよい続ける。

「確かな根拠」があると錯覚(結局は自分のジャッジを信仰)すれば、今度はそれ以外の信条はすべて偽りだと、それぞれの神を代弁するかのように裁き合う。

イエスの教えそっちのけで、自らを肥やすトウチタイが唯一の経路だとか、BC607に証拠があるかどうかとか(そんな証拠はどこにもないが)、どうでもいい数字や解釈にすがりつく人たちが、腹を痛めて生んだ子どもを忌避したり鞭打ったり、ハルマゲドンで殺されると脅迫したり・・


それでイエスの真の弟子だと自称するのを見て、主は深く嘆いているかもしれませんね。
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