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青山常運歩②

驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。

こういうことを聞いても、驚いてはいけません。

これも趣旨は違うと思いますが(笑)、同じ(仏教者の境地の)ように解釈できなくもないです。

道元風に言うと、「青山常運歩 石女夜生児 死人皆再生」となります。


宗教とは、それでいいと思います。

根拠があるとか、ないとか、ありえる(と思う)とか、ありえない(と思う)とか、まして科学的に正しいとか、間違いとか、そういうものではなく、ヒトが願うことをありのままに代弁してくれる、それが聖書の魅力なんでしょうね。


パラダイスが天上だろうが、地上だろうが、好きに願えばいい。

復活を語るのもいいし、永遠の命も、命は永遠も、表か裏かの違い、お好きな方を。

三位一体の神も、ユニテリアンの神も、そうあってほしいと願う方で、いいでしょう。


ただそれを、カルト教団に服従させるエサにすると、「子どもに輸血したら復活も、永遠の命の見込みも失われる、これは信仰の試練だ」 のような悲劇が生まれる。

そういうことが起こりえるのも含めてそれが宗教の本質と言えば、そうなのかもしれませんが。

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パウロ兄弟

今では、聖書には普通に嫌いな箇所がある、と書きました。

ポジティブ思考で、具体的に挙げましょう(笑)。

まずパウロですが、パウロはキリスト教思想をローマ帝国に広めた偉大な布教者です。

当時の固着化したユダヤ教にパラダイムシフトをもたらした思想家また哲学者で、多くの信仰者にインスピレーションを与え、二次的な優れた注解書を生み出す元となったローマ書はいいのですが、というか、パウロの著作はローマ書だけでよかったんじゃないかと思います。

新約は福音書以外はほぼパウロとか書きすぎ、いや入れすぎ。

キリスト後に、律法主義のアンチテーゼとして信仰義認を打ち出したのはいいとして、今度は、固着化した「キリスト信仰至上主義」とも呼べるものが、キリスト教による悲劇を生み出してきました。

例えば、ガラテア書です。これもパウロの真筆性が認められていて、前半まではよいのですが、最後の方に余計な、というか嫌いな一文があります。


ですから、時に恵まれている限り、すべての人、ことに信仰において結ばれている人たちに対して、良いことを行なおうではありませんか。


さてイエスはそんなこと教えてましたかねぇ。

サマリア人の譬えにあるように、宗教上の理念や信仰において結ばれているのが隣人なのではなく、その人に対して憐れみ深く行動した人が隣人になったんですよね。

これが、勧誘見込みのある「世の人」には下心で(笑)親切にしないこともないが、何より優先すべきは信仰の身内、第一にすべきは布教、になっちゃう訳ですね。


もう一つですが、強烈な信仰義認は、裏返すと、不信仰者徹底断罪になります。

その際イエスは、神を知らない者と、わたしたちの主イエスについての良いたよりに従わない者に報復をするのです。


第二テサロニケはパウロの真筆性は微妙ですが、パウロが言いそうなことではあります。

これも、イエス本人はそんなこと言ってましたかねぇ。

イエスは小さき者の一人に親切にした者が、自分の右に置かれる、と言いましたよね。

逆に、主よ主よと、さもありがたがってへつらう者の多くは、知らないよと。


たしかに、イエスは信仰についても教えましたが、それが裁きの根拠になる、とは教えていなかったような気はするんですがね。脅しはイエスではなく、キリスト教(JWも)の常とう手段。

行き過ぎたキリスト教信仰優越思想や身内主義、これがキリスト教が歴史の中で繰り返してきた悲劇のもとで、キリスト教は変わりつつありますが、JWは頑なに後退しています。

これはパウロではなく、パウロを神格化してしまったキリスト教が原因です。プロテスタントは教皇の無謬性を否定するとき、ペトロを叱責したパウロを引き合いに出しますが、残念なのはパウロを叱責した人がいない、というか、パウロの方は自分に物申す人間を「抵抗分子」扱いして(そういうところも嫌いです)、キリスト教権威(JWトウチタイ)もその手本に倣ってきたことです。


そろそろ、聖書(パウロ)の無謬性を公に否定する第二の宗教改革でも起きたらいいんですけどね。表立って言えることが限られる教職者クラスは仕方ないとして、個人レベルでは一部の強硬な根本系を除けば、もうそうなりつつあるようですが。

パウロが自分は信仰の主人ではない、主はただ一人キリストのみ、みんな主における兄弟ですよというなら、パウロに言ってあげたいですね。


「パウロ兄弟、それは言い過ぎだよ、主はそんなこと教えていなかったよね」

青山常運歩①

再び、仏教哲学との比較ネタになりますが。

道元関連の本を読んでいると、よく出てくる言葉があります。

「青山常運歩」です。

これは「石女夜生児」とセットになっています。

無難な解釈は、歩く=変化の比喩として、変わらないかに見える山も日々変化している、というものですが、それだと次の「石女夜生児」が全く意味不明です。別の解釈は、先入観や固定観念に囚われては事象の本質を捉え損なうよ、という感じですが、自分はこの方が禅ぽくて好きです。

他にもありますが、聖書根本主義者のように「これが唯一正しい解釈だ、他にはありえない」と解釈を固着化させてしまうと、この言葉が意味する思想とは本末転倒になってしまいます。


比較宗教マニアとしては、さっそくイエスの思想と比べたくなります。

はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。

おそらく趣旨は違うとは思うのですが(笑)読みようによっては、山が動く訳がない、という固着化した観念に囚われるな、との意味にも取れそうです。

イエスが言ったのは信仰の大切さを教えるための比喩だ、というなら、実際には起きないことを引き合いに出しても逆効果で、起きないことを起きると思い込むだけの狂信です(JW信仰)。

道元が聖書を知っていたはずはありませんが、「石女夜生児」のくだりはキリストの処女生誕と似てなくもないです。それは宗教者にとって、ありえるとか、ありえないとか、科学的にどうだとか、そういう話ではなく、人が例外なくありえないと「思う」からこそ、処女なのです。

カール・バルトの言葉を再び借りると、人類と自然と歴史というわれわれの知っている体系の僭越な永遠性に対する抗議として、彼は「処女から生まれた」ことになります。


だから宗教とは、JWのような根本主義者が勘違いしているように、科学的に根拠があるからとか、論理的に整合性が取れているからとか、ありえる(と思う)とか、ありえない(と思う)とか、そういうものではありません。

なので、青山常運歩 石女夜生児、と言われても、そんなバカな!ありえない!と感情的になったり、ムキに否定したりせずに、「そんなこともありえるかもね」と平然としているのが、本来の仏教者です。(一部の過激な仏教系カルトを除く)

人類の文明が発達してわずか数千年、その中でたった数十年しか生きていない己が、ありえる、ありえない、そうだ、そうじゃない、といちいち「思う=判断する」ことに、真理は依存していないんですね。

だから進化論と仏教は相性がいいのとは対照に、ここ日本で布教に勤しんでいるキリスト教は、排他的自分信仰の根本主義系(JWもその変異種)が多いので、まず広まりません。


教え方によっては、共通点もあると思うのですが。

祈りの答え

とある教会のサイトをのぞいたら、牧師さんの体験談が載っていた。


祈っても聞かれないことがあるのはなぜですか


JWでもあるある質問ですね。一応のベースはキリスト教ですから。

その答えの中での体験談です。

牧師さんが何かの用事か会合かで急いで駅に向かうと、予定の電車にギリギリになってしまったそうです。ホームに向かう途中で停まっている電車が目に入ったので、「どうかあの電車に間に合うように助けてください、電車のドアを開いたままにしておいてください」と祈ったそうです。

が、あと少しのところでドアが閉まってしまいました。

祈りは聞かれませんでした。

ところが、自分が乗ろうとしていたその電車は逆方向行きだったのです。(自分も慌てて反対方面のっちゃったことならありますけどね)


神はそれをご存じで、祈りを聞かなったのです。キリッ


なんそれ。

何の答えにもなっていないし、ただの勘違い話なのですが、続きがあります。


別日に、再びどうしても遅刻できない用事か会合(忘れた)のために駅に行ったが、乗るはずの電車が故障か事故か(忘れた)で運休になったとアナウンスされる。間に合う方法はないものかと考えながら、再び他力本願クリスチャンらしく「何とか間に合うように助けてください」祈ります。

すると、運休になった電車の埋め合わせで、なんと、いつもは停まらない特急がまもなく臨時停車します、とのアナウンスが!

三位一体を固く信じる牧師さんの祈りも聞かれちゃいました。

客の便宜を図り機転をきかせて素早く対応したJR職員ではなく、神様に感謝です。


JWあるあるです。祈ったタイミングで何かの偶然があると、祈りの答えになります。

でも、そういうことなら、悪魔サタンの宗教の人も普通に体験談を語れます。

他宗教の話なら、ただの偶然か、サタンは光の使いのフリをするのよね、となるんでしょう。

あなたたちの「経験」もそう思われていますよ。お互いさまですね。


本人がそう感じるなら否定はしませんが、自分たちの信仰ライフが様々な不信仰者たちにめぐりめぐって支えられていることには何の関心もなく、自分たちの神様の手柄にしたあげく、既存信者の「信仰を鼓舞」したり、「関心ある人を信仰に導く」ネタにすることしか頭にないのは、JWとそっくりです。

というか、JWもそこから派生したキリスト教亜種なので。

位格の一致

ようやくの一例ですが、単意説について。

https://www.cbcj.catholic.jp/2008/06/25/4222/

教皇ベネディクト十六世の143回目の一般謁見演説 証聖者マクシモス

さて、この教えが「正しいかどうか」は知りませんが、キリスト教で教えられてきたキリスト論を「それなりに理解する」ことは可能です。神的また神化を強調するあたり、第二バチカン公会議以来のカトリックらしく、東寄りを意識していると思われます。


少しだけ解説すると、キリスト教の「イエスは完全な人間だった」は、JWの完全とは違います。ヒトとしての意志また傾向との葛藤(JWに言わせれば「不完全」な傾向)や、もっというなら、自らが置かれた文化や価値観から超越した、創世記に出てくるストイックなエンジェルがそのまま降ってきたような人間は、「人間」とは言わないからです。

キリスト教では、完全に人間だった、という意味になります。

ゲッセマネの極限の苦しみで成し遂げられたのはキリストの位格の完全な一致であり、それはヒトの贖いまた救いが成し遂げられたことと同値です。

完全無欠なパーフェクト人間というJW解釈(そして楽園でパーフェクト人間に改造してもらえると夢見ている)とは視点が違います。そんなものはオリラジがネタで歌っているだけです。

完全、不完全というJW大好きワードも、聖書には全くと言っていいほど出てこないし、キリストには「罪がなかった」の設定にしても、罪がない=完全、罪深い=不完全とは書いてありません。


それで、肉となってわたしたちの内に宿られた(天使より劣ったものとされた)独り子の神は、真の意味、完全な意味での人間性の全体を受け取ったので、父に祈りもするし、父はわたしより偉大です、とも普通に言います。キリスト教の人には何の矛盾もない。(ヨハネ福音1章)

神であり、人であり、二重人格や統合失調症でもない、その位格の完全な一致を、ヒュポスタシス結合(混同せず、変化せず、分割せず、分離せず)という定式で表現(近似)します。

だから、キリスト教では(聖書でも)模倣だけでなく、崇拝(プロスキュネオー)の対象です。

JWが教えるように、キリストが被造物であり、ただの第一天使ミカエルであり、もともと神より劣ったものなら、神の前に自分をへりくだらせるのはあたり前なんですね。

彼は造られることなく生まれた方、初めから神であり、神と共にいるロゴスです。


ただ、こういうへりくつ(笑)で、三位一体が「正しい」と証明されることもありません。

抽象数学っぽく言うと「無矛盾な公理的集合論は自己の無矛盾性を証明できない」からです。

数学と同じく、何かのお題が「正しいかどうか」を別にして、理解には人を感化する力があります。正しい/正しくないの実証主義ではなく、そこに宗教の存在価値もあるのだと思います。

残念ながら、キリスト教にも理解していない人は一部いるので、ひたすら教条のごとく押しつける人がいるのも事実です。(そういう人は少なくなっていますが)


「アバ、父よ、あなたにはすべてのことが可能です。この杯をわたしから取り除いてください。それでも、わたしの望むことではなく、あなたの望まれることを。」

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