奴隷「級」消滅

先週の集会で今回の怒涛の解釈変更のお勉強会が終わり、あるオバチャンの感想。

「難しくてよく分からないケド、これだけどんどん新しい理解が与えられるなんて、奴隷級には本当に聖霊が注がれているのね~♪」

・・本音を隠し、難解かつ高尚に見せかけるためにあえて複雑に、分かりにくく書くものみの塔の手法にがっちりハマってますがな。

でもオバサン、もう奴隷「級」って言わないらしいぜ。たった8人なので。(心の声)

でもウケたのが、最後の歌の歌詞が「しりょぶかい~どれい~きゅうは~♪」・・もうなにがなんだかよく分かりません。

これまで犬のように何年も何十年も「奴隷の見解は~」「奴隷の指示は~」と聖書よりも過去の出版物や協会の手紙を漁っていた連中はこれからなんて言うんでしょうか。「奴隷は~」じゃ呼び捨てみたいでなんか違和感があるし、「統治体は~」に落ち着くんでしょうか。「奴隷級」というと一応、なんか聖書解釈っぽい抽象的な響きがありましたが、「統治体は~」だともう完全に具体的な8人の人間を指し、直截すぎて生々しい気もします。

今回の解釈で、統治体のメンバーは1世紀の12使徒と同等どころか、イエスの言葉を解釈する権限と信者からの揺るぎない忠誠と忠節な支持、という彼らを超えるステータスを手に入れました。

もう一つ大きな変化は、今まで形式的とはいえ、「奴隷級」は天への召しを受けた人全員、ということになっていましたのでその選びは教義上、神によるものでした。統治体でさえ、人を天に召す権威には(まだ)さすがに手をつけていません。しかし統治体オンリーになってしまった時点で、「奴隷」の補充メンバーは自分たちで決められることになります。

1世紀の12使徒はイエスにより直接指名されました。そのイエスでさえ、彼らを指名する前の晩は夜通し祈りました。ユダ・イスカリオテの後任は神慮によって選ばれなければならない、と誰もが理解していたためと思われますが、最後はくじでマッテヤが選ばれ、それ以降12使徒が死んでもその補充が人間の推薦によって選ばれた記録はありません。イエスによって直接指名され、霊感を受けた聖書そのものを書くことを許された使徒たちさえ、自分たちで補充を決めていいとは考えていなかったはずです。

ローカル会衆の長老も一応、人間の推薦を経て「聖霊によって任命される」ことになっていますが、いまやすべての信者の上に立つ数人の指導者やその後任が前任者によって選ばれ、それを「イエス様のご指名デアル」とのたまう組織・・教義上においても人間の組織と化してしまったのでしょうか。

「もう自分は天に召されたなんて勘違いしてパン食べたところで『奴隷』にはなれませんよ」

歯止めがかからないパンを食べる人間を今後少しでも減らし、さらにすでにパンを食べ始めた人間を「奴隷」から外すというあえて反発を買うような解釈を打ち出し、『平信徒のくせに油そそがれたなどとぬかす背教しかかってる人』にはもう出て行ってもらいたい、くらいの強気な姿勢が伺えます。

「1914年にハルマゲドン」が外れて初代ラッセルが死に、ラザフォードは彼を専制だと非難する理事を追放するという挑発的な行動を取り、反発する分子を一斉に排除した。

「1914年から1世代でハルマゲドン」が外れて「1914年世代」の統治体メンバーも死に、世代交代した統治体はラザフォードのような専制を取り始めています。

1914年からいよいよ100年が経過する2014年以降の数年間、再び同じような状況が生じるのではないか。「奇妙で異例な指示」による大粛清はあるのか。もう少し様子を見ようと思います。
スポンサーサイト

ものみの塔2013年7月15日④

イエスがこの一連のたとえを語ったのはなぜか。

エホ証教材から、聖句を正しく理解することについて:

① 『そのためには,ただ目に留まる表現を選んで自分の考えを添えるというのではなく,文脈も考慮に入れなければなりません』


② 『聖句を誤用して,自分の言いたい事柄をその聖句が述べているように思わせることのないようにすべきです』

③ 『文脈を調べる。こう自問しましょう。「この聖句の言葉はだれに対して語られたものだろうか」

↑すばらしいご提案ですね。ではこのたとえ話もだれに語られたのか、文脈を調べてみましょう♪

『ずっと見張っていなさい。あなた方は、自分の主がどの日にくるかを知らないからです』

あなた方も用意のできていることを示しなさい。あなた方の思わぬ時刻に人の子は来るからです』

それゆえ、ずっと見張っていなさい。あなた方は、その日も時刻も知らないからです』


明らかに、イエスはこの一連のたとえ話を弟子たちに語りました。統治体が「忠実な奴隷」は自分たちだけのことだ、と強引に主張するならこの一連のたとえとその警告は統治体だけに語られたことになり、そうするとこれまで書いたようなつじつまの合わない点がいくらでも出てきます。

イエスの簡潔な言葉をありのままに読めば、自分の到来を注意深く待つように、という教訓を示すために、当時の人々がだれでも理解できる身近な使用人の例えを用いたにすぎず、この3つのたとえ話に出てくる、「よこしまな奴隷」「愚かな処女」「邪悪で不精な奴隷」にならないようすべての弟子・クリスチャンに語られたシンプルな教訓、と捉える方が自然ではないでしょうか。

『召使いの上に任命される』とか『時に応じて食物を与える』とか、自分たちの宗教権威に利用できそうな、『ただ目に留まる表現を選んで自分の考え(=アイデア)を添える』ことはやめましょう。自分の言いたい事柄をその聖句が述べているように思わせることになるそうですよ。

「では、固い決意を持って、忠実で思慮深い奴隷を構成する油そそがれた兄弟たちを忠節に支持しましょう」

自分たちだけは「忠実な奴隷」であると自己言及し、その自分たちに固い決意を持って忠節であるよう命令しているのです。一連の記事の目的がこの一言に集約されている、と言っていいでしょう。ふさわしい結論、合格です。

ものみの塔2013年7月15日③

今回の“調整”で忠実な奴隷がエホ証統治体だけだというなら、当然出てくる別のツッコミどころ。

「主人は彼(=忠実な奴隷)を任命してすべてのものをつかさどらせる」

統治体はこの部分を、イエスと共に天で支配する権威を授けられる、と解釈しています。それもどうかと思いますが、一応その解釈に付き合ってみると、その権威は統治体だけに与えられることになってしまいます。

しかし、非常に分かりにくいことに、統治体はこの部分は自分たちだけではない、と言います。聖書巻末の啓示の書では、天で支配するのは14万4千人と書かれていて、統治体はこれを文字通りの数と解釈しているので、それと矛盾してしまうからです。

それに対する、統治体の苦し紛れのつじつま合わせは、以下の一文です。

「少人数の一団に約束された報いが、最終的に他の人にも与えられる場合があります」

例によって「そういう場合もあるから☆」という、もう“根拠”というより、好き勝手なことをどうとでも言えてしまう言い回しですが・・

しかし、そんな例外があてはまらないことをイエスの言葉がはっきりと示しています。

「主人が到着して、そうしているところをみるならば、その奴隷は幸いです」

この約束には、はっきりと条件が指定されています。そうしている(=召使いたちに食物を与えている)ところをイエスがみるなら、と書いていないでしょうか。

今回の解釈で、エホ証統治体は仲間であるはずの天への召しを受けた信者を「召使」に降格しました。事実上「お前たちはもう『奴隷』ではなく『召使』だ。この仕事はオレたちだけのものだ」と言っていることになります。自分たちの解釈通りにイエスが来なかったために、仲間の奴隷を打ちたたくよこしまな奴隷のようです。

仮にこのたとえ話が、信者に「霊的食物」を与えることであり、「そうしている」のがエホ証統治体だけである、と主張するなら、どうして他の信者が主人であるイエスから「よくやった!」と言われることがあるのでしょうか。

ものみの塔2013年7月15日②

エホ証統治体が自分たちの宗教権威の“根拠”としてここ何十年も主張してきたのは、使徒15章のエルサレム会議の1点張り、しかも、それも信者の寄付を巻き上げて生活していた権力集団では決してなく、聖書に1回だけ記録されている臨時の会合にすぎないものです。さすがにもうそれだけでは心もとないと思ったのか、今回ようやく新たな“根拠”を使って来ました。かなり時間をかけて考えて探したのでしょう。それはなんと・・!

イエスが奇跡で数千人に食事をさせたとき、少数の弟子たちにパンを配らせました♪という話・・

・・統治体と取り巻きのみなさんが密室会議で何年も考えてこれくらいの事しか見つからなかったのでしょうか。それもそのはず、聖書には少数の人間が他の信者に宗教権力を振ってもいいなど、書いていないので。

あまりにくだらない根拠ですが、一応当たり前の反応として「弟子たちは配っただけじゃないですか?」と言いたくなります。パンを製造・生産した訳ではありません。パンを配っただけのくせに偉そうに「自分たちの働きに感謝するように」とか「自分たちを忠節に支持するように」とも言っていません。

自分たちが書いた印刷物がイエス様からのものです♪と主張するのは勝手ですが、この話はその“根拠”になどなり得ません。弟子たちがイエスのいない時に群衆からの支持と服従を取りつけようとして自分たちでパンを作り、「前にも同じようなことがあったでしょ?だからこれもイエス様からのものだ!」と主張して配るのと同じです。

飢えた群衆のためにパンを作り、与えるだけなら純粋に褒められる行為ですが、それをイエス様からのもの!と勝手に主張し群衆の上に立とうとするならそれは間違いなく冒涜的行為です。

十万歩くらい譲ってエホ証の印刷物を“霊的食物”とするとして、弟子たちはそれを配っただけなので、この話を無理やり今のエホ証に適用するというなら、会衆で雑誌をオバチャンたちに配っている雑誌係の信者も『奴隷級』になります。あと、非信者のトラックの運転手も奴隷級になっちゃうんでしょうか♪

数千人に奇跡で食事をさせた、というこの聖書の話は、イエスの憐みと奇跡を行う力を示すもので、弟子たちがパンを配ったというくだりははっきり言ってどうでもいいのですが、イエスを差し置いて、配った弟子たちの方に強引に注目させてそれを自分たちの宗教権威にこじつけるあたりが必死すぎてイタイです。

17ページの挿絵では「多くの人が養われた」という説明と共に、パンを配る弟子がどアップになっていて、まるで弟子たちが群衆を養っているかのようです。もはや奇跡を行いそのパンを生み出したはずのイエス様はどこにもいません。イエス様もびっくりですね。

ものみの塔2013年7月15日①

ものみの塔7月15日号がアップされていました。

先日このブログでも書いた公式ページでの解釈変更についての正式な記事ですね。

しかしこの一連の記事、ツッコミどころ満載のものみの塔も今となっては面白半分にかなりの量を読みこなしてきたつもりですが・・

☆ちょっと何を言っているのかよく分かりませんでした☆

でも、結局のところ、本音はこうだと思います。

「『1914年から1世代で終末論』が思いっきり外れたので、統治体の世代交代のために『油そそがれた信者』の募集は終わっていなかった、っていうことにしたら、平信徒までパン食べ始めて収拾つかなくなってきたから、『奴隷級』はパン食べた人全員じゃなくて統治体のオレたちだけってことにしようぜ、ということになりました☆」

つまりは、結論ありきの、形だけの“聖書的根拠”探しですね。

内容自体は↑だけの薄っぺらいものですが、本音や矛盾点を隠し、薄い内容をできるだけ高度に見せかけるために、言葉を多くして関係のない論点もごちゃまぜにして複雑にし、もともとややこしくて分かりにくい解釈をさらにわざと分かりにくくして、「内容は自分たち下々の者には高度すぎてよく分からないが統治体様がこれほどの記事を出したのだから、とにかく奴隷級=統治体で間違いナシ!」と自らに従順な信者を教化しようとしているような印象を受けます。自分がこのブログを書き始めるキッカケとなった「とにかくエルサレム滅亡=BC607年で間違いナシ!」シリーズの記事と似ていますね。

エホ証教材から、分かりやすく教えることについて:

「簡潔な言葉,簡潔な表現法。簡潔な言葉と短い文は,意思伝達の強力な道具です。イエスの山上の垂訓は,どこに住むどんな人にも理解できる,最高の手本となる話です。(中略)どうすれば簡潔に表現できるでしょうか。細かい点を必要以上に取り上げて聴衆を困惑させてはなりません。資料をよく整理して,要点が明確になるようにしてください」

・・せっかくのイエスの明快で、誰にでも分かりやすい教訓的なたとえ話を、自分たちに都合のよい「預言的解釈」を持たせるためにこれでもか、というくらい複雑で分かりにくくしていますね。

一応、いくつかのツッコミどころについて書いていく予定です。
プロフィール

GUABELLO

Author:GUABELLO
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR