日本JW市場②

確か3年くらい前にも書きましたが、キリスト教圏ではない日本JW市場では、エホバの証人から「聖書」を知った、という事実が足かせになる場合があります。

エホバの証人は「自分にしてほしいと思うことは、他の人にもしなさい」というイエスの教えをひっさげながら、見知らぬ人の敷地に立ち入ってインターホンを押す、という自己矛盾した活動をしています。(宗教目的で見知らぬ人に押しかけきて「ほしい」と思っている人などいない)

人の迷惑お構いなく、「家から家」という独自の字義解釈を一方的にアピールしているだけで、福音を語っているのはエホバの証人だけではありません。

ただ、キリスト教関係者もそれなりに頑張ってはいるのでしょうが、ここ日本では、エホバの証人から「聖書」を知ってしまった人に対しては、彼らより先にその人に「普通のキリスト教」を伝えることができなかった、という事実は存在します。


といっても「誰」きっかけで聖書に興味を持つようになったのか、に囚われる必要もない。

カトリックの人との接点がきっかけで聖書に興味を持つようになった人は、ローマ教皇に永遠の忠誠を誓わなければならないんでしょうか。


もしからしたら、今でも1万人に一人くらいは、JW訪問に感謝するお人好しな方もいるかもしれませんが、カトリック信者にもいろんな人がいるように、たまたま、わりと話の分かるエホバの証人と多少意気投合したところで、「その人」に感謝するのはまだいいとして、ローマ教皇だろうが、JW組織だろうが、無条件の服従を誓わされる筋合いもない。


「組織」とやらを必要以上に悪者にしなくていいし、特別視しなくてもいい。

過去のものみの塔が言っていることを再び引用します。

『こうして非常に多くのふさわしくない魚(JW)が集められましたが、それらの魚は神の是認を受けませんでした。しかし少なくとも、数多くの非キリスト教徒(日本人)が聖書に、また腐敗したものであるとはいえ一種のキリスト教に接することができました』(1997年も塔)

単純に、それだけのことです。日本ではこのブーメラン現象が起きています。


それでキリスト教関係者の方々には、エホバの証人が「大いなるバビロン」や「世の人」をこきおろすのと同じやり口=悪口メインではなく、「組織」に依存しないキリスト者本来の信仰のあり方を伝えてほしいですね。JWの問題点は比較対象として指摘するくらいがよさそうです。

自分が覚醒できたのも、このブログにも書いてきた、こんなどうしようもないエホバの証人相手でも悪口を言わない芯のある宗教者たちとの関わりがあったからです。自分(たち)の目の中の垂木、とあるように、非経験者から悪口を並べ立てられると頑なになる人もいます。


宗教とは、コミットしたことがなければ本当に「知った」ことにはならない、と言われる領域です。それで悪口を言ってこきおろすのは、このブログを含め、酸いも甘いも体を張って知り尽くした経験者たちにお任せください(笑)。

悪口を言うのもかったるくなってきましたが。
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日本JW市場①

日本ではキリスト教はマイナーなので、エホバの証人との関わりで初めて聖書に接点があった、という人も多い。

もちろんそれは新世界訳なのですが、エホバの証人はキリスト教ではない、との指摘はあっても、新世界訳は聖書ではない、とまで言う人はいないようで、「独自の聖書」と言われるくらいです。

独自解釈に都合よく訳している、のは事実としても、「聖書ではない」とまで言ってしまうと、その聖書自体がどうなの、新約は旧約をキリスト教に都合よく解釈引用してないの、どこからどこまでがオリジナルで、どこからが加筆なの外典なの、とツッコまれてしまうからかもしれません。


さっそく話を戻します。

エホバの証人はキリスト教に寄生して増殖し、中でもお得意様はカトリック圏です。

シンプルにミサを重視するカトリックは、厳かで雰囲気のある教会で恭しく「イエスの御体に与る」ことで、信者の霊的必要(JW風に言うと)を満たす手法では手堅いようです。

JWは、そのカトリックの悪口や過去の悪行を並べ立て、聖書をテキストや字引きのように使うことがないカトリック信者に独自解釈で議論をふっかけては揺さぶり、勧誘します。

プロテスタントはもともとカトリックから枝分かれしていて、カトリックのような世界規模の単一組織にもなっていないので、悪口が見つけづらい。

そしてプロテスタントも聖書から理論武装しているので、平行線になる。


なかなか話が戻りません。

つまり日本というエホバの証人市場では、特殊な逆転現象が起きています。

エホバの証人から「聖書」を知った人にすれば、「背教者」たちはキリスト教関係者(プロテスタント系)と結託して、エホバの証人の悪口や問題を並べ立て、自分たちの信仰を揺さぶろうとしている、と映ります。

エホバの証人がカルト、少なくとも、ものみの塔自身がかつて定義したカルト要素にブーメランのごとくがっつりあてはまっているのは事実です。

が、そのエホバの証人と同じやり方で「逆勧誘」しようとしている、という印象を与えかねないアプローチは逆効果になる場合があります。


ある牧師はイスラム教について、内部から神学議論が起きて自己改革されるのを待つしかない、と語った。確かにキリスト教側が、異教徒や異端者に対して、現在のイスラム過激主義よりも恐ろしい仕打ちをしていた時代は遠い過去になっています。

ただ、政教分離がむしろ隠れ蓑になってその影響が見えにくい、のはあるかもしれません。極端な例ですが、ブッシュ大統領を称えて子どもを洗脳するジーザスキャンプの動画を見ると、日本の某幼稚園が試みていた教育と重なって見えてしまう。


誰に向けて書いたのかよく分からない内容になりましたが、エホバの証人もすでに「内部から」覚醒者や脱塔者が続出しているので、ほっておけば勝手に自己衰退するでしょう。

真理の贖い

設定はアレンジしてあります。


その子は、奉仕集会やめるとサタンの餌食になる、ハルマゲドンで滅ぼされる、と幼少期から脅され鞭打たれ、離れたくても「サタンの世」でも馴染めずに病んでしまい、呼ばれた時には異様な形相で「エホバごめんなさいエホバごめんなさい」「サタンあなたが勝ちましたサタンあなたが勝ちました」としきりに叫んでいた。


病んだ2世が親への恨みで包丁を手に脅す現場に仲裁に入るなど、似た事例は行く先々で幾度も「扱った」ことはあったが、「彼」を見たときに、これまでとは違う「何か」を直観した。


重い話になるので細かく書きませんが、その通りになった。


宇宙主権論争解釈などというくだらない「真理」がこの子の命によって贖われ、彼の命を贖うものは何もないのか。


たかが、いち新興団体の独自戒律を守るか守らないかで、「エホバ」と「サタン」が人を奪い合っているなら好きにやればいいし、そこに付き合いたければ付き合えばいいが、せめて大人が自己責任でやってることに、子どもは巻き込まないでほしい。



「突如生じた怪物は、宗教を語りながら、本来あるべき人間の喜びや自由を押し潰したこと、声に出せない苦しみをどれだけ理解して寄り添えるか、それが問われていることを意味していたのです」



あるJW系サイトで、同じような「何か」を目にした方の書き込みです。



然り、アーメン

魂のかたち

アレテーとは、ざっくり言うと善の具現化です。

善そのものは概念ですが、それを具現化したものが徳です。

「魂の(善き)かたち」とも言われます。

カリスの超越性と絶対の無償性は、ヒトの意志とは関係ありません。

だからといって「怠惰で実を結ばない者」(新共同訳)にならないようにと諫めたのが、第二ペテロの「信仰に徳=アレテーを加えよ」という教えです。


ヒンズー教のブラフマンが息を吸ったり吐いたりするかのごとく、生成を繰り返す宇宙のエントロピー(そこに善も悪もない)が唯一確かな自然科学上の事実なら、「ただ食べたり飲んだりしよう、明日は死ぬのだから」ということになるのでしょうか。

キリスト教(思想・神学)のユニークな回答が、ロゴスの受肉です。

このロゴスも、ギリシャ思想では宇宙の原理そのものを指します。

ところがキリスト教では、そのロゴスがなんと人に宿ったと言います。

「言葉(ロゴス)は肉体となってわたしたちの間に宿り」 (ヨハネ1章14節)

ロゴスが固有の、一個のヒトの内に具現化した、という感じです。


ヨハネ神学のイエス(受肉したロゴス)はそれを繰り返し語っている。

「しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」

「わたしを見た者は、父を見たのだ」


これを敷衍するなら、「その人」を見れば「その人の神」が見えることになります。

JWの思想や言動を見れば、「JWの神」が見えるようにです。


「この小さき者の一人に為したことは、わたしに為したことだ」 (マタイ福音25章)

東方教会では、身体の聖化(神化)とは、諸々の情念(パトス)が「より善きかたち」を取ろうすることで神的な生命(ただの哺乳類の延長ではなく)に与る姿、とされています。

新世界訳では、それを 「神の性質にあずかる者」 (第二ペトロ1章)と表現しています。

この信(ピスティス)を持たない人でも、困っている人を見れば反射的に助けようとしますが、クリスチャンの善行はその信仰からの応答としてなされます。

善行を必要としている人(隣人)とは神であり、神が、それぞれの人の苦難を自らのうちに受容した、神の降下(受肉)をその内に見る、という視点です。

宣伝ですか

初期のキリスト教が広まったのは「宣伝」よりも「口コミ」に近いと思います。

誰もがパウロのようなアグレッシブな布教者だったこともなく、彼やフィリポのような布教者が行く先々で民衆に語る福音と行う「しるし」が話題になり⇒ 口コミで広がる、という感じです。

「宣伝」とは何かの組織に属している人が、営業目的でする商行為です。

ある程度いいものだという自覚があってするとしても、基本的には仕事(義務)で、ノルマ(目標)も課せられる。その分の見返りもある。

「口コミ」とは雇用関係にない(利害関係もない)人が、自主的に広めることで生じます。

ものみの塔は後者だと言います。

雇用関係ではない、だから何の補償もしない、というのはまさしく事実です。信者の方は組織のため、と思っていても、組織(協会法人)の方は、ウチのサイトや機関紙見て勝手にやってるだけ、事故や事件が起きても「わたしたちはその人を知らない」と逆否認されてしまう。

ガイ・ピアースはおんどりの鳴き声を聞いたか (近日公開)

本当に話題性のあるものは、その団体の構成員よりも、構成員ではない(利害関係がない)人によって良くも悪くも広まるものです。それが口コミです。

良い評判でも、悪い評判でも、それを聞いた人が自分で確かめてみたいと思う。

イエスの初臨も、良くも悪くも彼の噂(口コミ)はユダヤ人社会を二分した。「ユダヤ人社会」の終末だったのでローマ側の史実では言及がない(数十年後のタキツス他がわずかに言及)。


でもJWの場合、良くも悪くも利害関係ががっつりある人によってしか広まらない。

も塔がなくなると困る擁護者か、なくなってほしい批判者です。


利害関係のない大多数の人は知らない、関心もない。

一応は三大異端と評価?されているので、その他2つと似たり寄ったりの知名度はありますが、その程度でJW宣伝が世の滅亡前兆だ、と言われても説得力ゼロです。

キリスト教系の新興集金団体としては、それなりに役立っている歯車の一つでしょう。


主力英語圏のようにJW問題がメディアでもっと報道されればいいのに、という人もいますが日本では必要ないと思います。わずかな利害関係者には死活問題でも、それ以外の大多数の人は興味がない、あえて知る必要もない。何も知らずに勧誘を受けた人、何も知らされずに育てられて迷い始める2世も、ネットの口コミや解釈検証を少し見れば十分です。

ゴリゴリ信者はメディアで叩かれると「アッシリア人の攻撃だ」と活気づきそうです。
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