主の嘆き

不信心者(非キリスト教徒)は地獄で焼かれる、不信者(非JW)はハルマゲドンで殺戮される、言ってることは大差ない、過激で幼稚な神に成り代わったメッセージには、もう何か言う気も起きませんが、キリスト教にもまだ捨てたもんじゃないと思える教えは「残されている」。


「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」

宗教というと、とにかく、何か(神やら信条やら)を「信じるかどうか」が、究極の選択みたいに思われがちですが、イエスは(自ずから)知ることや、悟ることも教えていた。


前にも書きましたが、外的な事実証明に依存する信仰は、砂上の楼閣です。

「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」


「わたしの言葉(の価値を信じてそれ)を実践しなさい」


イエスがもともと教えたのは、おそらくこれだけのことですよね。

それはイエスの実在証明や、聖書の無誤謬説、伝承の蓋然性とは何の関係もない。

わたしではなく、わたしの業を信じて「今を生きるあなた」がそれを実践すれば、父がその人の内にいることが即ち人性(仏教で言うと仏性)だと、自ずから悟るであろうと。


「父と子と聖霊の名においてキリスト教洗礼(JW洗礼)を施せ」

同じイエスが下したとは思えないこんな形式主義の命令(マタイ編者の加筆説に一票)のために、どれだけの血が流され、家族が分かたれ、悪事が隠蔽され、その隠蔽が正当化されてきたのか。


イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」


「しるし」を欲しがるのも、「信じる根拠」を欲しがるのも、変わらない。

人の言うこと、書いたことに振り回されては、「確かな根拠」を外に求めてさまよい続ける。

「確かな根拠」があると錯覚(結局は自分のジャッジを信仰)すれば、今度はそれ以外の信条はすべて偽りだと、それぞれの神を代弁するかのように裁き合う。

イエスの教えそっちのけで、自らを肥やすトウチタイが唯一の経路だとか、BC607に証拠があるかどうかとか(そんな証拠はどこにもないが)、どうでもいい数字や解釈にすがりつく人たちが、腹を痛めて生んだ子どもを忌避したり鞭打ったり、ハルマゲドンで殺されると脅迫したり・・


それでイエスの真の弟子だと自称するのを見て、主は深く嘆いているかもしれませんね。
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キリスト教②

命の日の限り、神の子としての自覚の内に生き

隣人を愛し、あらゆる人を敬い

神を畏れ、そのおきてを守れ

それが人の務め(目的)のすべてであると

そうやって受け継がれるスピリット(認識)がいつの日か、父が誰に対してもすべてのものになることで、父と「わたし」が一つであるように、彼らもまた一つになるという信念の内に

そこに組織はいらない

まして排他的全体主義の「一つ」でもなく

組織への忠誠?それもう宗教ていうか、どこの独裁国家ですか


「汝らの主はただ一人、キリストのみ」


キリスト教に残るのは、やはりそこなんでしょうね。

キリスト教

キリスト教には何が残るのか。


「ただ父以外に子を知る者は誰もいない、そして子と子が啓示しようとしている者以外に、父を知る者はいない」

イエスはこの神認識の中で、天と地を支配する聖なる存在を「父として」知った。


「世界が創造される前から、あなたは私を愛していた」

ここであらゆる(科学/歴史的)研究は意味をなさず、さらに、どのようにしてイエスは子としての独自な意識へと至ったのか、これは心理学によっても研究することができないものとなる。

イエスの自我がこの概念(神の子)とひとつになっていたのか、なお緊張や彼自身の内的な課題が残されていたのか、ここで根拠を持って何かを語れるのは、ごく身近にいて彼との交流を経験した人だけである。


「すべてのことはわたしに、わたしの父から委ねられている」

イエスは、彼が父を認識しており、その認識をすべての人にもたらさねばならないこと、それが神のすべての働きの中でもっとも偉大なものであり、神の創造の目的また目標であり、それは神の力によって「成し遂げられる」であろうと考えた。

この使信を告知した者は、今日になってもなおその立場を何かによって奪われてしまうようなことはなく、変わることなく人間の生に意味と目的とを与え続けている。


彼はまさに、神の子「である」。

入場券②

で、おまえは認めることができるのか。おまえがそうやって建物を建ててやっている連中が、苦しみを受けた幼い子どもの無償の血のうえに築かれた自分の幸せを受け入れ、そのあげく、永遠に幸せでいることに同意する、といったような考え方を。


いえ、認められません。でも兄さん、兄さんはさっきこう言いましたよね。この世界じゅうに、他人を許す権威をもっている存在なんてあるのかって。この存在はあるんです。何もかも許すことのできる存在が。だれもかれも、すべて、何ごとに対しても。なぜならその存在は、すべての人々、すべてのもののために罪のない血を捧げたからです。兄さんはその人のことを忘れています。その建物だってその人を礎にして築かれるんですし、『主よ、あなたは正しい、なぜならあなたの道は開かれたからです』と叫ぶのは、その人に対してなんですよ。



アリョーシャは入場券を返さなかった。



いろんなクリスチャンとリアルに対話したこともあれば、いろんな本も読み漁ってはみたが、結局、キリスト教という宗教とはこのへんにたどり着いては、何度も戻ってくるものなのかもしれない。



キリスト教の神は「自分の公正の規準」とやらに固執して、我が子が死ぬのを上から眺めている神ではない、ということ。(子どもを殺すくらいならお前がさらにその身代わりになって死ね、ふざけた公正だ)


神はキリストの磔によって人類の苦しみを自ら負った。東方では、苦しむ人の内には苦しむ神がいる。(この小さき者の一人に為したことは、わたしに為したことだ)


「正しい宗教」だから勧誘するのではなく、この福音によって「正しくない」人たちを対価なくして贖い、救う宗教のはずなのに、この団体で教わったことと言えば、キリストの死は親神の自己満規準上の「法的根拠」にすぎなくて、しかもキリストじゃなく組織が唯一の道=経路、その豊満な指導部のご都合解釈による戒律遵守と宣伝活動をやめたら救われないという脅しです。


滅ぼされる、滅ぼされるってね。


(少なくとも、キリスト教で言うところの)真理について言えば、この新興団体によって再発見されるものなど何もなく、むしろその真理は歪められてきたのか。


汝らの主は「ただ一人」キリストのみ。


ここに立ち返ろうとした素朴な聖書研究生のままでいればまだよかったのかもしれない。


ラザフォードの「エホバ」は、いらなかったのかな。

兵役拒否

これをエホバの証人が「真の宗教」とする理由に挙げる現役さんも多い。

それ自体は信教上の自由として、そんなに批判されるものではないと思います。

が、社会責任を考えない原始的小集団のままである、という指摘はあると思います。

聖書には、イエスが士官の奴隷を癒した、コルネリウスがローマ士官の時に受洗した、等の記録があります。原始的クリスチャンの時代は兵役にあえてつくことはなかった、というのはも塔が主張する通りのようですが、聖書そのものに「兵役」を明確に禁じる教えはないと思います。

「剣を取るものは剣によって滅びる」(イエス)

「上位の権威はいたずらに剣を帯びてはいない」(パウロ)

なので、その剣の用い方、ということでしょう。

「殺人」が無条件に悪いなら、国家法に基づいて執行される死刑はどうなのか、という議論もあります。それを言うなら、旧約の神は殺しまくりです。

パクスロマーナの時代がそうであったように、大抵の国では平和的な任務で、しかも非合法殺人はきっちり区別されています。さらに国によっては、政情や任務が変わって、または自分の信条が変わって良心的に軍務を続けられない、という理由でペナルティーなしの普通除隊を認める制度もあり、それを利用するのはエホバの証人になる人だけではありません。

アメリカでは除隊後の恩恵(メリット)も関わるので審査は厳しいですが、軍という厳格な組織さえエホバの証人よりは親切です。自称「愛ある神の組織」では、コミットメント後に自分の考えが変わっても、さらには組織の方が解釈をめちゃくちゃに変えた、勧誘ネタにしていた肝心の予言解釈が見事に外れた、さらには知らされていなかった不正や隠蔽が明らかになった、という理由でも、一律に不名誉除隊ですからね。何様なのか。神様か。

クリスチャンが軍務に就くようになったのは、原始的小集団から脱却し、「神の奉仕者」である上位国家における責任を担い始めてからのようです。

もちろん、その剣の用い方はエホバの証人の都合の良い言い回しを借りれば 「不完全」 ですが、国家や宗教の在り方も過ちから学ぶ途上にあります。

エホバの証人は原始的クリスチャンのように、時代を無視して原始的小集団であることをアピールします。彼らが勤労納税をしない開拓ライフをしても、社会には何の影響もないからそれができます。しかし恩恵はきっちり受けます。権利はしっかり主張します。

結論を言えば、「兵役」を一律に禁じる教えは聖書にはありません。平時に平和的任務に就くことには何の支障もないし、個々の国の政情や、任務に応じて各人の良心で判断すれば済む問題で、大方のクリスチャンもそうしています。社会責任を考えない一律の兵役拒否は、まあ強く批判されるものでもないと思いますが、「真の宗教」とやらの証拠にもならない。


余談ですが、安易なナショナリズムに流されない「地の塩」のようなクリスチャンが軍務に就くことで、一定の抑止にもなると思います。映画「プラトーン」で言うなら、自分はエリアス派です。

「クリスチャンが民間人を殺せるか!」

現実に起きる戦争の中で、信条との狭間で葛藤していた人たちもいたのでしょう。
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