入場券②

で、おまえは認めることができるのか。おまえがそうやって建物を建ててやっている連中が、苦しみを受けた幼い子どもの無償の血のうえに築かれた自分の幸せを受け入れ、そのあげく、永遠に幸せでいることに同意する、といったような考え方を。


いえ、認められません。でも兄さん、兄さんはさっきこう言いましたよね。この世界じゅうに、他人を許す権威をもっている存在なんてあるのかって。この存在はあるんです。何もかも許すことのできる存在が。だれもかれも、すべて、何ごとに対しても。なぜならその存在は、すべての人々、すべてのもののために罪のない血を捧げたからです。兄さんはその人のことを忘れています。その建物だってその人を礎にして築かれるんですし、『主よ、あなたは正しい、なぜならあなたの道は開かれたからです』と叫ぶのは、その人に対してなんですよ。



アリョーシャは入場券を返さなかった。



いろんなクリスチャンとリアルに対話したこともあれば、いろんな本も読み漁ってはみたが、結局、キリスト教という宗教とはこのへんにたどり着いては、何度も戻ってくるものなのかもしれない。



キリスト教の神は「自分の公正の規準」とやらに固執して、我が子が死ぬのを上から眺めている神ではない、ということ。(子どもを殺すくらいならお前がさらにその身代わりになって死ね、ふざけた公正だ)


神はキリストの磔によって人類の苦しみを自ら負った。東方では、苦しむ人の内には苦しむ神がいる。(この小さき者の一人に為したことは、わたしに為したことだ)


「正しい宗教」だから勧誘するのではなく、この福音によって「正しくない」人たちを対価なくして贖い、救う宗教のはずなのに、この団体で教わったことと言えば、キリストの死は親神の自己満規準上の「法的根拠」にすぎなくて、しかもキリストじゃなく組織が唯一の道=経路、その豊満な指導部のご都合解釈による戒律遵守と宣伝活動をやめたら救われないという脅しです。


滅ぼされる、滅ぼされるってね。


(少なくとも、キリスト教で言うところの)真理について言えば、この新興団体によって再発見されるものなど何もなく、むしろその真理は歪められてきたのか。


汝らの主は「ただ一人」キリストのみ。


ここに立ち返ろうとした素朴な聖書研究生のままでいればまだよかったのかもしれない。


ラザフォードの「エホバ」は、いらなかったのかな。
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兵役拒否

これをエホバの証人が「真の宗教」とする理由に挙げる現役さんも多い。

それ自体は信教上の自由として、そんなに批判されるものではないと思います。

が、社会責任を考えない原始的小集団のままである、という指摘はあると思います。

聖書には、イエスが士官の奴隷を癒した、コルネリウスがローマ士官の時に受洗した、等の記録があります。原始的クリスチャンの時代は兵役にあえてつくことはなかった、というのはも塔が主張する通りのようですが、聖書そのものに「兵役」を明確に禁じる教えはないと思います。

「剣を取るものは剣によって滅びる」(イエス)

「上位の権威はいたずらに剣を帯びてはいない」(パウロ)

なので、その剣の用い方、ということでしょう。

「殺人」が無条件に悪いなら、国家法に基づいて執行される死刑はどうなのか、という議論もあります。それを言うなら、旧約の神は殺しまくりです。

パクスロマーナの時代がそうであったように、大抵の国では平和的な任務で、しかも非合法殺人はきっちり区別されています。さらに国によっては、政情や任務が変わって、または自分の信条が変わって良心的に軍務を続けられない、という理由でペナルティーなしの普通除隊を認める制度もあり、それを利用するのはエホバの証人になる人だけではありません。

アメリカでは除隊後の恩恵(メリット)も関わるので審査は厳しいですが、軍という厳格な組織さえエホバの証人よりは親切です。自称「愛ある神の組織」では、コミットメント後に自分の考えが変わっても、さらには組織の方が解釈をめちゃくちゃに変えた、勧誘ネタにしていた肝心の予言解釈が見事に外れた、さらには知らされていなかった不正や隠蔽が明らかになった、という理由でも、一律に不名誉除隊ですからね。何様なのか。神様か。

クリスチャンが軍務に就くようになったのは、原始的小集団から脱却し、「神の奉仕者」である上位国家における責任を担い始めてからのようです。

もちろん、その剣の用い方はエホバの証人の都合の良い言い回しを借りれば 「不完全」 ですが、国家や宗教の在り方も過ちから学ぶ途上にあります。

エホバの証人は原始的クリスチャンのように、時代を無視して原始的小集団であることをアピールします。彼らが勤労納税をしない開拓ライフをしても、社会には何の影響もないからそれができます。しかし恩恵はきっちり受けます。権利はしっかり主張します。

結論を言えば、「兵役」を一律に禁じる教えは聖書にはありません。平時に平和的任務に就くことには何の支障もないし、個々の国の政情や、任務に応じて各人の良心で判断すれば済む問題で、大方のクリスチャンもそうしています。社会責任を考えない一律の兵役拒否は、まあ強く批判されるものでもないと思いますが、「真の宗教」とやらの証拠にもならない。


余談ですが、安易なナショナリズムに流されない「地の塩」のようなクリスチャンが軍務に就くことで、一定の抑止にもなると思います。映画「プラトーン」で言うなら、自分はエリアス派です。

「クリスチャンが民間人を殺せるか!」

現実に起きる戦争の中で、信条との狭間で葛藤していた人たちもいたのでしょう。

共通の試み

「あなた方のあった試練で、世の常でないものはない」 (コリント一10:13)

新世界訳では 「人に共通の(つきものの)誘惑」 となっています。

たとえば、病気。大なり小なり人は病気にかかります。

病気という試練に対処するとは、ざっと思いつくのは↓です。

→ 頑張って治療に専念し、元の生活や仕事に戻ること

→ 回復が全く、またはある程度しか見込めない場合、うまく付き合う方法を模索しながら、限界の範囲内でやりがいを見つけ、前向きに生きる

ところがJWの場合、これに 「集会や布教に参加し続ける」 という試練が加わります。

病気そのものは「世の常」ですが、JW試練は違います。

宗教がやりがいでそれが支えになるならいいのですが、完全に順序が逆です。


失業も同じです。宗教やってようがいまいが、失業は起こりえます。

ところがJWの場合、JW活動を優先するゆえの失業リスク、そしてJW活動を優先できない仕事はどんなに条件が良くても断るべき、という 「誘惑」 がつきまといます。

これらは 「JWにつきものの」 試練であり、誘惑です。

宗教とは、「世の常」 である試練に際して人を支えるものであるはずで、「その宗教につきもの」 でしかない余計な試練を増し加える要求を課すのは、聖書の教えではないようです。

JW試練を人為的に作ることで、それを全く理解できない非信者の家族や友人とは寄り添い合うことができず、JW印刷物や人間関係に依存する仕組みになっている。

も塔自身が語った 「家族や友人から孤立させる」 カルトの特徴でもあります。

諸行無常

といっても「行い」に対する直接の報いを期待したり、期待させたりすることが絶対に間違っている、とも言い切れません。何かを絶対視するなら、二元論のループに取り込まれます。

すると、絶対視は「絶対によくない」のかな。

それも、無限ループに取り込まれます。

難しいですね。

話を戻すと、功徳に対するアンチテーゼが無功徳です。

「信仰」か「業」か。

そのバランスを取ろうとしたのがルターの信仰義認です。

キリストは「神」か「人」か。創造か被造か。

その底知れぬ溝が生む二極を和解させる、神性と人性のヒュポスタシス結合。

という定式でバランスを取ったのが三位一体で、カルケドン信条で確立した。

しかしバランス(調和)を生むはずのものが、やがて絶対視され、再び対立を生む。

その繰り返しで、これからも続いてゆくでしょう。

男と女の記事で書いた相補性とは、量子現象から生まれた言葉で、0か1かを決定できない不確定性が、どうやら否定できない(この)宇宙の真理のようです。

ということで、歴史の事実が示すように善悪の白黒決着はありません。

願望としては聖書にも表現されていますが。

二極の狭間で相克しながら、反発し合い、時に混ざり合い、変容してゆく。


JWも、絶対視された教会権威や伝統教義を否定したはずが、自分たちの組織とそのささいな業績、そしてお粗末な解釈への賛美と絶対視を要求するようになる。

ゴミ拾いのボランティアを末端信者にさせて、それすら自賛するネタにしてしまう。


諸行無常の響きあり

おごれる宗教団体も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし


真理ですね。

主の業②

自分はこれだけのことをやってきた、と業績を枚挙してどんな報いがあるか、と尋ねた武帝に達磨大師は一言、「何の功徳もない」と答えたそうです。

それが無功徳らしい。


『その日には、多くの者がわたしに向かって、「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名において預言し、あなたの名において悪霊たちを追い出し、あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか」 と言うでしょう。しかしその時、わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない、不法を働く者たちよ、わたしから離れ去れ、と』

↑業績そのものは関係ない、またはその見返りとしての「報い」ではない


『その時、義なる者たちはこう答えるでしょう。「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えておられるのを見て食べ物を差し上げたり、渇いておられるのを見て飲む物を差し上げたりしたでしょうか。いつわたしたちは、あなたがよそからの人であるのを見て温かく迎えたり、裸なのを見て衣を差し上げたりしたでしょうか。いつわたしたちは、あなたが病気であったり獄におられたりするのを見てみもとに参りましたか」。すると、王は答えて言うでしょう、「あなた方に真実に言いますが、これらわたしの兄弟のうち最も小さな者の一人にしたのは、それだけわたしに対してしたのです」』

↑しかし当人には全くその自覚(打算)がない


『わたしの愛する兄弟たち、あなた方の労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから、堅く立って、動かされることなく、主の業においてなすべき事を常にいっぱいに持ちなさい』

↑無駄かどうかは人には分からない、信仰において為される言動はすべて「主の業」である


東寄りに解釈するとこんな感じです。


無功徳(無利益)どころか、御利益成果主義ビジネス宗教に成り果てたJW教。

信者は毎日、「楽園に入れるかどうか」「永遠の命やえほば様の是認を失わないかどうか」と病的に恐れながら、「ふさわしいかどうか」で自分と他信者の言動を裁いて生きている。

上昇志向信者は「どうやったらさらなるトッケンが得られるか」で心を病ませる。

まあ本人たちがそれでいいならがんばってね、としかいいようがないが。
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